4.母親の来襲
自業自得か。
夕暮れ時になる前に晃飛をたずねて芙蓉がやってきた。
それに晃飛は立腹した。
「この家には来るなって言ってあるだろ」
そばにいた珪己が「まあまあ」と思わずとりなしてしまうほど、実の母を睨み付ける晃飛の形相はすさまじいものがあった。
「何か事情がおありなのかもしれないですよ。そうですよね?」
一縷の望みを託して訪問者を見ると、芙蓉の方こそ心底腹を立てていた。
「あんたが桔梗をそそのかしたんだろ」
「……なんのこと?」
「ごまかしたってだめだよ! あんたが桔梗とこそこそやっていたのを見たって奴もいるんだ! 朝から桔梗がいないってんで店の者総出で捜索してさっきようやく見つけたんだけど、桔梗がまあ、泣いて泣いて。あんたのことをひっぱたきたい、じゃないともう店には出ないなんて騒いじゃってどうしようもないんだよ」
「それって店のために実の息子を売るっていうこと?」
似たような顔で似たような性質の怒りをぶつけあう親子を、珪己は見守ることしかできないでいる。まったく介入できる雰囲気ではない。何を言い合っているのか、本質的な意味は分からないが、晃飛が妓女の一人をからかった結果、それが大事になっているのだとは理解できた。
珪己は晃飛の袖をきゅっと掴んだ。
「晃兄、それは違うと思う。正しさを護るってそういうことじゃないですよね? からかっていいことといけないことってありますよね?」
ちらりと晃飛が珪己を見た。
「……ん」
清い視線を受け、晃飛の怒気が弱まった。本人にしろ後ろめたさはあるのだ。
それを感じ取ったのか、芙蓉もようやくきちんと珪己の存在に気がついた。
「あれ? あんた、確か湯場にいたお嬢さん?」
覚え方は当時の珪己を思い起こせばもっとも的確だ。
「そうです。あの、晃兄……いえ晃飛さんにはお世話になっております」
頭を下げた珪己を、芙蓉が溜飲を下げつつ興味深そうに見つめた。
「へえ、あのお嬢さんが晃飛と暮らしているなんて数奇なこともあるもんだねえ」
「いいえ、違うんです。これには理由があって」
男の母親にじっとりと観察されれば、年頃の少女としては真っ先に否定すべきことがある。
「晃飛さんとは義兄妹の契りを結ばせてもらっただけで、なにもそれ以上の関係はありませんから。一切!」
「そこまで強く断言されると俺も悲しくなるんだけど」
割って入った晃飛の様子は常の状態に戻っている。
それに珪己はほっとし、念のためさらに説明をした。
「私には実の兄もいるんですけど、その兄も一緒にここで暮らさせてもらっていて、けっして二人きりで暮らしているわけじゃありませんから」
「……だからそこまで言うなって」
晃飛が珪己の頭を軽くこづいた。
その時、芙蓉が家の中に向かって手をあげた。
「ああ隼平! 今回はすまなかったね」
「話は聞いていた」
まだ昨夜、そして朝方の鬱憤は抜けきっていないようで、現れた仁威の声はいつも以上に低い。まだるっこそうに頭をかきながら言った。
「だいたいの状況は分かった。あとは芙蓉、あんたに任せる」
「ああ、そう言ってもらえると助かるよ。さあ晃飛、あんたはあたしと一緒に来るんだ」
「ええー」
「晃飛、行ってこい。自分の尻は自分で拭え。そしてそうする気概もないことに今後は軽々しく首を挟むんじゃない」
仁威にぎりりと見つめられ、晃飛はとうとう降参した。
「……分かったよ。だけど俺がいなくても『あの約束』は守ってよ」
「しつこい!」
仁威が一喝した。
「お前の話は帰ってから詳しく聞かせてもらうことにする。芙蓉、俺は今夜は環屋に行かないほうがいいんだよな?」
「そうだね、今夜というか数日は控えてもらえると助かるよ。休んでいる間の禄は支払うし情報もいつもどおり集めておくからさ、それで堪忍しておくれ」
「俺は構わない。こちらこそ申し訳なかった。うまく対処できなかったのは俺の責任でもあるから」
頭を下げた仁威に「よしとくれ」と芙蓉が声を上げた。
「全部うちの馬鹿息子が悪いんだ。いい機会だからこってり叱っておくよ。ほら来な! 今夜はあんたが用心棒をするんだよ!」
「ええー!」
強引に腕をとられ、晃飛はふてくされた顔で芙蓉に連行されていった。
晃飛がいなくなり、家には珪己と仁威の二人だけとなった。
「……そういえば。もう元気になったんですか?」
「俺、か?」
「はい。朝会った時も顔色が悪かったですし、なんだかぴりぴりしていたから体調が悪いのかと思っていたんですけど。違ってました?」
「……いや、違わない。寝たらだいぶすっきりした」
それは本当で、朝玄関で二人の姿を見てすぐ、自室に戻って寝台に寝転んでいたらいつの間にか眠ってしまっていたのだ。夏場の閉めきった部屋で寝てしまったせいで、寝苦しさを感じて起きたのがついさっきのことだ。よくこんな時間まで起きなかったな、と自分でも意外に思うほどに熟睡していた。だが頭から足の先まで汗だくだ。
額に感じた汗をうっとおしく思い手の甲で拭おうとしたところ、珪己が懐から手巾を取り出し、軽く背伸びをして仁威の額を拭ってきた。
今は夕暮れ時であるしここは環屋ではない。
相手は桔梗ではなく楊珪己だ。
それを頭で理解しても……体は正直だった。
仁威はとっさに後退していた。
手を払わなかっただけましだった。
あ、と思ったがすでに遅い。
珪己の顔はみるからに曇った。
「ああ……すまない」
それに珪己が無理やり笑みを浮かべてみせた。
「いいえ、こちらこそすみませんでした。あの、部屋で着替えてきてください。私、台所に行ってますね。もう少しで夕餉ができますから、そしたらお呼びしますね」
使われなかった手巾をぐっと握りしめ、珪己は仁威に背を向けると廊下を駆けていった。




