6.大切だ
ふう、と仁威はため息をつくと珪己から視線をはずして立ち上がった。
昨夜はひどい夜であったし、今日は変な時間に寝てしまい、仁威は己の心身が普段と違っていることを自覚していた。珪己とうまく会話ができないもどかしさは随分前からある。だがこのような時にすべき会話ではない、そう考えて会話を打ち切ろうとしたのだ。
だができなかった。
机に置いた手の上に珪己の手が重ねられ、立ち上がることができなかったのである。
珪己が涙を浮かべた目で仁威を見上げている。
そしてたまらずといった感じで叫んだ。
「大切な人です! とても大切な人です……!」
「お前……」
驚きに固まる仁威にかまわず、珪己は仁威の手を強く握りしめ、思いのたけを語っていった。
「もう隊長ではないかもしれないけれど、でも今、武芸者としての私を導いてくれているのはあなたじゃないですか! ずっとずっとそうでした。男の格好をして武殿をうろついていた私を見つけたのはあなたです。生意気な私に体術の基礎を教えてくれたのもあなたです。後宮に助けに来てくれたのもあなたです。その後、武芸を続けるかどうか迷っていた私をすくい上げてくれたのも……あなたです」
珪己は真剣な表情で、食い入るように仁威を見つめている。
「大使館で私を助けてくれたのもあなたです。開陽から私を連れ出してくれたのもあなたです。それからずっと、ずっと私のことを護ってくれているのは、他の誰でもない、あなたです。あなたが何者でも関係ないんです。たとえ……たとえ過去に私の家に起こった事変にあなたが関係していようとも」
珪己の激白を茫然とした面持ちで聞いていた仁威であったが、最後の一言に我に返り、珪己の手中から自分の手を引き抜いた。
「そう簡単に人をゆるすな。お前は今、一体何を言ったか分かっているのか。お前の母親を殺した俺を、大切だと? 父母が聞いたら嘆くぞ」
それに珪己が首を振った。
「私の母はそんな人ではありません。それは父も同じです。父は賢い人です。そんな父が、あなたに第一隊の隊長となることをゆるしているのですから、きっとあなたが言うほど、あなたは我が家のことに関係していないのですよね。違いますか?」
「そういうことではない……そういうことではないんだ」
仁威が苦しげに頭を振った。
それを認めた珪己の顔も歪んだ。
「やっぱりそう。あなたはあなた自身で定めた罪の意識に苦しんでいる、そうなんですよね?」
それは仁威から過去の話を聞いて以来、考えに考えて珪己が導き出していた結論だった。
だがそれにも仁威は頭を振った。
「罪というものは他人だけが決めるものではないんだ」
「でもあなた一人が決めるものでもない」
「だからっ」
「隊長、兄さん……いいえ、仁威さん。袁仁威さん」
「その名を呼ぶな……!」
「私、苦しいんです。あなたが一人で何もかも背負って苦しんでいるのを見るのが辛いんです。私はあなたを、袁仁威という名の男性を恨んでいません。感謝だけです、その一言しかないんです。なのにそんな貴い人が私のために苦労をして、地位を捨て名を捨て、しかも私を開陽に届けたらその後の人生も捨てるなんて言って……。悲しくて辛くてたまらないんです……」
「……ではこれも知っているか」
仁威が珪己に向けたまなざしは、炎を宿したかのように熱く、なのにそこには深い闇しか見えなかった。
「八年前、今日のような夜、お前は自宅の庭でこう言われたことがあるだろう。『いつまでそうしているんだ』と。『お前のほうこそこれからどうしたいんだ』と。……あれは俺だ」
さっと珪己の表情が変わった。
それを見て仁威が自虐的な笑みを見せた。
「お前があの後、鄭古亥殿の道場に通い出したことは知っていた。俺が余計なことを言わなければ、お前はきっと今でも楊家のお嬢様らしく暮らしていたはずだ。その手に剣など握らず、着飾り、今夜だって美味い物をたらふく食べて柔らかな布団で眠れたはずだ。放浪し、こんなところにたどり着くことだってなかった……!」
「だったら……やっぱりあなたは大切な人です」
立ち上がり、珪己は座る仁威の元へ来ると、その足元に腰を降ろし仁威の手をあらためてとった。そして言葉通りの表情で仁威を見上げた。
「私は剣をとることで八年前のことを乗り越えようとしてきました。剣なしでは、ただ息をしているだけの人形のような私だったはずです。……私、ずっとあの時の人に感謝して生きてきたんです。私に剣を持つ道を気づかせてくれてありがとう、私を強くしてくれてありがとうって……」
ほろり、と珪己の両の瞳から涙が溢れだした。その涙を隠すかのようにうつむいたところで、自分の手がいつまでも仁威の手を握っていることに気づいた。
「すみませんっ」
珪己の手が仁威から離れた。
「本当は女の人が苦手なんですよね。晃兄に聞きました。私が触れたら嫌な思いをするって分かってたのに。……ああ、なんて私って身勝手なんだろう」
床に膝をついたまま、珪己は顔を覆った。
この上司でもなく兄でもない人に伝えたいこと――それは一番に感謝だった。だから珪己は言いたいことを言った。仁威の思うことも否定すべきだと思えば否定した。だが仁威の気持ちにどこまで寄り添えたのか、自信がない。
この最も信頼し尊敬する人のことを、自分はどれだけ救うことができるのか。その罪に凝り固まった心はどうすれば溶かしてやれるのか。
自分には何ができるのか――。
「私にもできることはありませんか? 私にもあなたのためにできることは何かありませんか……?」
覆う顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「こんなふうに言っても迷惑なだけかもしれないけど……でも私……本当に……」
だがどんなに涙や言葉が出ても、珪己の心は重く沈んだままだった。
心にあるたった一つの重しはそこにある。
欠けることも軽くなることもなくそこにある。
それは仁威の抱える罪と同じだけの重みがあった。
ひどく苦しい。
胸がつまる。
だが罪を直に背負う仁威のほうがよほど苦しいに決まっている。
「どうすればいいんですか……どうすれば私はあなたを……」
だが次の瞬間――。
引き寄せられ、珪己は熱い両腕の中にいた。
「た、隊長! 私なんかに触れない方がいいです!」
暴れる珪己に、仁威は抱く力を少し強めた。
「確かに俺は……女は苦手だ」
「だったら!」
「でもお前ならいい。お前ならいいんだ……」
珪己の胸の内に巣くっていたものすべてが、仁威の言葉一つでぱちんとはじけた。
細かな粒子となって体外に放出されるや、あっという間に霧散していく。
代わりにせり上がってきたものは感動だった。
「……本当、ですか?」
「ああ」
「本当に?」
「……ああ」
それは仁威の本心だった。
過去のすべてをさらけ出し――それらすべて受け入れた珪己のことを、仁威は抱きしめずにはいられなかった。こうして触れることで珪己が救われると思えば、手を伸ばして抱きしめることにためらいなどない。いや、触れたい。自らの手で珪己を救いたいと思ったからこそ、初春から今に至るまで、仁威は珪己と行動を共にしてきたのだ。
触れたくもない相手をこれほどまでに強く救いたいと思うわけがない。
抵抗がなくなった珪己をあらためて抱き直し、仁威は珪己の頭頂部に顔をうずめて目を閉じた。
「……お前はもう一つ勘違いをしている」
吐息を交え、ようやくそれだけを言えた。
「俺はそんなにいい奴じゃない。俺もただの愚かな男なんだ。お前にそんなふうに言ってもらえるような立派な人間じゃないんだ……」
腕の中、珪己は思わず笑ってしまった。
「今さら何を言ってるんですか。そんなこととっくに知ってますよ。ずっと一緒にいるんですから嫌でも分かります。いつもむっとしているし、怒りっぽいし。一人で頑張っちゃうし、私に何にも説明してくれないし」
でも、と珪己は涙声で続けた。
「でも……そういうところも含めて私の大切な人なんです」
珪己の発する言葉の一つ一つが仁威の心の空洞を埋めていき、傷を癒していくようだった。
八年前の事変を契機に、仁威は己が感情や欲望を封印してきた。怠惰を求める心は厳しく罰し、時折飢えたように癒しを渇望する心も理性でもってねじ伏せてきた。
今自分がすべきことは罪を償うことであり、罪を犯すような自らを改変すること、そう考え、仁威は己が考える理想の人物、理想の武芸者となるべく日々を過ごしてきた。
感情を抑制することは闘いにおいても重要だ。いついかなる時でも心に凪があってはならない。それは業の質を大きく左右する。だから仁威はまず怒りと悲しみを意識して抑えていった。もはや他人に怒りをぶつける権利も、何かに悲しむ権利もない、そうも思っていたからだ。
負の感情が消えていくのと引き換えに、仁威の中からは正の感情も消えていった。それは喜びだ。娯楽は一切しなくなっていたが、喜びの感情が失われていったのは対をなす負の感情に引きずられてのことだ。
稽古をしていても楽しいと思うことはなくなった。稽古とは罪を雪ぐための手段、一種の義務となり果てていたからだ。食事も酒も味がしなくなっていった。食べることは生を繋ぎ体を保つための手段であり、酒は周囲との関係を円滑にするための手段でしかないからだ。
元々無口であったが、事変後、その傾向は輪をかけた。言葉の多くには感情がのる、だから感情を廃せば言葉は失われ、または感情を失っていけば比例して言葉が出なくなっていった。
卵が先かにわとりが先か、それを突き詰める必要はないのかもしれない。だがそうやって自身の体と心に黙々と向き合うようになった結果、いつしか仁威はそういう人間になっていた。
そんな自分であり続けたい、そう思っていた。
いや、今でもそう思っている。
だがこうして、楊家の娘と再会し深く関わるようになり、仁威の心は右往左往し揺れてばかりいた。信念を疑い、己を疑い、もっとも触れてはならないこの少女に対して未曾有の欲情を覚え……。
やはり人の本質はそうそう変わらないのだ。
どれだけ体を鍛え、高位に就き、思索を深めていったとしても……自分自身の核はなんら変わっていない。
八年前から――何も変わっていない。
「俺はただ、自分が護りたいと思ったものを護ってきただけなんだ……。それはお前だけじゃない、弱くなろうとする俺自身もだ……。俺は本当は強くない。強くなりたいとあがいていただけの愚かな男なんだ……」
あはは、と珪己が笑った。
「それは奇遇ですね。私も同じですよ?」
「……お前も?」
「はい。私だって、護りたいものを護れる自分になりたくて剣を握ってきたんです。でもそうやって泣きたくなる自分も護ってきたんです。弱くて愚かな自分を抱えて、そんな自分を護るためにあくせくしているつまらない人間なんです……」
珪己の両手が仁威の背に回った。
ぎゅっと仁威の衣を握りしめる珪己の体は嗚咽で震えている。
「私たち、同じです。お、同じなんです。罪があろうがなかろうが……私たち、同じ人間なんですよ……?」
仁威の両腕に力が込められた。
だが自然と力は緩められ、二人の密着した体はゆっくりと離れていった。
視線が合うや、仁威は心からの笑みを浮かべていた。
「俺も……お前が大切だ……」
珪己の濡れた瞳が一瞬驚きで見開かれた。だがすぐに泣き笑いの表情になった。
「こんなにうれしいことって……あるんですね」
涙をぬぐうと珪己は再度仁威を見上げた。
そこにはもう悲しみや苦悩の様子は見られなかった。
あるのは言葉通り、喜びだけだった。
「大切な人に大切だって言ってもらえることがこんなにうれしいことなんだって……私初めて知りました」
「……それは俺もだ」
「……隊長も?」
「ああ……。俺もお前と同じだよ」
二人は笑みを浮かべ、見つめ合い――そうすることが当然のようにもう一度抱きしめ合った。
窓の向こうに浮かぶ満月が音もなく欠けていく。
じりじりと闇に侵食されていく月に、その夜、国中の民が空を見上げ、指差し、興奮する中、二人は頬を寄せ抱擁をつづけ、温もりの心地よさにそっと目を閉じていたのであった。
次話から最終章です。
残り二話で完結となります。




