5.俺はお前の何なんだ
夜の帳がおり、空の中ほどに白く光る満月が浮かんでいる。闇空に散りばめられた星々は冴え冴えとした煌めきを放っている。夏の一夜のご褒美、そうたとえたくなるような贅沢な光景が開け放した窓の向こうに広がっている。灯りの類などなくても十分なほど明るい。
だが珪己と仁威の夕餉は、この夜空にふさわしい宴とはほど遠いものだった。
二人きりでの夕餉は過去に数回ほどしかない。ここ零央に来てから、仁威は夕餉の時間も労働のために外で過ごしていたからだ。今も夕暮れ時には環屋に出向き、夜もとっぷりと暮れた頃、酷い時には明け方に帰宅する、そんな昼夜逆転に近い生活を送っている。そんな仁威がようやく人並みの一夜を過ごそうとしているのだが……久方ぶりの夕餉は何ともいえないものだった。
珪己は仁威に拒否されたことに傷ついている。
仁威は珪己を拒否してしまったことを悔いている。
だが二人そろってそれを言葉に出せないでいる。
「……この汁はお前が作ったものか」
ようやく仁威の口から出てきた言葉は、この場ではどうでもいいことだった。
それでも見るからに珪己はほっとした。
「はい。今日は大根が安く手に入ったので使ってみたんですがどうですか」
「うん、うまい。この季節に大根とは珍しいな」
「ですよね? そういう品種の大根があるらしいですよ」
「そうか」
それきり会話は途絶えた。
他のおかずも褒めるべきか、そう思ったが仁威はやめた。たぶん同じ会話の繰り返しだ。うまい、それ以外の洒落た言葉が思い浮かばない。
(こういう時侑生であれば、気の利いたことが言え、さらりと謝罪の言葉を口に出せるのだろうな)
自虐的になるとふと侑生のことが思い出されるのは、自分と侑生をつい比較してしまうからだ。なぜなら侑生は珪己を愛していて、仁威は不確かとはいえ類似の情を珪己に抱いているからだ。
同じ日、同じ時に同じ場所で出会った三人。
二人の男と一人の女。
当時の男たちは近衛軍第一隊に所属したばかりの新人武官だった。
そして二人は同じ過ちを犯してもいる。
なのに今いる場所はまったく違う。
なのに似たような情を一人の女に抱いている。
(人生とはなんとも不思議なものだ)
仁威が物思う様子を、珪己は食事をしながらちらちらと眺めている。
眉間に皺を作り黙々と食事を口に運ぶ様子には気軽に話しかけにくい何かがある。
何を考えているのかが掴めない。
(……さっき不用意に近づいたせい、かな)
今朝、晃飛と初めて二人で外出した際、晃飛はすれ違う女を露骨に避けていた。男は肩が触れ合う距離でも気にしないのに、女の場合は距離のあるうちにわざと横に寄っていたのだ。
珪己の疑問は分かりやすく顔に書かれていたのだろう、晃飛自ら己の性質を暴露してきた。
『俺、実は女が嫌いなんだよね』
しかもこうも続けたのだった。
『兄貴も女が嫌いだって知ってた?』
今までそんなそぶりを見たことがなかったから、にわかには信じられなかった。だが先ほど、汗をぬぐおうとした珪己に一歩下がった仁威の様子は、まさしく朝の晃飛の行動を再現したかのようだった。
(……今までずっと迷惑かけていたのかな)
この初春、武官となってから今まで、仁威は部下である自分に親身に接してくれている。だがそのすべてが実は苦痛の上に成り立っていたのだとしたら……そう考えただけで珪己の胸は張り裂けそうだった。
晃飛はこうも言っていた。
『俺が君を平気なのは、なんか君が昔飼っていた犬に似ているからなんだよね』
それを聞かされた時、珪己は無邪気に頬をふくらませることができた。
だけど今――仁威には何も訊けない。
(たぶん隊長は平気じゃないけど我慢してくれていただけだから)
それは先ほど如実に証明されてしまった。
好きかもしれない、そう言ってこの上司に無理やり唇を奪われたこともあるが、あの後も嫌そうに唇を拭っていたように……思う。
本当は女が嫌いで、私のことも好きでもなんでもなくて、だけど勘違いしてしまった……そういうことなのだろう。
(それなのに一緒にいてもらって、なんだかすごく申し訳ないよ……)
たまらず珪己のほうから静寂を打ち破った。
「兄さんは」
言い、このところ兄だと気軽に呼んでいた自分が愚かに思え、咄嗟に言い換えた。
「隊長は本当は開陽に戻りたいですよね。なのに私なんかの巻き添えになってしまって、あの」
そこまで言い、机に額がつくほど深く頭を下げた。
「本当にすみません。ご迷惑をおかけしていること……本当に申し訳ありません」
下げた頭の上で仁威がぽつりとつぶやいた。
「俺はもう隊長ではない。それに開陽には戻らない」
ぱっと顔を上げると、仁威は箸を置き珪己を見つめていた。
「それはいったい……?」
珪己が深く悩みだすより先に答えが述べられた。
「芯国の王子の首を絞め落とした俺にはもはや帰る場所はない、そういうことだ」
口を開きかけた珪己を仁威はその視線だけで制した。
「それを覚悟して俺はあの時闘っている。その理由は以前話したとおりだ。だからお前は一切気にする必要はない」
仁威は珪己に謝ることをゆるさず、もう一度箸を手に持つと淡々と食事を再開した。
その様子を茫然と見る珪己の手が小さく震えだした。
「……え、袁隊長は」
「その名も捨てた」
視線は箸を伸ばした皿のところで固定したまま、仁威が難なく言った。
「もう袁仁威という男はこの世にはいない。その名は芯国人を呼び寄せる恐れがある。今の俺は呉隼平だ」
そこで箸を動かす手をとめ、仁威が珪己を見た。
「だが呉隼平の名もお前を開陽に戻したら捨てる。この仮の名はお前を開陽に戻すために使っているだけだ」
さあ、分かったら食べろ。そう締めくくり箸を動かす仁威は、もうこの会話を続けるつもりはないようだった。
珪己の箸を持つ手に力が入った。
「……隊長は」
「だから俺はもう隊長ではない。その職位を口に出すことすら危険だと何度言ったら分かるんだ」
鋭い仁威の視線は、同じように鋭利に輝く珪己の視線とかち合った。
「じゃあ……じゃあ兄さんって言えばいいんですか」
珪己の瞳には分かりやすいくらいに怒りの色が浮かんでいる。
「それしかないだろうが」
そう言う仁威の表情は兄というよりも上司のそれだ。
簡潔に説明し、指示する。
――だがこれはそんな単純なことではない。
「でもあなたは兄さんでもないじゃないですか!」
「では……なんだ」
今度こそ本当に箸を置き、仁威は両手を机の上で組み、珪己をひたと見据えた。
「俺はお前の何なんだ」
珪己の視線が揺れた。




