6.何物にも代えがたいもの
開陽の古寺に暴漢が押し入り、偶然居合わせた武官の一人が斬られた。
そのどこにでもありそうな情報に、しかし仁威はぴんときた。
「その怪我人の素性は分かるか」
「おや、ようやく興味のある話があったようだね」
環屋の楼主・芙蓉が満足げに目を細めた。
「じゃ、そのあたりについて話をねだっておくように店の子に言っておくよ」
数日もすると追加の情報がもたらされた。
店を閉める時間になってから仁威がふたたび芙蓉の部屋を訪れると、部屋には芙蓉の他に若い妓女が待っていた。さっきまで仕事をしていたのだろう、色鮮やかな花鳥が刺繍された薄紫の衣を身につけている。妓女のまとう雰囲気からは一晩かけて吸い込んだある種の重さが感じられた。それでも、疲れているだろうにその妓女はしゃんとした姿勢で初対面の仁威に小さく頭を下げた。しゃらん、と簪の銀の飾りが鳴った。
「この子は桔梗ってんだ。さあ桔梗、隼平に話をしてやんな」
「はい姉さん」
桔梗はきちっと芙蓉に黙礼すると仁威に向くように椅子の上で座り直した。きちんと顔を見れば、自分と同年齢くらいだろうと仁威には察しがついた。涼やかに見えるように描かれた瞼の縁取り、そこにのせられた衣と同色の薄紫の粉は、彼女が祇女である証のようだった。ふっくらした頰や弾力のありそうな唇といった、ともすれば十代にも見える可愛らしい顔の造りが、目元の化粧一つでうまい具合に中和され性的な魅力を存分に引き出すことに成功している。
「この話は開陽から来た行商人から聞いたんですけど、紫苑寺という寺で異国人が狼藉をはたらいたそうです」
(やはり)
紫苑寺とは呉桃林という女僧が一人で営む寺であり、仁威と珪己に一夜の宿を提供した場所だ。
仁威の推測は当たった。
桔梗の目を見てうなずき話の続きをうながす。
「それでどうしてそうなったのかは不明なのですが、警備団所属の若い方が一人斬られたそうです。命に別状はないそうですが、可哀想に、その方、剣を握れなくなって武官を辞したそうです」
「ああやだねえ」
芙蓉が手に持っていた酒をきゅっとあおった。
「花の名前が付くのは不吉だって前から思ってたんだ。どれほど美しく咲いてもいつかは散るのが花の定め。その寺もそうだよ。最後は散るしかないなんて、なんて嫌な世の中だろうね」
「もう姉さん、いつもそんなことばかり言って」
たしなめるように桔梗が言った。
「隼平さん、すみません。姉さんは夜の間ずっと独りでお酒を飲んでいるから、この時間帯はあんまりよくなくて」
「なんだい、よくないって」
だが芙蓉の桔梗を見る目は優しい。桔梗も芙蓉の体を心配しているだけで、二人の間には雇用主と雇われ女以上の繋がりを感じられる。そういう店はよく管理できている場合が多く、この街隋一の妓楼であり続ける理由はきっとこういうところにもあるのだろう。
桔梗から得たわずかな話から仁威は推測を深めていった。
紫苑寺で警備団の武官が斬られたという。であれば斬った相手は当然芯国の王子またはその配下で、斬られた相手は枢密院の指示で臨時招集された不幸な者なのだろう。しかも機密事項満載の本件、普通はやはり国内外の重鎮に対応することを任とする第一隊が関わるべきなのだが、やられた者は警備団の武官だという。ということはつまり、仁威と珪己が開陽を脱出したその日または翌日には事件は起こっていたはずだ。
(やはりあの時、開陽を出ると決めた俺の決断は正しかった)
だがそれから一カ月半はたつというのに、この街に情報として流れてくるのは遅かった。
しかも情報には不明瞭な点が多い。異国とはどこの国か、なぜその武官がその寺にいたのか、なぜその事件が引き起こされたのか。そういったことが分からない。それはつまり、意図的に情報が操作されているということだ。
(枢密院はこの事件に芯国の関与があると断じるつもりはないということだ)
(だが完全に隠匿されないように故意に匂わせている)
(それはつまり――)
いまだ芯国の王子、イムルが楊珪己を求めているということだ。
イムルはあきらめていない。
だからイムルをけん制するために枢密院は敢えて情報を漏らしている。
そうすることで異国人の行動を抑制するために。
また、この情報を得た仁威と珪己に注意喚起をするために――。
「どうだい。役に立ったかい」
「ああ。引き続きよろしく頼む」
「だってさ。よかったね桔梗」
桔梗の頬がぽっと染まった。
*
桔梗が去った後、仁威は即刻けん制した。
「俺はあの女とどうこうなるつもりはないぞ」
「おやまあ、そっけないねえ」
芙蓉は手酌でいまだ飲酒を続けている。だが酒が顔に表れない性質なのだろう、顔色は白粉の色そのものだ。
「あの子さ、ずいぶん前からあんたを好いているんだ。今夜だってあんたのためになるってえらいはりきってたんだよ。少しは優しくしてやってくれよ」
「優しく?」
「なにも永遠の愛がほしいとか贅沢は言わないよ。そこは色を売る女、一晩抱いてやれば満足するもんさ。好いた相手との思い出一つで幸せに生きられる、そんな単純な女だよあたしたちは」
「俺にその気持ちが皆無だとしてもか」
「ほんとに冷たい男だね、あんたって」
芙蓉が呆れた顔になった。
「男だろう? たった一晩、いい男を演じるくらい雑作もないじゃないか。それであの子は幸せになれるし、死ぬ間際は笑えるってもんなのに」
「男にも譲れないものがある」
「ああ、なるほど」
杯を置いた芙蓉が、得心がいったという素振りで仁威に人差し指を向けてきた。
「あんた、好いた女がいるのか」
むっと黙り込んだ仁威を芙蓉がにやにやと眺めている。その顔は息子の晃飛そっくりだ。これが晃飛ならば、拳骨やきつい視線で黙らせることができるが、女相手、しかも貴重な情報源である芙蓉には無理がある。
だが、日付が変わってだいぶ時間が過ぎた今、仁威もほどよく一日の終わりの疲労を感じていた。それに芙蓉には紫苑寺の女僧に近しい感情を覚えつつあった。話し方や雰囲気は違うし外見もまるきり違う。桃林は恰幅よく柔和な顔つきだが、芙蓉は細面の顔に細くきつい目つき、体の線も細く華奢というより折れてしまいそうな儚さすらある。なのになぜか仁威は今、桃林と対峙したあの夜のような気持を覚えていた。
「好きかどうか……それはどうしたら分かるんだ。恋や愛をしているかどうか、それはどうしたらはっきりと分かるものなんだ」
初心な少年のような問いに、案の定、芙蓉は何ら不快な反応を見せなかった。
「おや、面白いことを言うね」
うちの息子とも同じような話をしてみたいね、とつぶやきつつ、芙蓉は新たな酒を継ぎ足し一気にあおるとこう言った。
「たぶんさ、一つで定義しようとするから難しいんじゃないのかい」
「というと?」
それは仁威にとっては未知の解釈だった。
素直に講釈を待つ仁威を芙蓉は好ましく思ったようで、気分よく続けていく。
「美しいかどうか。可愛いかどうか。傍にいたいかどうか。触れたいと思うかどうか。他にもいろいろあるよ。賢さ、財力、家柄、性格。たぶんいろいろある。世の中には人を量る指標は無限にあるんじゃないかい? だけどそのうち、自分にとって特に大切なものとか絶対に譲れないものがあるだろう? それらを集めてそれで相手を量って、ある一定以上の価値があると算出できたら、それが特別に好きってことで、その結晶みたいなものが恋や愛なんだと思うよ」
「算出……そんなことを皆がいちいちやっているとは思えないのだが」
「だからそれはたとえだよ。実際は自分の頭か心がびびっと一瞬ではじきだしてしまうんだって。桔梗だってあんたのこと一目で好いてしまったんだからね」
「だがそれでは自分では好きか否か分からない場合も出てくるだろう」
仁威の反論は当然だ。
それが分からないから、感じ取れないからこうして尋ねているのだ。
楊家の娘、珪己へのたとえようのない想いは放浪の旅の開始とほぼ同時に始まっている。なのに意識してから今まで、仁威はこの想いを定義しきれないでいた。
もっとはっきりとこの感情の正体を知りたい、そう仁威は思っている。この感情を真に理解できていないからこそ、心を定めることができていないように思えて仕方がないのだ。
それに開陽には珪己のことを待つ侑生がいる。
いや、それ以前に、一生を放浪せねばならない宿命を抱えた自分が珪己に深く関わることはやめたほうがいいのだ。それはこの感情、この欲が初めて芽生えた夜にすでに悟っていることだ。
(ああ、でも……)
理性でもって結論は出ているというのにこうしてあがいているのは、別の結論を得たいがためではないのか。
珪己を抱きたいと思うのはこのところ他の女に触れることがなかったからではないのか、そうさっきまでは考えていた。ついさっきまではその可能性に賭けていた。だが桔梗の色のある視線を受けた瞬間、仁威が感じたことは嫌悪だけだった。たぶん昔なら抱けた。だが今は――無理だ。
深く寄せられた仁威の眉間のしわを芙蓉はじっと眺めている。
追加で二杯の酒をあおったところで芙蓉が言った。
「たぶんさ、あんたはこれを聞きたくて聞きたくないのかもしれないけど」
そう前置きして芙蓉は続けた。
「あんた、相当に意志が強そうだし、おそらく確固たる信念も持っている。武芸の腕も立つっていうし、きちんと自分を律することができる男なんだろう。そんなあんたがそれだけ悩んで苦しんでいるってことはさ、たぶん結論は出ているんだよ。それはきっと愛だ」
うつむきかけていた仁威の顔がぱっと上がった。
目と目が合い、芙蓉が破顔した。
「ああやっぱり。それは愛だよ、間違いないね」
仁威は震える唇で最後に問うた。
「では……芙蓉にとっての愛とは何だ」
芙蓉の目が優しく細められた。
「何物にも代えがたいもの。違うかい?」




