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1.くすぶり続ける怒り

 杭州出身の政治家、しんかつという男がいる。


 沈は本業以外にも多数の分野で目覚ましい成果を上げており、科学や文学、数学と、彼が貢献したものの多くは卓越した発展を遂げている。沈はのちに己の人生の集大成ともいうべき書物、『夢渓むけい筆談ひつだん』を発行し後世に知識を伝えることになるが……それはまだしばらく先の話だ。


 そんな沈が天文学の分野で提示した一つ、それが月食の成り立ちについてであった。


 月食とは、夜空に浮かぶ月が突如欠けていきやがて元の姿に戻る不可思議な現象であるが、沈いわく、月食とは太陽と月とこの地の三球の並び方によって定まるものだという。それは別の科学者が発明したばかりの天球儀を用いて天体観察をすることで得られた斬新な知見だった。


 この時代、地面が球体でできていることを知る者もほとんどいない時代において、月食とは『悪魔が月を食らっている』ものと考えるのが通説であるというのに、太陽と月とこの地が……などと言われても凡人には理解のしようがないだろう。


 湖国では神の息吹が大衆に信じられている。だからこそ、科学の発展と宗教との均衡をとることは政治的に重要なことであり、しかも繊細な才覚が必要な課題であった。とはいえ活版技術が開発され大量の本が普及するようになったのは前皇帝の時代であり、市井の民はようやく文字を読めるようになったばかりで、彼らが最先端の深い学問を気軽に手に取る時代はいまだ先のことである。


 そのため、三代皇帝の今においても、祭事はけっして軽んじることのできない政務であった。国の取り扱う多数の祭事は礼部主導で事務的に取り仕切ることができるようになってきている。とはいえ、この国で神と会話ができるものは神の末裔である天上人、つまり時の皇帝のみであると考えられているため、祭事自体は皇帝主導で進める必要があった。


 そして悪魔が月を食らうなどという恐ろしい現象が起こる夜こそ、皇帝自ら神に祈る必要があった。



 *



「十日後、満月の夜に必ず月食が起こります」


 そう自信満々に述べた沈に、皇帝・趙英龍は苦い顔で言った。


「そのようなことはとうに知っておる」


 それに沈は平服した。


「さすがは皇帝陛下。神の末裔であられますからお知りになっていて当然でございました」


 なにも神の血が騒いで知り得ていたわけではない。英龍自身、自分は神の血などひいていないただの人間であると、そう冷めた思いで皇帝を勤めている。月食が起こるという知らせは金家の易者であり側妃のきん昭儀しょうぎからの文により知っていただけのことだ。


 金家は非科学的な方法で天の動きを知るすべを持っている。だが英龍は金家の力を好まず、それゆえ数十年ぶりの祭事をどう取り扱おうか悩んでいた。そうは言っても気鋭の学者に公の場で告げられれば、英龍としてもその重い腰をあげざるを得ない。


 これまでであれば異母弟である龍崇に相談していた。金家の者がこう言っているが、余はあの者を信用しきれておらず祭事をしていいものか悩んでいる、と。だがそれはできない。このところの英龍は金昭儀以上に龍崇を敬遠していた。


 この晩春、英龍は楊珪己という一少女を愛し、抱いた。

 永遠の愛を得、輝かしい未来に思いを馳せ、後宮に妃として迎えるために抱いたのだ。


 だが結局は妃にできなかった。


 楊珪己には李侑生という婚約者がいた。だがその婚約を国として受理していたことを英龍は知らなかった。知らず、己の正義と激情に任せて少女を抱いてしまったのだ。


 婚約の事実を知った瞬間、英龍は絶望した。

 絶望――これ以上にふさわしい言葉はない。


 趙家ちょうけを護るため、そう言って少女のいる紫苑寺に自分を向かわせた金昭儀。そして華殿の長としての怠慢のあった龍崇――二人への嫌悪は清廉潔白を自負する英龍ですらとどめることができないでいる。


 そうして今に至る。


 あれから二か月が過ぎたが、英龍は何かしらに二人の存在を嗅ぎ取るたびに苛立ちを抑えきれずにいた。その中には自分自身への怒りも当然含まれている。少女への怒りも、少女の婚約者への怒りも、だ。


 李侑生はひと月ほど朝議で姿を見せなかった。枢密使である楊玄徳からは重傷を負っているため長期休養が必要だとの説明を受けていたが、顔を見ずに済んで安堵すると同時に、宮城にいない間にこの男があの少女と会っているかもしれないと思うと不愉快で仕方がなかった。また、そうやって配下を案じることのできない自分にも一層嫌悪を抱いた。


 長い休みの後、現れた李侑生はその瞳を一つ失っていた。


 頬はくぼみ、それゆえ残るただ一つの切れ長の瞳はより鋭利になっていた。人を容易に近づけない雰囲気を発する青年には、英龍が失った愛、この青年が保有しているはずの幸福は見えなかった。


(楊珪己はこの男に愛されていないのではないだろうか?)


 そう邪推すると、不幸を一身に背負ったかのような配下への同情心は微塵も起こらなかった。


(……余以外の男と幸せになるなどゆるされるわけがないのだ)


 愛しているはずの少女に対しても呪詛のような気持ちを向けていった。


 だがそんな自分に不意に嫌気がさすのだ。


(本当は楊珪己を幸せにしたかった、それだけなのに……)


 自分自身の手で幸せにしなくては気が済まない、それは我欲だ。本心から愛しているのであれば手段などどうでもいいはずで、李侑生との生活で楊珪己が満ち足りていればそれでいいはずなのだ。


 だが幸福とは真逆の李侑生を見ると仄暗い愉悦が湧いてきて、英龍はそれを抑えるすべを知らない。


 あの一夜以来、英龍は楊珪己と会っていない。少女の父である枢密使とは二人きりで会うことは多々あり、その都度尋ねてみようか、もしくは文を書いて手渡そうかと思うことはある。だがしていない。どう考えてもこの愛には未来がない。皇帝が配下の妻を奪うなど言語道断だ。


 少女を求めていたという芯国大使の副官、あれはもう国に戻ってしまったようだ。そう楊玄徳から報告を受けている。そう聞くと龍崇への反発はより一層強くなった。


(崇はあの男は獣だと言っていたが、全然大したことはなかったではないか)


 これまで英龍は、異母弟の意見のほとんどを正しいこととして受け止めてきた。それを受け止めはするものの、受け入れるか否かを決める権利は英龍にある。だが無条件で受け止めてきたのだ。だがそれすらできなくなった。

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