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3.優しい兄

 ある日の昼時、宿の女将が部屋に雑炊を運んできた。


 珪己のことは『旅行中に体調を崩してしまった』ことになっており、それを裏切らない顔つきや雰囲気、食欲のなさから、届けられる食事は病人向けの胃に優しいものばかりだった。


 この日、珪己は椀に盛られた雑炊をすべてたいらげた。


「おや、少しは元気が戻ってきたようだね」


 食器を下げに来た女将が見せた笑顔に、珪己は少し顔を赤くした。


「ありがとうございます」

「うんうん、よかったよ。あんたの兄さん、絶対に妹が外出しないように見張っててくれなんて言うしさ。しかも毎朝だよ? だからわたしも心配してたんだよ」


 それについ嫌そうな顔をしてしまったのだろう、女将は珪己にからりと笑ってみせた。


「よっぽど大事にされてるってことだよ。だから早く元気におなり」


 それに素直にうなずけないのも、よくある兄妹のたわいもない喧嘩だとでも思っているのだろう、女将は「夜はもう少し精のつくものを持ってくるからね」と言い残して去っていった。


 とはいえ、夕餉に提供されたものは魚の干物が一枚と野菜汁と麦飯一杯だけだった。


 珪己は麦飯を生まれて初めて食べた。自宅で出されるものは玄米か白米だったし、屋台でも口にしたことがない。麦は米に比べて弾力がなく硬いものなのだと学んだ。何度も噛む必要があり顎が痛くなる。魚の干物も薄いくせに固くて、しかもやけに塩辛い。自宅ではもっと肉厚で繊細な味付けのものを食べていた。汁物も、ただ適当に野菜を投入しただけの粗野なものだ。


 食事がすすむようになると、いちいち些細なことが気になってくる。

 こうして放浪している間はきっと同じような食事しか摂れないのだろう。


(……それに開陽を出てから一度も湯あみをしていないし)


 井戸水を汲んできただけのたらいと手ぬぐいで体を拭くだけだから、最低限の清潔さを保っているだけのような状態だ。一切洗っていない髪など、起床するたびに手触りが悪くなっていき、珪己の不慣れな手では毎朝結わえるのにも一苦労している。元々身支度に頓着しない性質だが、指が髪を通らないほどに汚れてしまった経験はこれまでない。


 服もそうだ。手荷物にあった三着を着まわしているが、どれも洗っていないから薄汚れてきている。開陽を出る直前に着ていたものなど、嫌な臭いもするし染みがあちこちについている。


 そういった鬱憤は、いまだ何ら語ることなく一人外出を繰り返す仁威への苛立ちを助長していった。その頃の仁威は宿に戻ってくる時間がさらに遅くなり、珪己が起きている間に戻ることもなくなっていた。


 だからその朝、珪己はとうとう仁威に対して自ら語りかけた。


「湯あみがしたいです。それに衣を洗いたいです」


 口調がきつい自覚はある。

 それに黙々と食事をしていた仁威は少しの間を置いて答えた。


「分かった。宿の者に言っておこう。湯場へも案内させる」

「道が分かれば一人でも行けます」

「いいや。一人では出歩くな」


 すぱっと簡潔に答えるのはこの上司の癖だ。それが武官らしい潔さの表れだと感じられていた時期もあったが、今の珪己は違う。


「そのくらい一人でも大丈夫です」

「だめだ」


 返答も短い。

 珪己は唇を噛み締めた。


 だが仁威はまだ食事が途中だというのに席を立ち、「一人では決して出歩くな」ともう一度言い残して部屋を出て行った。


 残された珪己は、持って行き場のない怒りにしばらくその身を震わせていた。



 *



 一刻もたたないうちに宿の女将が珪己を呼びに来た。


 それは一週間ぶりの外出だった。降りしきる小雨の下、ぬかるむ道を珪己は女将と共に歩いていく。こじんまりとした店が並び、それに比例する程度の少人数の者が商いを始める準備にせわしなく動いている。まだこの街自身は起床していないのだ。


「なんだってそんなふうな顔をしているんだい」


 女将が指摘したのはふてくされた珪己の顔だ。


「……だって」


 だって隊長が、と言いかけてとっさに唇を噛む。

 むっつりと黙り込んだ珪己に女将が苦笑した。


「あんなに優しい兄さんはそうそういないよ」

「……そうでしょうか」

「そうだよ、今日だってこうしてあんたのために湯あみするお金まで用意してくれてさ」


 女将の言葉は珪己の心に何ら感謝の気持ちを芽生えさせなかった。頑なな珪己に、女将もそれ以上は何も言わなかった。


 その湯場は宿から歩いてすぐのところにあった。だから珪己は、時間になったら迎えに来るという女将に断りを入れた。


「この距離ですから大丈夫です。兄には黙っておいてもらえれば」


 それにはさすがに女将も同意した。


「そうだね。これくらいで倒れてしまいそうにも見えないしね。実はまだ仕事がたくさんあってね。それじゃ」


 女将は受付の男と話をつけて帰っていった。


「嬢ちゃんで最後だ。お代はもらっているから入りな」


 男は指の先ほどの石鹸を手渡してきた。なんだこの小さな石鹸は、と思いつつも受け取り、珪己はそろそろと奥の方へと入っていった。


 いわゆる一般大衆のための湯場に入るのはこれが初めてだ。市井の者の家には湯あみをするための一室がないことは知っていたが、ここがどんなところかはまったく知らない。戸を開け、女のための室であることが示されている方の暖簾をそろそろとくぐる。


 そこには――圧巻の光景があった。


 十人近い全裸の女がそこにはいた。


 珪己と同い年くらいの者から三十歳を越えたものまで、背丈も肉付きも何もかもが違う体が一堂に会している。湯上り特有の上気した桃色の体には、拭いきれていない滴がいくつも付着している。それが天井高い窓から差し込む日の光で金に銀に色を変え光っている。白い湯気が体の表面でほわほわと生まれ消えるさまは、非日常な場であることを効果的に演出する舞台上の仕掛けか何かのようだ。


 自分以外の女の裸を見たことがなく、さらに数に圧倒され、珪己は暖簾の前でしばらく動けずにいた。


 他人に自分の裸を見られたこともほとんどない。

 物心ついてからだと、あの寺での一夜だけだ。

 あの上司と、あのつり上がり気味の瞳を持つ人だけだ。

 だがあれは突然のことだったし、自ら積極的に脱いだわけでもない。それに暗かった。


 だが今は朝で明るくて、大勢の裸の女性がいて――。


(……どうすればいいんだろう)


 立ち尽くす珪己に、近くで衣に袖を通す細面の女が気づいた。


「どうしたのさ。入りなよ」

「あ……あの」


 それでも足の動かない珪己に、女がふっと笑った。


「大丈夫。あたしら女の体は見慣れてるからさ」


 それに隣で体を拭く肉感のいい女が口を挟んだ。


「女だけじゃないって。男のほうがたくさん見慣れてるって」


 わははは、と周囲に笑いが広がった。

 だが珪己には笑いごとではない。

 たぶん一緒になって笑えばいいのだろうが、表情が強張りうまく同調できない。


「おやおや。随分初心な子だねえ」


 細面の女が元から細い目をさらに細めた。


「うちらは環屋かんやで働いているんだよ」

「環屋?」

「あれ? あんた、この街の住人じゃないのかい」


 一瞬認めていいものかどうか逡巡したが、すでに女のほうは看破しているようだった。


「環屋はこの零央一の妓楼だよ」

「妓楼……」


 妓楼という言葉は知っているし、どういう店なのかも常識として理解している。だがその店の名を口に出したことはこれまでなかった。上級官吏の娘である自分とは無縁の世界、そう思っていたからだ。


 口を閉ざした珪己の表情が一層強張っているが、女は気にもとめていない。


「うちは男相手の店だからあんたを遊びに誘えないけどさ、もしお仲間に男がいたらぜひうちに遊びにおいでって言ってよ。少しはまけてあげるからさ」


 結局、珪己が衣を脱ぐだけの勇気をかき集められたのは、この場でただ一人となってからだった。珪己は隅のほうに移動し女たちが退出するのを辛抱強く待った。そして無人となってからようやく汗の沁み込んだ衣を脱ぎ、湯の近くで髪と体をこするように洗った。石鹸は本当に小さいもので全然足りなかったがないよりはましだ。あと数回通えば普段の髪や肌に戻るだろう。


 最後に湯につかった。自宅よりは大きい浴槽だが、木枠は古ぼけて変色しているし、湯の量も腰のすぐ上までしかない。受付で珪己が最後だと言った男の言葉は正しかった。それはそうだ、朝から湯を使う必要があるのは明け方まで働く者たちだけだからだ。


 それでも、この放浪の旅で初めての湯は、ようやく珪己の心に少しの穏やかさを取り戻した。

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