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1・日常

エイプリルフールなので。



 醜い嘘から始まったものはきっと、優しい嘘で終わらせなくてはいけない。


 初めからそう、決めていた。


 遠ざかる背中へと、サヨナラと囁いた。



 その別れの言葉は、いつ届くのだろうか――。







 カーテンの隙間から朝を告げる光が差し込んで、戸倉夕介はそこから逃げるように寝返りを打った。

 すると今度は畳の上へと敷いたくたびれた布団が、そろそろ日に当てろと湿った臭いを放つ。

 つい先日まで息子の陽太が風邪を引いて、熱を出していたからだろう。

 うっすらと目を抉じ開けると、あどけないが妙に好奇心に満ち溢れた瞳と間近でぶつかった。


「パパ、おきて!」


 小さな手のひらで額をぺちんとはたかれ、夕介はきっちりまぶたを下ろすと、うんうんと唸るように相槌を打つ。せっかくの休日だというのに、朝っぱらから子供の相手ができるほどタフではない。二十代も後半を過ぎてから、とんと体が重くなった。

 それが年齢のせいなのか、もっと精神的なものなのかは、今考えるべき最優先事項ではない。今はいかに陽太を誤魔化しつつ、惰眠を貪るかが問題だ。

 陽太は保育園で流行っているというキャラクター柄のパジャマのまま諦めたらしく布団の上に座り、テレビのリモコンを手にすると、何とかレンジャーの放送を黙って観始めた。

 我が息子ながらよくできた子に育ったなと、夕介がほくそ笑んでいると、唐突に聴覚に異変がきたした。

 横たわった姿勢でテレビの方へと目を向けると、音量が一秒につき一ずつ上がっていくのが見えた。


 現在二十八。


 普段は十七、八なので、これは由々しき事態だ。

 そうこうしている内に三十を越え、ここが防音設備のない普通のアパートであることを鑑みると、そろそろ叱らなくてはならない頃合いだった。

 しかしそうなると、必然的に一度起きなくてはならず、夕介がうだうだしている間に四十に到達してしまった。


「陽太」


 厳しい声を作ると、陽太は素直にリモコンの操作をやめた。そして夕介に背中を向けたまま、テレビ台の下へとリモコンを置く。音量を下げたくば、ここまで這って来いという挑戦のようだ。一体誰に似たのだろうか。

 夕介はテレビ台の片隅に飾られた写真立てを睨めつけた。写真に写る雪乃が、陽太を抱っこして、のんきに笑っている。

 今にも笑い声が聞こえてきそうな笑顔だ。

 切なくなる前に夕介は這いつくばって、リモコンへと腕を最大限に伸ばす。

 音量を一気に下げ続け、そして――力尽きた。

 もう今日一日分は動いたとばかりに突っ伏した夕介の背中へと、陽太が容赦なくのしかかった。


「うっ」


「パパ、じてんしゃのれんしゅーは!?」


「……自転車に乗れない大人もいるから、焦ることはない。今日やろうが明日やろうが明後日――」


 陽太が無言でパジャマの襟を締め上げてきたので、夕介は「ぐぇぇ……」と呻き、白旗をあげた。


「朝ご飯食べてからだぞ」


「うん!」


 元気よく返事をして夕介から飛び退いた陽太は、カーテンをしゃっと開け放つ。

 その目映さでようやく、夕介は重たい腰をあげることにした。




 夕介と陽太の暮らすアパートは、和室と洋室の二部屋があるが、和室のほうが広いこともあり、そちらで居間と寝室を兼ねている。将来的には洋室を陽太の部屋にするつもりだ。

 すこぶる快晴の空を仰ぎ、夕介は布団を干すという目標だけ立てて、朝食の支度に取りかかった。

 トースターで食パンを二枚セットして、フライパンで目玉焼きとベーコンを焼く。じゅうじゅうと油が弾けて、香ばしい匂いが漂い始めたところで、陽太へと声をかけた。


「陽太、牛乳注いでくれ」


 食卓テーブルで足をぶらぶらとさせていた陽太へと、マグカップを二つ渡してやる。受け取った陽太はまずそれをテーブルへと並べて置き、椅子から飛び降りた。冷蔵庫の重たい扉をうんしょと開けて、牛乳パックを両手で取り出した。

 肩で扉を閉めると、椅子によじ登るようにあがり、立ち膝でマグカップへと牛乳を注いだ。

 何故かいつもこぼれる寸前までなみなみと注ぐのだが、夕介が注意したためしは一度としてなかった。

 牛乳パックをテーブルにとんと置くと、陽太は行儀よく腰かけ、ふぅと大袈裟に息をつく。

 一仕事終えたとばかりの息子のその様子に、夕介は目玉焼きを焦げつかさないよう気を配りながら、肩を震わせた。

 子供は大人の真似をするので、誰かモデルがいるのかもしれない。

 それが自分だとは一ミリも思うことなく、夕介はそれぞれの皿に目玉焼きとベーコンを乗せた。

 緑がないな、といういつもの感想から目を背け、素知らぬ顔でテーブルへとついた。

 家事にも何とか慣れたとはいえ、休日に朝食の支度をするのはどうにも気疲れしてしまう。

 大きく息をつく夕介を、陽太はじっと見つめてから、手を合わせた。


「いただきまーす!」


 言い切るのとトーストに齧りつくのとを同時にし、陽太は無邪気にぽろぽろとパンくずをこぼした。

 そろそろ掃除もしなくてはならないだろうか。

 夕介は部屋を眺めて、前回はいつ掃除をしただろうかと考える。

 それは随分と昔な気がして、まさか、と意図的に記憶の改竄を図った。

 ロボット掃除機でもあるといいが、彼らも広い家で伸び伸びと動き回りたいはずだろうと、購入を見合わせているところだ。金銭的な問題では断じてないと、夕介は誰にともなく弁明する。

 なみなみの危険なマグカップをそっと引き寄せてすすり、そこで今さらだが、新聞を取ってきていないことに気がついた。

 食事中だが仕方ないと席を立ち、夕介は玄関に脱ぎ散らかした靴を履き、一階の階段下に設えられたポストへと向かう。

 こんな時、二階建てのアパートでまぁよかったな、などと夕介は思いながら階段を静かに降り、205号に無造作に詰め込まれた新聞を引き抜いた。

 他のポストには新聞の頭など出てはいない。

 どうやら休日だからといって遅起きを粘っていたのはうちだけだったらしい。

 アパートの外壁が崩れたように溜まる桜の花びらが視界に入ったが、ゴミと成り果てたその姿から、さっと目を逸らした。

 道沿いの至るところに風で飛んできた花びらの残骸が積もっている。こんな場面で大家と出くわしでもしたら、上手いこと言われて掃除を手伝わされるに決まっている。

 なので夕介はそそくさと部屋へと逃げ込んだ。


 まったりと朝食の続きを再開させて新聞を開き、紙面に目を通す。自分とは関係のない事件の記事を読みながらトーストをかじる。

 ぱらりと捲った新聞の一面には、子供が虐待されて亡くなったというものや、通り魔に切りつけられたという凄惨な事件ばかりが載っていた。

 遠く離れた土地で実際にあった出来事なのに、可哀想だな、というありきたりな言葉しか出てこない。

 結局どんな非業の死を遂げようと、その人と少しでも関わりがなければ、本当の意味で悲しむことなんてできないのだ。その痛みを分かち合えるのは同じ境遇の人間だけであり、あとは偽善者のたわごとだろう。

 その場限りの「御愁傷様」は、もう聞きあきた。

 新聞を一旦テーブルへと置いて、まだなみなみの牛乳を口で吸いとっていると、陽太がひょいっと身を乗り出して紙面を覗き込んできた。


「いのちの、みず……へ?」


「うん?」


 陽太は必死に目を凝らして漢字を読もうとしているが、それは眼力や念でどうにかなるものではない。

 陽太は、『いのちの水教団、摘発へ』と記された一文の、『教団、摘発』という字を穴が開くほど見つめている。

 水まで読めたから、その勢いで次まで読めると思ったのだろう。

 笑いを堪えて、読み方を教えてやることにした。


「きようだん、てきはつへ、だ。『へ』は、『え』と同じ発音だ」


「よめない字がわるい」


 陽太は唇を尖らせると、ベーコンに子供用のフォークを突き刺した。

 とりあえず、そうだなと同調しておくと、拗ねた顔が一気に破顔する。

 怪しげな地方の宗教団体のせいで、陽太の機嫌を損ねるところだった。

 数年前ならいざ知らず、今の夕介には病の治る水など全く必要はなく、そのまま記事を読むこともなく新聞を折り畳んだ。

 とりあえず病気で苦しむ人を食い物にするやつらなど、さっさと警察に捕まればいいのだ。

 そんな夕介を、雪乃は相変わらずな笑顔で見つめてくる。

 感慨に耽りそうだった頭を切り替えて、朝食を胃へと流し込むと、「よし」と気合いを入れて立ち上がった。


「じてんしゃ!?」


「いや、布団を干す」


 輝いた瞳が、瞬く間に淀んだ。

 夕介はわかりやすすぎる息子の性格に苦笑し、


「陽太も手伝えば早く出掛けれるぞ」


 と助言すると、陽太は和室へ一目散に駆けていった。

 夕介はまず窓を開け放ち、ベランダ用のサンダルに履き替えると、陽太が懸命に引き摺ってくる布団のシーツをはいで、一枚ずつ手すりへと干した。

 大人用と子供用の、敷布団と掛け布団が、一組ずつ。


「パパ、おし入れのおふとんは?」


「そうだな……。一応、干しとくか」


 押し入れにあるもう一組の布団は、雪乃のものではなく、予備であり来客用だ。……客などほぼ誰も来ないにしても。

 ここしばらく押し入れに放置しておいたそれも、そろそろ日が恋しくなっている頃合いだろう。

 しかし三組の布団が仲良く並んでいては、亡き妻を未だに引き摺っているのかと誤解されてしまうだろうか、などと考えながらも、夕介は陽太が引っ張ってきた布団を並べて干した。



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