1.若い五人の武官
最終章です。
湖国が興ってからというもの、首都開陽の街が真の静寂に包まれたことは二度しかない。一度目は初代皇帝の死去、二度目は二代皇帝の死去によるものだ。だがどの時もものの数日で元の喧騒を取り戻した。庶民にとって、皇帝とは神のごとき存在であるが、それゆえ、その死を自分たちの身近な死と同等のものと捉えることはないのだった。よって、皇帝がこの世で生身の肉を有して過ごした期間は泡沫でしかなく、死した後も天上にて永遠に存在するものとすら信じられていた。
そして現在、貴青十年。三代皇帝はいまだ齢三十であり、開陽の街に静寂をもたらすふらちな事象は起こり得ようもなかった。よって今日も街には昼時と変わらぬほどの人がたむろしており、酒場はどこも盛況であった。
大衆向けの酒場が密集する一角に近衛軍第一隊の若い武官が愛用する店がある。いったん家に戻り普段着に着替えた彼らは、安価だが酔える酒と腹がふくれるいつもの菜を口に運んでいた。だが誰の顔も一様に暗い。明日は休日であり、明日も夏そのものの晴天となると予想できるというのに、だ。
屈強な男共が五名ほど、店の隅の方で揃いも揃って肩を落とし黙々と食する姿はこの街では異様だ。
「……なんか疲れたな」
ぽつりとつぶやいたのは、この中でも体力に自信のある男だ。しかし誰も笑いも批判もしない。それどころか別の男が同調するようにうなずいた。
「やっぱさあ、袁隊長がいないとやる気起きなくない?」
それは宮城内においては禁句の一言だが、この五名しかいない場であればゆるされる発言だった。
五人が所属する第一隊の隊長は二か月前に突然その栄誉ある職を辞した。それは本当に突然のことだった。芯国の重鎮を出迎え送り届けるまでの一連の任務を終え、週の終わりの休日に入り、その後出勤したらそういうことになっていたのだ。しかも隊長を辞するだけではなく、近衛軍からも除名されていた。
誰もが愛する隊長の辞任は寝耳に水のことで、その日、第一隊全員で近衛軍将軍・郭駿来の部屋を突撃した。一体どういうことなのか教えてくれ、と。隊長に何かあったのか、と。駿来はそれに黙って首を振っただけだった。
そして副隊長二名のうちの年上の方、司馬が隊長に繰り上げとなった。
だが司馬と仁威では隊長としての格が違った。司馬は第一隊の副隊長となるまでは宮城内の警備を担う第二隊にずっと所属していた。同じ近衛軍の者同士、鍛練の質はそこまで違わない。だが数十年という長い時を特段の危険もない宮城内でのみ過ごしてきた司馬と、十六歳で入隊して以来死線を幾度も乗り越えてきた仁威とでは、考え方に多くの相違があった。
たとえば、司馬は日常の訓練こそほどほどでいいと考えている。有事のためにこそ力は温存しておくべきで、そうやって調整しないと体と心を健全に保つことはできないと言う。別に間違いではない。だがそれでは仁威の色に染まった若い者には生ぬるく感じられるのだ。
仁威は違う。いついかなる時でも全力で事に当たれと彼は命じる。そうでなければ、有事の際に己の持てる力のすべてを扱うことなどできないと言う。今は力を抜いていい、だが今は本気でやる、そんなふうに自分の心を都合よく制御することなどできないとも言う。たとえ今日それができたとして、次に『それができなかったとき』はどうするのだ、と部下に疑問を呈する。それに部下の誰一人として答えることができない。すると仁威はこう言う。であれば常に最大限の力を出すべきだ、と。そうすることで武芸の腕も上達するのだから一石二鳥ではないか、と。
仁威は自らの思想を自らで体現してきた。気迫に満ちた稽古、常に神経を研ぎ澄ましている鋭利な表情、何か起こればその鍛え抜いた体からは青炎のごとく揺らめく気が放たれる。そのどれもが、若い武官が憧れる理想の武芸者の姿だった。
新隊長である司馬のもとでの訓練は、暑気にあてられつつある武官の体調を考慮して常よりも減じたものとなっていた。だが、そういった気遣いもまた、若者にとっては己を侮辱されているような気分になるのだ。
ぽいっと、肉を食いつくした串を一人の男がなげやりに皿に放った。
「袁隊長どうしたんだろうな、ほんと」
仁威のことを今でも隊長と呼ぶのもこの五人の間だけのことだ。五人にとって、隊長といえば袁仁威しかいない。
「あの人は今までみたいに年寄の相談係でもしていてくれりゃあいいのによ」
「そうそう。あの人には表舞台は似合わないって。栄えある第一隊の隊長があの人じゃあねえ」
言葉遣いは悪いが嘲るような声音はない。皮肉気な笑みも誰の顔にも見られない。彼らは心底そう思い、第一隊の未来を憂いていた。
「そういや」
もう一本と、串を手に持った男が最新の情報を披露した。
「李副使がずっと宮城に来てなかったってお前ら知ってたか?」
「おい」
聞き咎め、別の男が酒の残る杯を置いた。
「お前、こんな時だってのに恋愛指南されたいのか。ああ?」
それに串の肉を口に含みかけていた男が剣呑な表情になった。
「お前の方こそ俺をなめてるのか。そんなことはひとことも言ってないだろう」
「まあまあ。お二人とも落ち着いてくださいよ」
この五人の中では温和な男――少年といったほうがいい最年少の男――があわてて二人の仲裁に入る。
恋愛指南――それは枢密副使である李侑生が第一隊の彼らに対して提示した私的なご褒美のことだ。夏まで稽古を頑張ることができたら、彼の保有する恋愛の手綱や美しい良家の娘とのつてを教えてもらえる、そういう約定のもと、彼ら含めて第一隊の若者たちは自発的に厳しい鍛練を積んでいたのだった。
だが袁仁威が突如いなくなり、誰の心にもむなしさ特有の冷風が入り込んでしまった。
恋も出世もどうでもよくなってしまった。
第一隊所属の彼らにとって、武芸者の鏡ともいえる仁威の背中を追うことができなくなったことは相当の痛手で、実際、親に捨てられた幼子のように傷ついていた。日々の職務にもどうしても力が入らずにいる。そういう意味では司馬によって減じられた鍛錬量は彼らにとって妥当なものなのかもしれない。
「で、李副使が宮城に来ていなかったっていうのは本当か」
別段この話題を続けたいわけでもなかったが、この場を丸く収めるために誰かが言葉を継いだ。それでようやく不満げだった男の顔がほどけ、串の肉をあらためて口に入れた。
「ああ。しかも来なくなったのは隊長と同じ日からだそうだ」
「なに?」
「本当か!」
残る四人の顔が気色ばみ、肉を噛む男の溜飲がようやく下がった。
「本当だ。今日たまたま、江に会ったんだ」
「江って、あの武殿の三階奥を担当している奴のことか?」
武殿の三階奥、それは枢密院の上級官吏の執務室が並ぶ特別な一画だ。
「そうだ。で、そいつに何か変わったことはないか訊いたらさ、李副使の話をしてくれたんだよ」
「よくやった!」
隣に座る男が加減なしで背を叩き、串を口にくわえていた男はあやうく先端で喉を刺すところだった。
「危ねえだろう!」
「悪い悪い。で、他には? もっと訊いてきたんだろ?」
「実は……あるんだな、これが」
その言い方に感じるものがあり、残る四人がごくりと唾を飲んだ。
そんな四人を一人ずつじっくりと眺めてから、男はようやく口を開いた。
「その李副使なんだがな」
そこでもったいぶったように話を区切る。
「なんと、片目を失ってしまったんだそうだ」
「……なんだって?」




