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2.じくじくとした思い

 それからさらに二日後、二人が乗り換えた船は昼過ぎに零央れいおうという街へと入った。


 ここ零央は開陽から最も近い中型の都市で、ここよりも南に位置する湖国の第二都市へと向かう者は別の船へ、北の山岳地帯や西の砂漠地帯へと踏み入る者は馬車に乗り換える必要がある。乗客の大半は案内に従っていずれかへと移動していった。


 だが仁威はその列には加わらず、珪己を連れて街の中へと入っていった。


 馬車が到着したのはここ零央の中心部だ。だが首都・開陽に比べればこじんまりとした街で、開陽の少しはずれ、中流階級のための身近な物品が揃うだけの路面と規模は同等である。


 緩やかな人の流れの中を仁威は注意深く歩き、やがて一つの宿へと入っていった。そこはいつものごとく中の下の、珪己にとっては下の下の宿だった。


「しばらくここに逗留したいのだが」


 番頭に向かってそう仁威が言うのを、珪己は後ろでいつものごとくぼんやりと聞いていた。


「へい、まいどあり」

「滞在は一か月か二か月。妹が体調を崩しているのでゆっくりさせてやりたくいと思っている」

「へえ。うちはかまいませんよ」

「ありがたい。支払いは日々前払いで済ませる。部屋は一つ。角部屋がいいが空いているか」

「ええ、ちょうど先ほどお客さんが出られたところでさあ。今清掃していますので少し待ってもらえますかね」


 思案する仁威に、番頭が気安い笑みをみせた。


「隣の食堂の肉麺はここ零央でもだんとつでうまいですから行ってみてはどうですか。味は保証しますよ」


 うなずいた仁威に、番頭は台帳を広げ筆に墨を含ませながら尋ねた。


「お名前は?」

隼平しゅんぺい。妹の名は珪亥けいがいだ」


 もう何度も耳にした台詞を珪己は何の感慨もなく聞いている。


 本名を名乗らないのは当然芯国の王子の追跡をかわすためだ。


 仁威が呉隼平の名を使うのは連絡をとりたい関係者に自分たちの道筋を伝えるためなのだろう。珪己を最も慕うよう玄徳げんとく侑生ゆうせいの名は、国内のどこにおいても高名過ぎて使用するのは危険で、だから呉隼平――侑生の部下――の名を使っているのだろう、そう珪己は推測している。珪己の偽名である珪亥は、本名と鄭古亥の亥を組み合わせただけのひねりのない造語だ。


 呉珪亥。


 その名を言葉にせずに舌の上で転がすたびに珪己は笑いたくなる。


 本当の名前は楊珪己だ。枢密院すうみついん長官である枢密使すうみつしの父を持つ楊珪己だ。


 なのに今は呉珪亥?


 呉珪亥とは一体どんな少女なのだろうか――?


「はいはい。呉隼平様と呉珪亥様ですね。ご兄妹で旅行とは仲がおよろしいようで」

「いや」


 とっさに否定しかけ、仁威は唇をなめつつ言葉を選んで答えた。


「ちょっと気分転換に旅を、な。妹は今度結婚することになっていて、その前に遊びたいというのでつきあってやっているんだ」

「へえ。お客さん、面白いことを言う」

「何がだ?」

「そういうのを仲がよろしいと言うのですよ。いやあ、うらやましいかぎりです」


 はっはっはっ。

 快活に笑う番頭に、仁威は小さく会釈をし、珪己を促し宿を出た。



 *



 番頭おすすめの店の麺は確かに美味だった。


 こしのある太麺の上に薄切りの味付け肉とねぎがふんだんに盛られている。唐辛子の輪切りが褐色の汁の表面に浮いていて、ぴりっとした辛みがとろりとした脂の浮く汁をいい具合に引き締めている。空腹時であれば何杯でもいけそうだ。


 食事時を過ぎていたが店の半分は客で埋まっていた。ほどよくざわついており、人目をそれほど気にしなくてもいい絶好の時間帯だ。


 仁威は汁の最後の一滴まですすって先に完食すると、空になった椀を机の上に置いた。


 向かい合って座る珪己の椀にはまだ半分ほど残っている。胃が通常どおりの量を受け付けるようになるまでにはあと数日はかかるのだろう。


(だが食欲が出てきてよかった)


 このまま何も食べずにいたら危険なことは分かっていた。医師に診てもらうにしろ手持ちの金子は少なく、この逃亡劇が不本意な形で終了する瀬戸際に二人はいたのだ。


 だから仁威は珪己の怒りを焚き付けて無理やり食事を摂らせた。


 この少女――武官としての部下――が、人を初めて殺めたことで苦悩していることは十分すぎるほどに分かっている。自らも経験したことのある、たとえようもないほど大きな壁だ。この壁を乗り越えられなかった同胞を、仁威はこれまで幾人も知っている。だからこそ、この部下の心を丁寧に解きほぐしてやり、武官としての自信と信念、それに武芸者としての誇りを取り戻させてやりたいと思っている。それは上官である仁威にとって重要な責務だった。


 食事や睡眠が摂れないといった、健康を害する症状が出た場合は無理やりにでも摂らせる。それが基本だ。生きなくてはその先はない。まずは生きて、日々を過ごし、それから心の回復に努める。隊長となってから、仁威はそのやり方をこれまで違えたことはない。


 となると次にすべきことは決まっている。


 だがその前に、二人はせっぱつまった状態にあった。


 つまり――手持ちの金が尽きかけているのだ。


 この零央という街を滞在先に決めたのは、開陽からそれなりに離れていて、かつ旅行者がしばらく滞在してもおかしくはない規模の街だからだ。仁威はここを拠点に開陽の情報を探り、かつ楊玄徳や李侑生との接触を図ろうと考えていた。すべては珪己を無事開陽に戻すまでの間のこと。その後、自分一人になれば身軽になった分どうとでもなる。


 そしてこういう街では金を稼ぐことはそれほど難しくはない。


「それを食べ終えたら」


 この店に入り、注文時以外言葉を発することのなかった仁威が突如語り出したことで、珪己の肩がぴくりと震えた。箸を使う手を休め仁威を注視する。昨日の昼の弁当の一件以来、仁威が何かを言うたびに、珪己の心に簡単に怒りの炎が着火するようだった。


「それを食べ終えたらお前は宿で休んでいろ。だが宿からは一歩も出るな。用のない時は部屋にこもり、誰も部屋に入れるな。いいな?」


 ぎりっと睨み付けてくる珪己の視線は痛いほどだ。

 この旅が始まって以来ずっと無感情だったのに今はその真逆だ。


「俺はこの後、街を偵察してくる。夕飯は宿の者に届けさせるようにしておく」


 しばらく二人は無言だった。


 珪己は仁威を睨み、仁威はそれをなんてことないように鷹揚とした様子で受け止めている。


 ふいに珪己が視線をはずした。

 そして麺をすすり出す。

 だが麺をすすりつつも、俯き加減の珪己からは仁威に対する怒りの感情が見えるようだった。



 *



 その日から仁威は一人で出かけるようになった。


 日が昇るとともに、前日に買っておいた冷えた食事を黙々と食べ、「では行ってくる」と行先も目的も告げず、また「宿からは出るな」と命じて去ってしまう。そうやって一人きままに行動し、戻るのは珪己が寝間着を纏い終わった時間帯となるのが常だった。


「飯は食っているようだな」


 仁威が言うのはそういうことばかりだ。おそらく宿の者から聞いているのだろう。珪己がきちんと言いつけどおりに部屋にこもっているかどうかまで含めて。まるで子供扱いだ。


 それに珪己が何も答えないのもまた常となっていた。それに仁威は何ら頓着しない。ただ珪己の顔色を確認し、保護者然とした面持ちになるだけだった。


 そして――そういう仁威を見るにつけ、珪己の中に生じた反発心は強くなっていった。


 実の父に対してであれば思春期特有の反抗期とでも片付けられるのかもしれない。だが実際の父は娘に対して過度に干渉しない人物で、珪己はこれまで父との関係に深く悩んだことが一切なかった。だが仁威に対しては違う。この上司はまだ出会って数か月だというのにあれやこれやと手を回し、命じ、そのくせ詳細については何も語らないのだ。


 珪己の方から仁威に尋ねれば答えてくれる可能性はある。だが口をきく気にならない。あれほど慕っていた上司だというのに、だ。


 こうして狭い部屋で二人毎日顔を突き合わせるのも珪己には苦痛だった。ここ零央に来てからは眠りにつく前と明け方、半刻も顔を合わせていないのだが、それでも息が詰まって仕方がない。開陽の自宅、楊家にある自室はここの倍は広かった。そこに一人で寝起きしていた頃が珪己は懐かしくてたまらなくなる。


 それは明るい時間帯、長い時間を一人部屋で過ごしている時に強く感じる郷愁だった。


 開陽に戻りたい。

 父に会いたい。

 道場のみんなに会いたい。


(師匠――そうだ、師匠は今どうしているんだろう?)


 古亥のことを思い出すと、決まって自らの手で息の根をとめた芯国人のことが連鎖的に思い出される。人が一人殺されたのだ、理由はどうであれ何らかの騒ぎが起こっていてもおかしくはない。だがそれについても仁威に尋ねることはできていない。言葉を交わしたいとも思えないし、尋ねても知りたい答えは返ってこないだろうから。珪己は芯国人を殺めた直後、その足で開陽を出立している。だから行動を共にする仁威が古亥のその後について知るわけがないと決めつけている。


 右手を何度も握っては開く。この大きくも小さくもない手で人を殺したということが珪己には不思議でならない。八歳から剣を握り、かつそれ以前より琵琶を弾いてきた手は、おそらく同年代の少女よりも固いはずだ。だがこんな取るに足らない手でも人の命を奪ってしまえるのだ……。


 珪己は己が引き起こすことのできることの大きさについて計りかねている。


 そして手を握って開いてを繰り返していると、決まって思い出されるのはこの手を何度も掴んだあの青年のことだ。


 掴み、この身を引き寄せ、好奇心に煌めく瞳で真っ直ぐに見つめてきた青年――。


 あの夜もそうだった。寺の一室、泣き濡れていた珪己の手を掴み、『そなたを救いたい』と、その青年は言葉どおりの真摯な表情を向けてきた。


 救いたい、そう言って珪己をその両腕で包み込み――抱いた。


 思い出すたびに胸がちくりと痛む。たぶんこうして逃走を続ける限り、あの人に会う機会はないだろう。あの人のことだからたった一夜の気まぐれでの行為ではないだろうとは思う。だがあの人はこの国を総べる皇帝であり、自分はこんな狭い部屋に閉じ込められているような無力な小娘でしかない。しかも今の自分は楊珪己ではない。呉珪亥という何の特徴もない人間だ。


(たぶん、もう二度と会うことはないんだろうな……)


 会えない、そう思うたびに悲しみと共にたとえようもない切なさで心がよじれる。


 そういったじくじくとした思いを反芻しながら、珪己は孤独な日々を耐えていた。

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