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1.雨の下で

【これまでのストーリーを思い出したい方のための簡単な説明です】

古代中国をモチーフにした湖国の首都・開陽において、軍政を司る枢密院の長官を父に持ち、開陽で唯一女の身で武芸に通じる少女・楊珪己がいる。

珪己は八年前に母や家人の命を救えなかった悔恨を抱えつつも、二人の青年(李侑生と袁仁威)や皇族との交流を通して自分自身を見つめなおしていた。

だがある日、隣国の王子の異常な執着を受け、その結果、珪己は数奇な運命の下に皇帝・趙英龍に抱かれる。しかもその翌日、武芸の師匠である鄭古亥と共に王子の部下を殺害するまでに至る。開陽にいる危険性を感じた仁威の手に引かれ、珪己は気づけば開陽を出ていた。

それが二人の長い旅の始まりだった……

 見るからに重そうな曇天は、随分長く空を支配している。


 ぽつぽつと降る雨は細糸の断片のようだ。木々に、地面に、雨の滴は衝突するたび閃光のように跳ねあがる。だが雨音は、ぴちょんぴちょんと、鈴の音に似て可愛いらしい。だからだろうか、雑多なようでいてすべての雨音の調和は保たれている。人間の手ではけっして奏でることのできない美しい旋律が、聴く者の耳を優しく癒す。


 雨は泥水のような川にも平等に降り注いでいる。東から西へと真っ直ぐに線を引いたかのような川だ。流れは緩やかだが底は目視できないほどに深い。雨季による濁りだけが原因ではなく、実際、大人が入って顔を出せないほどの深度がある。対岸がよく見えないのも煙る雨によるものだけではない。このような川はこの国、湖国ここくには至るところにある。


 湖国には千の湖があるという。

 その湖を繋ぐ川も無数にある。


 そのため、旅行や運搬の足として、湖国では船舶がもっとも利用されている。この程度の雨量ならばたいていの船は通常どおり運行される。すぐそこの船着き場にも旅客専用の中型船が停泊している。この界隈には船客を狙った食堂があり、つい先ほど、乗客らはこぞってそちらへと向かっていった。


 だが二人、異なる行動をとっている者がいる。食堂へは行かず、川岸に並ぶ木の下に身をひそめている。雨を避けるためにそこにいるのだろうが、厚手の葉の隙間を縫うように、ごく細い雨が二人の頭上にさらさらと降りかかっている。雨宿りとしての意味はあまりないようだ。葉から伝い落ちた滴もまた、無遠慮に二人の衣にしみを作っていく。


 二人の関係性はぱっと見では分からない。


 一人は二十代半ばと思われる青年だ。背が高く屈強な体つきは肉体労働に従事する者であることを露見している。見る者が見れば、その一挙一動が武芸に通じる者のものだと分かる。統合すれば、青年は武官もしくは道場で剣を教える者といった、武芸によって生業を立てている人物だと推測できる。野生の獣に似た雰囲気は、青年の整った顔に別次元の彩りを添えていた。


 もう一人は十代半ばと思える少女だ。だがその表情はより幼くもより大人びたものにも見える。化粧気のない顔には感情は見当たらない。うつろな様子はこの突然の旅のはじまり――開陽かいようを出立して以来、ずっとだ。額にかかるほつれた髪が少女の陰鬱とした雰囲気を助長していた。


「ほら食え」


 そう言って青年――えん仁威じんいが差し出したものは、元々は少女――よう珪己けいきの所有物である。少女が自宅から持ち出した弁当だ。一昨日の昼前に家人に作ってもらった三段重ねの中身は当然のことながらすっかり冷めてしまっている。肉の上には白く凝り固まった脂が付着しているし、甘辛く煮付けた野菜はしなびている。饅頭の皮など見るからに固そうだ。


 珪己は黙したまま雨に煙る風景をぼんやりと眺めている。


 仁威はしつこく珪己に弁当を押しやった。


「食え。体が持たないぞ。お前は一昨日から一口も食べていないだろう」


 それでも箸を取ろうとしない珪己に、仁威が不機嫌をあらわにした。


「いつまでそうやって殻に閉じこもっているつもりだ」


 その声も表情もひどく嫌そうで、珪己はかっとなった。


「私は私のしたいようにします。ほっといてください!」


 ここまできちんと仁威――武官としての己の上司――に反抗的な態度をとったことはない。部下にそうさせる必要のない上司であったし、この強面かつ腕の立つ上司に面と向かって声を荒げることのできる者などいはしない。


 憤る珪己に、仁威は何を思ったのか。

 だが珪己には相手の心を読むことはできなかった。


 仁威はただその眉を小さくひそめただけだった。


「お前が食わないのであればこれはここで捨てるぞ」


 その一方的な物言いに一層いら立ちを見せた珪己に、仁威はさらに言葉を重ねた。


「これは荷物になるし、器は見るからに上等で俺たちが持って移動するにはよくない。身元が割れるような物はここいらで捨てる必要がある」


 言われれば言われるほど、珪己の胸にはこみあげてくるものがあった。


「いつまたこの味を味わえるか分からないぞ。食べるなら今のうちだ。そしてその味を覚えておくことだ。……次に開陽に戻れる時まで」


 とうとう珪己はその場に座り込み、膝を抱え顔を伏せた。

 その様子には悲しみと怒りが混在している。


 ぎゅっと自分の衣を握る珪己の手に、仁威はつい己の手を重ねようとし……拳を作って身を引いた。



 *



 開陽を出てから、二人はいくつもの馬車や船に乗り換え、少しずつ内陸側――西へと進んでいった。


 その間、二人は終始無言だった。珪己は膝を抱えて顔を伏せ、寝ているのかいないのか分からなかった。かたや隣に座る仁威は、常にその顔をしっかりと上げていた。だがその視線は周囲を隙なく警戒するものだった。


 そうやって二人だけの放浪の旅がはじまり、今日は三日目だった。


 この日、夕暮れ前に、船は五百人にも満たない民が暮らす小さな村に停泊した。さらに向こうへと続く街道の中継地であるこの村は、宿場をひらくことで一定の収入を得ている。同じ船に乗り合っていた人々は、昼同様、二人にかまうことなく我先にと船から降り、外に出るや大きく伸びをした。そして自分たちの懐具合とつり合いのとれる宿場へと散っていった。


 仁威と珪己は、そのうちの中の下とたとえるにふさわしい宿へと入った。毎晩のことだ。だが中の下と言っても、上級官吏の娘である珪己にとっては下の下にしか思えなかった。部屋は狭く、寝台は固く、ほつれのある掛布や敷布はなぜか湿っている。初日、幾多の虫がぶんぶんと室内を飛びかう様が、珪己には奇怪な光景にすら思えた。ここは本当に人が宿泊するための場所なのか、と。


 だがそのような夜も三日目ともなると、もうどうでもよくなってくる。


 珪己は二つある寝台の一方に腰掛け、屋台で購入した餅や肉の刺さった串を仁威が並べるのをぼんやりと眺めていた。これまでの食事はすべて、楊家ようけでこしらえてもらった弁当を少しずつ減らすだけですませていたから、うっすらと湯気のあがるそれらは久しぶりの温かな食事だった。珪己が食事を口にしたのは今日の昼になってようやくだが、体の大きな仁威など当然足りる量ではない。だがそうやって少しでも出費を抑えようとする仁威の考えは、珪己にはいささかも伝わっていない。


 二人は着の身着のままで開陽を出てきてしまった。どうしようもない事態であったとはいえ、何の準備もなく開陽の街を出てきてしまったのである。運よくというか、珪己は寺に戻ることを前提とした荷物を持っていた。数枚の衣服。武芸の師匠であるてい古亥こがいを見舞うための大きな弁当。いくばくかの金子――これにはまだ手をつけていない。そして、琵琶。


 琵琶――。


 そう、琵琶を宮城の宴で弾いた自分が遠い昔のことのように珪己には思えてしまう。


 今もこうして手放すことなく持ち歩いているというのに、琵琶を通して思い出すすべては虚無か、はたまた泡沫のようだ。


 宮城で、珪己は何刻もの長い間、一心不乱に琵琶を奏でた。

 だがそれからまだ一週間ほどしかたっていない。


 それは開陽一、いや湖国一華やかな宴だった。踊り手たちはひらひらと裾を揺らめかせて踊っていた。歌い手たちはのびやかで艶のある美声を響かせていた。紫袍や緋袍を着た官吏で大広間が埋め尽くされ、ざわめきはとどまることを知らなかった。奥の方、ひと際目立つ場所に座っていたのは至高の存在、皇族の面々だった――。


 ふと一人の青年の顔が思い出され、衣を握る珪己の拳の上に血管が浮き出た。力が込められた少女の拳を、仁威は並べた串を手に取ることもなく観察している。


 仁威には珪己の心の内のすべては分かっていない。


 珪己は自分を執拗に狙う芯国しんこくの王子・イムルの部下を理由あって殺した。初めての殺人に茫然自失となっていたところを、仁威が問答無用で開陽の外へと連れ出したのだ。


 あのまま開陽にいることは危険だった。

 仁威は今もそう思っている。

 自分のとった行動は正しい。


 鄭古亥――元近衛軍将軍であり珪己の武芸の師匠――は珪己を護るために芯国人殺害の罪をかぶり自ら禁兵に捕まった。今頃はもう刑が確定し、どこか然るべき場所へと移送されている最中だろう。


 だがこうして心を閉ざし続ける部下を見ていると、仁威の中にまた迷いが生じる。


 その迷いはこの少女と古寺内の一室で過ごした際にも生じたものだ。


 正しいと思うことを選択し続けることが最善なのか。

 正しさだけでは計れないことがあるのではないか。


 では正しさとは一体何なのだろうか。

 何が何よりも価値があり、または劣るというのだろうか。


 選択とは、一体どういうことを基準にして成すべきことなのか。


(これまでの俺の選択は間違っていないだろうか……?)


 昼、珪己は残っていた弁当を一人できれいにたいらげた。元々少量しか残っておらず、久しぶりの固形物に珪己はやや苦し気に顔を歪めていた。だが完食した。


 珪己は無言で寝台に座っていたが、やがて気力が尽きたかのようにふらりと横に倒れ眠りについた。重い腹と旅の疲れが睡魔に過大な力を与えたのだろう。仁威は珪己を起こさないよう、珪己の体の下に敷かれた掛布を引き抜いてその眠れる小さな体に掛けた。


 そして今、仁威は串のものをゆっくりと噛み締めつつ、こちらを向いて眠る珪己を眺めている。


 薄い掛布は正確に少女の体の曲線を伝えてくる。盛り上がる臀部、くびれる腰部、そこから先に浮きあがる肩。


 足は見ないようにしている。


 眠りにつく者特有の深く長い呼吸によって体が動く様を、仁威はじっと見つめ続けている。

お待たせしました。

放浪篇をお読みになってくださる方にはおそらく人物紹介等は不要と考え、本作品からは冒頭に投入していません。また、特異な名称へのふりがなも作品中初回のみとしていますのでご了承ください。

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