第71話 騎士と聖女
部屋の前に立ち、独特のリズムのノックを扉の向こうの空間に響かせる。この部屋の主の事を考えれば余り意味の無い行為であったが、剣を捧げた主人からの命令なら従うしかない。らしい事をしたいと寂しげに、珍しく恥ずかしそうに笑う彼女が言っていた。
「いいわよ」
「んじゃ、失礼」
小さめだが嬉しそうな声に促されて、部屋の中へ。視界に広がる、品のいい調度品が丁寧に並べられたこの部屋がジルハードは好きで嫌いだ。好きな理由は、彼女がいつもここにいるから。嫌いな理由は、調和のとれたこの部屋がまるで檻のようだから。
「ねえジル。明日は大雨だから、残念だけどお出かけは中止ね」
ベッドの上。深い海のような髪が、陽の光に照らされている。こちらを向いて微笑んだのは、優しい柔らかな顔立ちの美女。眠れないのか、目元のクマが少し目立っていた。
薄い寝巻きを押し上げる女性的な身体付きは、非常に目の毒だ。その事を分かっているのか、彼女はわざと見せつけるようにしてくる節がある。ジルハードが目を逸らすところまで計算内だろう。
「今は雲一つない快晴なのにか?天気を当てるのが上手い庭師の爺さんも、明日は晴れとか言ってたんだけどなぁ」
彼女の口から告げられた天気予報と、その影響に気が沈む。ずっと前からティアモが楽しみにしていたというのに。ついさっき、長生きで物知りの爺さんに明日の天気を聞いてきたくらいには、ジルハードも楽しみだった。
「あら?私が信じられない?これ、みんなの為兼お金儲けにならないかしら?私が天気を当てるの」
「外れたらえらいことだ。それこそ槍の雨が降る」
冗談めいた口調で、彼女の願いが呟かれる。「冗談でも言うな、どうなるか分かっているのか」という言葉を彼はぐっと喉から腹へと仕舞い、同じく適度な冗談めいた願いで言葉を濁す。
「まぁ、いいさ。で、明日はどうなるんだ?」
「分からないわ。ただ、同じくらい楽しみな事になる事だけは、分かる」
外へのお出かけが中止になり、空いた穴が何で埋まるのか。そう尋ねたジルハードに、彼女は首を振ってから、悲しさの入り混じった表情で笑う。
「久しぶりにいい仕事したな。いい事はいい事で埋まるのか」
あの力は、いつも彼女を苦しめる。ジルハードが斬りたいと願っても、決して彼女から離せない。自分では救えない、異能故の運命。
本当に、今日は久しぶりにいい方向へと働いた。いつもこうだったらと、ぎゅっと結んだ唇の奥で思う。それはきっと彼女も同じだろう。
「多分だけどね。今日は眠らないようにしようかしら。ジル、手伝ってくれる?」
ここ、空いてるわよと。身分に相応しい大きな、それこそ二人が寝転んでも全然余裕なベッドをポンポンと叩き、彼女はジルハードを誘う。
「からかうのは大概にしてくれ。今の俺がメリアに手出したら、親父さんに殺される」
据え膳食わぬは男の恥等という諺を、どこかの本で読んだ事がある。しかしそれ以上に、今の自分が手を出したら恥だと、緩みかけた本能に全力の理性で言い聞かせた。
「むぅ。そういう男の意地だとか情けない言い訳より、女の子の心を優先して欲しいのだけど」
「俺の気が向いたらな」
身分の違い。背負う物の違い。犯した数々の間違い。過去を全てを償い、同じ身分に立つまで彼女は、メリアは自分には遠すぎる。例え彼女に命令されても断る位に遥か彼方。勝手な意地だと怒られても、譲れない位に触れなかった。
「それと」
そろりと音を立てぬように扉に近づき、一気に開け放つ。
「そこで聞き耳立ててる姉思いの妹にも、殺されるからな」
「ひゃっ!?」
「あら、ティアモ。悪い子ね」
晒されたのは、未だ少女と女性の間を彷徨っている短髪の凛々しい顔立ちのメリアの妹。メリアが誘ってきた辺りで僅かに音がしたのを、ジルハードの耳が逃さなかった結果だ。
「あ、あの、私はその……!お父様から、明日お土産楽しみにしてるよと言われて!どれにしたらいいのか分からなくて相談しに来たのですが!」
「抜け駆けだと思った?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
盗み聞きしていた所を見つかって、両手をブンブン振り回して慌てふためいているティアモに、姉から爆発魔法がぶちこまれる。精神と羞恥を吹っ飛ばされ、無言で指を刺したり顔を手で覆ったりと、色々面白い事になっている。
「うちの妹、面白いでしょ?」
ベッドのそばに置かれた専用の椅子に座った赤い顔のティアモを、メリアは愛いと笑う。いつもならジルハードも笑うのだが、
「今回は理由が理由だけに笑えねえよ」
メリアの妹という事は、父も立場も同じであるという事。生ける伝説であるサルビア・カランコエと肩を並べた事もある男が、本気で斬りかかってくるのは背筋が冷える。それにまだ自分は、相応しくない。
「それにしてもとんだ色男ねぇ。他に悪い虫とか付いてないかしら?」
「安心しろ。そこの次期団長のおかげかせいか、みんな雰囲気察して近寄ってこねえよ」
メリアの知らないジルハードの交友関係だが、周りのほとんどが保護者状態だ。人間との付き合い方が苦手なジルハードとティアモを、団員達が暖かい目で見守っているのがグラジオラス騎士団の日常である。ティアモに手を出せば親父がキレ、ジルハードに手を出してティアモとメリアが悲しめば親父がキレと、誰も手を出せないというのも団内ではあるだろうが。
ワイルドな風貌や戦場での武勲、荒々しくも研ぎ澄まされた剣技に、火遊びしようとする貴族や豪商の娘、時々男もいなくはない。しかし、大貴族であるティアモの感情を察するか、ジルハードの素性を知れば大抵引き下がる。グラジオラス家と事を構えてまで、スラム街出身の元暗殺者を好きになる奴は稀だ。
「あら、いい子いい子。私達以外に選択肢が無いようにしましょうねー」
「む、虫除けみたいに言うな!姉上も撫でないでください!そ、それに私はこ、こんな男の事なんか!」
ベッドから手を出して短い髪をよしよしと撫でる姉を力任せに退ける事もできず、ティアモは口先で抗議する。「あ、また墓穴掘ったな」と、ジルハードは飛んでくる流れ弾を警戒。
「なら貰うわねー」
「そ、それは!」
「はぁ。墓穴掘るのが特技の団長か。なんかやらかして、騎士団解体とかされそうだな」
いつもの如く飛んできた困るからかいに、遠い目で団長業務に忙しく励むティアモを幻視。何気ない風を装ってはいるが、ジルハードもなかなかに恥ずかしいのだ。
「大丈夫」
声が、変わった。からかう声から、大切なものを励ます声に。
「きっと、大丈夫。観なくても分かるわ。だって私の妹ですもの」
そう言って最愛の妹を胸元に抱き寄せ、また頭を撫でる。そこに込められた数多の感情は、ジルハードとティアモの拳を、血が出るほど握り締めさせるのに十分すぎるものだった。
「余計不安になった」
「私もです……」
「あ、あら?」
なんとか顔には出さず、茶化して笑おうとする。でも、人付き合いの苦手の二人が、隠すなんて事はできなかった。
「あ、そうそうティアモ。明日は大雨だからお出かけは無しね」
「なっ!……わ、分かりました」
しんみりから話を切り替え、メリアは明日の予定の中止を告げる。顔に大体の事が出るティアモだ。驚いてから沈んだ感情は、手に取るように分かる。
「大丈夫だ。明日は代わりに、お出かけ並のいい事が起きるらしい」
「そ、そうか……うん」
そしてジルハードが教えた新たな未来に、尻尾をぶんぶん振るくらい楽しみにしているのも分かった。
「父上には私から話しておく。ジルハード。姉上に手を出したら、分かっているな?」
キッとした目線を向けてくるティアモだが、口元は少し不安げに揺れている。相も変わらず、隠すのが下手くそすぎる、気遣いのできる主だ。
「あら、混ざりた……いたっ!?ちょっと叩かないでもいいじゃない!」
大貴族の娘にしても、年頃の娘にしてもあり得ないような発言に、ジルハードとティアモが同時に頭を叩く。怪力のジルハードはかなり手加減、ティアモは強化無しにしろかなり本気で殴っていた。姉はもう少し、違う意味で隠す努力をするべきだろう。
「主の失言を咎めるのも、従者の役目だ」
とか言いながらも、想像が一瞬浮かんでしまったジルハードは罰が悪い。しかし、隠せただけまだマシである。
「いい加減淑女としての振る舞いを覚えてください!姉上!そんな……!そんな……」
想像しましたと白状して墓穴を掘ったティアモよりは、マシである。妹は振る舞いより、隠し方を覚えるべきだろう。
「……頼んだぞ」
「ああ」
妹として、主として、部屋を出て行ったティアモから任された任務に頷き、ジルハードは椅子に座る。
「良く出来た妹。迷惑かけてばかりの姉なんかより、ずっと」
父親に明日は中止と伝えるなどと、後でも出来る用事を理由に二人きりにしてくれたティアモの気遣い。湿っぽい顔でつい漏らしてしまった、メリアの自責の念。
「迷惑なんて絶対言うな」
ジルハードはそれが、たまらなく嫌だった。身を乗り出して、塗り替えさせようとメリアの手を握る。
「……あら、その気になってくれた?」
「馬鹿主。寝るまで手握ってやるだけだ」
メリアは僅かな動揺を隠し、いつも通りからかいの殻に逃れてしまう。しかし、今度は動揺せずに誘いを躱し、力強く、しかし決して傷つけない強さで、体温を握り締める。
「いい夢見ろ。夜更かしは、美容の敵だ」
「それは困るわ。うん。これならいい夢見れそうだから、やっぱり今日は寝るわね」
本音を言えば、寝て欲しくはなかった。寝れば彼女は苦しむだろうから。だが、ずっと寝ないなんて生活はできない。日頃から寝不足な彼女には、ぐっすり休む時間が必要だ。少しでもいい夢が見れそうな環境の時に寝ないと、ただでさえ弱い体が更に弱ってしまう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
深蒼の瞳が名残惜しげに閉じられ、メリアが寝息を立て始めてから数分後、ジルハードは手を離して部屋を出る。まだ日は沈んだばかりで、寝るには早い時間だ。
向かう先は訓練場。彼は今日もまた、剣を振るう。彼女達を守る為に。彼女を囲う運命の檻を、いつの日か叩き斬れるように。
この時、ジルハードは知らなかった。メリアがいい夢を見れなかった事を。どんな夢を見たのかという事を。
次の日の朝からだった。メリアが、少しずつおかしくなり始めたのは。
「俺が夢の内容を知ったのは、それから一年後だ。何かあった事にも気付いてはいたが、任務が忙しすぎてあまり帰れなかった。たまに会えた時もメリアはいくつもの嘘を上手く重ねて、隠してた」
「夢って、なんだよ」
『限壊』の傷を少しでも再生しようとすれば、首元に置かれた剣が振り下ろされる。そんな体勢で話を聞き終えた仁が発したのは、何故夢の内容を隠したり、知る必要があるのかという疑問だった。
「簡単だ。メリアは夢で未来を観るっていう、最悪な系統外を持ってたんだ。もっとも、起きていても自分から観ようとすれば観えたんだがな」
「さい、あく……?」
仁にしてみればとても便利な異能を、ジルハードは忌々しそうに吐き捨てる。確かに、確定した未来や物事の行く末全てが見えるというのは、つまらないかもしれない。
「未来を知ったなら、変えられるんじゃないのか?」
しかし知ったならば変えればいい。強制力があるにしろ、出来ないわけではない。分かりやすく例えるなら、
これから宝くじを買いに行く。しかし、外れる未来が観えた。ならば買わないという選択肢を取り、損を回避する未来に変えることは出来るはず。
「ああ、変えられる。同じだけの何かを差し出せばな」
「どうい」
「分からねえのか?何かを失う未来が観えた。その何かを失わない未来に、変えることは可能なんだよ。同価値の何かを失った未来に、変えることはな」
「っ!?」
理解できなかった仁が腹立たしかったのか、ジルハードの声音が荒々しいものへと変わる。
「そ、それって」
ようやく意味が浸透すると同時に、ある事を悟った。メリアが観た最悪の夢。それを回避した結果と、今の世界の現状との繋がりを。
「ああ。お前の想像通りで、少し違う。メリアは世界が終わる未来を観て、何とか変えようと足掻いた。世界と同価値のものなんて、世界しかないわな」
「……僕らの世界を犠牲にしたのか!?」
世界が滅ぶ。世界と同価値のものなんて、たった一つ。いくら未来を観て変えようとしても、ジルハード達の世界の滅びは止められなかったのだろう。
「大切なものがある世界か、知らない世界。どちらにも罪はないが、メリアは選んだ。昔から個人単位の転移魔法の存在は確認されてたしな。まぁ、今の技術じゃ使えるものじゃねえ」
そこでメリアが目をつけたのは、世界と世界を繋ぐ転移魔法。こちらで言う異世界転移の召喚の魔法といったところか。しかし、転移魔法を自身の望む形に改造するなど一体どうやって……
「転移魔法を、未来を何度も観る事で完成させたのか!?」
仁は彼女の立場になって考えて、すぐに理解した。簡単だ。成功する未来が観えるまで、やり直せばいい。
「察しがいいな。メリアは世界中から転移魔法の文献を集めて、研究を開始した。結果は一年がかりで成功」
手掛かりが僅かしかない真っ暗闇から、誰も見たことが無いような、想像もつかない魔法を創り出す。ロロが神業と例えた偉業を、メリアは自らの系統外で数え切れない回数の試行を繰り返す事で、成し遂げたのだろう。
どれだけ繰り返し、大切な人が死に行く世界の滅びを見続け、修正を重ねたのか。その事を想像するだけで、鳥肌がたった。
「さて、ここで幾つか、勘違いを正す事と話す事がある。まず、俺らは融合先の世界をめちゃくちゃにするつもりは、半分くらいしかなかった」
「半分……?」
「ああ、半分だ」
思わず、聞き返す。代わりにこちらの世界を犠牲にする為に、わざわざ転移したんじゃないのかと。さっきそう言っていたではないかと。
「あいつは運命を確定させる能力を持つ自分が死ねば、その後の未来は系統外に縛られないのではと考えた。自分が死んだ後の未来は観えなかったらしいからな。世界よりは私が死んだ方がマシだと、あいつは言いやがった」
「……客観的に見たら、そうだな」
首元に押し当てられた剣が、僅かに滑ったのを感じた。今の仁の言葉を、ジルハードは理解している。しかし、納得は出来ていなかったのだろう。口には出さずとも、震える剣先や揺らぐ表情からそれはよく分かった。
メリアが自殺した理由は、分からなくもない。日本だってローンを組んだ本人が死ねば、ローンは消えて無くなる。彼女は己が死ぬ事で、変わった先の代償を踏み倒せないかと考えた。
「どちらにしろ、意志のない魔力の操作をメリアがしないといけなかった。過剰な魔力にずっと浸っていれば身体は崩れ去ると分かっていても、未来が観えるあいつじゃないと、自分じゃない魔力を精密に扱うなんてできやしない」
大切な何かを救う為に、彼女は死ぬ事は確定していた。一体どんな想いで、最期に最後の魔法を紡いだのだろうか。何を願い、何を最期の言葉としたのだろうか。想像も出来ない。敵であり、大量虐殺の引き金となった相手だが、仁は尊敬の念を抱いてしまった。
「これがあいつの言う最善。次善は俺らのいた世界の一部の転移を遅らせ、そこを滅ぼす事で世界の滅びと運命に誤認させる事だった」
「誤認?」
「魔法陣に細工をしたんだ。一部を弄り、不完全に。取り残された無人の場所に、代償である世界の滅びが向かうようにな」
林檎を大きさに差が出るように二つに割っても、どちらも林檎である。それと同じ事を、メリアは世界で行おうとした。
「お前らが僅かに生き残っているのは、この次善のせいかもしれねえ。おかげで忌み子を殺す手間が増えたから、これは失敗だった」
僅かに世界が滅んだから、仁達の世界で滅ばなかった街が生まれた。ジルハードはそう推測していた。
「それに行く世界は選べなかったからな。場合によっちゃ、俺らが指先で遊ばれるような強者ばかりの世界に飛んでたかもしれねえ」
それもそうだ。日本人が滅びかけているのは、ジルハードの世界の人間より弱かったからだ。仮に彼らより強い世界ならば、滅びかけていたのはジルハード達だったろう。
「万が一に備えて、メリアは帰還用の魔法陣の形も創ってた」
「じゃあ、それを使って今すぐ帰れよ!」
仁達の世界はほぼ滅んだ。分離して滅んだジルハードの世界と合わせれば、代償の支払いは済んだはず。ならば今すぐ彼らが帰れば、仁達を殺す必要なんてない。
「はっ。いい机上の空論だ。魔力が足んねえよ馬鹿野郎。何千万人が生贄になって、ようやく発動できる量だぞ。残り数万人の忌み子皆殺しにした方がよっぽど犠牲が少ねえよ」
世界を融合させるのにどれだけの魔力が必要で、帰るのにも同じだけの魔力がいるのかと。ジルハードは懇願を鼻で笑う。その言葉に、仁は違和感を覚えた。
「なら、どうやってお前らは来たんだ!」
そんな何千万人文の魔力をどうやって確保したのか。一度何千万人と捧げて、ここに来たのかと。
「いい質問だな。そもそも、なぜ俺らの世界が滅びそうになったのか。答えはそれなんだよ」
「……魔法?」
見ろ、とジルハードが指したそれ。それは、彼の手の中でちろちろと燃える魔法の炎だった。この小さな炎とさっきの情報だけでは何故世界が滅ぶのか、仁には分からなかった。
「俺らは魔力を使って、魔法を発動してる。何の疑問も持たずに、当たり前に使ってきた。だから、誰も気付かなかったんだ。消費した魔力はどこに行くのかってな」
「世界に再分配とかじゃないのか?」
「普通はそうだったんだが……密閉された空間に、溜まりやがったんだよ」
体内から放出した魔力が消えるのではなく、大気や世界に溜まっていったなら。限界を超えて圧縮された魔力が爆発を起こす、魔力の特性が起こる程に、どこかに溜まり続けたのなら。
「地下の底深くに、勇者と魔女が争ってできた『大空洞』がある。本来なら、魔力は均等に世界に分配されて巡り続けるはずなんだが、外と通じていないその空間には永遠と溜まり続けていた」
雨となり、川となり、海となり、水蒸気となり雲となる水のように巡るはずの魔力が、海の段階で永遠と溜まり続けた。
「聞いた話だが、今より昔の奴らの方が魔力の回復が早かったらしい」
大空洞に溜まった分、使える魔力は減った。回復に時間がかかるようになったのはその影響だろう。しかし、魔法を使えない事は無い。そうして徐々に徐々に大空洞に魔力は蓄積されていき。
「限界はすぐそこだった。転移が起こったあの日に大空洞は限界を迎えて、大爆発を引き起こしていたはずだった。何もかもが壊れるくらいの、とんでもねえ爆発だ」
当たり前の魔法に代償なんてあるとも思わず、地下故に魔力眼では見えず、わざわざ遥か下の地面まで掘り進めるような場所でもなかった。気付かない内にすぐそこまで迫っていた世界の滅びを、メリアの系統外だけが観測できた。
「穴を開けて外に出すのは出来なかったのかい?」
「小さい穴なら大丈夫だったが、大穴は無理だ。下手に刺激したら世界がまるまる吹っ飛ぶ。その小さい穴だって何度もメリアが観て、魔力を使わない手作業でやっと開けれたんだからな」
まず思い浮かぶであろう対策を、分かっていながらも聞いた。ガスが充満した部屋で火花を出さないよう、迂闊に動けないのと同様に、ジルハードは首を振る。
「だから爆発が起きる前に、世界を移動して」
神業と言われた魔法の開発については、メリアの系統外の無限試行で説明がつく。しかし、『魔女』や『魔神』並の魔力はどこからと考えて、気付いた。
「あるじゃねえか。大空洞に世界一つぶっ壊せるくらいのが」
そうだ。大空洞に魔力はある。大空洞の魔力を消費し、世界にもう一度分配し直す事が出来れば、溜まった魔力は大幅に減るだろう。その後に大穴を開ければ、そこに二度と魔力が溜まる事はない。
渡った世界が強者ばかりで、ジルハード側が滅びそうになれば、大量の生贄を捧げて元の世界に逃げ戻ることも可能になる。
「これが、俺達が世界を渡った理由だ」
「………」
言葉が、出なかった。仁達が滅びないように必死になっているのと同じように、彼らもまた、必死に運命と戦っていた。どれだけの犠牲を払おうと、世界だけは救おうとした。
『……それに足る理由があったのかもしれないがね。少なくとも自分は、何の意味もなく世界を滅ぼしたりくっつけたりする輩なんていないと思っている』
いつかのロロの言葉を思い出す。まさにその通りだった。彼らはちゃんと理由があって、仁達の世界を滅ぼした。
「なんで、話してくれたんだ?」
「あ?」
ここは戦場。にも関わらず、ジルハードの話は詳しく長く、結果的に時間稼ぎとなっている。普通なら答えずに仁の首を刎ねてもおかしくはない。なにせ死人に情報を与えても、何の意味もないのだから。
なのに何故、彼はこれから死に行く仁に話してくれたのか。それが分からなかった。
「……嫌だったんだよ。メリアが、命を捨ててまで守り抜いた戦いを、悪役みてえに言われたのが」
少しの間の後、ジルハードは理由を語る。声と唇と剣先はカタカタと、何かに耐え切れないように震えている。
「分かってる。お前らから見た俺らが、悪役だって事くらい。ただ、あいつは、融合した先の世界が滅ばないように、出来る限り手を打ってた。あいつは滅ぼしたくなんてなかった。それだけは、知ってて欲しかった」
「……」
最善と次善を聞いた辺りで、その事は分かっていた。ただ聞かなければ、絶対に知る事はなかった。
「……もしあの最善と次善のどちらかで代償を踏み倒していて、お前らが忌み子じゃなかったら。俺らは共存できたのかもしれねえ」
彼が話した未来を、仁は思い浮かべる。突如日本に魔物の群れが出現するも、颯爽と騎士達が駆け付けて日本人を守る未来を。
忌み子なんてなければ、シオンは虐待されなかった。忌み子なんてなければ、騎士達が学校に来た時点でみんな保護されていた。忌み子なんてなければ、きっと。
「だが、最善も次善もダメでお前らは忌み子だ。だから、そんな世界はねえ。恨むなら、存分に恨んでくれ」
「……ぐっ!」
話は終わりだと、首元の剣がちゃきりと音を立てる。信じられないくらい力を込めているのに、身体はぴくりとしか動かない。
「俺は」
ここで死んだら、守れない。
「僕は」
大切な人も、街も、誓いも、何もかも。
「「救わなきゃならねえんだよ!!」」
最後の瞬間まで、諦めない。刻印を発動させ、爆発的なまでの氷を生み出して視界を遮り、氷の尾で移動して再起を図ろうとする。
「よく言ったあっ!者共!撃てえ!」
が、刻印が発動する前に、ジルハードは仁から飛び退いた。理由は、馬鹿でかい声の男達の号令で数多の銃弾が、彼のいた所を通り過ぎたから。
「そいつは大事な虎の子でな!返してもらおうか!」
横に転がる仁と体勢を立て直したジルハードの間に、蓮が立ち塞がった。
逞しく大きなその背中が、仁にはなぜか小さく、ちっぽけで悲しいくらいに脆い盾に見えた。
『メリア・グラジオラス』
剣の名門、グラジオラス家に生まれた長女。ティアモの実の姉にして、ジルハードの剣の主人にして妻である。世界融合の鍵を握る人物だが、既に死亡している。
母親譲りにして妹とお揃いの、海のように蒼い長髪と蒼眼。しかし、男と間違われる妹と違って、彼女は非常に女性らしい体型である。理由は日頃の引きこもり生活で、栄養がしっかり脂肪に変換されたようだ。
お姉さんぶった態度を取りたがり、からかうのが大好きではあるが、内心では常に泣いて救いを求めている。故に、心を許した相手の前では全力で甘えたり、涙を見せることも多い。彼女はそのことを、「自分が弱いから」と言っているが、抱えているものが余りにも大き過ぎるからである。
魔法の適性を父親から受け継いでおり、それはかの宮廷筆頭魔導師ですら賞賛するほど。その一方で剣術はからっきしで、試しにジルハードに剣の相手をしてもらったが、重くて腕が筋肉痛になったらしい。才能もほとんどないというのが、ジルハードと父と妹の談。
しかし、彼女に魔法の才能があろうが剣の才能があろうが、どうだっていい。その全てが、彼女の持つ系統外の前には霞む。彼女は、「未来を観てしまう」系統外を保持していたのだ。この系統外こそ、世界融合の引き金にして成功した要因。そしてこの系統外こそ、彼女の人生を狂わせた原因。
その命を使って世界を救い、世界を滅ぼした女性。
 




