8・動物園へ行こう I
薄紅色の花びらもいつの間にかどこかへと消え去り、葉桜が日常をゆるやかに引き戻していく。
ぺちん。陽太の手のひらが、いかに夕介の顔にもみじを作ろうとも、頑なに目を閉ざし続けた。
休日は遅起きしてよいのだと、なぜ保育園は教えないのだろうか。
保育園へ責任転嫁していると、
「陽太くん。パパは疲れてるから、寝かしておいてあげよう?」
ひなたが優しく諭して叩くのを止めさせ、夕介の中の彼女の株が上昇した。
夕介が眠っていると思っているからか、彼女は普段よりかはいくぶん饒舌だ。
陽太はひなたがすっかりと元気なおかげで、事故のことへの恐怖心が少しずつ薄れていっているようで、安心している。
だが、自転車には未だに触れようともしなかった。
それはもう少し時間がかかるのかもしれない。
寝たふりのまま布団に引き込もっていると、カーテンが勢いをつけて開け放たれる音がした。陽太が力任せに開けたのだろう。
そして二人してベランダへと出ていく気配がした。
夕介はちらっと覗くと、何が楽しいのか二人並んで道路を行き交う人を見下ろしながら話し出した。
「あ、わんちゃんだ!」
「うん、可愛いね」
「あれ、おなまえは?」
「あれは、ウエスティ。ウエストハイランドホワイトテリア」
わかるか、と夕介は布団の中から声を出さずに突っ込みを入れた。
白であることしかわからず、自らの創造力の貧困さにうめく。
陽太は聞いたはいいが覚える気はさらさらないらしく、可愛いを連呼して最終的には欲しいなどと恐ろしいことをもらしていた。
「ペット禁止じゃないかな、このアパート」
ハムスターくらいならよかったはずだったが、もう全般的に禁止にしてくれていた方が陽太の諦めもついてよかったのだが。
「じゃあ、どうぶつえんに、いきたいなぁ」
プレッシャーをかけられ、石像のごとく息を潜める夕介は硬直した。
「陽太くんは動物園で、何が見たいの? ライオンさん? キリンさん?」
「うーんと、かぴば……あるぱか!」
おい、カピバラはどこにいったんだ、と盛大に噴き出してしまい、二人同時に夕介を振り返った。
陽太がしめたとばかりに照準を定めて駆け寄ってくる。
「どうぶつえん、いこう? かぴ……あるぱか見よう?」
パジャマを掴まれ、右へ左へ揺すられる。
夕介は起き上がり、あぐらをかくと、神妙な顔で陽太へと告げた。
「動物は、人間に見られたいとは思っていないから、そっとしておいてやろう」
陽太は揺さぶりを止めると、真顔のままひなたの元へと駆けて確かめに行った。
「ほんとう?」
根回しもなく、そもそも夕介にひなたを懐柔できるはずもなく、
「動物はきっと見られて嫌とか恥ずかしいとか思っていないと思う。嫌だと思うのは、人間だからだよ」
さっき上がった株が急激に下落した。
「だってー」
陽太が我が意を得たりとばかりににんまりとする。
これではひなたが正しくて自分が間違っているようではないかと、夕介は反論をした。
「動物だって見られて恥ずかしいやつもいるはずだ。芸をさせて見せびらかしたり、あれは動物虐待だろう」
「あれは彼らの立派な仕事だと思います」
めずらしくひなたがむきになった。
そして同じくらい、夕介もむきになっていたのだ。
「動物に仕事なんてわかるか。餌はもらえて当然のものだろう。飼育する側の、義務だ。言葉も通じない相手に労働を強いることが正しいのか?」
「そうは言ってません。飼育員さんとの信頼関係があるからです」
「そう思っているのは人間側だけかもしれないだろう」
「動物とだって心を通わせることはできます。信頼を築けているかどうかくらい、わかると思います」
「だいたい檻の中に動物を閉じ込めて見世物にすることが間違ってる。野生に返してやるべきだ」
「動物園で生まれた動物は、野生に返されても生きていけません」
「もう二人ともケンカしないで! どうぶつえんに行けば、わかるでしょ!」
よくわからない理屈ではあったが、その剣幕に夕介は頷かされてしまった。
ひなたはだんまりを決め込んで、ベランダで膝を抱えている。
拗ねたのか落ち込んだのか判断は難しいが、
「……弁当が、ないとな……」
待つこと一分弱。ひなたがおもむろに立ち上がると、キッチンへと歩いていった。
そして夕介は弁当になにか仕返しをされないかを危惧し、そっと後に続いたのだった。
春の麗らかな陽気のせいだろうか。休日に動物を愛でようという人は芋を洗うほど存在した。
ゾウに群がりライオンに群がり……。
もはやどちらが動物なのかわからないほど混沌としていて、ひなたとのあの不毛なやり取りが虚しく思えるほどだった。
陽太があれほど会いたがっていたアルパカは、若い女子の集団や子供たちにニンジンを与えられて、よだれを散らして嬉々としている。
「陽太、走るなよ」
初対面のアルパカを前に、見尽くした父親の言うことなど耳に入らないのか、陽太は一直線に駆けていった。
そんな陽太と似た表情でアルパカを熱心に見つめるひなたは、夕介の隣で微動だにせず突っ立っている。
あれから一切の会話もない彼女と二人残されても気まずいが、ひなたは夕介がそばにいることにさえ気づいていない可能性が大だ。しかもぼんやりとしているせいで、アルパカへ向かう子供たちに突き飛ばされてよろめいている。
夕介はとっさにその腕を掴んで、彼女の傾いだ身体がバランスを取り直すと、ぱっと放した。
「……すみません、ありがとうございます」
ちらっと微笑んだものの、だからと言って何か話が弾むわけでもなく、夕介はひたすら陽太に早く戻って来てくれと念じた。
「――パパ! ひぃちゃん! さわってきた!」
思いが通じたのか、陽太が手のひらをパーにして走ってきた。
手のひらを見ただけではアルパカのもこもこ感が伝わってこないが、とりあえず、よかったな、と言っておいた。
「うん! あるぱかみてたら、おなかすいた」
「そうか。じゃあ……」
弁当の食べられそうな場所を探すために動き出すと、ひなたが慌てて遮った。
「まずはどこかで手を洗った方がいいです」
確かに陽太はよだれをつけたアルパカを触っている。それに食事前にはきちんと手洗うべきだ。
夕介はちょうど近くにあったトイレまで陽太を連れていき、手を石鹸で丁寧に洗わせた。
「おべんとう、なにかな?」
「おにぎりとかだろ」
「うめぼしはすっぱいけど、がまんする」
えらいぞと褒めつつ、陽太を抱っこして自動乾燥機に滴のついた手のひらを突っ込ませた。
ゴーッ、という強風に、なぜか陽太はけたけた笑う。
大人にはわからない子供の感受性に苦笑して、二人でひなたを探した。
別れた場所にいないのでトイレだろうかと思っていると、遠くでなにかをじっと凝視している彼女を発見した。
陽太を抱っこしたまま近づくと、自動販売機の前で立ち尽くしていることがわかった。
そういえば水筒を持ってきていなかった。
飲み物を買おうとして、お金がないことに思い当たったのだろうか。
夕介はそっと背後からひなたの視線を追うと、彼女はまっすぐにオレンジ味の炭酸飲料を見つめていた。
無視するのもあれなので、割り込んでそのジュースを購入し、ひなたへと手渡した。
「え……」
「陽太は何にする?」
「ひぃちゃんといっしょの!」
弁当を食べながらよく炭酸なんか飲めるなと思いながら、夕介は陽太にも同じものを買った。
「あの……ありがとうございます」
ジュースくらいで、と思いながら、気まずい気持ちを隠して軽く頷き、夕介は自分にはペットボトルのお茶を買った。