7.いつまでも少女ではいられない
芙蓉と仁威のその日の会話は当然のごとく晃飛の耳にも入っていく。
「ふーん、そんな話を兄貴としたんだ」
芙蓉にはあらかじめすべての情報を渡すように命じている。実の母相手に命じるというと不敬にも思えるが、ひとときの恋のために晃飛を棄てた負い目のある芙蓉にとって、晃飛の依頼は至上の命令と同義だった。
週に二回の屯所通いのついでや市場に行くと見せかけて、晃飛は環屋に日参している。二人の親子関係を知らない周囲の者は、晃飛のことを芙蓉の新しい男と勘違いしているが晃飛は気にしていない。
それよりも。
「……なんか嫌だなあ」
それは以前から疑っていたことだが、事実として突きつけられると不愉快だった。これまで晃飛が仁威に対して実施してきた駆け引き、それらはすべて真逆の効果によって仁威の恋愛感情を封じるためのものだったのだ。そのことに晃飛はようやく気づいた。
自分にとって唯一の男が他の人間に心を動かしている、そう知って喜ぶ馬鹿はいない。もっと甘くて優しい感情を抱いていた頃なら、きっと祝福し二人の恋が実るように助力していただろう。だがもう今さら無理だ。
「まあ、自分が愛を感じても相手は感じてくれないなんてのはざらだからね」
芙蓉の一言はまさに晃飛の現状をあらわしている。
「それは実体験?」
「そうだね」
息子の嫌味を芙蓉はあっさりと認めた。
晃飛は芙蓉ににじり寄った。
「ねえ、実の息子にも訓話を垂れてよ」
「なんだいそれは」
鼻の上に皺を寄せる芙蓉にかまわず晃飛は尋ねた。
「愛の一番の障害ってなんだと思う?」
「それはもう決まってるさ」
即答だった。
「愛の最大の敵は愛だよ。貧困も病気も死も、本当の愛の敵じゃない。最大の敵は第三者の愛、これに尽きるね」
「ふーん。そうなんだ」
「ああ。愛は一方通行にも双方向にも生まれるけど、まったく別のところから別の愛が介入してくることがあるだろ? それがいわゆる略奪愛になるってわけさ」
「でもそういう時ってさ、本人たちは自分たちの愛こそが一番だと思ってるものだろ?」
「そう、それが問題なんだよ。誰もが自分こそが一番だと思っている、だから勝敗が分からなくなってしまうんだよ。だって同じ愛なんだから比べようがないじゃないか」
「へえ。それも経験談?」
「親をこれ以上からかうもんじゃない」
ぶすっとした芙蓉とは対象的に、晃飛は晴れやかな顔になっている。
「そっか。だったらたとえばその桔梗って女にもまだ勝算はあるってことだよね」
「うんまあ、それはそうだね。だけど桔梗のはちょっと惚れたってくらいのやわな感情だから到底無理だよ」
「なるほどね。強い愛を壊すには同じくらい強い愛が必要ってわけか」
「おいおい、何物騒なことを言っているんだ」
芙蓉がそれ以上言いのつのろうとしたところで晃飛が立ち上がった。
「ありがとう、母さん」
にこりとほほ笑まれ、芙蓉は何も言えなくなってしまった。
それでも息子の見せた笑顔に、なぜか芙蓉はある種の不吉さを感じざるをえなかった。
*
晃飛が帰宅すると、難しい顔をした珪己がたたっと近寄ってきた。
「おお、出迎えとは可愛いな、妹よ」
くしゃっと頭をなでると珪己が嫌そうに頭を振るった。
「そういうところは可愛くないね」
「そういうのどうでもいいです」
ぴしりと言い、珪己が少し晃飛にその身を寄せた。
「実はちょっと兄さんの様子がおかしくて」
「おかしい?」
つい軽く珪己の全身を眺めてしまったのは芙蓉の話を聞いた直後だからだ。
「今日起きてからずっと無口でしたよね?」
「ああ、そうだね」
思い起こせば確かに今日の仁威の様子は違っていた。普段より遅く起き、昼餉を食べた直後もこの蒸し暑い陽気だというのに部屋に閉じこもっていた。
「実はあの後、晃兄がでかけてから道場に行って、それからずっと独りで木刀を振ってるんです」
他に誰も聞いていないのにこそっと耳元で話しかけてくるのは、随分と晃飛に心をひらいた証拠だ。出会った当初のように石鹸の匂いはしなくなったが、少女特有の甘い香りを嗅ぎとれるほどに近い。そのくせちょっとでも触れようとすると途端に警戒するのはいただけないが。
「それで何度か道場を覗いたんですけど、すごい気迫で近寄れなくて……。水も飲まずに休まず稽古しているから心配なんです。見てきてくれませんか?」
「いやいや、大丈夫だって。兄貴は第一隊の隊長だったんだよ? 丸一日飲まず食わずでも平気だよきっと」
「そういうものなんですか?」
「なんだよ、兄さんの言うことを少しは信じなって。あ、夕餉用にウナギを買ってきたよ」
実際は芙蓉の店から奪いとってきたものだが――言わない。
「今日の夕餉はウナギだよ」
「こ、これを……?」
ざるの中でうねうねと動く三匹の黒い物体に、珪己は目を白黒させている。この家でよく使うドジョウと違って長くて太くて、それだけで異物に思えてしまっているのだ。
そのうちの一匹を掴むや、晃飛はそれをぽいっと珪己に投げて渡した。
「ひゃっ、ひゃっ」
珍妙な声を上げながらも必死で受け止めようとするあたり、なんとも可愛い。きっと今まで生きたウナギを見たことなんてないはずで、奇怪な外見もぬめった手触りも、いい家の娘ならば避けるのが自然だというのにそれをしない。
完全にウナギに意識が集中している珪己の頭にぽんと手を置き、晃飛はその頭に軽く口づけた。
気配に振り返った珪己は今も涙目で、右に左にと逃げるウナギの体をせわしなく掴んでいる。
「これで罰は残りあと一回かな。もう一回しておく?」
「……晃兄!」
「はいはい、ごめんごめん」
慣れた手つきでウナギをざるに戻す晃飛を珪己が睨んだ。
だが晃飛は気にすることなくざるを脇に抱えて台所へと歩いていく。
「ほら、早くついておいで。ウナギ捌くところ見たいでしょ?」
その晃飛の背を珪己は早足で一気に抜いていった。
猛る少女の背中に晃飛はくすりと笑った。
(逃げればいいのに絶対に逃げないんだもん、あの子)
こうと決めれば頑なに行動するあたり、まだまだ幼い証拠だ。
「いつまでも少女ではいられないんだぞ……っと」
晃飛のつぶやきは誰の耳にも入ることなく掻き消えていった。
その晩、ウナギのぶつ切りは希少な塩で焼かれて食卓にのぼった。




