7.燃え上がる欲情
仁威は随分長い間激流の中にいた。大使館から珪己を救出して寺に逃げ込み、翌日寺から脱走した珪己の捜索に奔走していたところ、珪己と鄭古亥が芯国人を倒した現場に遭遇し……。
それからはあっという間だった。
仁威は今、ようやく一息ついている。これまで、早朝から深夜まで気の抜けない日々を絶え間なく続けてきたが、晃飛の家は背の高い木々や壁で囲まれており、街中にあるとはいえ通行人に屋内を見られる心配もない。腕が立ち信頼できる晃飛がいることも仁威の肩の荷を少し軽減している。
そうやって気が緩むことで、必然、仁威は開陽での日々を思い出していった。考えるべきことは多々あるはずなのに、目を背けてここまで来てしまった自覚もある。
心の隙間をついたかのように、露出する珪己の素足にふいに目がいった。川に足を入れている間も、道場でも、珪己は素足を堂々と見せていたというのに、急に存在感が増したかのようだった。
途端に顔が熱くなっていった。
油断している今だからこそ衝撃は強かった。
まるであの古寺の愚かな自分を追体験するかのようだ。
目を背け立ち上がりたかったが、一寸考え、仁威はぐっと堪えた。
(……こうやって逃げている方がよくないかもしれない)
もしもこんな馬鹿げた衝動が原因でまた少女を護れなくなる事態が発生したら、その時こそ本当に終わりだ。武芸者であるなどと口が裂けても言えなくなる。それは道場で晃飛に偉そうに述べたことのとおりだ。つまりは平常心こそが大切なのだ。
幸い、今、珪己との間には距離がある。それに今は明るい時分だし珪己が見せているのは足首の部分だけだ。あの寺での一夜のように、ここは暗くも密室でもない。
だがあの夜、濡れそぼり冷えきった珪己の全身から衣をはぎとり着替えさせたのは――。
季節はずれの火鉢の中で燃える炭、そんなささやかな灯りしかなかったが、仁威は確かに珪己の全裸を見ている。見るしかない、だから見た。見ないで手探りでするよりもよほど事務的だし的確に素早く目的を果たせるからだ。
だが確かに覚えている。
ふいに今の自分こそが愚かに思えた。依怙地にここに座り続けるのは、心を整えるためではなく少女を見ていたいからではないのか。
夏物の薄い衣の奥にはあの時見た裸体が潜んでいるはずなのだ。うっすらとそれを視線でたどれるくらいに衣は薄い。夏の罪深さを感じるほどに。
触れたい、と痛切に思った。
あの寺でのひととき以上に強い欲が芽生えている。この旅の間、仁威は珪己に極力触れないようにしてきた。上司と部下という間柄であったときは気安く頭を叩いたり、汚れた頬を自ら拭ってやったりしていたというのに。嘘を重ねるために平気で口づけまでしたというのに――。
(天真爛漫に笑うあの唇を、今、もう一度奪うことができたなら――)
あまりに長い間緊迫した状況で過ごしてきた反動で、今、仁威の思考はありえないほどに野蛮な色に染まってしまっている。ほんの少し心が緩んだだけで取り返しのつかないほどに。
仁威は体力には自信があった。屯所でいくら打たれても耐えることができたし、食べず眠らずでもどうにか過ごせた。だが心のほうは――この放浪の果てに限界に来ていた。
疲弊した心が求めるものはただ一つ、癒しだろう。
癒しの源は――何なのだろうか。何かは分からないが、仁威にとって、それがあの少女に由来していることは確かだった。
『その愛は、あなた様があなた様自身であるから、だからこそ生まれたものなのですよ。ですからあなた様はその愛に逆らってはなりません。あなた様はその愛を、その愛による力を、望むように用いればよいのです』
あの女僧の言葉がとろとろと仁威の心に沁みていく。甘い蜜は仁威の本能が求めるままに思索を継続していく。愛とは何かいまだに理解できていないというのに、だ。
(今俺が望むものは……)
望むものははっきりとしている。
(ああ、もっとあの女僧に訊いておけばよかった)
抱いた欲はどのように制御すればいいのか。
押さえつけるべきなのか、望むままに行動してよいのか。
両者の違いはどこにあるのか。
ただの欲と愛とは何が違うのか。
(……俺が抱くこの衝動はいったい何なのだろうか)
愛に結びつければきっと楽なのだろう。ずっと自分を恋い慕ってきた李清照のように、愛を理由にして猪突猛進に行動すればいいだけなのだから。だが癒しを生み出すからといって、それすなわち愛とも限らない。
李侑生の顔も思い出される。
(今あの男がここにいれば、きっとあの鋭い切れ長の瞳に見透かされているのだろう……)
お前の女には手を出さない、仁威はそう何度も侑生に言った。
それに安堵した侑生の表情も逐一覚えている。
それを約束したわけではない。ただ自分の意思を伝えただけだ。だが侑生の気持ちは手に取るように理解できた。少なくとも侑生にとっての最大の癒しとは愛であり、それは生の喜びに付随する一つなのだろう。大使館で珪己を発見し抱きしめたときの侑生はまさにそういう感情を爆発させていた。
ああいう顔をする侑生のことを傷つけたくないとは思う。ようやく手に入れた幸福の欠片に歓喜していた侑生のことだ、珪己が行方不明の今、きっと絶望の淵に立たされていることだろう。
だが侑生に対して罪悪感を抱きつつも、やはり仁威の心は正直にその願いを訴え続けている。
(この時が長く続けばいい)
(もっと一緒にいたい)
(触れたい)
(抱きしめたい)
(口づけたい、そして――)
激しく燃え上がる欲情は、まさに灼熱の太陽のようだった。