4.不安定な心
午前中、晃飛は道場で弟子たちに稽古をつけた。
だが朝の一件でいまいち調子がでなかった。
仁威ともめたいわけでも、珪己に懸想しているわけでもない。
なのだがつい手と口が出てしまっている。
剣を振りながらも自然とため息が出る。
自分で何をしたいのかがよく分からなくなっている。
独りで生きていこう、そう決意して知る者のいないこの街、零央へとやってきたのは三年前のことだ。この道場と家を購入したのはそれから一年後、がむしゃらに仕事一筋で生きてきた結晶ともいえる。
だがこうして何ら変わり映えのしない安穏とした日々を過ごすようになり、それにどっぷりと浸かり、無欲な自分が味気なく思えていたのは事実だった。とはいえこれまで遊びに無縁の生活を送ってきたせいで、今さら何かに熱中することもできなくなっている。
酒は飲むが家で独りで飲めば十分で、知らない者ばかりの酒楼に行きたいとも思わない。
友人が欲しいとも思わない。
無理して他人と会話をしたいとも思わない。
自分のことを理解できる人間などいるわけがないし、表面上の会話は仕事で散々味わっているからこれ以上は不要だ。
当然、恋人も妻もいらない。
他人に特別惹かれることがないし、面倒な手続きをしてまで女を抱きたいとも思わない。
庭で野菜を育てることには力を入れているが、あれは食材にもなるし余剰分は売ることができるから作っているだけだ。
武芸に対する向上心はもはやない。
師事したい武芸者もこの街にはいない。
毎日の食事に困らない程度に稼げる腕を保っていられれば十分だ。
今の自分は十二分に武芸者であり、高みを目指したいという願望はない。
誰とも深く関わらず、とりとめのない会話をし、無難に過ごし。
そんな頃――晃飛の前に仁威と珪己が現れた。
仁威はやはり晃飛にとっての唯一だった。
珪己は初めて見たときから不思議と興味のわく少女だった。
二人に自ら関わり、強引に家に住まわせ。
仁威に恋をしないように言いながらもけしかけるようなことをして。
珪己を愛犬のように、いやそれ以上にかまってみたり。
(……俺、本当に何やってるんだろう)
自分で自分のことが分からないというのはひどく落ち着かない。
稽古を終え、昼餉の準備をしに台所へ行くと、珪己がかまどの火おこしに悪戦苦闘していた。ここに来たときにはかまどすら見たことがなかったのだから、一人で火をおこせるようになっただけでも格段の進歩だ。
かまどの中、積み重なった薪はいい具合に着火しているようで、生まれたての炎が揺らめいている。今は筒を使って息を吹きかけることで火力を上げていく過程にあるようで、その背中はまったくもって無防備だ。
晃飛は思わず笑みを浮かべた。
(うん、やっぱりやりたくなるものは仕方がないよね)
そう自分自身に言い訳をしつつ、そろそろと珪己に近づいていく。
その背からがしっと抱え込む。
と、その瞬間、晃飛の右手の親指が珪己に握られた。
ついでその指をあってはならないほうにねじり込まれていく。
まさに今朝、庭で仁威でやられた指をやられた業で決め込まれ、晃飛はあっけなく膝をついてしまった。
振り向いた珪己は満面の笑みだ。
「よっし!」
手を離し、胸の前で両の拳を握りしめる珪己。
ぽかんとしたのも束の間、晃飛のこめかみがぴくぴくと動いた。
「何が、よし、だ! ああくそ、いってえ」
「ふふっ」
「ふふっじゃない。君、これがどれだけ痛いか分かってんの?」
「分かってますって。さっき、た……兄さんに散々かけられたんですから」
珪己が思い出したように眉間にしわをよせた。
「仁兄の野郎……」
つぶやく晃飛の眉間にも盛大にしわが寄っている。
晃飛が不在のこの短時間のうちに、仁威は珪己に護衛術を仕込んだのだ。元々勘がいいのだろう、珪己はこの業をすっかり己がものにしてしまっている。
仁威がこれからどういう態度を示すのか分からずにいたのだが、まさかこうくるとは予想だにしていなかった。
「他にもたくさん教えてもらう約束したんですよ。怪我の功名ってやつですね」
怪我とはつまり、昨夜の口づけから今朝に至るまでのすべてだ。
(なんかもう……この二人って)
晃飛は立ち上がり珪己に指を突きつけた。
「いいよそれで。俺にはまだ君に罰を与える権利があるってことを忘れずに、その調子で油断しないことだね」
精いっぱいの皮肉を込めたつもりが、珪己は別の思考にたどり着いた。
「ああ、それいいですね」
ぽんと手を打って。
「そうやって気をつけていればいい稽古にもなりますしね」
(なんか俺、また利用されてる?)
そう思わないでもないが、晃飛はこの闘いに俄然やる気を出したのであった。
(たとえ仁兄相手でも、いや仁兄相手だからこそ負けないんだからな……!)
うじうじと考えるのは性に合わないのだ。




