第8話 温もり
話し合いを終えた二人は、手始めにスポーツ用品店部屋へと向かった。この世界で生き抜く為の、食料などを入れるものが必要だったから。
「これたっくさん物入るね〜。仁だって入れるんじゃない?」
「馬鹿言うなよ。いくら何でも……あれ、いけるか?」
まず仁と香花は、容量約80リットルの登山バッグを手に取った。さすがに仁も香花も入るのは無理だったが、それでも大容量だった。
「こんな可愛い色もあるんだね。緑もある!」
「ここも安全じゃないから、なるべく早めにな……黒、いいな」
副産物は、オーガを殺した時にもお世話になった、腰に巻くタイプの小さなポーチ。これなら戦う時にも邪魔にならない。予備を含めて一人二個ずつ、盗んだ。
「……本当、楽しいな」
違う色のがいいんじゃない?と笑う香花を見て、仁は聞こえないように小さく、笑う。世界が変わり、仲間を失ったあの日以来初めて、笑って話して明るい気分になることができた。
水と食料はもしものことを考えて、それぞれ三日分ずつ詰め込んだ。よほどの田舎でもない限りどこかにコンビニの亡骸でもあるだろうし、それだけあれば十分だと思っての判断だった。
「大容量って思ったけど、これだけ入れればもうパンパンだね」
「最低限しか詰め込めなかったのが痛い。本当は最大限詰め込みたかったんだけど」
他に詰め込んだものは、方位磁針、包帯、消毒液、絆創膏、生理用品……などなど、これから必要になりそうなものを最低限。あとは携帯と、太陽光で充電できるバッテリー、それに着替えとレジャーシート。
仁は使い慣れたコンパスや包丁を。香花はゴブリンから奪った棍棒を、自らの武器にした。どちらも貧相なもので、ファンタジー小説に出てくる武器とは程遠いが、そこらのゴブリン数匹には十分だった。
「無茶はしない約束な。ゴブリン見てもすぐ逃げる。他の魔物見てもすぐ逃げる」
「分かってるって!……死ぬのは、私も嫌だし」
ゴブリン以上の強さを持つ相手とは戦わないように決め、オークやその他の魔物を見たらすぐに逃げることを徹底した。
夜は空き家に入って見張りを一人、部屋の外に立てて交代交代で警戒を続けた。
「入ってこないでよー!もし変なことしたら警察呼ぶから!」
「警察いねえし、へ、変なことなんてしねえよ!」
仁としてはある意味苦行を強いられたのだが。それも持ち前のヘタレ根性で乗り切った。せっかくの仲間との絆を失ってはならない。
失ってはならない、のだ。
「……本当に、行くの?」
「うん。どうしても、確かめておきたいから」
ドアの前に立つ仁を、香花が心配そうに引き止めた。耐えられるのかと、背後の彼女が問う。しかしそれでも、仁の思いは変わらない。
「もしもってことが、あり得るし」
「……そう、待ってようか?」
「一人じゃ危ないから、できたら離れたくはないかな……どうしても嫌なら」
「ん、私も行く」
ついてくると言った香花に頷いて、仁はドアノブに手をかける。鍵は無理に壊された様子もなく、かかっているわけでもない。結果が分からないのが怖くて、そして最悪の結果が怖かった。
「……はぁ……」
立ち止まっていては、何の意味もない。いつかは、受け入れなければならないことなのだから。頭ではそう分かっていても、心と身体は拒絶していて、あと一歩がこんなにも遠い。
「……えいっ!」
「いだっ!?……ありがとな」
「男でしょ?頑張って」
だから、香花の励ましの一手が、とてもありがたかった。押されたその手に、感じた背中に最後の決心を決めた仁は、脚をもう一歩前に踏み出し、
「ただいま」
少しずつ開く桜義家のドアは、住人をいつもと変わらない、ガチャリという音で出迎えてくれた。
「……」
おかえりという声は、なかったけれど。
「まだ、予想の範囲内だ」
生きている人間はもうこの家にはいない。充分にあり得ることだ。あの惨事や魔物を見て、どこかに避難することは、決して間違いではないのだから。
「ちゃんと靴、揃えるんだね」
「習慣になってるんだ。いつも怒られてたから」
仁はいつものように、変わらない日常のように、靴を脱いで綺麗に揃えてから、廊下を進む。血痕もなく荒らされた様子もなく、ただ埃だけが積もった廊下。魔物が忍び込んだにしては綺麗すぎるほど。
「ない」
僅かな希望が大きくなった。年中土足のゴブリンやオークがこの家に入り込んだなら、廊下に必ず足跡がついているはずだから。
「……ははっ……」
そんな淡い希望を、リビングに散らばる窓ガラスのように、世界と運命は残酷に粉々に、バラバラに叩き割った。
「そうだよな。魔物に礼儀なんて、あるわけないよな……!」
侵入口が玄関だけであるわけがない。奴らにそんな常識、求めるだけ無駄だ。
「ちくしょうが……!」
木のタイルに散らばっているのは、透明と白の窓ガラスだけじゃない。赤々とした血が、点々と床を水玉模様みたいに彩っていた。
「お母さん……!お父さん……!」
一番大きな血だまりは、仁の身体なんかよりもずっと大きくて、とっくの昔に乾ききっている。その上には、見慣れた服が破れて張り付いていた。
「本当に……この世界はぁぁ……!……っ……」
死体は無くても、血の量と服を見ればすぐに分かる。二人が死んだことくらい、分かる。理解が追いつくと同時に、仁は膝から崩れ落ちた。
「……?」
「私も、きっと同じだから」
涙で足元の血が溶け、それさえ含めた世界が霞んでいく中で、仁は全身に暖かい感触が密着したのを感じた。
「だけど、私はいるから」
ぎゅっと、香花に抱きしめられていた。まるで私がここにいるよ、一人じゃないよと、仁に教えているように。
「仁の気が済むまで待っててあげるし、こうしてあげるから」
救われていた。その感触に、暖かさに、存在に。仁一人なら、泣いて暴れて泣き喚いて、我を失っていたところを魔物達に見つかって、食われていたかもしれない。そうでなくとも、仁の精神は壊れていたことだろう。
「泣いていいよ」
「うわ……くっ……うううあああああああああああああああああ!」
彼女の言葉は、仁が心から欲していたもので。彼女の一言で、今まで耐えていた全てが壊れて溢れ出した。
「……ありが、とう……ごめん……」
仁はしばらくの間、泣き続けた。よしよしと背中をさすってくれる手と、彼女の気遣いに甘えながら。
「……本当に、ありがと。あと、こんな時間かけて、その……ごめん」
「別にいいの。こんなの、泣くのが普通なんだから。まだ、いていいよ?」
「いや、いい。もう、ある程度整理できたから」
仁はあれから一時間以上、涙が止まるまで泣き続けた。まだ心の中はぐちゃぐちゃで、悲しさと恨みと怒りがごちゃ混ぜになっていたけれど、これ以上の長居は危険だった。
「それに、ここにいると、また泣いちゃいそうだから」
「……じゃ、行きましょうか。服も誰かさんのせいで汚れちゃったから、着替えたいし」
「……う……ご、ごめん……」
真正面から強く抱きついてわんわん泣いたなら、服に鼻水だの涙だのつくのは当然のこと。
「冗談よ。仁って真面目だから、すぐに本気にする」
「しょうがない、だろ。そういう性格なんだから」
冗談の通じない、よく言えば素直で真面目、悪く言えば頭が固くて騙されやすい、本人も気にしている性格。
「これくらい、読めるようになりなさい。それにこんなの気にしないわよ。だから、また泣きたくなったら、どうぞどうぞ」
「……今のが冗談ってことか?」
そんな自分を少しでも変えようと香花の言に従い、学習したぞと仁は内心胸を張って答える。どちらにしろ、指摘した箇所を正そうとする姿勢は真面目なのだが。
「うんうん。本気よ。まだまだね」
「……分からない……!」
それでもやっぱり仁は、彼女に敵わなかった。でもそんな彼女の、両親のことを考えさせないようにわざと明るい話をしてくれる気遣いが、とてもありがたかった。
折り合いなんてつかないし、整理なんてできるわけもない現実。でも、それと向き合っていこうと仁は思い、家を出た。
家を訪ねてから三日後。今日の見張り当番の仁は、周りに変化がないかを警戒し続けていた。
「ん……暑い?」
彼が気づいたのは、窓から漏れる異常なまでの光と不自然な暑さ。明らかに普通じゃない。時計を見ればまだ二時で、陽が昇るような時間じゃない。
「起きろ!香花!」
「きゃっ!仁、あんた本当に……!」
「んな馬鹿なこと言っている暇はない!とにかく起きろ!じゃないと死ぬぞ!」
とんでもない勘違いをした香花を引っ叩き、無理矢理目を覚まさせる。すでにまとめてある荷物を担ぎ、急いで外へ。勢いよく開けたドアの外の世界を見て、仁は固まった。
「嘘だって言ってくれよ」
街が燃えていた。真っ赤に、煌々と、黒々とした煙を月に届かせて。
「魔物がなんか触ったか?」
「冗談じゃないわよ!あいつら全員丸焦げになるのは構わないけど、私達まで巻き込まないでほしいわ!」
予想と目の前の現実に、香花は怒りを露わにする。そんな彼女を意識の外で見ながら、仁の頭は現実性のあるものからないものまで想像を張り巡らせていく。
しかし彼が答えを出すより早く、答えの方から姿を見せてくれた。
「『魔女』はどこだ?」
「し、喋るド、ドラゴン……?」
香花が呟いたまさにその通り、遥か遠くに浮かぶ巨大な影。大きな翼に重なる鱗。口から覗く牙は、どれだけの大きさなのだろう。赤い身体を炎の中で踊らせる化け物。本能が危険だと警鐘を鳴らし続ける。その龍が、真紅の炎とともに言葉を吐いていた。
「えっ魔女ってなによ……なんでそんな訳の分からないことで、私達の街が燃やされなきゃならないの……!?」
発声器官がどうなってるだとか、なぜあの龍は『魔女』とやらを探しているのか、そもそも魔女とは誰なのかなど、疑問は尽きない。だが、
「訳分からないけど、分かってることは一個だけある!速く逃げるぞ!」
ここに長居すれば、死ぬ。放心している香花の手を引き、仁は全速力で走り出した。向かう先は龍の反対方向で、まだ街で燃えていない方角。少しでも足を緩めると追いつかれてしまいそうで、いつ炎に巻かれやしないかと怯えながら走り続けた。
「ちょっと……休憩だ」
「同感だわ。もう走れない」
たまに休憩を入れつつ、二人は必死に走り続けた。街を離れ、現在地は高速道路の上。まだ油断はできないが、ひとまず龍と距離が置くことができた。
「……」
ふと、振り向いた視界に映った光景に、彼らは言葉を失う。生き地獄を見てきた仁だったが、これは本物の地獄そのものだった。
「現実なの……?」
燃え続ける炎が建物を焦がし、熱風を巻き上げる。空を舞う龍の口内が赤く光ったかと思けば、新たな業火が吐き出され、街の一帯が焼き尽くされる。望んだ破壊のはずなのに、龍はどこか不満そうにその様子を眺めていた。
月を背に浮かぶ赤き巨体は、いっそ幻想的と呼べるもの。火の大草原も絵や想像であったなら、いかに美しかったことだろう。
「……全部夢だと思いたいけどさ。現実だろうよ」
だが、これは現実なのだ。時折聞こえる人の悲鳴が、否が応でもそれを教えてくれる。ここは地獄だと。
「あ……」
新たに吐かれた炎に思わず、仁は声を漏らす。あの辺りは確か、自分の家があるはずだ。家族も思い出のある家までも、この世界は奪い尽くした。
「あの龍……!」
枯れ果てたと思った涙が溢れてくるのを拭いながら、怨嗟を吐き捨てる。
「ねぇ……仁。これからどうしよう。食料とか、あと二日分しかないよ……?」
しかし復讐に塗れるより、現実を見なくてはならない。香花の不安通り、コンビニやスーパーなどはほとんど燃えてしまったことだろう。数軒くらいは残っているとは思うが、あの龍のいるところに戻るなど自殺行為もいいところだ。
「……多分だけど、高速道路に沿って進んでいけば、サービスエリアに出るはずだ。そこで補給しよう。この街にはもう戻れない」
「うん……」
喪失感で立ち止まりそうだったが、仁は無理矢理厳しい現実を見て、自分を追い詰めることで立ち上がった。失ったものはどう足掻いても戻らない。ならば、今あるものを守ることを優先すべきだ。
「本当に……最低な世界だ」
滅びゆく故郷の最期に背を向けながら、仁は最後に静かな怒りを吐き出した。
二人は、新たな目的地へと歩き出した。
「大丈夫か?香花?ペースを落とした方が……」
「嫌よ。こんなところで止まってたら、それこそ死んじゃうわ」
「でも、おまえ脚が」
故郷の街を後にしてから、五日間が経った。三日もあれば最寄りのサービスエリアには辿り着けるだろうと思っていたのだが、予定は大幅に狂ってしまっていた。
時は遡り、街を出て半日後。サービスエリアを示す標識を見つけ、二人の足取りは少し速くなる。少しでも休みたいという思いが、自然と足を速めるのだ。
「ストップ」
サービスエリアまであと少し、というところで、仁が足を止めた。香花が不思議そうな表情でこちらを見てくるが、それだけの理由がある。
「待って。様子を見てくる」
ガードレールに身を隠しながら、仁はサービスエリアの様子を伺う。
「うっ……」
正しくは、サービスエリアだった場所だろう。運転をする者にとっての休息所だったはずの場所は、見る人に恐怖と嫌悪を与えるオークの巣へと様変わりしていた。
「……くそっ」
豚の鳴き声が不快に共鳴し、恐怖に耳が痛くなる。槍の先に吊るされた死体のパーツは、まるで作りかけのフィギュアのよう。齧られた途中で投げ捨てられた死体は内面を外へと曝け出し、そこに虫と思しき黒点がたかっていた。
不快。気持ち悪い。最低。醜悪。グロテスク。これだけの言葉でもまだ足りないくらい、最悪な光景で。
「ああは、なりたくない」
そして、この世界での人の死の、成れの果てだった。
「……無理だな」
オークの数は、ざっと見三十超える程度。二人でどうこうできる数ではない。
「大丈夫だ。奴ら気づいてない」
「魔物がいるの……?」
仁の手招きに応じ、そろりそろりと忍び足で背後に隠れる香花。補給が出来ないことを察したのか、その表情は暗い。
「大丈夫。ここのサービスエリアはダメだから、次のところに行かないといけない。気づかれないようにそっといけば……」
仁はここで、大きな勘違いを犯していたことに気づいていなかった。このサービスエリアの光景は、常人が見れば間違いなく悲鳴をあげるようなものだ。
彼は仲間の死体や打ち捨てられた他人の死体を見過ぎて、心が麻痺していた。だからこんな光景を見ても、悲鳴の一つも上げず冷静でいられたのだ。すでに仁の頭の中では、次のサービスエリアに向かう考えが試行されている。
「そんなにいるの?どれく……」
彼は、香花も自分と同じだと勘違いしたのだ、彼女はきっとこの光景を見ても、自分と同じように声をあげたりしないだろうと。
香花は、こんな光景に慣れてはいなかったと言うのに。
「ひ、ひいいやああああああああああああああああああああああああああああっっ!」
「香花!?」
同じように数を確認しようと覗き込み、目の前に広がる悲惨な光景を見てしまった香花が悲鳴をあげた。驚く仁が口を抑えるが、もう遅い。オークが一斉にこちらを振り向き、目があってそして。
「香花!高速から降りるぞ!」
「う、うん。なんてこっちに来るの!?ねえ!私美味しくないよ!」
お前が叫んだせいだと責めたいが、そんな暇も意味もないと我慢する。確かに香花の失態ではあるが、あの光景を見せた仁にも非がある。冷静な仁の方が壊れていて、それに自分が気づいていないだけで。
「美味しいとかいいからっ、速く走れって!」
疲労が溜まった足に鞭を打ち、二人は全速力で駆け出した。オークは新たな獲物を見つけたとでも思ったのか、弾かれたように追いかける。
「あそこだ!あそこを越えれば!」
目指すは、高速道路に設置されているコンクリート製の防護柵。あれを乗り越えれば、高速道路から降りれる。
「えっ!でも……」
「奴らは豚らしく体の割には短足だ!なんとかなる!他に案はないだろ!直線じゃいずれ追いつかるぞ!」
2m近い体躯を誇るオークだが、豚の特性をしっかり受け継いでいるのか四肢は短い。故に仁は、オークは柵を越えれないだろうと予測したのだ。
「あっ……うがあっ!」
左手で柵に手をかけ、1.5mの柵へと仁は挑む。背中のバッグが重みとなり、背中の筋肉が軋むがそれを耐えて、
「うおおおおおおおおおおおおおおお!……よっし!」
大声をあげれば力も出るという、どこで見たのか分からない知識に頼って柵を登りきる。
「いっで……」
頂点に立つやすぐさま飛び降り、柔らかな土の地面に着地。足を衝撃が襲い、蹲りたいが、今はそれどころではない。
「っ……早くっ!」
それより香花だ。振り返って防護柵を見上げるが、まだ彼女は現れない。
「こんなの、無理だよ……」
二人を挟む柵の向こうで、すすり泣くような声が聞こえた。迫るオークの足音が、焦りを加速させていく。
「そこを登れば助かる!やつらはその壁を越えられないから!早く!」
「いや……!あんなのなりたくない……!」
希望を餌で釣ろうとしても、現実から、絶望から目を逸らしている彼女の耳には届かない。
確かにそうだ。異常へと変わった世界で異常な経験をしたとしても、その前は平和な世界で生きてきたのだ。そんな世界で生きてきた人間が、突然死が迫ったとして、直視できるのは何割か。
香花はできない方だった。だから腰が抜けてしまった。正しい対処がとれなくて、どうせ夢だという希望に縋った。ならば、
「だったら死ねよっ!そこで喰われるのを待てばいいっ!」
「えっ……」
「痛いだろうよ!頭からばっくりあの臭い口と大きい歯でバリバリすり潰されるのはなぁ!もしかしたら腕を、いやさっきの死体みたいに全身を部位ごとに千切られるかもなぁ!」
「……いや……」
希望しか見ていないのなら、絶望を無理矢理聞かせて現実へと頭を向かせてやる。そう考え、投げかけた言葉は、驚異的なまでの効果を発揮した。
「それだけは、いやああああああああああああああああ!」
先ほどまでとは打って変わり、香花は勢いよく柵をよじ登っていく。生き残りたいという一心で、まるで狂ったかのように。
あっという間に防護柵の上に到達し、後は降りるだけ。オークの群れは間に合わない。後ろを一度振り返って豚との距離を確認してから飛び降り、香花も土に足をつけた。
「やった……!逃げ切った!」
二人がそう確信した時、柵越しにオークの怒声が聞こえてきた。獲物を逃したことに怒ったのか。仁がそう予想し、急いで森の中に逃げ込もうと走り出す。だがそれさえ、遅かった。
「あつぅ……あああああああああああああ?!」
「いったいどうし……槍を投げたのかっ!?」
聞こえた叫び声に振り向いた仁が見たのは、膝に槍が刺さった香花と、辺り一面降り注ぐ槍の雨。間に合わないと悟ったオークは、槍を空へと投げたのだ。確かに槍で手負いにすれば、追い詰めるのは容易なこと。
「香花っ!バッグを頭の上に!」
咄嗟の判断でバッグを頭の上に掲げて盾にし、仁は己の身を守る。木に石をくくりつけただけの槍に、しっかりとした作りのバッグを貫通するほどの威力はない。
「あうぅ……痛い……」
痛む香花も同じように防御姿勢を取っており、刺さったのは最初の一本のみ。投げる物が尽きたのか、槍の雨はまばらに降ってくるだけだ。
「大丈夫……これだけじゃ死なないから……!」
急いで香花に駆け寄り、傷口を確認。貫通こそしていないものの、尖った石が垂直に深く刺さっており、このままでは歩けないだろう。
「ごめん!」
「な、なにを……痛っ…あああああ……!」
だから仁は謝りながら槍を掴み、力任せに思い切り引き抜いた。肉を更に傷つけられ、悲鳴を上げた香花に心底申し訳ないとは思うが、こうしないことには進めなかった。
「立てるか?」
「ちょっと無理かな……肩、貸して……」
「いくらでも貸してやる」
痛みでぐったりした香花の肩を持ち、仁は森の中へと歩みを向ける。見捨てるという選択肢なんて、彼にはなかった。
「邪魔……いや、生きるのに必要だよな。こんなに重いけど」
「私のせいで、ごめん……」
肩を組むときにバッグが妨げになっているが、これを捨てることは命を捨てること同義だ。捨てるに捨てれず、組みにくい肩をしっかりと支えて、二人は重い一歩を踏み出す。
「気にすんな。どう考えても、香花よりこの世界が悪い」
「……もう嫌だよ。こんな世界……」
「俺もものすごく嫌だけどさ、死ぬのはそれ以上に嫌だろ?二人で頑張ろうぜ」
「……うん」
この事態の引き金を引き、文字どおり足を引っ張ったことの香花の謝罪。それを世界のせいにして、仁は彼女の負担を少しでも和らげようとした。
二人は、出せる限りの速度で群れから離れていく。オークたちが必死に柵を破ろうとしているのを背中で聞き、怯えて震えながら。
「やす……も……もう、無理……」
三十分ほど歩いただろうか。撒いたと判断した二人は、腰を下ろして休む。足を怪我した香花も、彼女の体重を預けられた仁も、共に限界だった。
「急に引き抜いて悪かった」
「……いいよ。事態が事態だから気にしないで……本当に、優しすぎるよ」
「普通のことだ。数秒で染みるぞ」
いきなり言われた女子からの褒め言葉に、仁は場所も時も忘れて照れ臭くなる。しかしそんな気はずかしさも、彼女の脚の傷口を見れば霧散してしまった。
「あはっ。今度はちゃんと細く言ってくれて……うっ……」
バッグから消毒液と包帯を取り出し、応急処置を行う。無理して動いたせいか穴から血が溢れており、香花の顔もあまりいい色ではない。痛みのせいか、脂汗も出ている。
「動けるか?」
「……動かないと、ダメでしょ?奴らが追ってきたらお終いだし。それに食料の補給もできなかったから、急いで違うサービスエリアか、街に行かないと……」
彼女の言う通りだった。頼りにしていたサービスエリアはオークの巣に変わっており、何の補給も出来なかった。高速道路に戻りたいとは思うが、オークが追ってきているかもしれない中、戻るなどありえない。
「進もう」
「うん……頑張って二人で生きようね」
進むしかなかった。いつかは補給ができる場所に出れるはずだから。そのいつかがいつかは、分からなかったけれど。
そうして二日分の食料は底をついて今、つまり、オークから逃げて四日目に至るのだ。二人とも二日はなにも食べておらず、体力も限界に近い。幸いだったのは近くに川を見つけ、そこで水の補給ができたことだろう。
迷い込んだこの低い山の出口は未だ見えず、ただ木々が生い茂るばかり。ずっと同じ場所をぐるぐる回っていようで。香花の怪我で早く歩くこともできないことも、大きな問題だった。
「道はどこだ……?それに、ここがどこだかも分からない」
「看板とか建てといてよ……」
低い山で無名、というのが厄介だった。高く有名な山というのは登山客が多く、ある程度道ができていることもある。対して低くて無名な山、今仁たちがいるような山は道があやふやであったり、素人には見つけにくいものが多い。
最も、高くて有名な山でも道に出れるか分からなかったし、生き残れるなんて思えなかったが。
何日も歩き続けた仁と香花の体力は、もう限界に近かった。現代人ではあまり経験しない飢えと、オークの襲撃の可能性が、着実に疲労を蓄積させていた。
ゴブリン一匹までなら、仁一人でも勝てなくはない。しかし、オークとなると話は別だ。
「この幸運。ずっと続いてくれよ……」
幸運の女神にも見捨てられ、何十匹ものオークに囲まれれば、仁達に勝ち目も逃げ場もないのだから。
そして魔物の襲撃以外にもう一つ、仁達を襲うもの。それは食糧難。あまりの空腹に、一度倒したゴブリンの肉を食べるか?という話が出た。
「食べたら何があるか分からないし……でも、いざとなったら食べるしかないか」
「もし食中毒なんかなったりしたら、今度はこっちがいい餌よ」
魔物の肉を食べた場合、人体にどんな影響が出るか分からない、という理由で却下された。
精神の面では、香花が非常に危険な状態にあった。まともな治療もできず、膝の傷が絶えない痛みを与え続け、食事もろくに取れない、オークの襲撃に怯える日々。足の怪我のせいで走ることができず、変わらない景色に苛立ちが募っていた。
対する仁の精神は、ある程度安定していた。彼はすでに、これ以上の地獄を味わっている。確かに辛いが、自分の作戦で仲間を殺した時に比べればまだマシだった。なにより死んでたまるか、死なせてたまるかという強い思いが、彼の足を動かしていた。
方角も分からない、新たな食料のある安全な場所を目指して二人は進んでいたはずだった。
二人はまだ生にしがみついていた。いや、しがみつきすぎていた。
その日の見張り当番は香花だった。今日はかなりの距離を歩いた上に怪我のこともあるからと、
「代わるか?さすがに今日はキツイだろう」
と、仁が紳士な一面を見せる。というより、本気で死なせたくないと思って提案したのだが、
「私のやるべきことだから」
香花に笑顔で断られてしまえば、強く出ることはできなかった。
「そうか。ただし明日は俺が見張りで頼む。その、なんだ。決定事項だ」
「元から決定事項じゃん。かっこつけすぎ」
「……男の子だしな」
少しでも精神的負担を減らそうと、仁はわざと軽い風に演じたが、香花の一言の前に玉砕する。それでも彼女の笑顔を見るに、少しは気は紛れたのだろう。
「……そんな言い方はないだろうに……ありがとな。おやすみ香花」
「おやすみ、仁」
香花本人がそう言うならと、仁はしっかり休むことを決め、礼と就寝の挨拶を告げた。
地面にシートを引き、その上に寝転がる。着替えが掛け布団代わりだ。臭いがキツイが、凍えて死ぬよりは幾分かマシである。
シート越しだが柔らかい土と、暖かな服の感触に挟まれた仁の意識は、徐々に暗闇へと引きずりこまれていった。
夢を見ていた。とても、とても怖い夢。世界が変わったあの日の、仲間達が出てくる夢。仁が殺した仲間たち。守ろうとしたはずなのに、守れなかった者達。
「なんで助けてくれなかった」
裂けた腹から赤い蛇を垂らす少年が、血を吐きながら喋る。
「なんで見捨てたの?」
胸を槍で貫かれた少女が叫ぶ。
「お前のせいだ」
友人の彼女が、先生が、クラスメイトが、生徒が、仲間が、仁を責め立てる。
そのナイフのような一言一言が、仁の心を抉り取る。旅の飢えの苦しみなど、魔物の襲撃の怯えなど、この痛みに比べれば無に等しい。それほどまでに、心が痛かった。
「ごめん!ごめん!ごめん!」
仁には、謝り続けることしかできない。助けれるなら助けたかった。けど、代わりに死ねと言われてもそれは不可能なことだし、もし可能であってもできなかった。
仁は彼らと同じくらい、死ぬことが怖かったから。
謝り続ける仁の前に、手を繋いだ少年と少女が姿を表す。もしかしたら感謝してくれるかもしれないと、淡い期待を抱いて彼らを見る。それほどまでに、なにかに縋りたかった。誰かに感謝されたかった。
そんな虫のいい期待など、裏切られて当然なのに。
「ただの自己満足でしょ?」
「俺たちの命は帰ってこない」
「死者の形を整えてなんになるの?」
幾度なく続く怨嗟の言葉に、仁の心から膿が溢れ出す。少しずつ、彼の心にヒビが入っていく。
気づけば繋いでいたはずの少女の手が落ち、仁の首に添えられる。少年と少女は混ざり合い、仁の友人へと姿を変える。手の位置だけは変わらず仁の首に。
「お前のせいで俺らは死んだんだ。だから、お前も死ねよ!」
「助けて……!お父さん!お母さん!」
親友は、そのまま仁の首を絞めていく。息ができない。両親に助けてと手を伸ばした先には、二人の破れ去った服と血と食われた肉塊があるだけ。仁を助ける人間は、誰もいなかった。
恨み、妬み、悲しみ、苦しみ、憎しみに歪んだ顔の仲間が剣で、槍で、机で、椅子で、コンパスで、シャーペンで、仁を傷つけていく。剣で腹を裂かれ、槍で胸を貫かれ、机に押し潰され、椅子で殴られ、コンパスを目に刺され、シャーペンを首筋に刺され。
最後にもう一人の黒い仁が現れ、こう告げるのだ。
「君はこの世界では生きていけない。だって君は……から、責任を感じてしまう」
途中の言葉は聞き取れなかったが、仁にはなぜか、その空白が分かった。だって、あの影は仁なのだから。
彼の言葉が終わると共に、仁の意識は意思とは無関係に落ちていく。どれだけ足掻いても上へは上がらず、暗い暗い、産まれる前に見た闇の中へと永遠と。
「!?」
夢の中での仁の終わりに、意識が覚醒した。死とトラウマの夢から、現実への帰還。心臓は早鐘を打ち、息が異様なまでに苦しくて、気づいた。
「くる、しい?」
夢の中の息苦しさがなぜ、現実でも引き継がれているのかと。そしてなぜ、自分の身体は思うように動かないのかと。
「ん……?」
何か、暖かい生き物にのしかかられている感触。
そこから導き出されるのは敵襲の可能性。しかしそうであるなら、香花が仁に危険を教えてくれるはずだ。
(香花が何も言えないまま殺された……?)
香花が警告する暇もない程、強い魔物であったのか。そんな最悪の想像が頭をよぎる。今現在、上にのしかかっているのは十中八九魔物だろう。
そう考えると、冷や汗と恐怖が止まらなかった。このたった数秒で背中が汗塗れになる程の、圧倒的な死への恐れ。そして、何度も助けあった大切な仲間を失ったかもしれないという、怯え。この二つの恐怖が、仁の心まで押し潰していた。
しかし、あることだけが気にかかった。
(軽い?)
オークにしては軽く、ゴブリンにしては重いといった重量だ。大きさだけで強さを測るのは良くはないが、それでも希望が見える。
(不意を打てば、なんとかなるか?)
閉じていた瞼を僅かに開け、自分の首を絞めている敵の顔を見た。オークでもゴブリンでもない、その魔物が何なのかを確かめるために。
「う……そ……だろ?」
しかしその十中八九は外れていて、十中二一の顔で。
「なんでお前が?」
仁にのしかかり、首を絞めていた人物。香花の顔がそこにはあった。
「あ、おはよう。仁」
最悪を超えた最悪で、狂気の笑みを浮かべたまま。
『飛龍』
人を超える知能と魔力、優に数十mを超える体格を誇り、天を覆い隠す翼にて空を駆ける覇者。
性格は極めて温厚にして善。いたずらに力を振るうことはせず、遥か古に結んだ盟約により、とある者の助けのみに従うとされていた。飛龍の谷と呼ばれる、どこの国にも属さない場所で暮らしていたとされる。
しかし、『魔女』と『魔神』の襲撃により、たった数頭を残して死滅。残った数頭も好事家に狙われる、病にて死に絶え、現状生きて姿が確認されているのは一頭のみ。
あまりにも寿命が長すぎる為、不死ではないかと勘違いされることが多かったが、確かに寿命は存在する。だが、寿命が長すぎるが故に繁殖はほとんど必要なく、個体数は極めて少なかった。数年に一頭生まれるかどうかであり、生まれた雛は種族みんなで可愛いがる。
炎を生成する器官から、人では届かぬ天より灼熱の炎を降らせる。近接戦においても、人と同じ大きさ牙と爪で敵を蹂躙する。硬い鱗によって、殆どの兵器や魔法は弾かれる為、通すには凄まじい技量が必要。魔法に精通していた個体もいたらしい。
また、その巨体のせいか非常に大食らいであったとも知られ、大食漢のことを「飛龍の腹の持ち主」と呼ぶこともある。