2.初めての料理
仁威が仕事に出かけ、珪己は晃飛とともに初めて台所に立った。夕餉を作るためだ。
実は珪己は台所には今まで一度も入ったことがない。自宅ですらだ。だから一歩足を踏み入れあたりを見渡しただけで唖然としてしまったのは仕方のないことだろう。狭い空間に緻密に配置された調理器具やかまどは、調理に無縁だった珪己には敷居の高さすら感じられた。食材が原型そのままに置いてあるのは市場の一角のようだ。
いつまでも動かない珪己に「これ洗って」と、晃飛が野菜をいくつか入れたたらいを手渡してきた。
「……洗う」
珪己はじっと野菜を見ていたが、やがてはっとした。
(そうだ。ぼうっとしていても何も始まらないんだ)
分からないことがあれば訊くしかない。
「水はどこにありますか?」
「ああ、そうか。そういうところから説明しないといけないんだね」
台所には庭につづく引き戸があり、その手前に大きな甕が置いてある。木蓋を開けると中には鏡面のように光る水が半分ほど湛えられていた。
「この水をこの柄杓で汲んで使ってよ。水が底を尽きたら庭の井戸で汲んできてもらうからね」
「私が?」
「そう、『私』が。井戸の場所はあとで教えるから。頼んだよ」
その調子で、どこで洗うんだ、どうやって洗うんだ、どのくらい洗うんだ、とやっていたら、しまいには晃飛に「今日は何もしなくていいから見て覚えろ!」とキレられた。
さっと葉物を洗って刻み出した晃飛の手元を覗きつつ、珪己は以前からの疑問をつい口に出していた。
「何でこの辺りは料理に葉物ばかり使うんですか?」
宿で出される食事には決まって葉物がついていた。厚手のものから薄手のもの、香りの強いものから歯ごたえのいいものまで、千差万別に。それらが、おひたし、炒めもの、汁物、揚げ物、はては饅頭の餡にまで使われていた。だが姿や味付けが変わっても葉物は葉物であることに変わりなく、開陽にいた頃は好きも嫌いもなかったのに、最近では葉物の料理を見るだけで辟易するほどだった。おいしいことはおいしいのだが、毎食、しかも大量にとなると……。
包丁を持つ晃飛の手が止まった。
顔を上げた晃飛は、珪己を上から下まで眺めた。
「君、本当にお嬢さんなんだね。こりゃあ仁兄は大変だ」
「なんですかそれ」
「何にもできない、何にも知らないってこと」
むかっとしたが、珪己はあらためて晃飛に懇願した。
「晃飛さん、教えてください。私、一生懸命頑張りますから」
「ええー。面倒くさい」
とんとんとん、いい音を鳴らして葉物を刻み出す。
完全に無視だ。
だが珪己はあきらめなかった。
「兄さん、お願いします。兄さんなんだから妹に教えてくれたっていいでしょう?」
それに晃飛が手を止め、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「……君に兄さんって言われるとむずむずする」
「だったら兄弟やめます?」
「何言ってるんだよ。君だって仁兄の助けになりたかった、だから俺に兄弟になろうってもちかけたんだろ? ……まったく、お嬢様ってのはみんな君みたいな子ばかりなのかな。ほんと面倒」
「あんまりお嬢様って言わないでください」
「でも君がお嬢様なのは本当じゃないか。それとも何、珪己とか珪亥って呼んでほしいの?」
それに答えられないでいると、「よし分かった」と晃飛が言った。
「君のことは妹と呼ぶことにしよう。分かったか、妹よ」
落ち着かないが、他に選択肢もなく珪己はそれを了承した。
「ところで妹よ」
「はいはい。なんですか兄さん」
「葉物ばかりというのは、葉物が無料で栄養価が高いからだよ。庶民の日常食さ」
あっと口が開いてしまった。
それを横目で確認し、晃飛は調理する手を休めることなく説明していった。
「どこの家でも季節を問わず何かしらの葉物を庭で育てていてね。大して手間がかからないし成長が早いから育てるのが楽なんだよ。ちなみにこの黄瓜もうちの庭で作ったもので、生でもいいし、軽く塩でもめば漬物にもなる。こっちの南瓜は菜市で買っておいたものだけど、日持ちするからどこの家でもいくつか買い置きしているものだよ。今日はこれで煮物を作るつもり。これはドジョウ。ドジョウって知ってる? この辺りは湖国でも浅い湖が多い土地柄で、ドジョウやウナギはよく獲れるから他の土地に比べて安いんだ」
「普通の……魚は?」
「普通って何のことって聞き返したらいじわる?」
珪己はあわてて首を振った。
「いえ、そんなことはないです」
「ひれがついて鱗があって細長くぬめぬめしていないものを普通の魚っていうんなら、ここでは鮒とか鯉なんかはとれるよ。でも専売者が独占しててちょっと高いんだよね。海の方から運ばれてくるものは塩でしめた干物ばかりだし、それもそれなりに高いし」
湖国は国土の東だけが海に面している。そのため、広大なこの国において、海の幸を日常的に口にすることができるのは沿岸部や流通の良い首都・開陽に住む者くらいだ。つまり、大半の者にとっては年に数回も食べない嗜好品なのである。
だが零央に来て食事ができるようになった珪己に宿の女将が出した食事には、海で獲った魚があった。それを塩辛くて硬くておいしくないと思い――珪己は半分以上を残した。
「肉、は?」
「肉? 鶏肉や豚肉は安いからそれなりに食べるよ。でもまあ屋台で串や肉饅頭を買ってちょこっと食べるとか、そんなもんかな。あ、零央名物、肉麺は知ってる? あれちょっと高いけどおいしいからおすすめだよ。一度は食べてみてよ。羊とかアヒルとかしょっちゅう食べていそうな君の舌に合えばいいんだけどね。あ、ちなみにそういうのは庶民にとっては正月とか祝宴なんかの時だけの御馳走だから」
聞けば聞くほど珪己には思い当たるところがあった。
「お米……は」
「米? 米はもっと北のほうで採れるものだし、開陽なんかは流通がいいから主食だろうけど、ここは小麦を使ったものが主流だよ。麺や饅頭が主食で、麦をたまに雑炊にして食べるくらいだね」
「私……お米の雑炊食べさせてもらっていたんです。この旅を始めた頃、あんまり食事がとれなかった頃……」
「へえ、そりゃあ豪勢だね。それ、麦の雑炊の五倍、麺の十倍の値段はするよ。仁兄は優しいなあ。よっぽど君が大切なお嬢様なんだね」
「だからっ。お嬢様って言わないでください!」
「はいはい。分かった分かった、妹よ」
晃飛は小麦の粉の袋を開けると、目分量で椀で掬い取り大きめの器に入れた。ふわっと白い粒子が舞う。そこに水を入れて混ぜ、やがてこね出した。ぎっぎっと音が鳴るたびに、ばらばらだった粉が弾力のある餅のように変化していく。
「あ、それ屋台で作っているところよく見てました。饅頭を作るんですよね」
「うん、そうだよ。仁兄は帰りが遅いから手軽に食べられるようにね」
出来上がった生地は麺棒で薄く伸ばし、包丁で適当な大きさに切っていく。それを晃飛は手のひらに乗せると、いつの間に作っていたのか、野菜ばかりの餡を掬い取って乗せ、さささっと包んでいった。
その早業を凝視する珪己の顔は晃飛の手に触れんばかりに近い。
「上手……。お店で売れそうなくらいですね」
「こんなのちょっと練習すれば誰でもできるって。あ、でもお嬢様の君には難しいかもしれないけどね」
「晃飛さん!」
「じゃ、試してみなよ」
うながされ、珪己がおそるおそるといった具合でまな板の上の皮を一枚とった。だがあまりに慎重になりすぎて、つまんだ部分の皮がもろくもちぎれた。
「ああっ!」
「あーあ」
「すみませんっ」
「まあいいよ。少しくらい破れても大丈夫。家庭料理にそんな完璧な物なんて誰も求めないから」
「……そうなんですか?」
「そうだよ。お嬢様の家では別だけどね。あれは仕事で、こっちはただの家事だから。ほら、さっさと持ちなよ」
空いた手で晃飛が新しい皮を珪己の手に乗せた。
おたおたとしているうちに餡も乗せていく。
「それでこうして巾着の袋みたいに端を上に集めていって」
「こ、こうですか」
「うんそう。そんな感じ。餡がきちんと包まれてさえいれば大丈夫だから、自信持ってやってみなよ」
「は、はい」
「いくらいい家の子供でも、母親と一緒に饅頭くらい作るものじゃないの?」
束の間、珪己の指の動きが止まった。
「……母は料理ができない人でしたから」
「へえ。そんな親じゃしょうがないか」
「しょうがないなんてこと……ないです。母は母ですから」
「あれ? ごめん、怒った?」
「いいえ、大丈夫です」
だがその後も珪己の表情は固かった。
失言した、と晃飛は気づいたが、もうどうしようもない。本当はこの流れで仁威や少女自身について根掘り葉掘り尋ねようと思っていたが、今日はもう無理そうだ。
二人は黙って饅頭を包み、蒸し器に入れ、完成後は差しさわりのない会話をして共に食事をし、それぞれの室へと戻っていった。