1.環屋の芙蓉
晃飛は屯所から帰ってくるなり開口一番こう言った。
「さっき環屋に行ってきた」
仁威と珪己はお茶を飲んでいたところだったのだが、その一言に仁威は思わず椀を傾ける手を止め、珪己は盛大にむせてしまった。
「ぐ、ごほ。……晃飛さん!」
珪己の顔があり得ないほど真っ赤にほてったことで、男二人にも珪己がその店の業種を知っていることが察せられた。
「おやおや? 妹は環屋がどういう店か知っているんだ。へえー。そうなんだ」
「あのその、それは……その……」
湯場でお店の女性と何度か会ったことがあるんです、そう珪己が口ごもりながらも答えると、晃飛は机に顎をのせて上目使いで珪己を見上げた。
「じゃあ賢い妹はその女の人たちがどういう仕事をしているのか知っているのかなあ?」
仁威が保護者以上の動揺を見せたことが気になりつつも、晃飛はついこのからかいがいのある妹で遊んでしまった。
「そ、それはっ」
とうとう耳まで赤くして黙り込んでしまった。だが晃飛は容赦することなく、珪己の二の腕をつんつんとつつきながら追及していく。
「ほらほら、兄さんに教えてみな? 恥ずかしがらないで言ってみなって……いってえ!」
起き上がった晃飛の目には涙がにじんでいる。仁威が無言で拳骨をくらわせたからだ。
「お願い、仁兄! 本気でやるのはやめて! それ痛いから!」
「だったらこいつで遊ぶのはやめろ」
「分かったって! まったく、本当にこんな兄貴がいたら君は一生恋人の一人もできないだろうね……ってえ! また殴った!」
「……お前のその口を殴って全ての歯を折れば黙るのか?」
「もう! そんな物騒なこと言わないでよ。俺だって弟なんだからさあ、もっと優しくしてくれないと。今日だって環屋に行ったのは遊びに行ったわけじゃないんだから」
「じゃあ何のために行ったんだ」
拳を握りしめたままの仁威に、とっさに晃飛は早口で続けた。
「だからっ! 前に頼まれていた情報源のことだよ!」
すると仁威の拳は解かれた。
「情報源ってなんですか?」
珪己のほうも赤らめていたはずの顔はすっかり元に戻っている。
(この二人……!)
繋がりをまったく感じられない三兄弟だな、と思いつつも晃飛は説明した。
「だから、君が実家に戻れるかどうか、それに芯国人がこの辺りにいないかどうか、そういったことを探るための情報をだね」
きょとんとしていた珪己の表情が途端に固まった。
やがて両の目いっぱいに涙を浮かべ、深々と頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
その下げた後頭部を見ていると、晃飛はこそばゆい気持ちになった。
「そんな大したことはしてないって。なあ仁兄……仁兄?」
仁威はぼんやりとした顔をしていた。だが晃飛の声掛けに、はっと元の自分を取り戻した。取り戻した、そう表現するのがふさわしい動揺の隠し方だった。
仁威は茶を飲み、椀を置いて、それでようやく言葉を発した。
「で、俺はどうすればいい?」
その双眸にはもはや任に忠実な男の意志しか見えない。
だから晃飛も必要なことだけをこの兄に伝えていった。
「あそこの妓女を取りまとめている芙蓉って女のこと、知ってるよね」
仁威がうなずくのと同時に珪己がぴんと手を挙げた。
「私も知ってます!」
「へえ、それはまたすごい偶然だね。芙蓉は元妓女で、今は環屋の楼主なんだけどね、旧代の楼主が跡継ぎ不在で急死して、ちょうど年季のいった……というかまあ、実質その当時から仲間衆の中心的存在だった芙蓉が急きょ後釜についたんだ。環屋はこの零央一の妓楼だから、官吏や商売人の話は自然と集まってくるんだよね。たぶん仁兄もそれ目当てであそこで働き出したんだろうけど」
「ええっ。隊長はそこで働いてるんですか?!」
「何を今更。ちょっと君は黙っててよ。でさ、芙蓉を介して情報を収集したほうが楽だし確実だと思うから頼んできた」
「頼んできた?」
仁威が思わしげに尋ねた。
「お前は芙蓉とどういう関係にあるんだ」
仁威の疑問は当然だ。ここ零央が大都市ではないとはいっても、その街一番の妓楼の楼主に『頼んだ』だけでそのような面倒事を請け負わせられるわけがない。簡単に推測できるのは芙蓉が晃飛に恋慕の情を抱いていてそれを利用することだが、仁威は知っている、晃飛は女が好きではないのだ。
いや、正確にいえば、晃飛は仁威に心酔するあまり仁威の嗜好に染まってしまっているのだ。
だから武芸者の道を志したのだし、だから不誠実を嫌い女を嫌う。
そういうことだ。
「金で懐柔したのか?」
これからどれほどの大金が必要かと思案していると、そんな仁威のことを晃飛は笑い飛ばした。
「いやいや違う。金じゃないよ」
「じゃあどうやったんだ」
「んー、それは秘密」
仁威が疑わしげな目を晃飛に向けた。つられて珪己までもが同じような目で晃飛を見やった。二人に無言で責められ、とうとう晃飛は正直に告げた。
「芙蓉は俺の母親なの!」
暴露した瞬間、二人の攻撃は止んだ。
だが晃飛は頭を抱えて机にうずくまった。
「……あー、これだけは言いたくなかった」
「お前の母はどこかの役人に見初められて家を出ていったと……そう聞いていたが」
「だからそれがここ、西門州ってわけ。でもその男ともすぐに別れたんだ。相手の男の家の雰囲気になじめなかったんだって。もともと庶民と役人じゃあ無理があったんだよ。でも今さら家にも戻れなくて、それで零央に来て、そのまま妓楼に身を置くようになったんだってさ。俺もここに住み始めてから偶然街中で出会って声かけられて驚いたんだ。すごい変わっちゃってて、全然気づかなかったもん」
それを聞いた仁威は同じような境遇の知り合い、李清照のことを思い出した。清照も理由こそ違えど離婚を経験している。そして厳格な実家での過去を追及する雰囲気に嫌気がさし、弟である侑生が住む開陽に移住したのだ。
かたや珪己は視線を上にやりながら想像を繰り返し、やがてぽんと手を打った。
「ああ、確かに。お二人には似ているところがありますね」
「ええー、そう?」
嫌そうに顔をしかめる晃飛に「似てますって」と珪己は自信ありげだ。
「どんなところが?」
「いっつも目を細めているところとか、ちょっと意地悪いことを言って人をからかうところとか」
ああでも、と珪己は続けた。
「でも丁寧に教えてくれるところも同じですね。あの方、お母さんだったんですね」
にこっと笑った珪己に晃飛は何も言えずただ唇をとがらせるだけだった。
*
その夜、仁威が環屋に行くと、用心棒専用の部屋ではなく楼主の部屋に行くように店の番頭に命じられた。
芙蓉は椅子に座り細面の顔を斜めに向けてぼんやりとしていたが、仁威が室に入り向かいに座ると、ようやく覚醒したかのように細い目の奥に力を蘇らせた。
仁威がこの店の楼主、芙蓉と対峙するのは雇用のための面談の時以来だ。芙蓉の着崩した衣がはだけ首元があらわになっているのは初対面の時と同じで、この楼主のだらしなさ、もとい妖艶さは相変わらずだった。女慣れしていない男であれば、普通の女が決して見せないその領域一つで興奮してしまうのだろう。
だが芙蓉のほうは自らが放つ毒蜘蛛のような淫靡さには頓着していないようだった。仁威にとっても女の外見など心の琴線に引っかかりもしないのだが、この類の女があの閑散とした生まれ故郷に本当にいたのかと、つい記憶を手繰り寄せてみたくなるくらいには興味深い存在である。
会話は突然核心に触れた。
「晃飛はあたしのことをなんて言ってた?」
「……正直に言っても?」
それに芙蓉がにっと笑った。そうすると細い目はより一層細くなった。
晃飛の年齢を考えれば若くても三十代後半と思わしき芙蓉だが、手入れがいいのだろう、肌の艶や色香は二十代だと主張できる質を保っている。だが体全体から漂わせる風格は年齢を裏切らないものだった。それだけの年月、幾多の経験を乗り越え妓楼で暮らし……強くしたたかにならざるを得ないのも当然だ。
「あなたは自分の母なのだ、と」
「そうだよ。あたしは晃飛を棄てた母親さ」
自虐的な台詞は芙蓉の感情を読み取るのを困難にさせた。
仁威は言葉を選びながら会話を続けた。
「俺のことはどのくらい聞いていますか」
「ああ、そんな固っ苦しい言い方しなくていいから。息子の知り合いに敬語なんて使われたくないからね。晃飛はあんたのことは同郷の恩人だって言ってたよ。自分を救ってくれた一番大事な人で、だから何が何でも助けになってやりたいんだって。あんた、あいつに何をしたんだい?」
黙り込んだ仁威に「ああやっぱり話さなくていいや」と芙蓉は軽く首を振った。
「まあいいさ。動機はなんであれ息子が初めてあたしを頼ってくれたんだもん、やらないわけにはいかないからね」
「よろしく頼む」
「うん、あんたやっぱり元武官だ」
姿勢を正しきちっとお辞儀をした仁威に芙蓉が指摘した。
「だけどここではあんたはただの用心棒なんだから、もうちょっとくだけた言動の方が目立たなくていいと思うんだけどね」
む、と仁威が唇を結んだ。
「……善処する」
「だからさあ、その言葉使いはやめなって」
からからと芙蓉が笑った。
去り際、芙蓉が「あの犬っころはもういないのかい?」と訊ねてきた。
「犬?」
「晃飛が飼ってた白い犬だよ。一度さ、なんか寂しくなって子供らの顔を見たくなったときがあってね、行ったんだよあの田舎に。晃飛は白い犬とじゃれあって遊んでた。あたしと一緒にいたときよりもよっぽど幸せそうだった」
「あの犬は……もう死んだ」
「そっか。そりゃあそうだよね」
その時の芙蓉はかすかに愁いを帯びた表情をしていた。