5・退院
暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる病院は、やはりいつ見ても恐怖よりも切なさを感じる。
病室にいたひなたは、ベットの縁に腰かけて窓の外をただじっと眺めていた。
月か、星か、それとも夜桜か。
いずれにしても、こちらに気づかない彼女に呼びかけなくてはならないのだが、いかんせん名前を呼んだこともないので口ごもっていると、陽太が夕介の手をするりと抜けて駆けていった。
「おねぇちゃん?」
陽太は不思議そうにひなたの正面へと回った。
慌てた様子の彼女は、手の甲で頬を拭う仕草をしていたので、泣いていたのかもしれない。
夕介の罪悪感がじわりと増した。
岡が、パチッと電気のスイッチを入れると、皓皓とした人工の明かりに月明かりが飲み込まれた。
「帰る、か」
夕介が独り言のようなわかりにくい問いかけをすると、ひなたはベッドから腰を上げた。
陽太の背中に隠れるように歩いてきたが、あいにくその姿はまったく隠れれておらず、妙におかしくて笑ってしまった。
何故笑われているのだろうと、ひなたは首を傾げて陽太と顔を見合わす。
そして初対面の岡の存在に今気づいたのか、曖昧な表情で会釈をした。
「岡大輝です。戸倉さんにはいつも迷惑かけられて――」
「かけて、だろ」
岡は訂正することなく軽く笑い、自己紹介をしようとしないひなたとの会話が途切れかけた。
変な空気になる前に、岡がめざとく見つけたペンダントを指差し褒める。
「いいですね、それ」
ひなたはそれに触れると、苦笑しながら、ありがとうございますとか細い声でお礼した。
夕介は次の診察の予約を取り、自費なのでバカ高い医療費を払ってどうにか退院の手続きをし終えた。
明日から首が回るだろうか。
「すみませんでした。……ありがとうございます」
ひなたは何度も何度も頭を下げた。
どうやら医療費のことを気にしているのだろう。
「いや、いいから」
夕介はごまかし、彼女を車へと乗るよう促した。
後部座席で陽太とひなたが並び、夕介は助手席へと乗り込んだ。
車が発車して、少し落ちついたところで、切り出した。
「その……、下着なんだけど」
ひなたは当然ながら、きょとんとしていた顔をみるみる強張らせた。なので夕介は慌てて捲し立てる。
「選択を干したら風に飛ばされて、これから買いにいくつもりなんだが、いいか?」
バックミラー越しにひなたが頷くのが見えたが、その顔はどこかもの悲しく見えた。
「おねぇちゃんのだけ?」
「陽太はあるだろ」
「ぼくのは風でとんでないの?」
痛いところを突かれた。
進退極まった夕介に、運転席の岡から助け船が出された。
「風じゃなくて……下着泥棒、とか?」
夕介は心の中で、よくやった、と岡を誉め称え、ちらっとひなたの様子を窺った。
別段気にしている感じではなかった。
風に飛ばされようが、下着泥棒に遭おうが、覚えていなければ関係ないのかもしれない。
どうにもぼんやりとした雰囲気なのは、頭を強く打ったせいなのか、元来の性質なのかの、見極めが困難だ。
しかしまずは陽太の機嫌が悪くなり始めてきたので、
「陽太には岡がお菓子を買ってやる」
「わぁい!」
「……お菓子くらい、いいですけど」
岡がぶつくさ言い、陽太はハイタッチするようひなたに向けて手を掲げた。
ひなたはどう反応するだろうかと眺めていると、やや遅れて陽太と手のひらを合わせて微笑んだ。
陽太にだけは、着実に心を開いているようだった。
ショッピングセンターの駐車場に車を停め、四人は車から降りた。
閉店間際なだけあって、店内に人はまばらだ。
「時間ないし、俺は陽太にお菓子を買ってくるんで、戸倉さんは彼女について行ったらどうですか?」
「それはちょっと……」
「だってひなたちゃん、お金持ってないだろうし」
申し訳なさそうに俯いてしまったひなたに、夕介は仕方なくついて行くことに決めた。
「車に集合でいいな?」
「わかりました。――陽太、行こうか?」
「うん! いっぱい買ってくるね!」
笑顔でこちらに宣言した陽太を、岡が顔をひきつらせながら手を繋いで歩いて行った。
それを見送り、夕介は自分とは無縁のランジェリーショップを探す。
ひなたはどこに何があるか予想もつかないのか、しきりにきょろきょろとしているので、あてにはならない。婦人服の店を目で楽しみながら、彼女は夕介の後を追う。
金に余裕さえあれば買ってやらないこともないが、あいにく持ち合わせがない。ほぼ病院に収めてしまった。
持っていたとしても買うかはわからないのだが、とりあえず持ち合わせのせいにしておいた。
ひなたは自前の、いかにも着古したというような、くたびれたワンピースを着ている。
新しいものは買えないにしても、岡の持ってきた服はほぼ新品に近い状態のものばかりだった。
下着だけは買うので、それでなんとか我慢してもらわないと。
それほど苦労せず、ランジェリーショップに巡りつくと、夕介は足を踏み込むことなく、ひなたにお金を手渡して買ってくるように命じた。
すみません、と頭を下げてお札を受け取ったひなたは店内へと行ってくれたので、ほっと息をついて少し離れた位置にあったソファへと腰を下ろす。女の買い物は長いということを身をもって知っていたからだ。
てっきり閉店のアナウンスがあるくらいまでは時間がかかると思っていたのに、彼女は五分と経たずに袋を手に下げて店から出てきた。
絶対にちゃんと選んでないだろう。
ひなたはあたりをぐるりと見渡し、座って休む夕介に気づかなかったらしく、視線を落として逆方向へと踏み出した。
「……おい、ひなた!」
何度か呼びかけたが聞こえなかったらしく、追いつき肩を叩くと、ようやく振り返り目を丸くした。
「方向音痴か」
苦笑する夕介に、彼女はまたすみませんと謝る。
そればかりだなと思っていると、握りこぶしを突き出してきた。
怪訝にしていると手を取られ、その上に小銭を乗せられた。
おつりぐらい取っておけばいいのに。
だけど財布も持っていないのだから、しまうところもないのかと思い直してそのまま受け取った。
「行くか」
ひなたは何を考えているのか、沈黙して後をついてくる。
このまま騙して家へと連れ帰っていいのだろうか。
だがここまできて放り出すのは、あまりに非情な行いではないか。本当の家がわかっているのならまだしも、素性も何もかもが不明なのだ。帰る場所があるかもわからない。
だけどもひなたは、自分が子持ちの男と突然結婚していると聞かされ、どう受け止めたのだろうか。
ありもしない、愛情の欠片を心の中で探したりするのだろうか。
結局何一つ言うことも、聞くこともできず、夕介は終始無言のまま、ひなたを家へと連れ帰ったのだった。