第81話 役不足と証明
「環菜!膜が消えて炎が上がっていたが、一体どうなってる!」
ジルハードを追って門まで走ってきた堅が、遠くから見えた光景をその場にいた環菜に問い尋ねる。膜が消えた時点で、街の敗北は確定したはずなのだが。
「えーと……シオンちゃんは膜の代償を見抜かれて倒れたけど、あの金髪の女の人が魔法を撃ってくれて助かった。私達も範囲内にいたのに、一瞬熱かっただけで何にもなくて」
「は?」
訳が分からない環菜の答えに、堅は口を開けるしかない。だがしかし、目の前の光景はそれが事実で、他に言いようがなかった。
「私にも何がなんだか分からないけど、仲間割れしてるみたい。とりあえず、みんなには壁から再び侵入してこないか見張っててもらってる」
「要約すると?」
「まだ負けてない。被害は流れ弾にやられた十数人だけ。死者は少し出たけど、想定より遥かに少ない」
驚くべき事に日本人側の死者は数えるほどしかおらず、負傷者も僅かだ。作戦で敵に化けた桃田も手脚に穴が空いた程度。念の為、楓が背負って医者の元へと運んだが、おそらくすぐに死ぬ事はないだろう。というより、ここで死んだら鮮やかすぎるフラグ回収だ。
「シオンちゃんも生きてるけど、かなりやばいかも。すっかり元通りってのだけはあり得ないかな」
「また無茶をしたのか。本当に、似た者同士だな」
怪我の度合いで酷いのはシオンだ。環菜も近くで見たのは数秒程だったが、全身斬り傷凍傷に火傷のオンパレードで、今すぐ治療してもどうなるかは分からない。ただ、完治だけはありえないと断言できる。
「て事は仁も?というよりそっちは?あの血塗れの男は一体?」
「仁も生きてる。脚が片方無くなった上に全身がズタズタになったが、なんとか退けた。血塗れの男は強過ぎて仕留めきれなかったらしい」
「……へえ。仁の容態は?」
この短時間で変わり果てた仁と、スイカのように潰れた頭を思い出した堅は言葉に詰まる。環菜も何かを隠している事に気がついたようだが、状況を考えたのか特に追及しなかった。
「今は梨崎さんが最優先で見てる。輸血次第で何とかならない事はないと」
「本当に似た者同士だ。後でお礼言わなきゃ。私達に出来る事は、ほとんど無いけど」
仁もシオンも、身を挺してこの街を守ってくれた。その事に礼を言う為、どうか生きていてくれと環菜は願い、無力さに嘆く。
「私達の命運はきっと、あの金髪の『勇者』さん次第だ。彼女が負けたら騎士達が流れ込んでくる」
彼女の魔法が騎士達を押し返した。それは即ち、マリーが消えればもう、騎士達に止まる理由は無いという事。
「『勇者』?」
「うん。そう名乗ってた。すごく強くて、もしかしたらシオンちゃんよりかも」
「……そら『勇者』だ」
「けど二対一はさすがにね。あの灰色の騎士、すごく強いんでしょ?」
シオンと真正面から斬り合って押していた女騎士を相手に、マリーはほぼ完封しきっている。そう簡単に負ける事は無いとは思うが、二対一だと分からない。
「シオンも仁も倒れた今、防ぐ戦力はもういない。あの『勇者』が頼りだ」
そして、再び街へと入った彼らを止める手段はきっと、もうない。
「けど、何もできないわけじゃない。俺は何人か連れて、いつでも撃てるように巻き込まれない範囲まで近づいておく。環菜は壁際の指揮を頼んだ」
「……ん。こっちが大丈夫そうなら、そっちに何人か送るね」
ティアモとジルハードが『勇者』を抑えている間に、騎士達が戻ってこないとも限らない。周りを見る事に長けた環菜はその時に備えて指揮を、前しか見えない堅は部隊を率いての奇襲を役割とし、行動を開始。
「あの戦いで、全てが決まる」
剣を向けあった灰色の騎士と金髪の『勇者』の戦いの行く末はきっと、この街の行く末だろう。ならば少しでもその天秤を、自分達の方へと傾けなければならない。
「1mgでも、天秤は傾く」
その1mgになろうと、堅達は銃を握る手に力を込めた。
「全快ならともかく、その身体で正気?貴方の実力を疑うつもりはないけれど、それは余りに無謀で蛮勇よ」
己に向けられた剣の持ち主の状態は、一目で限界だと断ずる事が出来る程だった。言葉を交わすこの瞬間にも治癒魔法を重ねて発動している事から、どれだけの無茶をしているかが分かるというもの。
「来る時に結構治癒してある。見た目程じゃねえし、怪我してるから立ち止まっていい場面でもねえ」
「……やっぱり、ジルちゃんはサルビアそっくり。彼も勝率が戦うかどうかを決める訳ではないって言って、消耗した身体で剣を振るっていたわ」
つい最近に戦慄させられた男と、ジルハードの影が重なって見えた。剣だけで高みを目指し、何かを守る為なら無茶をし続ける騎士の姿。成長した事の嬉しさ、そしてその苗をこれから摘み取る悲しみが入り混じる。
「おいおい……俺とサルビア様を一緒にしないでくれ。役不足だ」
「あら?役不足の意味、知ってる?役の方が軽い時に使うのよ?」
肩を竦めた青年へと、言葉の誤用を指摘する。マリーが日本にいた頃から間違いの多かった言葉で、彼も間違えていると思ったのだ。
「ああ。知ってる。俺もサルビア様と同じで、勝率がどうだとかで戦うかなんて決めねえ。最初から全部勝つつもりで戦ってる」
ジルハードは不敬にも、自分より身分の高いサルビアの戦いにおける覚悟を軽いと評した。
「あら……生意気にも彼を超える気かしら?」
「最初から力不足だと諦めるのは、どうかと思うんじゃなかったのか?」
そして、いずれ彼を越えようとも宣言した。しかし、これらは全て法螺ではない。ジルハードが心の底から思っている事だ。
「いい切り返しね。一本取られちゃった。けど貴方、もう既に彼の娘さんにボロボロにされてるけど?」
自分の言葉を利用した皮肉にマリーは笑って皮肉で返すと、ジルハードはこれまた心底嫌そうに顔をしかめた。この男は本当に顔に出やすい。
「これはシオン・カランコエにやられたんじゃねえ。桜義 仁ってやつにやられた傷だ」
「……何かの冗談?名前からして、その子日本人よね?刻印だけで貴方に勝ったというの?それとも私みたいな訳アリ?」
悲しみと嬉しさの中に、驚きが大きく入り込んだ。ジルハードの強さは身をもって知っているが故に、普通の日本人が逆立ちしても敵わない確信があったからだ。仮にあの日から剣を握ってジルハードを超えたのならば、その才はきっとサルビアさえ凌ぐ。
「いんや。純粋な……えーと、日本人ってやつだよ。この眼で直接見たが、魔力はなかった。ただ、刻印を三つ重ねて使い、痛みも無いから馬鹿強化し放題のとんだ化け物だ」
「……信じられないわ。そんな刻印を三つに、限界を超えた強化を常用?日本人にも系統外は眠っているのかしら?」
日本人だという事に目を剥き、刻印と馬鹿強化に更に目玉が飛び出たかと思った。そんな存在、向こうの世界でさえいるかどうか。
「俄然、確かめたくなったわね。で、そろそろいいかしら?」
「ああ、いいぜ。待ってくれた事に感謝して、その恩を仇で返す事に罪悪感を感じてる」
互いに興味があり、話す価値があると思ったが故の会話だった。しかしその間にジルハードは、身体に治癒魔法をかけ続けていた。
「俺の治癒を待った。その甘さが命取りだ」
「私の系統外を考えたら、これでもハンデキャップ……不平等?にお釣りがくるわ。それに全快には程遠いでしょ?」
その事を知りながらも、彼女は見逃し続けていた。不要な油断と甘さと断じるジルハードに、余裕の態度を崩さないマリー。だがしかし、そんな休憩はもう終わりだと、互いの呼吸が告げていた。
「さぁな。ただ、メリアの名をあんな風に使ったのと、ティアモを誑かせて傷つけた事。そして俺の大切な部下の人生を奪った事を諸々考えた結果、お前を殺す事は決めてる」
ジルハードから滲み出るのは、先の姉の名を利用された時以上の、切り裂くような殺気。
「あらあら怖い怖い……ごめんなさい。私もこの街を守る事は決定事項なの」
対するマリーからは殺気ではなく、ただひたすらに守ろうとする意志。
「殺して、守る」
「殺さず、守る」
互いに進むべき道を述べ、同時に動き出す。攻撃の隙を与えまいとジルハードは飛び出し、マリーは先手を打とうと飛び出した。
「……ッ!素晴らしい剣技だわ」
先に投げられた炎刃二つを右手だけで制圧した、想定を遥かに超える彼の剣の速さと鋭さ。それに対し、彼女が受け流しへと転じたのが最初の邂逅だった。
「お褒めに預かり光栄だねぇ!」
その行動に、狙い通りとジルハードは北叟笑む。素直に受け流されるつもりなんて最初から無い。彼は刹那より短い時間で剣の向きを変え、受け流す剣を受け流した。同時、火の玉をマリーの至近距離に置いておく事も忘れない。
「サルビアを越えようと言うのも、分からなくはないわ。けど、まだ弱い」
だが、そこで止められた。マリーが受け流しへと転じた瞬間から編みあげ始めていた炎の壁と火球に、ジルハードは後退を余儀なくされる。炎の壁で火球の爆発までのコンマの時間を稼がれ、大火傷を代償にしての突撃を諦めさせられた形だ。
「私の『確撃』に対処しきれていない」
「かっこつけておいてなんだが、その系統外はやっぱり厄介すぎるぜ」
ジルハードは己の火の玉の爆発を防ぐ為、魔法障壁を張っていた。しかし、それでもマリーの炎壁と火球には撤退せざるを得なかった。
「障壁無効とかありえねえだろ」
それは彼女が持つ、障壁を無効化するという『確撃』と呼ばれるふざけた系統外が理由だ。もちろん、デメリットは存在する。
「どうしたの?サルビアを超えるんでしょう?彼は範囲以外を防ぐわよ?」
それは『確撃』が適用される魔法の範囲は八種類まで、なおかつその規模によって再使用まで時間を要するというもの。だがそれでも、魔法以外の攻撃に関しては一切制限がない事などを考えると、余りにも莫大なアドバンテージだ。
「やっべ。それはもう心が折れそう……だなっ!」
ジルハードは間髪入れず、傷口から血を噴き出しながら再度の突撃を試みる。炎刃と火球は約一秒、炎の壁は三秒という制限があったはずだ。回復するまでに攻め続け、相手に一切主導権を渡さないまま崩す以外に、『確撃』を攻略する手段は無い。
「無理はしない方がいいわ。傷口が開いてる」
「はっ!止まってやられる方が無理ってもんだ!」
一度でも防御に回れば、もう切り返しは不可能だ。『確撃』を防ぐのに両手と魔法を使わされ、選択肢を削がれ続ける。僅かでも傷がつけば『残傷』で治癒を封じられ、消耗を強いられる。まさにアリジゴクの巣だ。
「その元気、どこまで持つかしらね」
系統外の掛け算が齎すのは、絶対不可避の刃で付けられた傷は治癒不可能というふざけた答え。その上、何も考える間もない速さでマリーを殺さないと、『残命』によって魔力も身体も全快される。
「いつまでもだよっ!」
そんな化け物に、ジルハードは負傷した身体で挑んでいるのだ。周りから見れば無茶にして無謀である事は間違いないし、実際そうだ。
「古い傷も新しい傷も、大丈夫かしら?」
近づかれないように立ち回るマリーの思惑を、ジルハードが剣技で破って近距離で振るおうとすれば、再使用可能になった炎の壁に阻まれる。最中、マリーは火球の爆発と炎の刃も忘れず、彼の身体に傷を刻んでいく。
「ははっ……!本当に化け物だな」
火の粉を吸って焼けるように痛い喉。焼かれた傷。現在の戦況にジルハードはマリーの強さを評する。化け物に違わない、と。
「じゃなきゃ理想は貫けないわ。私からすれば、何の系統外もないのにこの強さの貴方の方が化け物に感じるのだけれど」
頬と腕に付けられた深い斬り傷に、マリーも彼を同じように評価する。彼の剣に対して、炎の壁の再使用時間が少しずつ遅くなっているのだ。正しく言うならジルハードがマリーの動きの癖を割り出し、慣れ始めた。
「私の動きはもう見抜かれてきてるわね」
「さっき戦った変な忌み子なんかよりは、あんたの思考はずっと単純だ」
強すぎる系統外故、マリーの戦闘はどうしても大味なものになってしまっているのだ。複雑に策を張り巡らし、六手七手先を読むような剣技を振るわずとも、ただ一撃二撃で戦いが終わってしまう。マリーの前で長時間戦える人間は、片手で数えられる数しかいなかった。
「知らないの?シンプル・イズ・ベストって言葉」
「あ……?」
だが実際、マリーの攻撃は本当に一撃で戦いを終わらせるのだ。
「やばい!逃げろ!」
戦いを俯瞰的に見つつ、マリーの心を読んだティアモが思わず叫ぶ。だがそれはもう、余りにも遅すぎる叫び。
「最大範囲の再使用が、可能になったの」
そう。数十メートルの範囲を不可避の炎で包み込み、任意の箇所だけを焼き切る大魔法が。
「くそっ……!」
「その両腕、焼き切らせてもらうわ」
発動の前にと、ジルハードはマリーへと全ての防御を捨てた突撃をかける。だがそれは、意味のない攻撃だ。何せマリーは……一回殺したくらいでは、死なないのだから。
「『黄色の絶望』」
「ジルハードォォォォォォォォォォォォォォ!」
絶対不可避にして治癒不可能、術者を殺して止めるのも不可能な、絶望の魔法が再び吹き荒れた。
誰かを傷つける事が、嫌いだった。人を守る為に剣を振るうと何度言い聞かせても、頭は聡くて心は愚かな自分は気づいていた。
結局自分は、何の罪も無い人を斬り続けているのだと。
「私は殺すよ。それで大切な私の世界を守れるなら、誰でも何人でも。虐殺者、悪魔なんて呼ばれてでも、守りたい物を守るよ。それが私の意味だから」
そして、憧れた。他者をどれだけ巻き込んででも、大切な世界を守ろうとした姉に。どうやったら、あんな風に強く生きられるのか。
「もう慣れちまった。俺にとって生きる事は、殺す事だったからな。だからそんな苦じゃねえよ。けど、これは羨ましがる事じゃねえ。何せ逃げだからな。向き合うお前のがよっぽど偉い」
そして、羨んだ。自らが生きる為に何十人何百人と斬り捨てて生き、殺す事に慣れてしまった男に。どれだけ斬れば、慣れるのか。
「私はもう、誰も殺さないと決めたの。だって綺麗事って綺麗で、素敵でしょ?最善を目指して、私は誰も死なない戦争を続けるわ」
そして、嫉妬した。誰かを守る為に剣を振るうも、決して命を奪わない『勇者』の生き方に。どれだけの強さと意志があれば、貫けるのか。
「……能力に制限をかけて真贋の判定だけして、分かった。みんな本気で願ってる」
念じるだけで他人の心を読める自分には、他者の押し殺した感情が透けて見えた。やましい欲望も、いやらしい下心も、淡くて切ない恋心も、隠そうとした絶望も、全部が目の前にあった。
「みんなの心は、分かる。でも、私は……私の心が分からない……」
だけど、心が読める彼女の心の内を読み切る人間は、誰もいなかった。だから誰も、彼女が戦いの度に負う傷に気付かなかった。
「忌み子を殺すのは、仕方の無い事」
人は皆、誰もが己の選択を正しいと信じて生きている。後で間違いだった事に気づく事はあれど、最初から完全な間違いに突き進むことはない。仮に、間違いだと頭で思って進む時は、心のどこかでその選択に正しさを見出している時だ。完全な間違いではない。
「私のしてきた事は、正しいのか?」
だが人は、己が開いてきた道の苦しさに時折振り返ってしまう。後ろに続く道の形は人それぞれだが、ティアモの道は黒髪の髑髏で編まれた道だった。そしてそれは、これからの未来も。
「間違いじゃない。守る為には斬るのは、正しい」
その道の先に、平和な世界という救いがある事を信じて、言い聞かせる。
「……けどもう……辛い……」
だけど、足はもう立ち止まりたいとすっかり重くなっていた。手にこびり付いた血は、何度洗っても取れてくれない。正しさを振りかざして斬った無実の人々の最後の心が、ティアモの頭に一人一人焼き付いて離れてくれない。
「みんな……ずるい」
憧れ、焦がれる。自分以外の誰かに。殺人を犯しても気丈に戦える強さに。殺人を犯しても平気で肉を食べられる強さに。殺人を犯さずに誰かを救える強さに。
「……私はもう、斬りたくない……」
そして、願う。平民の町娘のように、誰も殺さず、殺されず、普通に生きれる事を。普通に働き、普通に恋をし、普通に結婚し、普通に家庭を築き、普通に子を育て、普通に喧嘩し、普通に老い、普通に死ぬ。そんな普通を。
「シオンも同じだった。でも、違う。彼女の普通は私達が奪ったもの」
忌み子からその普通を奪い去った自分が、何を願うのか。冷たい自責と焼ける想いは幾重にも積み重なり、まるでじわじわと熱を持ち続ける木炭のように、心の中に隠され続けた。
「私は酷い人間だ。だから、人を殺せる」
自分を非情にして強い人間であると思い込む事で、人を殺す事への罪悪感を減らしていた。弱くて臆病な自分に気付いてしまえば、剣が持てなくなってしまうから。
「貴方は私と同じくらい甘い」
しかし今日、木炭に火が点された。
「『勇者』の名を渡そうと思っていたの」
憧れから優しいと言われ、名を譲ろうかと提案された。常人なら喜んだかもしれないが、ティアモはその熱に苦しんだ。
「名を、継げば」
喉から手が出るほど憧れた生き方が、目の前にあるのだ。その名を継ぎ、誰も殺さない誓いを立て、実行する。それだけで、ティアモは楽に剣を振るう事ができる。
「そんな生き方が、できるのなら……!」
当然、今までの罪は消えないし、騎士団長を辞さねばならないだろう。何より、そんな理想が自分に務まるかも分からない。だがそれを考えても、魅力的すぎる提案だった。
「思ったら、止められなかった」
部下の人生を奪われた怒りを止めらなかったのと同じ様に、心が望んだ。元より、条件如何によっては忌み子に停戦を持ちかけるほど戦いを望んでいない。忌み子を殺す事は誰かに任せ、『勇者』の様に第二の救世の手段を探したかった。
「あ……」
コップの水の中に一滴、渇望が落ちた。それはすぐさま水に溶けて広がり、水の色を侵食していく。幼少の頃から握り、最早身体の一部と化していたはずの剣が手から滑り落ちそうになる。
「これは、試練?」
『勇者』は先と変わらず、ティアモの手脚を奪おうとしている。奪われてしまえば、ティアモは『勇者』にはなれない。本気でない『勇者』に負けてしまう程の強さしかないのなら、ティアモは『勇者』にはなれない。
「それが、理想だけを目指す生き方ができる強さの境界線?」
自分に勝つ事が『勇者』を渡す条件だと、マリーの剣は語っていた。しかし、未だに心が迷っているティアモの剣は鈍く、重たいまま。今まで積み上げてきた自分が、変わる事を恐れていた。
「貴方の業を終わらせてあげる」
ティアモが『勇者』を継いでも、手脚を落とされても変わらない事が一つある。それはもう、ティアモが人殺しをしなくてもいい事だ。
「私は……」
矛盾とは、実在する。己の業からの解放される喜びと、他者に己の業を押し付ける罪悪感。肯定と否定が混ざり合ったティアモの心の様に。
「どうしたい?」
その矛盾がティアモの剣をギリギリで引き止め、振るわせていた。己の手脚の有無なんて、全く頭に無かった。それ程までに彼女が進んできた道は、進もうとする道は辛かった。
「負けようと、しているのか?」
誰も見ていないここで負ければ、名誉の負傷として堂々と愛しい人に守られて生きる事ができる。平民とまではいかなくても、普通を手に入れる事ができる。
「勝とうと、しているのか?」
ここで勝ち、姿をくらませれば、己が願った救い方を実現できる。目指す場所は同じでも、今までよりこれからよりずっと楽な道を行く事ができる。
「分からないけれど、救われたい」
汚くて惨めだと、自分でも思う。逃避だなんて分かっている。けれど、ティアモの剣はもう折れかけていた。
「誰か……」
「守りてえもの、思い出せ」
その言葉に、脳が焼き切れたかと思った。知性が言葉の意味を理解するより先に、従った。
甘々で親バカで、けれど叱るべき時はちゃんと叱ってくれる父親。からからわれてばかりだけど、本当は優しくて頼もしい部下達。
ティアモが憧れ焦がれ、守ろうとした普通に生きる人々。
そして、自分を守ってくれて、いつか守りたいと願った姉と愛した人。
「お姉ちゃん、頑張っちゃう!」
一人はもういない。ティアモ達を守る為に、元から少なかった命を全て使い切った。
「見てろ」
もう一人は、ティアモの道を示す為に無謀な戦いを挑んだ。
そして彼は今、灼熱に身を焦がされている。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
つん裂くような、叫びだった。同じ炎の中、一切害される事はないティアモが伸ばした手の先で、男が腕だけを焼かれていた。
「やめろ……!やめて、くれ……!」
剣士にとって、腕は命。だからマリーはその命を奪い、ジルハードを戦場を奪おうとした。
「騎士としての貴方はもう、いない」
ティアモが止めても意味はなく、焼け焦げていく。指の先から溶けて焦げて焼かれて無くなっていく。生まれてから一緒だった腕が、死んでいく。今まで培った技術も何もかもが詰まった腕が、消えていく。
「私一人くらいの道連れまでは、惜しかったわ」
『勇者』の首まで残り3m。そこが、ジルハードの腕の墓場だった。
「はっ!何言ってやがる」
しかし、彼の墓場はここではない。炎の中で膝をつき、俯いていた顔を上げたジルハードの瞳は、未だ光を失っていない。
「まさかっ!?」
「待ってたぜ……この時を……!」
光に気づいたマリーが次の手を打つ前に、ジルハードは一歩踏み出して3mの距離を詰める。無き腕の代わりに魔法で作った土塊の腕で、力強く愛剣を握り。
「俺の剣は、まだ折れてねえぞ」
己の道に従い、振るわれた阻む物無き最高の一閃は、マリーの首を宙へと舞い上がらせた。
『確撃』
かくげき。『勇者』マリー・ベルモットが所有する系統外。全ての物理攻撃及び、一部の魔法攻撃に障壁の貫通を付与するという、理不尽にして反則級の強さを持つ系統外。
障壁ありの立ち回りが基本の世界で、刃なき名剣だけがそれを貫き、粉々に壊してしまった。彼女と戦う時、うっかりいつも通り障壁ありきの戦い方をして仕舞えば、たちまち四肢を焼き切られてしまうだろう。
もちろん、何も制約がないわけではない。剣や槍などの物理攻撃は全て障壁無効が付与されているが、魔法攻撃はマリーが事前に設定した八種類のみ。そしてそれらの魔法を一度使ってしまったのなら、再度使用可能になるのに時間がかかってしまう。再使用可能になるまでの時間は魔法の規模によってそれぞれ違う。
ここで、今現在マリーが設定している八種類を紹介する。
一つ目は炎の玉。追尾させることも爆発させることも可能。再使用可能時間は1秒程度。
二つ目は炎の刃。宙に浮かせ、握らぬまま振るうことができる。再使用可能時間は1秒程度。
三つ目は炎の壁。立て直しにもとっさの防御にも目くらましにも使える。再使用可能時間は3秒程度。
四つ目は炎の槍。魔力の量次第だが、遠距離の相手にも届く。ある程度、向きを操作することもできる。再使用可能時間は5秒程度。
五つ目は風の解放。相手もしくは自分を吹き飛ばし、距離を取る目的で主に使用。再使用可能時間は2分程度。
六つ目は熱線。圧縮した炎の線で、非常に高い貫通力と速さを誇る。再使用可能時間は15分程度。
七つ目は中範囲の炎の嵐。規模は数メートルと狭いものの、範囲内のもの全てを焼き尽くす。再使用可能時間は5分程度。
八つ目は最大範囲の炎の嵐。規模は数十メートル以上。発生が僅かに遅いが、見てから避けることは不可能に等しく、ほぼ必ず手足を奪い去っていく。再使用可能時間は20分程度。通称『黄色の絶望』。
今現在はこの八つ。しかし、前日の夜までであれば入れ替えが可能であり、翌日の戦いに応じてマリーは選んでいる。なお、入れ替えを決めた前日の夜から日が昇るまで、入れ替えた箇所は使用不可となる。
単体でも強過ぎるというのに、マリーの持つ他の系統外と合わさることで、「障壁による防御不可能および治癒不可能の傷」と、凶悪ですら生ぬるい性能となっている。もしマリー以外が持っていたのなら、世界にはもっと多くの死が溢れていただろう。
余談ではあるが、かつて同じ系統外を所有していた剣士がいたそうだ。魔女によってあっさり滅ぼされてしまったが。




