10・五月の第二週 I
それからしばらくは何事もなく、ひなたの手料理にもすっかりと慣れた週の終わりの金曜日、騒動が起きた。
仕事中に保育園から着信が入り、仕事中という理由で放置したのだが、一分おきに何度も鳴らされて、これは緊急事態かと夕介はデスクからの移動を試みた。自販機の横に置かれた観葉植物の、さらに陰で電話に出ると、千香のぞっとするような低い声が聞こえてきた。
「今日は親戚の方ではなく、戸倉さんが迎えに来て頂けますか? 早めに」
親戚、という部分がやたらと誇張されていたのはなぜなのか。
はい、と頷いておけばここでの話は終わりそうだが、前もって理由を尋ねる権利くらいは夕介にもあるだろう。
「何か……ありましたか?」
「陽太くんがちょっと、お友達とケンカをしてしまったので」
「何だ、ケンカか」
夕介は心配して損したとばかりにため息をもらすと、電話向こうの千香にもはっきりと聞こえたらしく、電話越しに怒鳴られた。
「何だケンカか、とは何ですか! つかみ合いになったんですよ!」
幼児のつかみ合いなんて、子猫のじゃれ合いと大差ないだろうに。
少なくても夕介には、大事だとは思えなかった。
「とにかく! 今日はあの女……じゃなくて、親戚の方には来ないように言っておいてくださいね!」
一方的に切られて、千香の金切り声が届かなくなってから、夕介は深々と息をついた。
ひなたをあの女呼ばわりしたことは置いておくとして、どうやって早めに帰るか思案していると、ふいに足元に影が差した。
「……戸倉? そんなところで、何してるんだ?」
ふと顔を正面へと戻すと、同期の弓槻が、観葉植物と並び立つ夕介を怪訝そうに眺めていた。
顔のいい人間はどんな表情をしても損なわれないらしく、さりげなく背後を通っていく女子社員のギラついた視線がちらちらと飛んで来る。エリート街道を堅実に進む彼は、社内でトップ3には入る正統派な偉丈夫であり、独身。狙われないわけがない。
しかし本人が誰とも付き合わないせいで、結婚を決めた人が病気で亡くなったとか、実は男が好きなのでは、などという噂や憶測が常に周りを飛び交っている。
夕介はとりあえず、観葉植物から一歩離れてから答えた。
「いや、大したことではなく……、子供のケンカに大人が介入すべきか否かについて考えていた」
「……ああ、お前見かけによらず子持ちだもんな」
弓槻の言葉に異論はない。夕介も、自分で自分にそう思う。
弓槻に、がんばれよ、と肩をたたかれて、夕介は脱力したままミッションを一つずつクリアしていくために、自宅へと電話をかけた。すぐにひなたが警戒した小動物のような声で、はい、と言って出る。
「今日は俺が陽太を迎えに行くから、……ひなたは、まぁ、留守番していてくれ」
戸惑いを含んだ「……はい」を聞いたところで、夕介はあっという間に会話を終了させた。
小声で話していたつもりだったが、コーヒーを買った弓槻が缶を取りもせずに、こちらをじっと見ていた。もしかしたら、内容が聞こえていたのだろうか。
妻が亡くなっているのことを弓槻も知っているし、不貞をしているわけではない。それでも後ろ暗い事情が隠されている以上、迂闊にひなたの話を口にすることが出来なかった。
しかし弓槻は、追求するつもりはないらしく、目線を落としてコーヒーを手にすると、そのまま無言で去って行った。
ひとまず大きく息を吐き出す。後はどうにかして仕事を早く終わらせて、保育園だ。
夕介の胸の内をそのまま表すかのように、窓の外にはいつの間にか暗雲が垂れ込めていて、傘あっただろうかと、夕介は額を押さえながら低く呻いた。
天気予報を素直に信じるべきではないと、これまで何度後悔したことか。
電車に乗り込んだ時点で本降りとなった雨に、夕介はコンビニで傘を買うかどうか迷いながら改札を抜けた。
せめて陽太の分ぐらいは買っていかないと、と改札横のコンビニへと足を向けたとき、
「――夕介さん!」
よく聞き知ったその声をたどると、ひなたが大人用と子供用、二本の傘を抱えて走って来るところだった。
夕介が、走らなくても、と口を開くのよりわずかに早く、ひなたが派手に転倒した。そして前のめりに倒れた状態でぷるぷると震えてから、周囲からの視線に辱められつつ、よろりと立ち上がる。
この駅構内の床は、雨の日は特に滑りやすいのだ。
やれやれと思いながら夕介が近寄って行くと、ひなたは目の端に雨ではなさそうな水滴を浮かべていた。
相当痛かったのか、恥ずかしかったのか。
笑ってしまうのを我慢して、夕介は一つだけ初めから気になっていたことを尋ねた。
「傘二本じゃ足りないだろ」
「でも、二本しかありませんでした」
それはそうだ。本来親子二人暮らしなのだから。
とりあえず夕介が陽太を抱っこして、一本の傘に入っていけば二本でもなんとかなるだろう。
目元をこっそりと拭っているひなたには、今度コンビニのビニール傘ではなく女の子らしい傘を買うとして、二人は保育園へと歩き出した。
駅を出て子供用の黄色い傘をさしたひなたはしばらく黙っていたが、保育園が近づいて来るとぽつりとした声音で尋ねてきた。
「私、何かしましたか?」
「うん?」
「お迎えのことです」
どうやら自分が粗相をして、お迎え係を外されたと思ったらしい。
「いや、陽太がケンカしたとかで」
ケンカと聞き、ふと表情を強張らせたひなたは、目線をぬれたアスファルトへと落とした。
「どうせ大した話じゃない。給食の量の多い少ないや、女の子の取り合いでもめたんだろ」
「それは、経験談ですか?」
「いや、それは……」
ごまかしたところで、一度口に出した発言は戻って来ない。
「勝ちましたか?」
「うん?」
「給食や、女の子の取り合いに、勝ったんですか?」
「……覚えてないな、昔すぎて」
うやむやにした時点で負けを認めているようなものだが、ひなたは他意なくにこっと笑った。
「じゃあ、勝ったんでしょうね」
夕介の訝しむ眼差しを受けて、ひなたが続ける。
「負けて悔しい思いをした方が記憶に残るって、よく言いますから」
夕介の覚えていないと嘯いたのを信じたのか、それとも慰められているのか、どうにもわかりづらい。
夕介は、ふうん、とだけ返して、保育園の門を潜ると、めざとく二人に気づいた千香が教室から出てきた。
地獄に門番がいるとしたらあんな顔だろうな、と夕介がのんきに思っていると、
「こ・ん・ば・ん・は」
仁王立ちで、一文字づつ区切る威圧感しかない挨拶をされた。
ひなたがたじろぎ、それでも挨拶を返す。
夕介は二人のやり取りから目を逸らして、こうこうとした教室内にいるだろう陽太を探した。
いつもなら友達と遊んでいるはずの陽太が、今日はしょんぼりと肩を落としながら座っている。
「戸倉さん。あちらで話がありますので」
「わかった。ひなたは――」
何の地雷を踏んだのか千香にギロリと睨まれ、夕介は口を閉ざした。
ひなたと別れて千香の後に続き事務室へと誘導された夕介は、勧められた椅子に腰掛けた。
「それでケンカっていうのは……」
「明後日が何の日か、覚えていますか?」
千香が何故ここまでイライラしているのかわからず、夕介は思いつく限りの答えを告げた。
「……日曜日」
「母の日です」
間髪入れずにそう返された。
すっかりと忘れていた。――母の日。
「今日、お母さんの似顔絵を描いて、折り紙でカーネーションを作りました」
それがどうしたのかと、夕介が困惑しながら千香を見返すと、静かな怒りを秘めた目で射貫かれた。
「陽太くんは、あの親戚の方の絵を描きました」
そこでようやく腑に落ちた。千香がここまで憤っている原因は、それだったのだ。
同時に、夕介もそのことに危機感を抱いた。
陽太の母親は、雪乃ただ一人だ。ひなたではない。……他の、誰でもない。
「陽太くん、あの人のことを……ママ、だってっ……」
千香がエプロンを握りしめて、自分の感情を抑えてからことのあらましを語った。
ひなたは対外的には親戚のお姉さんということになっている。それなのにママだと言ったから、他の子に違うと否定されたことでケンカにまで発展した。結局陽太が描いた絵は破かれてしまい、それがきっかけとなり掴み合いになった。
ケンカそのものよりも、その原因に、夕介は頭を抱えたくなった。
たった数週間一緒に過ごしただけで、そこまで懐いているとは思っていなかったのだ。
普段ひぃちゃんと呼んでいるから、油断していた。
「お互い謝り合って仲直りはしました。向こうのお母さんにも事情を説明して謝罪しておきました」
「すみません……」
「……きちんと、説明しておいて下さい。彼女は、母親ではない、と。――それとも、そういう予定だったりするんですか」
「それは、……いいえ」
ひなたは記憶が戻れば出て行く。そんな予定はどこにもありはしなかった。
夕介は渋面のまま、わかりましたと声を絞り出す。
千香から解放されて教室へと戻ると、ひなたが床にぺたんと座って陽太に話しかけていた。
折り紙の貼られたガラス戸を開けると、二人の視線がそろって夕介へと向けられる。
ひなたが陽太に、励ますように頷いてみせた。何だろうか。
しばらく俯いていた陽太は、意を決したように夕介の元まで駆けてきて言った。
「パパ、ごめんなさい」
夕介は苦笑して、陽太の頭に手を置いた。
「ケンカなんてよくあることだから、気にすることはない」
陽太は小さく、うんと頷く。夕介が怒っていないことが伝わったのだろう、ほっとした顔を見せた。
ひなたもよかったねと目を細めて出てくると、いつも間にか夕介の背後にいた千香によって連行された。
「ひなたさん、ちょっと」
「えっ? ……はい」
何か言うつもりなのだろうか。落ち着かない気持ちのまま、夕介は陽太を抱き上げた。
「ひぃちゃん、どうしたの?」
「どうし、たんだろうな」
変なところでつっかえたのは、動揺からだろう。冷や汗が流れたところで、陽太が無垢な眼差しで問いかけてきた。
「ひぃちゃんは、ママじゃないの?」
夕介は一瞬息が止まりかけたが、すぐさま硬い声で否定の言葉を吐いた。
「ママは雪乃だろう」
言ってしまってから、夕介は失敗したと思った。
こんなことひなたに聞かれでもしたら、と。
「あ、ひぃちゃん」
陽太が無邪気に手を振ったのは、夕介のすぐ後ろ。
おそるおそる振り向くと、微苦笑を浮かべたひなたか立っていた。手には、セロハンテープで貼りつけられた画用紙。破られたという、例の似顔絵だろう。
「いや、あの、今のは」
「陽太くん、傘借りるね?」
「いいよー」
ひなたは夕介の方を一度も見ることなく、傘を広げて雨粒の降り注ぐ下へと歩き出でた。小さな傘を傾けて、夕介から後ろ姿さえ隠して。
夕介は慌てて傘をさし、追い越しざまに様子を窺おうとしたのだが、また傾きの角度を変えられる。
顔が隠れてまったく表情がわからず、夕介は焦りながらも、水たまりにはまらないように気をつけて歩いた。
ひなたが一歩後ろをついてきているのは、ちゃぷちゃぷいう足音が知らせてくれるのだが、振り返る勇気がない。
そんな父親のことなど露知らず、陽太は手のひらを傘の外へと差し出して雨粒を溜めながら呟いた。
「あめ、やまないね」
「……そうだな」
雨足はさっきよりも強まっているようだ。
「おそらが、ないてるね」
夕介は、うん、と相槌を打ち、傘を傾けて空を仰いだ。
確かに空は、泣いていた。




