2.月食いの受難
沈の言を受け、中書省長官である中書令・柳公蘭に祭事の実行を命じた後、英龍は後宮へと足を運んだ。
後宮へ赴く回数も格段に減っている。側妃であり幼馴染の胡麗、それに一人娘の菊花のことを嫌いになったわけではない。今でも確かに二人には愛しさを感じている。だが会いたくはなかった。会えばこの胸の内を読まれてしまいそうだったし、二人ではこの胸の空洞を埋めることはできないからだ。
この初春まで、英龍は訳あって妻子と断絶していた。だが切に望みようやく繋がりを取り戻したというのに、それからまだ季節は一つ廻っただけだ。あれほど乞い願ったというのに、得られた未来は希望に満ちていない。一つを得たら二つを得たくなり――そしてすべてを失った。
晴天――その一言に尽きる陽気だというのに、麗は今日も自室で床に伏せっていた。
「体調はどうだ」
「ええ。いつもよりはいいみたい」
寝台の上で起き上がろうとする麗を補助してやる。触れた麗の背は寝てばかりいるせいですっかり筋肉が落ち、浮き出た骨の硬さに英龍は悲しみを感じた。
「菊花は勉強をがんばっているみたいよ」
晩春、菊花は初の公務を勤めた後、自ら学問をしたいと父母に訴えたのだった。
英龍は娘のために開陽随一の学者を揃えた。華殿には皇族の子供のための学校がある。十四歳以下のための小学とそれ以上のための大学だ。大学には今、限りなく皇族の血の薄い少年が二人通っているが、小学のほうは利用されていなかった。そこを立て直し菊花を通わせているのだ。
「余もここに来る前に小学に寄ってきた」
「あらそう。どうだった?」
「うむ。真面目に授業を受けていたよ」
「そう」
見るからにほっとする麗に英龍は申し訳なさを感じた。
「もっと余が菊花のことを気にしなくてはならないな」
「いいのよ。英龍は忙しいんだから仕方ないわ」
ほほ笑んだ麗は余計に英龍をみじめにさせた。
父としても夫としても不出来な自分を自覚させられたからだ。
「では……」
ここに来てまだ少ししかたっていないというのに腰をあげた英龍に、麗はほほ笑みを消すことはなかった。
英龍はその足で金昭儀のもとへと向かった。
途中、現れた女官長・江春自ら、「勝手に参ってはなりませぬ」と、何度も制止するよう懇願されたがかまわず進んでいった。金家の易者には自ら近づいてはならない、そう英龍は父である前皇帝から聞いている。それは女官長も同様なのだろう。だが無視した。
「入るぞ」
二か月ぶりに開けた扉の奥は今日も深夜のごとく暗かった。
背後に広がる眩しいほどの青空とは対照的だ。
闇に慣れない目でも、以前のとおり二人の侍女と中央の女性の存在を感じられた。彼女たちの誰一人として動揺することなく座している。まるで英龍が訪れるのを事前に察知していたかのように。
「お待ちしておりました、陛下」
予想どおりの言葉を言われ、英龍はぐっと拳を握りしめた。
「……陛下は『いまだ』お怒りになっておられるのですか?」
金家の易者は目が見えない。代わりに万物が発する波動を感知でき、すべてを見通す力を有する。その感知する術を『聴く』という。たとえば空に瞬く星の波動を『聴く』ことで近い未来を知り、傍にいる人物の発する気を『聴く』ことで感情を読みとることができる。
それを知っている英龍は、感情を読まれたことではなく、その言い方にかちんときた。
「当然であろうが」
それでも意識して感情を抑えようとしたのは、英龍が皇帝であるからだ。
皇帝は人としてふるまってはならない。
皇帝は人ではなく神の末裔であり、この国を総べる天上人であるからだ。
でも、だからこそ……初めて知った、人としての喜びを弄んだこの妃に怒りを覚えるのだ。
しかし怒りは簡単に相手にぶつけていいものではない。ぶつけて、それでどうするのか。特に金昭儀相手ではだめだ。この妃は本人が以前述べたとおり、人としての感覚が欠けている。それは皇族として長い生を生きてきた英龍も言えたことではないが、この妃はそれを上回る無知者なのだ。
傍に人がいると聴きたくもないのに感情を聴いてしまう。それは星の声を聴く任を阻害するため、金昭儀は幼少時より人を遠ざけた生活を送らざるを得なかったのだが……。
そこまで考えて、ふと英龍はこの妃に憐憫を覚えた。
(もしかしたらこの女も余と同じなのかもしれない)
生まれのために人としての心を得る機会を奪われた悲しき女なのではないか、と。
「私は悲しい女でしょうか」
金昭儀から発せられた言葉は、英龍の考えを『聴いて』いることの証だ。
「……いや?」
英龍は座った。
どのような悪人でも同情できるところはある。だがそれにいちいち引きずられていては皇帝などやっていられない。
この国では大罪人への処罰の決定は皇帝その人の任である。そのような罪人を捕え、収監、管理するのは大理寺という組織であり、事件を調べ裁判を起こすのは中書省五部の一つ刑部であり、それを再審議し結果を皇帝に提示するのは御史台の役目であるが、最終決定をするのは英龍なのである。
ちなみに三つの組織があるのは審理の公平さを保つためだ。たとえば大理寺は枢密院、刑部は中書省の管轄だが、御史台だけは二府から独立している。また面白いことに、刑部の下した結果に最終責任を負うのは大理寺の長官、大理卿であるし、さらにこの結果は必ず御史台で再審議される。さらに御史台長官である御史大夫によって結果は必ず皇帝に報告され認可を受けねばならないのだから、この仕組みを作った当時の法律家は刑罰に対して非常に慎重な人物だったのだろう。
話は長くなったが、だから英龍はただの理想に輝く皇帝などではないのだ。これまで自身の手によって幾人もの人間を殺している。剣ではなく玉璽一つで、文字通り殺してきたのである。
そういう意味では、剣によって人を殺したことがないとはいえ、英龍も武芸者であるといえた。どの人を殺していいか、いけないか。そういう武芸者が必ず立ち止まる難問、壁を、英龍はその清廉さゆえに、法に則るか否かであっけなく突破してしまっている。刑罰を管理する三組織は禁軍の三将軍のようなもので、英龍は三組織の上に立つ大将軍そのものなのだ。
どのような境遇で生きようとも、それが人の世に同調できないというのであれば悪と断じるべき、そう英龍は信じている。
「……陛下は恐ろしいお方ですね」
「そうか?」
「その御身には太陽と月、二つが内包していると、以前私はそう言いました。ですが今はそれよりも、深い空そのものを御身から感じます」
「そなたは相も変わらず抽象的な奴だな」
薄く英龍が笑った。
「余がここへ来た目的は分かっておるか」
「おそらく月食いのことかと」
「月食い、な。それを世間は月食と言うのだ。そなた、悪魔が月を食らうなどと民のようにお伽話を信じているわけでもあるまいに」
皮肉を込めて応対する。
それに金昭儀はきっぱりと言った。
「いいえ、陛下。あれは『月食い』です。そして陛下、先ほど申し上げたとおり、陛下はその身に月を有しておられることをお忘れではありませんか」
「…………何?」
しばらくの無言ののち、英龍が沈黙を破った。
「今度は余に何をさせたいのだ。だが余はそなたの思い通りにはならんぞ」
「ああ、陛下……」
闇の向こう、金昭儀がそっと袖で涙をぬぐう気配がした。
「残念ながら此度は陛下は何もすることはできません……。型どおりの祭事を執り行うこと以外には……」
「そなたはいちいち大げさだな。……いやいい」
英龍が金昭儀に会いに来た理由、それは月食のための祭事の必要性について尋ねたかったからだ。龍崇に相談できない以上、天体や神秘に詳しい金昭儀に訊くべきと考えて。この妃への怒りはあるが、やはり英龍は皇帝であり、怒りの感情一つで祭事をおろそかにはできかねたのだった。
だが言質はとれた。
やはりこの祭事は無意味なのだ。
今回はいいとしても、次回の月食の際には祭事などしなくてもいいだろう。それは英龍が皇帝である間に起こるかどうかは分からない。だが次代の皇帝、おそらく菊花が即位した暁には負担を軽減してやれる。
「では帰る」
立ち上がりかけた英龍を「陛下」と金昭儀が引き留めた。
「なんだ」
もはや用はない。ここにもう来ることがなければいいと願いつつ、英龍は外の明るい世界をすでに欲していた。だが金昭儀はもう一度強く「陛下」と声をあげた。
そして言った。
「受難です、陛下」
「……は?」
「月食いは皇族の避けがたき受難を示すもの。そして満ちた月が食らわれるということは、陛下、皇帝であるあなた様の受難が迫っているということです」
英龍の闇に慣れた目に、はっきりと金昭儀の姿が見えた。
豊かな白髪に囲まれた顔は、目が見えないというのに一心に英龍に向けられていた。
それは金昭儀以外の女から向けられたものであれば、受け止め真摯に話を聞くべきだと察することができる類のものだった。
だが相手は金昭儀その人だ。
「受難とはなんだ。具体的に述べてみよ」
「……」
「そなたの好きな月の御子とやらには害はないのだろう?」
「ええ、それは。それどころか月の御子を護るために必要なことなのです」
「では何が問題なのだ」
押し黙る金昭儀に、英龍が嘲るように笑った。
「皇帝を脅すような真似をするな」
黄袍をひるがえし、英龍は暗黒の部屋から出て行った。
「陛下……受難とは苦しみであり災いです。陛下にとって耐えがたいことが起こる、その前触れなのです」
男が皆無の部屋で、金昭儀の言葉だけがその場にか細く響いた。




