第66話 条件と進展
「……」
年齢通りの鮮やかな唇に手を当てる少女の姿は、内心の戦争を表していた。
「迷う理由も、嫌な理由も分かる」
「けど、今すぐ強くなるにはこの方法しかない」
仁の提案と懇願は彼女の心を分かつには十分なもので、現状これ以外に答えの無い選択肢だ。
「私もその想いは分かるの」
それは少女も分かってはいる。だが、その最善が悪しき影響を及ぼすこともまた、理解しているから悩むのだ。
「もし成功して使いこなせるのなら、すごい戦力になるわ。私とも互角か、それ以上に戦えるかもしれない」
「シオンも前にそう言ってたもんね」
刻みたいと思わせる心を生み出すのは街を守りたい仁への共感と、惚れた男の本当の英雄への道を助けたい欲求。そして、今のままでは勝つ事は叶わず、仁の提案を呑めば勝利は大幅に上がるという冷静な戦力分析。
「でも、少しでも制御を誤れば、ううん。誤らなくても危険すぎる。第一、そんな馬鹿げた運用法聞いたことがないわ」
刻みたくないと思わせる心を生み出すのは、仁のズルを咎める気持ちではない。負担が大きすぎる無茶な魔法の使い方への心配だ。長い魔法の歴史の中、先駆者を探せばいるにはいるのだろうが、今の時代にも記録に残っていないという事は、失敗したと見ていいだろう。
「今すぐ攻めて来るとは限らないんだから、時間をかけて強くなった方がいいと思う」
だから彼女は、少年の英雄的無茶を引き止めようとする。
「けど、今来ないとも限らない。そうだよね?それに、来なければ使わないで済む話じゃない?」
「何も俺らは、剣術の修行をサボるなんて行ってない。今、この瞬間に襲われた時の対策が欲しいんだ」
少女本人でさえ無理があると理解している心配だけの引き止めに、意味はない。自身でさえ論破できるような論が、一体誰に通じるというのか。
「長生きしたいならやめるべき。成功しても寿命は間違いなく縮む。失敗したら死ぬわ」
故にシオンが突いたのは、仁の今までの生き方の根元。人を守る為に命を使うと言っても、死の恐怖はまだ残っているだろうと見越しての説得。命を賭ける事と、命を捨てる事は全く別の意味だ。
これは彼女にとって勝算の高い戦いだった。少年の二つの人格が重なる瞳の奥を覗き込み、少女は心を伺う。ここで躊躇いが見えたのなら、突き崩せる。いや、躊躇うのが普通なのだ。
「覚悟の上さ」
「俺と僕だけが生き残るより、みんなで生き残りたいんだ」
「……っ」
だが、世界が変わった日に立てた誓いを破り捨て、香花を殺した理由を塗り替えた仁を、保身で引き止める事は叶わなかった。
一切の曇りも躊躇いもなく命を賭け、捨てようとした少年にシオンは歯を噛む。ここまで変わる、いや、ここまで変わってしまったのかと。元より何かを守る為なら無茶をするが、命を捨てる程ではなかった。
「変わったって、自分でも思う。いや、戻ったって言い方のが正しいのかもしれない」
自分の変貌に驚いている少女に彼は、変わった理由を話し出す。
「また、できちゃったのさシオン。命を賭けても守りたいものが」
あれだけ、己のみで生き延びようとした人間だった。自らの命を至上としていたはずの人間だった。
しかし、彼は少女と出会って人の温もりを思い出した。この街に来て堅や環菜達と触れ合って、仲間がまた出来てしまった。あの日の教室のような繋がりを思い起こしてしまった。
「もう一度気づいたんだ。命を賭けても構わないくらい、大切な人達がいるって」
他人なんて蹴落としても構わないと彼は思っていた。いざという時にはみんなそうするだろうからと彼は思い、見殺しにした屍の上で生き続ける、最低な嘘を吐いていた。
しかし、仁はシオンを失いかけて、繋がりの大切さに気づいてしまった。酔馬を失って、仲間に死なれる事の悲しみを思い出してしまった。嘘と、自分の今までの行いの愚かしさに気づいた。
そして、思ってしまった。
「例え失敗して死のうが、構わないさ。今までそんな賭け事ばっかりだったしね」
「ずっと降りてたら、勝てないんだよ」
勝った先に、守った先に己がいなくとも、守りたいと思ってしまった。
「戦って勝たないと生き残れないし、守れない」
真実ばかりが並ぶ軽口の裏に潜むのは、煮え滾る溶岩のような激情。その激情はシオンにとっても馴染み深く、何度も身を任せてしまったものだ。
「だから、無理をする。手段は選ばない。どんな事をしても必ず守ろうと思う。前と同じね」
そして、シオンは自分と同じかそれ以上の激情を秘めた少年に、先に抱いた『変わった』という感想は間違いであったとも思った。
変わったのは目的。変わらなかったのは手段だ。己のみの生存から、大切な人を守る為に。その為なら嘘も吐けば、身が擦り切れようが形振り構わない。そういう手段の取り方は、以前と同じ。
とは言っても、変わる前から守れる範囲だけは死守しようとする傾向はあった。どちらかが好みかと言われれば今だが、できれば前のままでいて欲しかった思いもある。
危うい正義。それが、今の仁を表す最も適した言葉だろうから。
「仁が拒まない理由は、うん。把握した」
しかし今回の件、理は仁にある。何かを守る為に、代償を受け入れてでも力を望む。命を削る戦い方に迷いもない。まさに正しい尽くし。心構えだけなら英雄と言えよう。シオンだって、彼の立場なら同じ選択肢を取るだろう。
ならば理で負けているシオンは、情で攻めるしかあるまい。
「でも、仁の命を削るの、私になるんだよ?」
命を賭ける。寿命は減っても構わないと彼は言った。実際、高い確率でその結末を迎えるだろう。そして、その結末へと向かわせる刻印を刻むのは、シオンしかいない。
「その事はちゃんと分かってる?逆の立場なら、できる?」
引き止める為に考えた理由ではなかった。用途としてはそう使ったけれども、これはシオンの本心だった。
本人がいいと言っても、愛する者の寿命を削り、戦場で格上と死闘して欲しいなどと誰が思うだろうか。シオンには思えなかった。弱くてもいいから、生きて欲しかった。彼の人生の時間を奪いたくはなかった。
「……出来ない」
「責任感と罪悪感で押し潰されるかも」
先も述べたように、これは本心。故に仁の心のより奥深くに響く。その気持ちを想像させ、今の立ち位置が入れ替わった時の事を考え、やりたくないと自ら断ってしまう程に、言葉を響かせる。
「自分が嫌な事を、仁は私にさせようとして……!」
「じゃあシオン。君は自分の力不足でみんなを死なせたいのかい?」
「誰かを守れる力を手にする機会を、シオンは逃すのか?」
「うっ……そ、それは」
しまったと少女が思った時には、もう遅かった。先ほど自身も思ったではないか。仁の気持ちはとても理解できて、それを理由に何度も命を賭けた経験があると。
そんな機会があるのなら、逃すわけがない。力及ばず助けられなかった人の事を、悔やまない日はない。
「いつからそんなに口が上手くなったの?」
表情が変わらない少年に誘導されていた事を悟り、眉を上げて不機嫌そうに問い詰める。形振り構わないを自分が喰らい、少しショックだった。どこか、仁は自分の事を信じてくれているという驕りがあったのだろう。彼の特別でいたいという思いが、シオンの中にあるのだろう。
「これ口が上手いとかじゃなくて、シオンの行動パターンの予測。痛いところを突いてやめさせてこようとするだろうからね」
「シオンだって、大切な物の為に命をよく賭けてるから、こう言えば論では反論できないかなと」
一つの口で二人の少年が返した答えは、シオンをよく知っているからというもの。僅か数ヶ月の付き合いではあるが、濃密な時間はシオンという人物がどのような性格と思考なのかを知らしめるのに十分だった。
逆もまた然り故、シオンは自分の中の仁の人物像が崩れて驚いていたのだけれど。
動きが分かれば対処は簡単。突っ込んでくる攻撃に、こちらの反撃を仕込んでおくだけでいいのだから。
「……本当に、いいの?」
最後の確認に、仁は勝利を確信した。シオンはやはり聡い。これが仁を即戦力とする唯一の方法と知っている。騎士達に殺されるか、代償で命を削られつつも生き長らえるか。そのどちらがいいかを理解し、心情を加味してなお、天秤を正しい方へと傾けられる。
ここで仁の身を案ずるあまり、刻める主導権を持つシオンが首を降り続ければ、永遠に刻印が刻まれる事はない。論をぶち壊すのは感情だと、いつの時代も決まっている。
「良くなかったら頼まないさ」
「救えられる範囲が増えて、相対的に見れば寿命も増える。いいこと尽くしだ」
『勇者』を目指させてくれた人に負けない速さで、こんなところで迷ってられるかと即答した。ただ、少女の心配を利用したという後悔だけは、心に刺さっていた。
「……私が、折れるわ」
ため息とともに承諾したシオンの顔は、よく分かっているつもりの仁でもよく読めない色合いだった。それだけ、彼女の中で迷いがあるのだろう。
それでもシオンは頷いた。とにもかくにも、仁の案は通ったのだ。
「疲れてるところ申し訳ないが、早速刻んで欲しい」
「善は急げってよく言」
「ただし、条件が四つあります」
今騎士達に襲撃をかけられては、この提案も意味がない。そう焦って服を脱ごうとした仁を、シオンの剣のように鋭い言葉が遮った。呑まなければ提案を叩っ斬るつもりだろう。
「聞かせて欲しい。場合によっては交渉したい」
「最後以外は絶対に譲らないわ」
「うへぇ」
そうなのだ。主導権はシオンが握っている。刻んでもらえるだけでも幸運、呑むのは致し方無しかと、耳を構える。
「一つ。戦闘時、これは使わないと勝てないと思った時のみ、使用する事」
「それはまぁ、うん」
初めは大した事がない。というより、代償の重さを考えれば、元からそうするつもりだった。
「二つ。しっかり訓練して、実戦に耐えられるようにする事」
「それ、禁止されないかヒヤヒヤしてた」
「するわけないでしょ。いきなり本当の殺し合いであんな無茶、させられるわけないじゃない」
続く二つ目はむしろ仁が望み、この条件で一番怖がったところだ。仁もこの力を使っている所を想像してみたが、ぶっつけ本番でできる気はしなかった。
「三つ目。代償で、たった一戦にも耐えられないと判断した場合、私はもう刻まない。他の方法で頑張りなさい」
「……分かった」
「呑むよ。ぐいっとね」
先の二つでリラックスしてからの三つ目は、多少悩まされるものの、受け入れられる範囲だった。たった一人の騎士を倒してくたばるくらいなら、違う方法で何人もの騎士を倒す方が何倍もいいだろう。そんなに代償が大きいなら、それこそ正攻法の方がいいかもしれない。
「四つ目」
そして、最後。これだけ譲るのをシオン公認であるという事は、それだけ仁が呑みにくい条件なのだろう。どんなのが来るか、どう交渉をすればいいか。頭の中で無数の思考の線路が組み立てられていく。
「……どうした。シオン」
「え、なに?そんなに言うの躊躇うレベル?あ、レベルってのはくらい?って意味ね」
「う、うん」
しかし、いくら構えて思考が準備を終えようと、肝心の電車が震えるだけで始発駅から発車してくれない。
(あり得ない中からあり得るとしたら、なんだ?辛くなったら辞めさせてください?)
(シオンがそんな事言うかなって思うけど、僕達なら耐えられないし、やっぱり同じ人間だし)
つまり断る事前提や嫌であるもの、今行った思考の想像外だと想定し、枠を広げていく。
とは言っても元より想定外。ほとんど思いつかず、出たのは精々弱音やシオンの許可制、サルビアなどの化け物を相手にする場合、使わずに逃げろくらい。
「とりあえず、言ってくれない事には分からないんだが」
「エスパー……あ、僕人の心を読む系統外は持ってないからね」
その全てはハズレ。仁の想像力なんて大した事がない、いや、シオンの発想のぶっ飛びには敵わないという事を彼は今、知ることになる。
「ご、ご褒美が欲しいです」
「「ご褒美」」
「わ、私と、お付き合いしてくだしゃいっ!」
「「……はぁ!?」」
トマトも真っ青になるくらい真っ赤な顔と唇を震わせてシオンの出した四つ目の条件には、どちらの仁も訳が分からなかった。
「……ん?大丈夫だ。耳くそは詰まってない」
想像の枠どころか、大気圏を突き抜けた空気を伝わる意味を持った音に、聞き間違いかなと耳の穴が開通しているか確認。触り、耳元を叩いてみた感じ、聴覚は至って良好である。
「「……はぁ!?」」
「うっ」
故に、分からない。理解できない。何故にこの場面、この状況で条件としてお付き合いを申し込んでくるのか。先ほどまで全く真面目にお話をしていたではないか。この目の前で湯気を出している天然娘の事は理解していると自負していたが、思い上がりだったのか。
「あ、あのね!私と付き合うのが嫌だったり、嫌いだったりするならこれは断ってもいいの!うん!わ、私ぜんっぜん気にしたりしないから!」
疑問が頭の中でコンセントの紐のように絡まる中、一つだけ解決した。最後だけは譲っても構わないと言ったのは、こういう事だったのかと。
「いや、気にするでしょ普通」
「すまない。どうして今言ったか、聞いていい?」
僕も相当動揺しているようで、冷静なツッコミがシオンの頬をさらに染め上げている。俺はなんとか絡まったコンセントを、一つずつ紐解き始める。
「……そ、その、か、環菜さんが、仁は真面目というかクソ真面目だから、条件だとかで負い目につけ込んだり、ご褒美強請ったり、大義名分を与えたりすればイチコロだって」
「何教えてんだあの人は」
「俺君。あの人簀巻きにして堅さんの部屋放り込まない?」
彼女の口からあっさり出てきた名前に、頭を抱えて膝をつき、復讐方法を考え始める。割と的確に仁の性格を分析できているのが実に腹立たしい。
おそらく、シオンは仁に条件を出している最中に、今の状況ならアドバイスが活かせる事に気付いたのだろう。この天然娘は、本当に人間関係の応用が利かない。
「そ、それとね。仁の寿命が縮むなら……ううん。これから戦いは厳しくなるだろうから、せめて幸せな時間は多く作りたいの」
「……」
いつもより小さい声で、たどたどしい声で理由を聞いて、納得してしまう。これもまた、彼女なりの優しさと欲望だ。
何故今か、どうしていきなりかなどの疑問が一気に氷解した。そうすると、代わりに絡まって襲いかかってきたのは、
「……」
(お、俺君どうするのさああああああああああ!?)
先に来た驚きが大きかった故に、隠れていた羞恥と動揺。僕に至ってはもう心理世界でやまびこを繰り返している。
「……」
「……ッ」
(……俺君……)
上目遣いでこちらを見つめる少女を、卑怯だと思った。いい返事を願って待つ顔を、喜ばせたいと思った。心の中の声の意味に、頷きたいと思った。今すぐにでも、強さの割に華奢な身体を抱きしめたいと思った。
目を閉じて心理世界に潜る。そこで向かい合った僕の心に、最後の確認をとり、帰還。
鼓動がうるさい。目が目の前の光景に痛い。聴覚は彼女の髪が重なる音さえ拾ってきて、世界とはこんなにも情報に溢れていたかと、場違いな頭が考え、答えは決まった。
「……あり、がとう」
きっと彼女は知らない、告白の返し方の一行目の定型文。
「けど、悪い」
そして彼女は今、意味を知っただろう。
「……ごめんなさい。む、無理を言ったわね」
さっきなんかよりずっと震えた声で、顔を手で覆った少女が告げた謝罪の言葉に、仁は胸を掻き毟りたかった。
泣いている事なんて見なくても分かる。意中の相手に勇気を出して告白して、振られて何も思わない奴がいるものか。
「……シオンが嫌いって訳じゃない。むしろ、好きだし、異性としても大好きなんだ」
「……」
仁だって「はい」と答えたかった。告白されて嬉しかった。シオンを悲しませたくなかった。シオンと付き合えたら、手を繋げたら、唇に触れられれば、身も心も重ねられれば、どれだけ幸せなのかと思った。
フォローなんかじゃない。振った男が本心を告げれば、彼女は泣いた目でどうしてと、聞いてきた。いや、聞くつもりはなかったのだろうが、それでも、心は思ってしまったのだろう。
シオンと付き合えるのは、仁が今手にできる二つの内の一つの幸せの最上といっていい。
「俺は、いや、桜義 仁って人間は、人を殺しすぎてる。だから幸せだとか、そういうのが、考えられないんだ」
「……どういう事?」
故に、シオンの気持ちに応えられなかった。仁が殺した人間は、夥しい数に上る。それこそ骸を積み上げれば、高さ数十メートルにはなるのではないだろうか。踏み締めて登って見下ろせば、それはさぞかし良き眺め。
そして彼らには、愛する者がいた。死んだ彼らを愛した者たちがいた。仁が奪ったのは彼らの命だけではない。彼らに関わる者達から、幸せも奪い去ったのだ。
どれだけ人を不幸にしたのかは、もう想像がつかない。ただ、それだけの人数を不幸にした人間が、幸せになっても良いのだろうか。仁はどうしても、そう思ってしまう。幸せを拒絶してしまう。
「自分勝手なのは百も承知なんだよ。けど」
「俺達は、今でも身に余るくらい幸せだって、思ってる」
今、シオンに告白されてしまうくらい好かれている現状が、真実を知らぬ者達からの賞賛が、仲良くなった人達の好意の全てが、吐きそうになるくらい辛かった。仁は幸せである程、不幸になった。
それはシオンの幸せを全く考えない、最低な自分勝手な罪悪感。だがそれでも、己が手で殺した彼らを置いて、自分だけのうのうと幸せにはなれなかった。
「ごめん、ごめん!俺は、せめて、このままで……」
幸せに溺れて、後悔を忘れてしまうのが怖かった。掴んだ幸せを目の前で壊されるくらいなら、後悔の海に沈みたかった。仁は後悔の海の中でしか、息が出来なかった。
「僕は。本当に、ごめん」
言葉が、謝る以外に出てこなかった。仁が悪いから。目の前の勇気を出した少女を不幸にしたのは自分だから。最低、最悪、クズでゴミ。様々な言葉が客観的な視点から投げかけられる。だが、一番辛いのは目の前の少女の理解に苦しむような表情だ。
付き合えたら、どんな生活になったろうか。彼女を今より幸せにできるだろうか。
「うる、さい!」
「やめてくれ」
僅かに幻想を夢見た瞬間、頭痛が跳ね上がった。脳の中でドラマやシンバルを地面に叩きつけられるように、痛くてうるさい。
「自分で振っておいて辛くなるなんて、本当にどうかしてるね。まるで昔みたい」
金属音が少しずつ命を帯び、仁が殺したはずの声となる。
「また女の子を不幸にしたんだ。けど、周りを不幸にしてばっかりの仁にはお似合いかな?」
早まった動悸と吸いすぎた息、制御できない感情に胸が苦しくなり、呼吸ができない。
「幸せになんて、させないよ」
眩む世界からシオンは消えて、目の前には仁が騙し、見殺しにした人間達が立ち並ぶ。皆、死に様の肉の中身を晒している無残な姿。その姿にしたのは仁だ。
「今でも、分不相応な幸せに囲まれてるくせに」
地面がぶにゅりと歪み、足が池の底のように沈んだ。下を見て、そこにあったのは泥なんかじゃない。仁の身体を掴もうとする、人の肉と腕だ。足元だけではない。世界が全て、仁の生み出した死によって塗り替えられていく。
「だって手は、そんなに汚れてる。私の血。みんなの血」
べったりとした感覚が、掌に。ああ、なんでかなんて分かりきっている。彼らの血だ。生きていた証、仁が殺した証。
限界、だった。頭痛はもう頭が壊れたんじゃないかってくらい大音量で喚いていて、世界は幻覚と幻聴に支配されていた。
剣で目の前の幻覚を斬りそうになって、すんでのところで理性がシオンの存在を思い出した。
「あああああああああああああああああああ!!」
「……仁!?」
腰の剣を引き抜き、代わりに斬りつけたのは己の手首。衝動に駆られたのが半分、理性が判断したのが半分。この行動による痛みは幻覚と幻聴を霧消させ、世界は正しさを取り戻した。
「だ、大丈夫!?」
「……うん。大丈夫さ」
「大丈夫なんかじゃない!こんなに血が溢れて」
「優しいな。俺には勿体無いくらいに」
安心、した。振られたにも関わらず、心配してくれるシオンの優しさに。泣かしてしまったけれど、彼女の顔に。
「……なんで、こんなに治りが?同時発動?」
「当たりさ。だから安心して。ほら、もう塞がった」
「浅く斬りつけただけだから、大丈夫」
治癒魔法の刻印を二つ発動。逆再生のような治りの速さはどこか気持ち悪さを感じさせる程で、一分も経たない内に、傷は古傷へと変わっていた。
「うんうん。大丈夫なんかじゃない!こんな、いきなり手首を斬りつけるなんて……仁。これ、何回目なの?」
安心させるように見せつけたのが、仇となった。出来る限り同じ所を斬るようにしていたのに、常に傷ついて生きてきた少女は誤魔化せなかった。
「……」
「なんで?」
沈黙は肯定。シオンは仁が隠していた自傷行為に気づいたが、どうすればいいか分からないようだ。それもそうだろう。
緊張して告白して、訳が分からないよう勝手な理由で振られ、その相手が目の前で狂ったように叫びだして手を斬りつけた。しかも前科ありと来た。こんな状況で、まともな思考ができる人間はどれだけいるか。
「ごめん。たまに、こうなるんだ」
「ま、こんなのとお付き合いってのは、うん。僕の常識からすれば、考え直した方がいい」
「けど!」
「すまない!仁とシオンはここか!」
何かを考えるように止まって動かないシオンに説明し、仁が釘を刺した瞬間。ノックした意味を無くすような勢いで扉が開き、身だしなみの整っていない男が部屋に乗り込んできた。
「……す、すまない。出直そう、か?」
「いや、いい」
涙の流れた跡があるシオンと、仁の顔を見た堅は、空気や話の流れをぶち壊した事を悟ったのだろう。
「すまない。やっぱり出直」
「ここにいてくれ。頼む」
しかし、少し頭を冷やしたい仁としては非常にいいタイミングだと、むしろ今三人きりにされる方が気まずいと引き止める。その事もきっと、彼は分かっていたのか承諾してくれた。
「……すまない」
それに、彼が久しぶりに部屋から出てきた理由も検討がついている。想像通りなら、シオンの追求を一旦躱せるかもしれない。
また後で、痛い目が待っていそうだが。
「久しぶりだね」
「あ、ああ……ついさっき、環菜から刻印の事を聞いて、いてもたってもいられなくなった。司令からも許可は貰ってる」
堅の息が荒く、身だしなみが整っていないのは、話を聞いてすぐに部屋を出たということだろう。それだけ酔馬の死を後悔していて、誰かの力になりたいと願ったのだろう。
「……シオン、あの話はまた後で頼むよ」
「ん。じゃ、ここに座って。刻むから」
目配せと共に頼み、仁はベットに腰掛ける。考えがまとまっていないであろう少女も何も言わず、堅の提案に頷いた。
(堅さんに救われたね。後で何かおごらなきゃ)
とりあえずは逃げれた。椅子に座り、背中を晒した堅に剣を向ける彼女の姿を見て、安堵するようにため息を吐く。
そして、先の出来事を振り返って思うのだ。やはり自分とシオンは付き合えないと。
自らがおかしくなっている事を、仁は理解している。嫌われたくない、心配させたくないとシオンには隠していたが、こうなってしまった以上、いっそバラした方が良かったのかもしれない。
狂人とお付き合いは、さすがのシオンでもハードルが高いだろう。いや、お人好しにも程がある彼女なら、狂人も人の内に入れてくれるだろうか。
しかし、そうなったら、仁が彼女を拒絶しなければならない。
(危なかったね)
(……ん)
だって仁は幻覚の世界で、シオンがいた所に剣を向けかけたのだから。
さっきは踏み止まれたが、今度は止まれるとは限らない。もし、身に余る幸せがあの幻覚のトリガーなら、絶対に付き合ってはダメだ。
シオンと幸せになるより、シオンに生きててもらう方が、仁は嬉しいのだから。
この手で最も大切な彼女を殺す事だけは、したくなかったから。
『異世界における銃の発展について』
異世界にて、銃などはさほど発展していない。その理由としてはやはり、魔法の存在が挙げられる。
まず一つ目の障害は身体強化だ。日本人の数倍の速さで動き回る意思を持った人間に、的確に照準を合わせられるのか。こちらも強化を使えば、出来るかもしれない。
だが、問題はその先にもう二つある。銃弾は銃口からしか出ていかない。つまり、銃口から軌道を計算できる。日本人なら無理だろう。しかし、強化を行った異世界人なら避ける事は十分に可能。ある程度の剣の腕があれば、銃弾を斬ることだって出来てしまう。
装填や準備も問題だ。構えて、狙いを定めて、撃って、弾を込めて、構えてに戻る。場合によっては撃鉄を起こすなど、他の動作も割り込むことだろう。時間がかかり過ぎるのだ。身体強化がある以上、剣で斬った方が早い。
二つ目の障害が障壁魔法と属性魔法のとある制限である。いくら絶大な威力を誇る銃だろうが、当たらなければ意味はない。
魔法によって銃弾に加工できる金属を生み出す事は、馬鹿げた魔力量と精密な魔力操作が必要とされる。その上で暴発しないよう、ちゃんと銃口から飛び出るように加工しなければならない。世界有数の魔力保持者が何十日かけて、ようやく一発できるかどうかだろう。非効率極まりない。ここで話を戻すとつまり、銃弾は全て物理属性になってしまい、物理障壁を張られれば完全に無効化されるのだ。
三つ目の障害は、そもそも銃なんて使わなくても魔法と剣で戦えてしまった事だろう。大砲のような魔力を使わない攻城兵器は、魔力節約の面から異世界でも有用であり、その小型化として銃は作られた。
無論、当初の期待は凄まじかった。近接戦闘において多くの者が魔法障壁を張る時代、そこを突けるのではないか、主流だった剣にとって替わるのではないか。
そう期待されて作られたのだが、当時の銃は粗悪品もいいところ。射程は短く、まともな方向には飛ばす、当たらず、なんなら暴発が連発。自分達が張るのも魔法障壁故に、暴発したらもろに喰らう。剣で斬った方がマシという代物だった。
もう少し足掻き、改良を加え続ければもっと良い銃ができたかもしれないが、その前にほとんどの者が剣に戻ってしまった。改良の余地は大いに残されていたのに、魔法と身体強化で振るう剣が強すぎて、ほとんど開拓されなかった。
このように、異世界において銃は存在こそすれど、決してメジャーではない。しかし、全く研究されなかったわけでもない。可能性を見出し、模索し続けた人間も少数ではあるが存在した。




