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7・偽りの家族生活 II



 下世話な岡の質問責めををそれとなく躱し続けて一日を終えたのに、最後の最後で捕まってしまった。

 逃亡者には向いていないことを実感しつつ、夕介は彼を隣に駅へと歩き出した。


「それでどうなんです、彼女」


「……味噌汁に、玉ねぎを入れた」


「はぁ?」


 すっとんきょうな声を上げた岡を、ちょうどすれ違った通行人が怪訝そうに一瞥した。

 本人は気にせず、真面目な顔を作って先を促す。


「で?」


「なくはなかった」


「味噌汁の感想なんて求めてませんよ。玉ねぎよりももっと重要なことがあるでしょう。服のこととか、バレませんでしたか?」


「サイズもぴったりだったし似合ってたから、気づいてないとは思う。お前の元カノのセンスがよかったことだけは評価できる」


「あーそーですか」


 岡は拗ねた顔で投げやりな返事をした。

 その彼女にはどうせ浮気がバレて振られたのだろう。

 駅は帰宅ラッシュの混雑で、押しつ押されつ電車の奥へと進んでいく。

 また今日も千香に叱られるのかと思うと、夕介の中でさらに憂鬱さが増した。

 快速に乗れたので圧死寸前の苦行時間は普通より短いにしても、ホームへと降り立ったときにもうくたくただった。


「また誰かに足踏まれました」


 岡は一足送れて降りてくると不満げ呟く。

 きっと別れた彼女の父親でも同じ車両に乗っていたのだろう。

 その確率がどれほどのものかは、無関係な夕介には知り得ないが。


「聞いてますか? ……まぁ、いいですけど。何か進展があったら教えてくださいよ」


「進展? ……記憶が戻ったとかか?」


「それもそうですけど、色々と」


 岡の言う色々が、下種の勘繰りである以上、夕介は無視を決め込んだ。そして改札を抜けて、西口と東口に別れるところで、年長者として一言だけ告げておいた。


「じゃあな。後ろから女に刺されないように気をつけて帰れよ」


「嫌だなぁ……、脅かさないでくださいよ」


 身に覚えがあるのか、岡は肩を竦めて背後をちらちらと窺う。

 一度ひどい目に遭えば、懲りて女遊びも控えめになるはずだ。

 多少脅しても反省することのない岡と別れて、夕介は小走りで陽太の待つ保育園へと駆けた。

 徒歩五分のところを走って三分に縮めたぐらいでどうにかなる問題ではないが、誠意くらいは表せる。

 父親が必死に走ってくる姿が見えたのか、明るい室内から陽太が両手を広げて飛び出して来た。

 そうして親子の感動の再会を演出していると、千香が鬼監督ばりに腰に手を当て、無言のプレッシャーをかけてきた。


「……いつも、すみません」


「い・い・え」


 いつも基本的に夕介に対して刺々しい千香だが、今日は富に機嫌が悪い。

 冷や汗をかきながら、間違っても余計なことを口にしないよう努めて尋ねた。


「陽太が、何か……?」


「陽太くんは今日は元気にお友達と遊んでいましたよ。何でも、夕飯がロコモコだそうで?とーっても楽しみにしていました」


 笑顔できつい口調の千香の態度に、夕介はこの時点でひなたの存在が知られていることを悟った。

 思えば陽太に口止めするのを忘れていた。そうでなくても、子供に内緒にしておけというのが無理な話だ。

 再婚したなどと言えば面倒なことになりかねない。しかし家に若い女性を置いていることへの弁解は必要だ。


「実は、昨日から親戚を預かることになって」


「は?」


 彼女がぽかんとしている内に、畳みかける。


「遠い親戚で、身内が他にいなくて仕方なく、家事をしてもらう代わりに家に置いていて」


 我ながら嘘を嘘で塗り固めてがんじがらめになっていると夕介は内心呆れていたが、真実を語るのはやはり躊躇われたのだ。

 信じているかはどうかは別として、かなり訝しみながらも、千香は保育士として言った。


「……そういう話なら、初めからおっしゃっていただかないと。ご家庭の問題もこちらとしては把握しておかなければいけないんです」


「ええ、それは、……はい」


「パーパー? まだー?」


 陽太がごねだしたので、夕介はよくやったと胸の内で褒めた。ロコモコの威力は偉大だ。


「それでは失礼します」


 軽く頭を下げると、追求の視線を振り切り、夕介は陽太を抱えて脱兎のごとく逃げ出した。

 保育園にもバレてしまったので、開き直って陽太の送り迎えをひなたに頼むことも可能になったが――、


「母親として行かれても、困るよな」


「ママ?」


「いや、何でもない」


 陽太は雪乃のことをほとんど覚えていない。だからママと言って連想するのは、テレビや本で描かれるような、漠然とした母親像だろう。

 雪乃がママであることは、わかってはいるだろうが。


「……だいきがね」


「うん?岡?」


「ひぃちゃんのことは、ママって呼ぶんだぞって」


 余計なことを、と夕介は眉を寄せた。


「でもひぃちゃんは、ママってよばなくてもいいよって」


「……それで?」


 帽子がずれてしまっていたので、さりげなく直して続きを促した。


「すきによんでいいって。だからひぃちゃんになった」


「ふぅん」


 ママと呼ばれることに抵抗があるのだろう。

 当然なのだが、母親としての自覚がない方が都合がいい。


「陽太、帰りの迎えひなたでもいいか?」


「いいよ? パパ、おこられるから?」


「……そうだな」


「ひぃちゃん、ほいくえんわかるかなぁ」


 幼児に心配されるのは、ひなたがさすがに気の毒だ。


「朝一緒に行って、まず場所を教えるか」


「チカせんせいとなかよくできるかな?」


 夕介はなんとなく、言葉につまった。






 陽太はロコモコをいたく気に入ったらしく、寝言でもこもこと口を動かすのでつい噴き出した。

 はみ出していた腕を布団の中へと入れてやり、夕介はその向こうにある空の布団を眺め、ひなたが風呂から上がるのを待った。

 保育園の送り迎えについての話をするつもりなのだが、変な誤解を招きそうなので、とりあえず寝たふりをして待機する。

 うとうとしかけたところでひなたは出てきたのだが、現在戸倉家のドライアーが御機嫌斜めなせいで、その髪が生乾きだ。そして情けない顔で、タオルをとんとん当てて水気を拭いながら、なぜかベランダへと出ようとする。


「風邪引くから、やめとけ」


 寝ていると思っていたのか、ひなたは驚いて声を上げかけたが、寸前でぐっすり眠る陽太に気づいて口を両手で押さえた。

 どうにも間抜けなその姿に夕介は笑うのをこらえ、


「ドライヤー、買うから」


 だが彼女はゆるゆると首を振った。

 いらないと言うのなら、その意思を尊重しよう。

 ついでにとばかりに、夕介は本来の目的である用件をさらっと済ませることにした。


「明日から陽太の迎えを頼んでもいいか?」


 ひなたは特に嫌そうな顔もせず一つ頷いて、布団の中へと足を突っ込み膝を抱えた。

 固い殻でも纏ったかのようだ。

 誰も押し倒したりしないぞ。と夕介は心の中でだけ毒づき、

 

「保育園には、親戚ってことになってるから。色々と、説明が面倒だし……」


「……はい」


 ひなたは結局生乾きの髪のまま、布団の奥へと潜った。

 殻だけではあきたらず、甲羅もかぶったようだ。

 新婚でこれならば破綻は目に見えているが、お互い同居人程度にしか思っていないので問題はない。

 夕介はふくらんだ布団の向こうにある、雪乃の写真を眺めた。

 未だ亡くなった妻の写真の飾られたこの部屋で、彼女は何を思っているのだろうか。

 偽りを真実と思い込まされた彼女は、記憶が戻ったらどう感じるのだろう。怒りか悲しみか。それとも本当の家族に会えることへの喜びか。

 夕介は半開きになっていたカーテンを閉めに立ち上がった。

 薄暗さの濃くなった室内では、陽太のもこもこという寝言だけが、頼りだった。






 陽太とひなたが親子のように手を繋ぎ、夕介をないがしろにしているのはきっとフレンチトーストのせいだ。

 二人並んでちょうどの歩道なので、割り込むこともできない。

 近所付き合いがないのでひなたのことについて尋ねてくる人は今のところいないが、問題なのは――、


「チカせんせい! おはよーございますっ!」


「おはようございます、陽太くん。中で遊んでようか?」


 にこにこした笑顔で陽太を室内へと促してから、千香は一転、ひなたを検分するように見遣った。

 当のひなたは、手を振る陽太に、嬉しそうに手を振り返しているので、その視線に気づいていない。

 焦れたのか千香が、二人の間にずいっと、笑顔を張りつけ立ちはだかった。

 驚いたひなたはびくついて後ずさり、よろめいたところを夕介は胸に抱き止めてしまい、千香に無言の圧力をかけられそっと距離を取る。


「今日から、彼女が陽太の迎えをするので……」


「彼女、ね」


「いや、三人称の……」


 なぜ夕介が浮気を問い詰められているような気分にならないといけないのだろうか。

 ひなたは千香が好意的でないことを察してか、嵐が過ぎるのを待つかのように俯いて、ひたすら沈黙している。

 人見知りもあるだろうが、彼女は人との間に壁を打ち立てるふしがある。それが身を守るためなのか、単なる人嫌いかは、今考えなければいけないことではない。

 夕介はわざとらしく腕時計を窺った。


「もう行かないと」


 ひなたには悪いが、重々しい空気に耐えかね、夕介はそそくさとその場を後にした。

 とって食われたりは、しないだろう。

 若い女同士、案外仲良くするかもしれない。

 我の強い猫と控えめな兎が果たしてうまくいくかどうかは夕介の関知するところではなく、今は一刻でも早く会社に出勤することがなによりも優先されるべき事柄だと思えたのだった。



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