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6.再会

 稽古場の戸を開けると、中は蒸し暑いほどにこもっていた。


 三十名近い武官が集まっているが、誰も晃飛の登場に振りむきもしない。今も中央で繰り広げられている残虐な行為に酔いしれているかのようだ。


 自分と同い年くらいの男が体を丸めてなんとか立っているという有様なところに、男よりも随分と若い、少年といっていいくらいの武官がこれでもかと木刀で殴りかかっている。少年はたぶん本気でやってはいない。本気でやれば木刀でも人を殺すことはできる。だがしない。いや、できないのか。業はもとより人を殺すだけの度胸はなさそうだ。


 体を丸めているせいでやられている男の顔は見えないが、他の者、すべての武官はこの余興に興奮しているようだった。少女の言うとおり、こうやって長くじわじわと嬲ることで、この男一人を存分に楽しみ尽くそうとでもいうかのように。


(……なんて醜い)


 吐き気がした。


 目視することで、この屯所の腐り具合を晃飛はあらためて実感した。獣でもこんなことはしない。木刀の音が好きだといっても、一般人の、しかも少女を十番隊に近づけてしまった自分にもよくないところがあったとあらためて反省する。


 とはいえ縁もゆかりもない男のために自らを危険にさらす理由にはならない。


(さて……どうやってあれを止めるか)


 晃飛にしてもここに出稼ぎに来ているだけの身分で、この隊の『自称稽古』を止める権利も算段も実はなかった。


 申し訳ないがまずは様子見してあらためて対策を考えるか、と、戸を閉め、中に入り壁に背をもたれかける。


 今日もいい天気だ。まだ室内に入ってわずかな時間しかたっていないのに、無性に外の空気が恋しくなる。こんな日は太陽の下で体を動かして、健全な武官となるべく魂を浄化すべきだろう。なのにこの隊の男共は狭い世界に引きこもることを選び、弱い奴をいたぶる快楽に溺れることを選んでいる。すべては自身の選択の結果だ。堕落した武芸者ほど醜いものはない。いや、この男共は武芸者ではない。武官であっても武芸者ではない。


 憂鬱な気分で注目される立会いにあらためて目をやっていると、木刀の嵐の止んだところで、少女の兄だという男がようやく顔をあげた。


 その顔を認めた瞬間、晃飛はもたれたばかりの壁からとっさに体を起こしていた。


「……じんにい?」


 あそこにいるのは呉隼平などという名の男ではない。


(俺の――仁兄だ)


 気づいた瞬間、晃飛は動いていた。


 壁にかけられていた木刀を一本持つや、駆け足で立会いの場に飛び込む。

 少年武官が振り上げた木刀を降ろす寸前、晃飛は自身の握る木刀で振り抜くように払い、仁威と少年との間に立ち塞がった。


 それは一瞬のことだった。


 少年の木刀は持ち主の手を離れて吹き飛んだ。握りが甘かったのだろう、正しく強く握りしめた晃飛の木刀に打ち負けたのだ。


 強力でもって引いた弓矢のように、それは壁際に座る武官の集団に向かって真っすぐに飛んでいった。あわやというところで皆が避けた部分に落下する。木刀は衝撃音と共に思いのほか簡単に折れた。分裂したそれぞれはさすがに避けきれず、傍にいた男たちの体を容赦なく打った。


「いってえ!」

「なんだよ、りょう先生じゃないか」


 場の雰囲気ががらりと変わった。


 少し前まで、ここは闘技場か酒を飲む店のような、気安くも熱い空気に満ちていた。だが晃飛が乱入したことで、夏が秋を飛び越え冬に転じたかのように、一気に冷え冷えとした雰囲気に変貌した。


「……おい、先生よ」


 悠然と立ち上がったのはこの場をまとめる隊長、もうだ。


「先生はあっちの庭で素人を相手にしていてくれりゃあいいんだ。ここは俺ら『本物』のための神聖な稽古場なんだからよお」


 普段の晃飛であれば毛に従う。

 言い分が正しいかどうかはともかく。

 それ以前にこのような状況にならないように振る舞う。


 だが晃飛は迷うことなく手に持つ木刀を毛に向かって突きつけた。


「いいえ、退きません」

「……なんだってえ?」


 十分すぎるほどに凄味の効いた言葉、その言葉通りの毛のブチ切れた形相。

 先ほどまで仁威を痛めつけていた少年が「ひいいっ」と息を飲み、毛とは真逆の壁へと後退していった。


 だが晃飛は逆に腰を落とし、木刀を両手で構え、正確に闘うための構えをとった。


「この人は俺の恩人なんです。だから退きませんよ」


 場が一層ざわついた。だが「梁先生の恩人さんだってよ」「まずかったか」などと言いながらも、誰もがちょっとした失敗だと言わんばかりににやついている。隊長である毛がそういう態度をとったからだ。


「ああ先生、それはすまないことをした。だがそいつは俺たち第十隊の所属なんだ。俺たちは俺たちのやり方でやる。それがここの屯所の伝統ってやつでね」


 言いながら脇に置く木刀を手に持つ。


「だから先生には退いてもらわなくちゃならない」


 立ち上がった毛が木刀の先を晃飛に向けた。


「どうしてもって言うんなら、力づくでやってみるんだな。ただし、俺に勝てたらの話だ」


 どおっと歓声があがった。


 毛の部下は誰もがこの上司の勝利を信じているようであった。先ほどの少年ですら、戦々恐々としながらも必死の面持ちで手を叩いてこの場を盛り上げようとしている。誰かが口笛を吹き、誰かが雄たけびをあげる。そうやってこの余興の終焉を最高のものにしようとしている。


 耳が痛くなるほど騒がしい中、晃飛の耳は仁威のつぶやきをとらえた。


「お前……梁晃飛か?」


 名を呼ばれ、晃飛はそれだけで最大限の活力を得た。

 それほどまでに晃飛にとっての仁威とは大切な男だった。


 晃飛と仁威は少年時代を同じ土地、同じ道場で過ごした仲間だ。いや、仲間などと対等な関係を晃飛が主張することはない。晃飛は仁威に心酔していた。武芸の腕だけではなくその言葉、そのふるまい、何もかもすべてに――。


 仁威は近衛軍の第一隊隊長として宮城で活躍しているはずだった。なのに名を違えこんなところであんなふざけた奴らに屈辱を与えられて……。


「そうだよ仁兄。いや、今は隼兄と呼んだほうがいいのかな」


 背後で仁威がわずかに動揺した気配がし、晃飛の顔が自然と綻んだ。


(だが――こんな茶番は終わりだ)


 晃飛は周囲に負けまいと腹の底から声を張り上げた。


「毛隊長! 武官に二言はないですね!」


 武芸者に、とは言わない。


「ああ。二言はない」

「ではよろしくお願いします」


 言い、礼を取った瞬間、毛が憤然と間合いを詰めてきた。


(どこまでも卑怯な奴だ!)


 だが毛の表情は緩みきっている。

 己が勝利を過信している。

 それも当然、晃飛は武芸経験のない入隊者を鍛える役目を負う存在で、毛はこの屯所で三本の指に入る剛の者だからだ。


 それに晃飛は冷静に、より深く腰を沈め――。

 大きく頭上から剣を打ち下ろしてくる毛の胴に木刀を水平に突き刺した。


 それは見事な早業だった。


 骨と臓物の隙間を一寸違わず狙ったその攻撃は、痛みと衝撃だけで毛の尻を床につけさせ、また、毛の戦意を一瞬にして消滅させた。


 それほどまでにこの素人担当の晃飛と第十隊隊長の毛との実力差は明らかだった。


 数拍置いて、毛は白目を向いて背中から大の字にどっと倒れた。


「隊長っ!」


 室内をぐるりと取り囲んでいたすべての部下が、一斉に毛に駆け寄っていく。それを尻目に、晃飛が仁威に振り向き手を差し伸べると、仁威はその手を取ることなく立ち上がった。あれほど木刀で叩きのめされていたというのにまるで堪えていないかのように。


 だがそこには虚勢が見えた。どれだけ注意深く打撃をそらしても、肉体を鍛えていようとも、あれだけの攻撃を受ければ痛いに決まっている。


「仁兄、相変わらずだね」


 苦笑した晃飛をちらりと見ると、仁威は晃飛の前を通り過ぎ、堂々とした足取りで毛の元へと近づいていった。


「おいおい、じ、いや兄貴、どうしたんだよ」


 だがかまうことなく仁威は毛と、そして毛を囲む男たちに対して手を出した。


「今日までお世話になりました。最後に今日の分の禄を、ください」

「はあっ?」


 反論しようとした男達は仁威の背後に立つ晃飛に睨まれ――結局は仁威の望みどおりの日当を渡してこの男の急な退職願いを受理したのであった。


 去り際、晃飛が彼らに向かって「じゃ、また来ますね?」と言って見せた仄暗い笑顔に、この男と闘わなくて済んだ己が幸運を誰もがひっそりと噛み締めた。

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