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2・非日常

自転車事故の描写があります。お気をつけください。



 夕介が、ブルーの車体の自転車から補助輪を外すと、陽太はそれだけで大人になったかのように誇らしげな顔をした。

 夕介は陽太から見えない位置で密かに笑い、陽太がさっそくサドルへと跨がろうとしたので、それはすかさず押し止めた。


「公園までは引いて行くぞ」


「えー? パパがおしても?」


「だめだ、だめ」


 危ないと理解したのか、それともどう言っても折れないだろうと判断したのか、陽太は大人しく自転車を引いて歩き出した。

 街路樹は銀杏なので風情に欠けるせいか、風で転がってくる桜を、陽太は目で追っている。

 とにかく家からまっすぐ進む。それだけで公園へと到着した。

 小ぢんまりとした神社の一角にある公園だ。

 もしかしたらただ隣合っているだけなのかもしれない。いかにもスペースが空いたからグラウンドと遊具をおいてみた、という簡素な造りだ。

 神社側からだと十数段石段を上らないといけないので、公園がある裏側へと周り、自転車でも出入り可能な緩やかなスロープを上った。

 足を伸ばせば広い敷地を誇る公園があるのだが、そこまで歩いていくのは辛い。

 休日といえどこんな鬱蒼とした神社に参拝客はおらず、公園側でも遊ぶ子供の一人も見当たらなかった。

 お陰で伸び伸びと自転車を走らせられる。

 ブランコが風でキイキイ甲高い音を鳴らして揺れ、見事な染井吉野の大木から桜吹雪が降ってくる。

 さすがに神社があるから、ブルーシート持参のお花見客も来ないだろう。

 陽太はさっそく自転車に乗ると、バンドルをぐっと握りしめた。奥歯も噛みしめているのか、全体的に強張ってしまっている。


「陽太。荷台離したりしないから、いつも通りにしろ」


 アドバイスは聞こえているのかわからないが、ペダルに足をかけた直後急発進し、夕介は慌ててあとに続いた。

 それにしても、体勢がきつい。

 子供用なので荷台の位置がかなり低く、腰が悲鳴をあげる前に、早く一人で乗れるようになることを切に願った。

 陽太は運動神経はいい方だ。

 夕介が思い立ってそっと荷台から手を離すと、自転車はそのまままっすぐに数メートル進んだ。


「乗れてるじゃないか……」


 呟いた途端、車体は傾ぎ陽太は真横に倒れた。


「あー……」


 ともらした夕介を振り返った陽太は、その距離感から何が起きたのか把握し、涙目で睨んできた。


「うそつき! うそつき! パパのうそつき!」


「すまない。普通に乗れてたから、つい……」


 言い訳をしながら傍までいき、陽太を起こすと怪我がないか手早く確認しながら、服についた砂を払った。

 陽太は痛いのか悔しいのか、限界まで堪えていた涙が、頬を伝う。


「男の子だろう。泣いてたら、情けないぞ」


「泣いてない!」


 陽太はすぐさま手のひらで拭い、顔が少し汚れた。

 まぁいいか、と夕介は自転車を起こして、再度荷台を掴んだ。


「さっき、かなり乗れてたぞ。こつは掴んだんじゃないか?」


 うん、と気丈に頷いた陽太は、もう一度自転車へと股がった。


「はなしたら、おこる」


「わかった」


 念押しされたが、陽太がペダルをこぎ始めると、夕介はあっという間に裏切り、手を離した。

 予想通りすいすい自転車は進んでいき、若干よろめきつつもカーブを曲がって、ようやく夕介が背後にいないことを知った陽太は、「うそつき!」を連呼しながら戻ってきた。

 真ん前でブレーキをかけて止まった陽太に睨みあげられ、肩を竦める。


「いや、乗れてたし……」


 言われて気づいたのか、目をぱちくりとさせた陽太は、「ほんとだ!」と喜びの声をあけた。

 乗れるとわかったら、あとはひたすら飽きるまで乗り続けるだろう。

 狭い敷地内で風を切り楽しそうにしている陽太を眺めながら、夕介はブランコの柵へと腰を下ろした。

 あれならもう大丈夫だろうと、深い安堵の息をつく。

 足元へとはらりと落ちてきた桜の花を目にとめ、薄紅色の大木を仰ごうとし――ふと気づいた。

 桜の下にいつの間にか、若い女性が立っていた。

 横顔しか見えないが、懐かしそうな目をして、一心に桜を見上げている。

 薄紅色の雨が、彼女へと柔らかに降り注ぐ。

 夕介はそっと陽太へと目を移した。

 見てはいけない雰囲気に、怖じ気づいたのだ。

 もしかすると、見蕩れることを無意識に嫌ったのかもしれない。

 陽太は何が楽しいのか、自転車でぐるぐると回り続けてから、夕介の元へとつけた。


「パパも、のる?」


 子供に自転車を譲られるほど物欲しそうな目をしていたのだろうかと悩みつつ、夕介は首を横に振った。

 そっかぁ、と頷いて、陽太は再び自転車をこぎ始めた。

 公園側は飽きたのか、神社の方へとずんずんと向かっていく。

 さすがに境内にまで進入したところで止めに入ろうとした。


 ――その時だった。


 激しいつむじ風が通り抜けた。

 目に砂粒が入り、反射的に固く閉ざす。

 しかし、「わっ……!」という陽太の悲鳴に似た声と、ブレーキのつんざぐ音が耳を貫き、夕介は無理矢理目を抉じ開け――、


「陽ッ――!」


 その光景は、歪んだスローモーションで見えた。

 陽太が自転車ごと、石段へと突っ込む直前で、ぶつかったのだ。――人と。

 それはさっきまで桜を見上げていた、あの彼女だった。石段の向こうへと、ゆっくり体を傾がせていく。


 落ちていく刹那、不思議と目が合った気がした。


「陽太ッ!!」


 陽太は女性と衝突した勢いで反対側へと弾かれ、石段から落ちてしまうぎりぎりのところで自転車ごと転倒し、号泣した。

 転んだことにか、どこかを擦りむいたことにか、それとも……人を轢いてしまったことにか。

 夕介は足を縺れさせながら駆け寄り、陽太を抱き起こして無事を確認し、そのまま小さな身体をきつく抱き締めた。

 そして陽太が見てしまわないよう顔を胸で隠して、おそるおそる下を覗く。


 女性が地面で足を投げ出し、仰向けに倒れていた。


「あ……きゅ、救急車……」


 泣きじゃくる陽太の背中をさすり、震える指先で『119』を押す。

 三回、失敗した。

 やっと繋がると、


「火事ですか、救急ですか」


「……救急、です」


 声が、揺らぐ。

 自分が話しているはずなのに、自分でないようだ。


「どうされましたか?」


 何て、言えばいいのだろうか。

 陽太が人を――とは、思いたくなかった。

 夕介は知らず知らずの内に、言葉を選んで告げていた。


「石段から、落ちて……動かなくて」


 とにかく場所を伝えると、すぐに向かうと言われたが、サイレンが耳に届くまでどれだけかかったのかわからない。陽太の温かさしか、わからなかった。 


 今の夕介には、陽太のことしか、まるで頭になかったのだ。


 自転車でも、人を轢いてしまえば加害者だ。

 治療費は当然として、被害者に死亡や後遺症が残ってしまった場合、多額の慰謝料を請求されると聞いたことがある。

 女性は頭を打ったせいか意識はなく、だが幸いにも生きていた。

 救急車に乗り込むと、一人の隊員が、膝から血がにじんでいた陽太の応急処置をしてくれた。

 その間陽太は、ぴくりともしない彼女を涙の留まらない瞳で見つめていた。

 たった五歳なのに、これではあんまりだ。

 自分達とは関係のない新聞の中の世界が急に襲いかかってきたようだ。

 夕介は吐き気とめまいを抑えていると、横たわる彼女の蒼白い首もとに、ピンクゴールドのペンダントが乗っていることに気がついた。

 まるでそこに刻印でもされているかのように、浮き上がって見える。

 アルファベットが筆記体で連なっていて、書かれている文字は、


 ――Hinata.


 それが彼女の名前なのだろう。

 夕介がそれに気取られていると、陽太が首へとしがみついてきて、心細さからか、「ママ……」とかすかに呟いた。

 夕介は驚きに目を見張った。

 陽太は雪乃のことなど、ほとんど覚えていないはずなのに。


「……奥様ですか?」


 尋ねられ、夕介は思ってしまった。

 彼女が身内だったのなら、と。

 母親が息子を庇って石段から落ちたのだと。……都合のいいように。

 だからだろうか。震える唇で、はいと言った。言ってしまった。

 取り返しのつかない、嘘をついた。

 どうせ後で露見する。そんなことさえも頭になかった。


 なぜなら後先なんて、考えていなかったのだから……。



フィクションですよ!

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