2.過去を分かち合う
その頃、珪己は晃飛と共に食卓を囲んでいた。
「君はいつから武芸を始めたの?」
その質問は当然のことで、珪己は素直に答えた。
「八歳からです」
「八歳から? へえ、枢密院の官吏の家とはいえ、よく親がゆるしてくれたね……っと」
しまったという顔をした晃飛に珪己はほほ笑んでみせた。
「大丈夫です。あの……実は八歳のときに自宅が襲撃されたことがあるんです」
ぴたりと晃飛の箸が止まった。
「……襲撃? 開陽の街ってそんなに物騒なの?」
「普段はとっても平和ですよ」
「でも君の家は襲撃された」
「はい、そうです。そうですね……そういう意味では開陽は平和ではありませんね。実際、その一夜で家にいた全ての人が殺されてしまいました。あれはちょうど今時分のような日、夏の盛りの一夜のことでした。その日、私は……私だけが生き残ってしまったんです」
生き残ってしまった。そう言って珪己が皮肉気に口の端を持ち上げたのを見るや、晃飛が乱暴に箸を机に置いた。
「そういう言い方はするなよ」
「晃飛……さん?」
「だから君は武芸を始めた、そう言いたいんだろうけど、生きることに理由なんていらない。違うか?」
晃飛が真剣に怒っていることに気づき、珪己もまた箸を置いた。
「……そうですよね、そうです。でも……なかなか簡単に割り切れないんです。どうしてもあの日のことが心につかえてしまって。過去はもう起こってしまったこと、だから私にできることは過去を糧にして精いっぱい生きることだけ、そう理屈では分かっているんです。……ですけど、こうしてついそう言ってしまうってことは、私もまだ過去を消化しきれていないんだと思います。だから夏はあんまり好きじゃなくて。一年の四半分を好きになれないなんて、自分でも嫌になっちゃうんですけどね」
無理に笑ってみせた珪己に、晃飛が痛ましいものを見たかのようにとっさに目を伏せ、やがてぽつりと言った。
「……ごめん。俺も君の気持ちは痛いほどよく分かるから、それでつい」
「晃飛さんも?」
「だから兄さんって呼べって言ったでしょ」
晃飛が薄く笑った。
「俺、昔犬を飼ってたことがあるんだ」
「犬、ですか」
「そう。俺が子犬のころから大切にしていた犬。真っ白な毛並みだから名前は真白。子供にどんな名前を付けるかで親の愛情を量れるっていうけどさ、絶対にそんなことはないね。俺にとって真白は唯一の存在だったから」
唯一の存在。
その言葉には確かに愛情が含まれていた。だが柔らかさや温かさは一切感じられなかった。例えるならば針の穴に糸を通す時の緊張感に似ていた。当時の晃飛にとっての究極の一点、その微小な部分に触れることのできる相手――それが真白だったのだろう。
「真白のこと、とても大切だったんですね」
「大切なんて言葉では言い表せないよ。いなくてはならない存在、いて当たり前の存在。朝から晩までずっと一緒にいたからね」
幼い頃の晃飛の話を聞くのは初めてだ。だが一匹の犬の話に触れただけで、晃飛の幼少時代がなんとなく想像できた。甘さより苦さ、楽しさよりも辛さ、幸せよりも寂しさ。いつ押しつぶされてもおかしくないような混沌とした世界で、晃飛にとって、真白だけが天から降り注ぐ光明だったのかもしれない。
それでも晃飛の次の一言に珪己は息を飲んだ。
「……真白が殺された時ね。あの時、俺は狂うかと思った」
「殺された……?」
「うん。俺の真白はね、忠犬だからこそ殺されてしまったんだ。俺のために……あいつを死なせてしまった」
晃飛が泣く寸前のような顔を珪己に向けた。
「俺もね、君と同じなんだ。自分を責めて、強い自分になるために稽古に執着して。一人でいるのが辛くて、それで仁兄に執着しちゃって……」
ふうっと晃飛が深いため息をついた。
「真白はね、俺と透威をならず者からかばったせいで死んじゃったんだ。そいつは酒を飲んで酔っ払ってて、俺たちの通う道場に勝手にあがり込んで剣を振り回して暴れて……。あのね、透威っていうのは仁兄の弟なんだ」
「……隊長の、弟?」
晃飛は静かにうなずいた。
「そう、血の繋がった正真正銘の弟。真白は俺と仁兄の弟をかばって死んだんだ。だから仁兄は俺のことを無下にできないんだよ。俺は透威のことを理由に甘えているってわけ。だって他にいなかったんだよ……無条件で甘えさせてくれる存在がさ、あの頃の俺には真白以外には仁兄しかいなかったんだ」
ずっと不思議だった仁威と晃飛の関係がようやく珪己にも見えてきた。
仁威を兄と呼ぶ晃飛。
それに対して『本当の兄ではない』とすげなく言う仁威。
仁威のために珪己という危険因子すら許容してしまえる晃飛。
だが実の兄弟でもできることではない救いの主に対して、感激するどころか一定の距離をおいて接する仁威。
強く自分を求める存在に対して、その理由ゆえに近づきすぎないよう仁威は抑えているのだ。
珪己の推測の正しさは続く晃飛の語りが証明していった。
「だから仁兄が開陽に出て武官になると決めたって知った時は正直怖くてたまらなかった。真白も仁兄も、俺がずっと一緒にいたいといくら願ったとしても叶えられないんだって気づいてしまったから……」
まあそれで、と晃飛が明るい声を作った。
「それで俺は独りで生きてくって決めて、こうして道場を構えるまでに至ったというわけだよ。分かったかい、妹よ」
ちゃかすようにまとめようとしたところ、珪己は真剣な面持ちを崩すことなく深くうなずいた。
「はい、分かりました。あの、晃飛さん」
「なに?」
「話してくれて……ありがとうございました」
あまりにまっすぐに見つめられ、晃飛は落ち着かない気持ちになった。
「いいって。俺だって君の話を聞いたんだからこれでおあいこだろ?」
「……はい!」
重い過去、重い罪。動物でも人でも、自分にとってかけがえのない存在を失い、その原因が自分にあると断じてしまった二人には、どこか近しい部分が見受けられた。だからこそこうして、心をさらけ出して語り合えたのだろう。
珪己はこの国の皇帝である趙英龍と皇女・菊花のことをふと思い出した。そして李侑生のことを思い出した。八年前について、珪己はこれまでこの三人にしか打ち明けたことがない。晃飛で四人目だ。四人目ともなると気が楽になるというのもあるのかもしれない、そう珪己は思った。今日、珪己は容易に過去について晃飛に話すことができた。きっとそれは数々の出来事を通して過去を咀嚼してきた結果なのだろう。
八年前のことを受け入れきれていないことは先ほども自覚している。だが以前に比べたら格段に前進しているとも思う。
先ほどの晃飛の様子は、少し前までの自分自身のようだと珪己は思った。
(もっと話せるときに話していくことで、おのずと整理できていくんじゃないかな……)
晃飛の手助けになれたら、と思うと、仁威のことも自然と思い出された。
(……だったら隊長も同じなのかもしれない)
八年前の事変に自分も関与している、そう突然告白してきた仁威の表情は晃飛の比ではないほどに思い詰めていた。この放浪の旅の全責任を負うと言わんばかりの悲壮な決意は、珪己と八年前に繋がっているからこそのものだった。
(……もっと隊長と会話をしないといけない。隊長にあんな表情をさせたくないし、一人であんな辛い目に耐えてほしくもない)
屯所で偶然見てしまった壮絶な暴力、それに耐え続けていた仁威の姿は、珪己の脳裏に深く刻まれている。たぶん一生忘れることはないだろう。あれを仁威は自分の罪を雪ぐための行為だと開き直った。だがその罪を読み解けば、自分という存在があるがゆえの痛みなのだ。
自分のために誰かが痛みを感じていると知って、平気でいられるわけがない。
「晃飛さん、またいつでも話したいときに話してくださいね?」
似た者同士であるからこそ伝えたいことだった。
同じことを仁威にも伝えたい、そう思いながら。
「……妹のくせに生意気だ。それにまた兄さんって呼ばないし」
晃飛は軽く唇を尖らせ黙っていたが、一転、ぱっと表情を明るくさせた。
「ねえ、兄さんって呼べないたびに罰を与えるっていうのはどう? 君はそれくらいしないと駄目なんじゃないかな」
「罰?!」
大きく目を見開いたその顔が面白くて、晃飛はさらに言い募った。
「うんそう。さっそく罰を与えようか」
「……あの、痛いのは嫌ですよ?」
とっさに頭をかばった珪己に、晃飛は愉快な気持ちになった。
おそらく珪己は頭を叩かれるか額を指ではじかれるか、そういう子供じみた罰を想像している。だが先ほど本人が述べたことが事実なら、珪己は幼少時代に屋敷内で大勢の人間を殺され、おそらく山のような死体も目撃している。そして女だてらに武芸を習い始めた。よく鍛練を積んでいることは今日の稽古を見ていれば分かる。それほど必死で稽古をせねば心の均衡をとれなかったのだろう。
(でも……たぶん実際には均衡はとれていないんだろうな)
そう晃飛は思った。
不均衡だからこそ、男相手にこういった子供じみた所作を見せてしまうのだ。
この年齢にしては、初心で世間知らずで無邪気で素直で。妹として傍においておくには非常に楽な性質だ。これで年齢相応なそぶりを見せられたら、男二人の家に気軽に置いておけないだろう。たとえ晃飛と仁威、二人が女を嫌っているとしても。
ふと、仁威がこの少女に見せる数々の表情を晃飛は思い出した。
じっと晃飛に見つめられ、珪己は頭を抱えたまま縮こまった。上目使いでびくびくと震える姿はおしおきをされる直前の飼い犬のようだ。屯所の前で自分を待ち伏せしていた時も晃飛は同じ印象をこの妹に持った。あの時の珪己は忠犬のごとくだった。今もこうして、逃げればいいのに罰をおとなしく待ち受けている。
馬鹿で可愛い妹だ。
そのまま珪己には妹でいてもらわなくてはならない。
――だがそれは誰にとってのことなのか。
「目をつぶって?」
命じれば珪己は素直に従った。でも目を閉じているのも辛そうで、瞼がふるふると震えている。いつ攻撃されるか分からず視界を奪われるというのは緊張するものだ。
晃飛は机に前のめりになった。
気配を感じて瞼の震えを大きくするあたり、やはり馬鹿で可愛い。
怖いなら目を開ければいいのに。
怖いなら逃げればいいのに。
「晃飛……さん?」
名を呼ぶ唇も震えている。
男のものではない唇はふっくらとしている。
だから晃飛は唇を奪った。
合わせた瞬間、ぱっと目を開け両手を突き出してきたところを、すかさず退いてなんなく避ける。
椅子に座り箸を持ち直し、晃飛は食事を再開した。
正面では珪己が怒りでぶるぶると震えている。
「晃飛さんっ! どうして!」
「また兄さんって呼ばなかったね」
「……は?」
「もう一回、してやろうか?」
咀嚼しながらちらりと見ると、珪己はぎゅっと唇を噛み締め手当たり次第に食事を口に詰め込み始めた。




