3.不愉快な一夜
その日、仁威はいらいらとしながら起床した。
昨夜、環屋での仕事を終え帰宅しようとしたところ、桔梗に「部屋に知らない男がいるから助けて」と懇願されたのがことの始まりだった。その侵入者を捕えるべく部屋へと行くと、入った瞬間、桔梗に後ろ手で扉を閉められてしまったのである。
「おい、これはいったい」
どういうことだ、そう続けようとして――できなかった。
二階の窓、空に浮かぶ真円に近い月の輝きだけが光源の薄暗い部屋で、桔梗が仁威に抱きついてきたからだ。
「……お慕い、申し上げております」
妓女とは思えない純真そうな声は震えていた。胸板に添えられた両の手もかすかに震えており、それゆえ仁威はすぐにその体を振りほどけなかった。優しくしたいとは思えないが冷たくするのは非道かもしれない、などと芙蓉との会話を思いだしながら。
考えていたら、その隙に寝台に組み伏せられていた。
ふいのことだった。
足元に敷かれていた布に足をすくわれただけだと信じたい。第一隊隊長であった自分が女ごときに倒されるなどあり得ないことだ。だがそれは事実であり、それゆえ仁威の思考は一瞬止まってしまった。
ここで相手が男なり敵なりであれば、即刻起き上がるやその腹に拳を沈めるところだが、か弱い女相手、しかも生まれて初めて女に組み伏せられ、仁威は次の動きをいまだ決めかねてしまった。
そこに桔梗が顔を近づけてきて、あっけなく唇を奪われてしまったのである。
第一隊隊長であった男が、だ。
しかも桔梗は触れたまま唇を移動させてきた。
頬に、顎に、首筋に。
全身に悪寒が一気に広がった。
とっさに腕を払うと、小柄な桔梗はあっけなく離れ仁威の隣に転がった。
起き上がり、「いい加減にしろ!」と怒鳴りかけ……しかし仁威は何も言えなくなってしまった。涙をこぼす桔梗がほほ笑んでみせたからだ。
「隼平さん、お願い……」
そう言って寝台の上で両手を差し伸べてくる桔梗からは、愛というよりも慈悲を乞うているような、つまり哀れみしか感じられなかった。
そしてその姿が八年間仁威を悩ませ続けた李清照に重なり――仁威は猛然と部屋を飛び出したのであった。
(なんで女というものはああいう時ああいう顔をするんだ?)
こちらが思いを返さないということが分かっているのに、泡沫の行為一つで最大限の喜びを得てしまう女たち――。
(気持ちのない行為にいったい何の意味があるんだ?)
仁威とて欲を発散したいがために適当な女を抱いたことは幾たびもある。
だがそれはお互いがお互いに何の感情も有していないからこそ成立するのだ。
一方のみが恋慕の情を抱いている場合――もうそれは成立しない。
だから桔梗の気持ちが仁威には理解できない。
一度だけでいい、そんな軽い気持ちはただの自己満足でしかないのに。
(お前たちは本当は愛がほしいんだろう……?)
昨夜、仁威はなかなか寝付けなかった。眠りも浅く、周囲が明るくなったから起きたものの寝た気がしない。窓の外、太陽はまだ半分も昇っておらず、いつもよりも早い時間に起床してしまった。
室を出て、家の中にあるべき二人の気配がないことに気づいた。今日、晃飛は午前中は仕事がないはずで、珪己もいないとなると、二人で稽古でもしているのかと考える。このところは己一人で過ごす時間を増やし、それを思索や一人稽古に当てていたから、仁威は二人とは疎遠気味だった。
芙蓉との会話は仁威の内面に明らかに影響している。
『たぶん結論は出ているんだよ』
『それはきっと愛だ』
『――何物にも代えがたいもの。違うかい?』
芙蓉の言葉は針のように鋭く正確に仁威の急所を突いている。
だがまだ仁威はあがいている。
とはいえあまりにも二人との時間を減らすのもよくないことだと承知している。
(……ここいらで気分を変えなくてはならないな)
変える必要があるのは自分自身なのだから、行動を起こすことは自分の義務だ。
道場のほうに行ってみるか、と起き抜けの状態で玄関に向かったところ、ちょうど向こうから扉が開かれた。
「な……」
外出から戻ったばかり、それがはっきりと分かる風情で晃飛と珪己が現れた。
扉を開けた瞬間、二人は楽し気に顔を合わせていたが、そこに仁威の姿を認めるや珪己は真っ青になり、晃飛はいかにも「やばい」と言いたげに視線をそらした。
珪己が後ろ手に隠した物の存在に、仁威は目ざとく気がついた。
「どこに行っていた」
尋問調な仁威に晃飛が「さあねえ」とさらに顔を逸らした。
「楊珪己、その後ろに持っている物はなんだ」
「……なんのこと、ですか」
たどたどしいしゃべり方も泳ぐ視線も何もかもが正直だ。
「ごまかしはきかん。出せ」
見下ろすようにねめつけると、珪己は意外にもこの上司をきっと見上げてきた。
「私、なにも持ってません!」
言うや、沓を脱ぎ捨て、仁威の横を颯爽と通り抜ける。まさに脱兎のごとく、廊下を走りあっという間に自室にこもってしまった。
思い通りにならない部下への鬱憤は当然残る一人へと向かう。
「晃飛、どういうことだ! あいつを外に出すなと言ってあるだろうが!」
だが晃飛は開き直ったかのように悠然と沓を脱ぎながら言った。
「そんなに怒らないでよ。妹だってずっと家の中にいて退屈していたんだ、ちょっと外に連れ出したくらい、いいだろう?」
だがそれをゆるせる心理状態ではない。
「何を考えている。俺は説明したよな、あいつは危険な男に狙われているんだぞ?」
「……何言ってるんだよ、自分のことは棚に上げてさ」
「それはどういう意味だ」
「あ、聞こえてた? まあ言葉通りだけどね」
「はあ?」
「なんだか今日はやけに怒りっぽいね。そりゃあ勝手に外に連れ出したのは悪かったけどさ、庭に植える種をちょこっと買いに行っただけで大したことはしていないよ。そんなに怒らないでよ」
沸点の低さを指摘され、仁威の口は自然と閉じられた。自覚があるからだ。
対する晃飛は仁威の不機嫌が最高潮となった最大の要因を知っている。
昨日、桔梗を焚き付けておいたのだ。あの人は優しいし女日照りだから部屋に連れ込めばいちころだと思うよ、と。
思うよと言っただけで断言はしていない。
だがあの様子では即実行するだろうと踏んでいた。
「まあまあ」
ぽんと仁威の肩に手を置き通り過ぎる晃飛の表情は――明るいようでいて冴えなかった。




