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4.このままこうしていられたら

 翌日、太陽は東の空から姿を現した瞬間から全力で燃え盛っていた。窓から差し込む陽光の鋭さに、珪己は自然と微睡みの中から目を覚ますことができた。太陽とともに起きるなんて随分久しぶりだ。


 着替えて台所に行くと晃飛はすでにいて、しかも調理のほとんどを終えていた。


「どう? よく眠れた?」

「遅くなってすみません! 明日からはもっと早く起きますね。……あの、隊長のこと呼んできますね」

「ああ大丈夫。呼ばなくていいから」

「でも朝餉が」

「今朝くらいはゆっくり寝てていいからって言ってあるんだ。たぶん仁兄、これまで一日に二刻も寝ていなかったんじゃないかな。帰ってきたのはだいぶ遅かったし」

「あ……」


 珪己はあらためて己の思慮の足りなさを痛感した。しかも、そんな仁威に甘えて三食に湯あみにと贅沢の極みを尽くしていたのは……自分だ。


 二人で向かい合い朝餉を摂りながら、ふと晃飛が尋ねた。


「ところで、その隊長って呼ぶのは本当にやめたほうがいいよ」

「……ですよね」


 また自分の至らなさを指摘され、珪己はしょぼんと肩を落とした。だが晃飛の追及は続く。


「それにさ、君の父親、仁兄にとってはかなり高位の上官なんでしょ? だったら袁殿とか、袁仁威って呼び捨てにするのが自然だったんじゃない?」

「……でも第一隊の隊長にそれはちょっと」

「ふーん。そんなものかなあ。まあでも、ここでは隊長って呼ぶのはやめてよね。いざって時につい出てしまうとよくないから、家の中でも隊長呼ばわりは禁止。分かった?」

「う……分かりました」

「あとさ、できればその敬語もやめてくれない? 兄弟相手に敬語っておかしいから」

「そうなんですか?」

「君の家みたいなところでは家族で敬語を使うかもしれないけどさ、庶民は違うんだよ」


 実は珪己の家は特殊で、家族間で敬語は使っていない。それは父が叩き上げによって出世した異例の官吏であり、母はどこぞの名もない家の娘であったからだ。


 だが上級官吏の娘の常識として、家族とは礼節を重んじることを貴ばれるもの、そう珪己は考えていた。父母は少しぽやんとしている人たちだから自分の家だけが特別なのだろう、そう思い込んでいたのだ。


「兄弟姉妹だけではなくて、その、年長の方相手でも、ですか?」

「まあ普通は使わないね。親でもじっちゃんばあちゃんでも夫婦の間でも、敢えて敬語を使うのなんてよっぽど険悪な者同士ですることだよ」


 ちなみに仁威や晃飛を相手にする時に珪己が敬語を使うのは、二人が年上で、仁威が自身の上司で、晃飛がまだ知り合って間もない人物だからだ。本当の兄妹でもないのに年上の異性相手に敬語を使わないというと、珪己の常識では、親密な関係、最低でも友人関係を築いている必要がある。たとえば同い年ではあるが道場仲間の浩托こうたくのように。だが二人の青年との間にはそんな関係はない。仁威はあくまで敬愛する上司であり、晃飛は……明確な定義すらできない間柄だ。


 でもそんなことを言っていたらよくないことも分かる。


「それは……すみません、少しずつ練習させてください。年上の方に敬語を使わないなんてことなかったから、すぐにはちょっと……」


 苦し気に回答する珪己に晃飛がぷっと笑った。


「分かった分かった。じゃあ敬語は少しずつ直せばいいよ。でも仁兄と俺のことは兄さんって呼ぶこと。いいね」


 ほっとした顔でこくこくとうなずく珪己に、晃飛は他人、しかも異性に対して珍しく親しみを覚えたのであった。一生懸命な人間は嫌いではない。



 *


 

 食事を終え洗い物をすませ、晃飛は珪己にこの家で過ごす間の任務を与えていった。


 まずは庭の畑の手入れだ。まだ日が昇って一刻ほどしかたっていないのに、外はちょっと出ただけで一気に汗が噴き出すほどに暑かった。家を囲む木々からは蝉が騒々しい音を絶え間なく鳴らし共鳴し合っている。まさに夏本番だ。


 晃飛は葉物ばかりが並ぶ一角をまず示した。


「これは青梗菜、これは香芯菜」

「この芽が出たばかりのものは何ですか?」

「それは空心菜。冬に収穫するためのものだよ」


 一つ一つの説明を真面目に聞く珪己に、晃飛はあらためて親しみを覚えた。


 この一角の向こうにはつる科の野菜も並んでいた。添え木にからまり生い茂る葉の間には見慣れた野菜の実がたわわに実っている。


「あっちには茄子に黄瓜もあるんですね!」


 珪己が感嘆の声をあげた。


「ししとうも! どれもつやつやしておいしそうですね」

「食べごろのものをその都度収穫して食べる、それが庶民の食事だよ」


 褒められれば晃飛もまんざらでもない。


 他にも多種多様な作物の説明をし、最後に晃飛は珪己にこれら全てへの朝夕の水かけを命じた。水はこの庭の中、畑のすぐ脇を通る水路の水を利用すればいいとのことだった。


「これさっきからずっと気になってたんですけど、家の中に水路……って、これも普通なんですか?」


 晃飛いわく、ここ湖国にはその名のとおり湖がいたるところにあり、それゆえ大なり小なりの河川も無限に思えるほどにあるのだが、その流れを分岐し自宅に引き込む構造は、こういった都市の一軒家の多くで採用されているらしい。要は生活水だ。前皇帝・ちょう大龍だいりゅうの時代における運河の整備、治水・灌漑事業の発展による技術の進化のおこぼれのようなものなのだが、庶民の生活を直に助けるこの改革は、前皇帝が手がけた業績のうちでも科挙に並ぶほど庶民に歓迎された。


 なお、家から排出された汚水はすべてそれ専用に深く掘られた排水溝へと流れていく仕組みも出来上がっており、衛生的にも優れている。それゆえ病死する者が激減したという。


 外に出たついでに、と、珪己は飲料水である井戸水の汲み方も教わった。これはつるべを何回か曳けば体が覚えた。


「よしっ! こんな感じでいいですか?」


 細腕をまくり力こぶを作りながら水をくみ上げる姿に、晃飛が感心したように言った。


「君、お嬢様のくせに力があるし腰が据わっているね」


 褒められたのか、けなされたのか。


(なんだか晃飛さんって、あの龍崇りゅうすう様にちょっと似てるかも)


 からかったりいじわるなことを言う皇族の青年に――少し似ている。


(お兄さん想いなところも似ているし)


 龍崇の兄の顔を思いだし少し表情を暗くした珪己に、晃飛は思わしげな顔をしたが触れてはこなかった。


 最後に珪己は洗濯の仕方も教わった。これは例の生活用水、畑そばの水路に直接汚れ物を入れ、流れていかないように気をつけながら、手でこすったり裸足で踏むだけの簡単なものだ。この季節は水の冷たさが心地よく、労働というよりもただの川遊びだ。


「晃飛さん、これ気持ちいいですね!」


 太陽の下で笑う珪己の無邪気さに晃飛は目を細めた。


「でもさ……年頃のお嬢様がそんな風に簡単に裾をあげて素足を男に見せてもいいのかなあ」

「え? 何か言いました?」

「ううん、別に。じゃあ俺は道場に行ってくるから後は頼んだよ」

「はい! お仕事頑張ってください!」


(どっちが頑張っているんだよ)


 苦笑しながら晃飛は弟子の待つ道場へと去っていった。


 それから珪己は一人、時間を忘れて洗濯をした。初めてのことは何でも楽しい、そう思える性格なのだ。ただ、珪己のものや晃飛のものはそれほどでもないが、仁威のものは汚れがひどかった。それは仁威が今保有するたった一組の衣だった。


 これ一組だけでこのひと月以上を過ごし、昨日ようやく晃飛に借りた衣に着替えたのだが、よくもまあと感嘆したくなるくらいにそれは汚れていた。なかなかとれない染みに悪戦苦闘したが、それも仁威の状況に目を背けてきた罪滅ぼしと思い、珪己は心を込めて洗った。


 さすがに手足が冷え、水の中にいることが辛くなってきたところで、とうとう珪己は完璧に汚れを落とすことをあきらめた。どう頑張っても落ちない汚れというものがあるのだと、悲しい現実を実感しつつ。


 だが洗ったものを太陽の下に干すと、それだけで爽快な気分になっていった。三人の衣が、布が、わずかばかりの風に、揺れるたびに旗のようにひらめく。今日は天気がいいしよく絞ったからすぐに乾くはずだ。


 庭に面する軒下に座り、心地よい疲労感に包まれながら洗濯物を眺めていると、幸福感すら湧き上がってくる。


「気持ちいいなあ……」


 心地いい風、心地いい空気。

 このままここにずっと住んでいたくなる。

 晃飛には迷惑をかけるが、仁威と晃飛と、ここで三人で兄弟として暮らしていければ、とふと思った。


「仕事をするっていいもんだろ?」


 いつの間にか背後に晃飛がいた。


 晃飛は額から汗を垂らしており、上半身も汗で衣がぐっしょりと濡れていた。弟子への稽古を終えたばかりなのだろう。


「はい!」


 立ち上がり元気に返事をする珪己は素直な妹そのものだ。


「あ、そうだ。これも洗っておいてもらえる?」


 晃飛がするすると衣を脱ぎだした。

 当然、珪己は戸惑う。


「こんなところで脱がないでください! 私、一応年頃の女なんですけど!」

「違う違う。君は年頃の女なんかじゃないしただの妹だ。そうだろ?」


 そう言って、上半身の衣を脱ぐや珪己に放り投げてくる。あわてて受け取ったところで、晃飛が裳(腰に巻いたスカートの意)を固定する腰紐にまで手をかけた。


 珪己の頭に一気に血がのぼった。


「晃飛さんっ!」

「兄さんと呼べって言っただろ。でも君、これくらいで真っ赤になっちゃうなんて、それこそその年頃にしては」


 それ以上は話されることはなかった。

 いつの間に現れたのか、仁威が晃飛の頭をがつんと殴ったからである。


「うわっ! 仁兄、痛い!」

「当然だ。こいつをからかうんじゃない」

「……同じ兄弟のはずなのに、仁兄は妹には優しくて俺には優しくない」


 つんととんがった唇は子供のようだ。

 くすくすと珪己が笑いだし、つられて仁威も笑みを浮かべた。


「よし、そんなお前には今から稽古をつけてやろう」

「ええっ、今から? 俺さっきまで仕事してたんだけど……」

「いいから来い。お前の腕前を見てやる。お前の方こそ相応の男だろうな?」


 それは当然、武芸者として。


 挑発され、晃飛の顔に不敵な笑みが宿った。


「言うねえ。じゃあ俺も仁兄の腕前が禁軍の隊長相応か確かめてやるよ」


 沸き立つ興奮を止めるすべも理由もない。

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