3・記憶喪失
石段を転げ落ちた彼女は頭を打って気を失っているが、脳に異常はなさそうで、だけど目を覚ましてみないことには……、と医者がお茶を濁すようなことを言った。
彼女は身分証明できるものを何一つ持っていなかったので、魔が差して妻と言った手前、夕介は引くに引けずに、『戸倉ひなた』の名で入院の手続きを済ませた。
彼女が起きてから事情を説明し、退院まで口裏を合わせてもらえるよう交渉するつもりだ。
入院費や治療費に関しては、保険証がないので全額負担になりそうだが、こちらが加害者なのでこれは仕方がない。
陽太のことも、誠意を込めて謝罪すれば許してくれるのではないか。
冷静さを欠き妻にしてしまった件についても、きっと話せばわかってくれるだろう。
そんな甘い考えとともに、夕介は陽太と共に、彼女の眠る個室で、目を覚ますそのときを待った。
医者や看護師に自分よりも先に話をされては困る。
果たして泊まり込みは許されるのだろうか。
陽太はあれからずっと口をつぐみ、彼女だけを幼い瞳へと映している。
何故もっと、気をつけていなかったのだろうか。
今さら後悔しても遅いと頭では理解していても、考えずにはいられなかった。
重たい沈黙に終止符を打ったのは、膝に乗った陽太のお腹の虫の音だった。
こんな時だというのに、夕介は思わず噴き出した。
忘れていたが、もう昼を過ぎている。
「何か買ってくるから、ここで待ってるんだぞ。……いいな?」
うん……、と弱々しく頷いた陽太を膝から下ろして椅子へと座らせると、夕介は院内の売店へと向かった。
空虚な廊下を歩いていると、嫌でも昔の記憶が思い起こされ、胸が圧迫されるような錯覚に陥る。
逃げ場のない白い迷宮を延々と彷徨わせるように、壁も白衣も包帯も、代わり映えのない白ばかり。
しまいには人の顔さえも真っ白ののっぺらぼうに見えてきそうだ。
嫌気が差し、売店につくと、おにぎりや菓子パンに合わせて、ペットボトルのお茶を二本と、やたらカラフルなお菓子をまとめてレジへと出した。
ちょっとしたコンビニで、レジにいた店員は学生のアルバイトといった雰囲気の女の子だった。
明るさが採用条件なのか、惜しみない笑顔を向けられ、こんな状況でなければ笑顔の一つくらい作ってお返ししただろう。
院内の売店に来るような人は、自分や誰かが心か体に問題を抱えていて、どことなく覇気がない。この少女の笑みも少しずつ吸いとられていってしまいそうで、夕介は物悲しい気分のまま会計を済ませた。
来た道を戻り、エレベーターを使いって降りた階のナースステーションを通り過ぎたところで、病室のドアが全開になっていることに気がついた。
まさか、と飛び込むと、陽太、看護師、そして頭に包帯を巻いた彼女の視線が一斉に夕介へと集中した。
こんなことならもうしばらく待っていればと、呆然としたまま立ち尽くしていると、看護師の女性が微笑んだ。
「よかったですね。奥様、たった今目を覚まされたところですよ」
――終わった。
元々とっさについてしまった嘘だ。
ここは素直に謝罪して、と考えている間にも、看護師はぼんやりとした様子の彼女へと話しかける。
「戸倉さん?戸倉ひなたさん、……わかりますか?」
わかるわけがない。何故なら彼女は、『戸倉さん』ではないからだ。
案の定、彼女は看護師をこぼれそうな瞳で見つめ返しながら首を傾げている。
すると看護師は怪訝に思ったのか、表情を険しくした。
「ご自分のお名前、わかりますか?」
完全に終わったな、と夕介が思っていると、彼女は口を開くことなく困惑だけを浮かべていた。陽太を眺めて、次は夕介へ。
そうこうしている間に看護師が、「……先生を呼んできますね」と、夕介に安心させるような声音で一言告げて出ていった。
夕介はもしかしてと思い、問いかけた。
「覚えて、ないのか……?」
事故の記憶がないのならば、これ以上のことはない。
頭を打っているようだし、一時的に記憶が欠落しているだけなのかもしれないが。
夕介はどこか祈るように彼女の答えを待った。
ここに来てもまだ、他人の不幸よりも、陽太が大事だった。
彼女は薄く唇を開きかけたが、すぐに項垂れるように首を左側へと傾げてしまった。
駆けつけてきた医者にも、何の返事もしなかったので、唐突に質問の方向が変わった。
「話せますか?」
「…………はい」
か細い声だった。
それでも初めて聞いた彼女の声に、夕介はそっと安堵した。
思いがけずに快い心地の声だったからかもしれない。
そういえばと、よくよく彼女の面立ちを観察してみると、美人ではないがそれなりに愛嬌のある顔をしていた。
だというのに、薄幸そうな儚い印象が全身に染みついて頼りない。すれ違っても誰も気にも止めないような、そんな雰囲気だ。
医者に別室へと連れ出されて、告げられたのはおおよそ予想通りのことだった。
「一時的に記憶を失っているようですね」
やはり、と呻いた夕介に、医者は続けた。
「とりあえず今日はこのまま入院していただいて、その後は通院という形でよいでしょうか」
「いつ記憶が戻るとかは……」
「人によります。ゆるやかに戻っていくとは思いますが……」
また言葉を濁されてしまった。
いつ記憶が蘇るかわからないにしても、妻だと嘘をついてしまった以上、身元不明の彼女をうちで引き取らなくてはいけないだろう。
目に見える範囲にいてくれは方が、結果的にはいいかもしれない。
罪悪感の埋め合わせをするように、夕介はそう決めたのだった。
病室へと戻ると、陽太の話し声がかすかにもれ聞こえてきた。
誰に似たのか社交的で人見知りをしない性格は、あんなことがあった今でも健在だった。
トラウマにならないか心配していただけに、杞憂で済んだことに胸を撫で下ろした。
てっきりさっきの看護師と話しているかと思われたが、会話の相手はあの彼女だった。
アルファベットで、『Hinata』としか知らない女性。
二十代前半くらいに見えるが、夕介は女性の年齢を当てるという特技はあいにく持ち合わせていなかった。
「おねぇちゃん、ごめんね。……いたい?」
その切ない言葉に痛んだのは、夕介の胸だった。
陽太は自分のしたことを理解し、謝っているというのに。
「痛くないよ。陽太くんは、痛くない?」
彼女が普通に会話していることに、驚いた。
医者や看護師には返答すら曖昧にしかしなかったのにだ。
「ここがいたい」
そっと病室を覗くと、陽太は胸のあたりを示していた。
ぐっと眉を寄せて、夕介は陽太への申し訳なさを堪えた。
子供にそんな思いをさせるなんて、親としては落第だ。
「そっか……、陽太くんは優しいね。その膝の怪我だって、痛いでしょう?」
「……ううん」
「強いね」
そう言って彼女は優しく微笑み、陽太の頭を撫でた。
雪乃が生きていたらと、無意識にその姿を重ねてしまい、慌ててその空気を破るように病室へと踏み込んだ。
「何か、思い出しま……たのか?」
夫が妻に敬語を使うのは変だろうと、瞬時に砕けたものへと改めた。
看護師が、夕介を夫、陽太を息子と説明してしまっている。
彼女は陽太と話していた時とは打って変わり、情けない顔で首を傾げているだけで、何も答えず目を伏せた。
覚えていないことに負い目を感じているのだろうか。
申し訳のなさが募り、椅子に座っていた陽太を抱き上げて腰を据え、ベットに座る彼女と向き合った。
「あの……すみません。お名前は、何と言うのでしょうか……?」
「……戸倉、夕介。夕日の夕に、介助の介で夕介。陽太は、太陽を入れ替えて、陽太」
「そう、ですか……」
心当たりがないとばかりに、彼女は布団を握りしめる拳へと目を落としていた。
覚えているはずがないのに、そのまま黙り込んでしまう。
「おねぇちゃんのおなまえは?」
夕介は今さらだが、陽太が彼女を『おねぇちゃん』と呼んでいることに焦った。
それに陽太が彼女の名前を知らないというのはまずい。
入院の手続きて、『戸倉ひなた』と勝手に名前をつけてしまったので、どちらにもそれを教えなくてはならない。
「まだ再婚したことをよくわかっていないんだ。お姉ちゃんの名前は、ひなた、だろ?」
「ふぅん?」
当のひなたはしばらく怪訝そうに夕介たちをじっと見入っていたが、頭の中で少しは考えがまとまったのか、冷静な声音で尋ねてきた。
「……再婚?」
「ああ、えぇと、陽太は亡くなった妻の子で」
「それはわかります」
そこだけは妙にきっぱりと言われたが、陽太の顔は雪乃似なので、なるほど見たらわかるか、と納得した。
「それで今日は入院で、明日様子を見て退院なんだけど……。仕事があるから、夜にしか迎えに来れない」
ひなたらは虚を突かれたように目を見開いてから、「そうですか……」と、ぽつりと言った。
その姿がどこか落胆して見えて、夕介はむっとした。
仕事を休むわけにもいかず、見ず知らずの彼女を迎えに行くだけでも感謝して欲しいくらいだ、と。
そしてそんなことを考えた自分に、嫌気が差した。
「今日は陽太もいるから、これで」
そそくさと立ち上がると、「はい」と掠れたか細い声が背中へと届いた。
素っ気なすぎただろうか。
「おねぇちゃん、おいてっちゃうの?」
いつの間にか懐いていたようで、陽太の抗議の眼差しが目の前にある。
「明日、また迎えに行くんだ。……しばらく、うちに泊めてもいいか?」
「おっけー」
「軽いな」
小さな指で丸を作る陽太に、夕介はようやく肩の力を抜けた。