第64話 選択と了承
はっきりとしない意識で、過去の記憶がない交ぜの夢を彷徨っていた。いつも通り死にそうになり、大切なものを失い、仲間の死を見せられる悪夢。届かないことも時間は戻らないことも分かっていながら手を伸ばして、やっぱり届かなくて、心が壊れそうだった。
しかし、前から変わった点が幾つかある。酔馬が止まった時計の向こう側にいることと、辛くてもうなされなくなったこと。
慣れたからか。受けるべき当然の罰と思ったからか。それとも、今までうなされるほど罰だったものが、罰ではなくなったのか。
ぼんやりと氷と黒に変わって死んでいく自分の身体を見下ろし、恐怖が薄まった理由を考えて。
「じ、仁。おはよう!……よし、練習終わり。そ、それじゃお、起こさなきゃ……勿体無いけど」
「……」
(ひゃあ!?)
耳元で聞こえた声に、悪夢から引き剥がされた。目を閉じていても、音と声で分かるシオンの行動と存在に僕は飛び上がる。ここは本番で起きてあげよう。そう考えた俺が全身の主導権を奪い取っていたので、シオンが気づくことはなかった。
「えーと仁。おはよう。朝よ」
彼女の声とぺちぺちと叩かれた頬に目を開け、この身に相応しい嘘で、この身には幸せすぎる目覚めを迎える。
「ん。おはよう。シオン」
「お、おはようございます!」
彼女は決まったと少し嬉しそうに胸を張るも、目を合わせれば真っ赤になって顔を隠してしまう。練習を聞かれていた時点で何も決まってはいないのだが、言わぬが優しさというものだろう。
(もうちょっと普通に出来んのかね)
(僕無理。目を合わせるだけで死にそう)
あの一件以降、シオンの態度はもうめちゃくちゃだった。顔を見れば俯き、皮膚が触れ合えば飛び上がる。かと思えば、向こうからあーんやボディタッチと言って突っ込んできて僕を沸騰させたり。高確率でシオン、たまに俺も一緒に茹で上がる。
(……う、嬉しいけどそろそろ困る域に来たよ!ドキドキして死んじゃう)
(よかったな。この世で一番幸せな死因だ……と言いたいが俺もあまり宜しくない。決心が鈍る)
(環菜さんは言って聞くようなタイプじゃないし)
そのほとんどが環菜と楓の入れ知恵によるものだろう。食事などで外出を許された時、五つ子亭できゃーきゃーと女子会を開いているのを遠目で見た事がある。
(楓さんは楓さんで言えないし。あんな完璧な善意だとねえ)
環菜には本当に魔女の格好で堅の部屋に突撃した珍事で散々弄り倒しているが、楓はそうもいかない。彼女はからかっていないのだ。いつか死ぬか分からないからと、本気で仁とシオンの距離を近づけようとしてくれているだけなのだ。
(後ろの大魔神も問題だ)
善意を断るのも気が引けるが、本当に怖いのは後ろに控える桃田である。二人の甘い生活をネタに弄ってしまえば、彼にどんな事をされるかたまったもんではない。
(冗談が言い合える世界ってのは、いいもんだな)
兎にも角にもこんなネタで弄り合える程、今は平和に見える。裏では狩りに失敗して魔物に食われる軍人がいたり、配給が足らなかったり食料を奪われたりで死ぬ一般人がいたりするが、それでもまだ平和だった。
(でも、これからはもっと平和にしてみせる。その為に)
(その裏で死ぬ人を救う為に)
酔馬を失った影は残りつつも、日常はアコニツムの襲撃から少しずつ元に戻り始めていた。しかし、今日からは変わる。
「少し早いけれど、支度しないと。今日は発表の日だから」
今日だ。ようやく魔法の研究のフリの成果が実り、軍人に刻印の嘘が嘘の形で明かされる日。彼らが代償と魔法を得る日。嘘吐き『勇者』が役割を果たすのは、今日だ。
「ばっちり決めようか。大舞台なんだから」
布団から抜け出して体の調子を確認し、準備を始める。決してバレてはいけない嘘を吐き、みんなを騙す準備を。
軍の訓練場。日頃から義務と修練で賑わう場所であるが、今日の動員数はいつもとは段違いだった。
「お集まりいただき、ありがたく思う。今日は晴れてよかった。雨の中で集会して結果、風邪を引かれて死なれては困るからな」
シオンの土魔法で作られた、朝礼で校長先生が乗るような台の上。真昼間の太陽を照り返す柊が、台下に広がる整列した軍人へメガホンで枕詞を述べる。
冗談めかしてはいるが、この世界で風邪を引くという事はかなり危険だ。一応梨崎のような医者はいるものの数は少なく、薬に至ってはもうほとんどが無いのが現状である。拗らせ、肺炎になって死ぬ人間は毎日いるようなものだ。
「ハゲ!お前が眩しい!早く本題言え!」
「熊鍋を作ってみんなで食べる集まりだと言いたいところだが、まぁいい。では、本題だ」
そんなブラッキーな挨拶に、その元気さに風邪が逃げるような熊が野次を飛ばす。柊の額に大きく血管が浮かぶが、さすがに軍の人間を集めるだけ集めた手前、切れる訳にもいかず冷静を装って進行する。
柊と熊のやり取りを知る者からすれば、彼が銃をぶっ放さないか心配で堪らない光景だった。
しかし、実際にぶっ放される。
「おい、あれ?」
花が刻まれた仮面を火傷痕の上に被せた少女が、列の最後尾から空を駆け、柊めがけて突っ込んで来た。咄嗟の異常に軍人は銃を構えるも、たなびく黒髪と魔法で正体が分かるやいなや、すぐに収めて様子を伺う。
「撃つな!シオンだ」
分からなかった数人が発砲していたが、それも日本人の常識を超えた魔法には当たらない。誰も阻む者のいない空を、彼女は突き進む。
そして柊の手前にて、抜剣。虚空庫から引き抜いた銀光が、この街の支配者へと振り被られる。このままだと、斬られる。柊が死ぬ。信頼と実績に安心し、銃を収めてしまった者達が慌てるも、間に合う訳もなく。
「俺君、出番だ。思いっきりやっていいってさ」
「本気出しても勝てないって事だろそれ。負ける気は、無いけど」
間に合ったのは日本人が撃った銃ではなく、身体能力を魔法で強化した、黒のハーフマスクで傷を覆った少年の剣だった。
土の台に手をかけて飛び上がった仁は、隠れていたその身を衆目に晒す。驚いた顔や訳の分からないと言った顔を視界の端に収め、中心であるシオンの剣の軌道に合わせるように、腰の剣を抜剣。
鳴り響いた剣と剣の邂逅はうるさく、やかましく、美しい金属音だった。空中のシオンと地上の仁は互いに目配せをし、これからが始まりだと予告する。
「うわっ……あれも魔法?」
重なった剣を大きく払い、シオンを弾き飛ばす。一瞬の浮遊で態勢を整えて地上に降りようとした彼女の元へ、背中から伸ばした太い氷の尾の攻撃を置いておく。
「なんだあの動き?あんな早いもんに、合わせられんのか?」
無論、その程度の攻撃でやられる少女なら、今まで生きてはいない。高速で向かってきた氷の尾の先端に木の義手をつき、そこを支点に空中で逆立ちから一回転。躱すだけではなく、そのまま氷の尾の上を走り抜けて術者の元へ。
そして、剣が再会。歓喜か、悲痛か。そのどちらとも分からない音が辺りに澄み渡り、始まったのは剣と魔法の乱舞。
仁は物理の鉄剣と魔法の氷剣、そして全身の刻印からマジックのように創成する氷の刃で、柔らかい肢体を貫こうとする。少女は剣一本でその全てを防ぎ、時に反撃を的確に突き入れる。
「重なって聞こえる」
甲高い音が鳴る。それが観客の耳に届いた時には、剣はすでに音を鳴らした場所を離れ、違う音を鳴らしている。
「ほとんど見えねえ」
四つの光が、空中に残る。観客の脳が認識出来るのはそれまでだった。壇上の少年少女と彼らには、それだけの差があった。
「……」
年端も行かぬ少年少女がそんな事を出来るのは、魔法のおかげ。故に、憧れる。だがそれだけではないという思いが、彼らの胸に宿っていた。
少年は足から生やした氷の盾で横薙ぎを受け止め、その脇から無防備な彼女へと剣を突きたてようとする。少女は彼の反撃を木の義手で叩き落として軌道をずらし、無傷に終わらせる。
「すごい」
その咄嗟の予測と判断には、強くなりたいと強く願った彼らが積み上げてきた技術と修練があった。故に、尊敬する。
「「はあああああああああああああああああああ!」」
「それじゃ、ダメ」
少年は一歩奥へと強引に踏み込む。刹那の驚愕からため息を吐いた少女の迎撃の横薙ぎを、氷の尾一本で受け止めようとするも、叶わず。接触した所から尾が割れた。このままだと仁が二つに割かれるが、
「僕、頼んだ」
「俺君、頼んだよ」
痛みを任せ、戦いを任せ、互いに命を預け合い、氷の武具をもう一つ増やした同時発動。何の痛みも感じないクリアな頭は最高に冷えていて、心は最高に熱い。
「ダメじゃない。予定通りだよシオン」
「……へぇ」
一つでは受け止められなくとも、二つならば話は変わる。砕いて尾を通り抜けた銀剣との間に、太ももの刻印から小さな氷の剣を設置。いくらシオンの技術といえど、勢いの削がれた剣では、硬さだけを求めて作った小範囲の防剣を貫けなかった。
更に、ここでは終わらない。銀剣と氷剣がぶつかる瞬間を予測。シオンが腕を引き戻す前に、氷を延長させて絡め取った。
「押し切るんだ俺君!」
「分かってる」
流れが変わった。シオンの剣は今、死んでいる。両手の刃を腰に溜め、最後の踏み込み。障壁は物理か魔法か分からない。ならばと、下から同時に×印に物理と魔法の刃を滑らせた。
「くっ…」
シオンは義足義手の二つの魔法を使い、勢いは迎撃の為に前へと傾いている。まさに最高のタイミングで、仁は同時発動のカードを切れたと言っていいだろう。
「変わった。ううん。強くなった」
だがそれは、最初から見えていた仁の切り札であり、シオンはまだ対策を残していた。
「まさか双剣を使わされるなんて、思いもよらなかった」
少女は木の義手にもう一度魔法をかけて土塊の剣へと姿を変え、剣が交差する×印の中心へと叩き込む。
「ちっ!」
両手の剣を叩き落とされ、今度は一転。仁が無防備な姿を目前に晒してしまった。
「でも、まだダメね」
下から帰ってきたシオンの土剣に、濃密な敗北の香りが鼻腔を刺激。予想された負けに仁は、おそらく今までの戦いの中で最も少女に近づいた今を手放したくないと思った。
「「負けるかあああああああああああああああああああ!」」
周りの目など気にせずに、叫んでいた。見られている事なんてすっかり忘れて、必死で食らいついていた。出番も役目も何もかもを忘れるくらい、勝ちたかった。
氷の刻印の制御を切り離して、枠を0に。瞬時に尾てい骨辺りに二本の尾を創成し、空気を切り裂いて進ませる。執念の氷尾は、シオンの燕返しを叩き落とした。
「もう一本くるよ!俺君!」
僕の声に、目の前の突き出された銀剣に、俺の身体は最適な方へと動かされる。下で休んでいた双剣を振り上げて銀剣にかち当てて、上へとパリング。
戦いは終わらず、繋がった。そこからは四つの攻撃手段と、銀と土の双剣の撃ち合い。
飛んできた尾を砕き、力を無くした己の一閃を技術によって巻き技へと塗り替えて、仁の鉄剣を絡めとって防ぐ。一つの動作に複数の役割を持たせ、倍の攻撃の頻度を半分の剣で全て捌き切るのは、拷問によって天才を更なる高みへと押し上げられた仮面の少女。
「……シオンちゃんって、やっぱりすごい強いんだね」
「彼らに銃を向けていたとか、今考えたらすごい事だな……良い二人でよかった」
列から見た環菜は遠く、手の届かない強さと感じてしまう。その隣の堅は、出会った時にもし反撃されていたらどうなっていたかと考え、力無く笑う。
「食らいつく仁君もすごいなぁ」
仁へと賞賛の声をあげたのは桃田だ。全身の刻印から幾つもの攻撃手段を伸ばした少年はシオンの複数の意味を持つ剣を、更に多くの手数で押し潰そうとする。尾を防がれたなら剣と尾で。それも防がれたならば魔法を解除し、全身の刻印のどこかから刃を創成する。
手数のゴリ押しに見えるが、実際はものすごく気の細かい戦い方だ。固定された腕を二本、よく場所の変わる腕を二本、そして距離や回避を司る足を二本の計六本を寸分の狂いも許さず、自らの思い描く形に動かしているのだから。
その理想から僅かでもずれれば、負ける。なのに少年は一切ずらさない。だから少年は一切ずらさない。
「あんな、強かったのか?」
素人から見ればほぼ互角の展開に、群衆の一人が思わず呟いたのは万人の思い。今まで軍内での仁の強さの評価はシオンのオマケ、自分達が魔法を使えるようになったくらいというものだった。
ところがどうだ。一斉に飛んできた複数の銃弾さえ斬り刻んで防ぐような少女と、彼は張り合っているではないか。真正面から戦えば負けるからと、手数を無理に増やして戦っているではないか。
天の才を持ちながらも努力を積み上げた少女との研鑽の年月の差を、死ぬ物狂いの工夫と想いで、ハーフマスクの未熟な少年は埋めようとしていた。
「若いのぉ」
仁の全身から滲み出る冷たい殺気のような、しかしそれでいて熱い溶岩のような勝利への渇望が、見る者全てに伝わっていく。憧れの背中にもう少しで剣が届くと、剣の音が叫んでいる。若さを失いつつある熊が、青いなと笑う。
「思いだけじゃ多少は埋まっても、絶対的な差は埋まらん。そういう事だろうな」
柊の言う通りだ。彼女よりは全然短いとはいえ、仁だって己を鍛え上げた。最近、シオンが寝たのを確認してからこっそり部屋を抜け出し、訓練場で剣を振るうのが新しい日課が加わったように。そのせいで少女の方がいつも早く起きて、仁が起こされる形に変わってしまったのだ。
「隠れて剣を振ってたわね」
しかし、シオンはその事を知っていたようだ。バレていない、上手く隠せていると思っていたのに。
「なんで、分かった?」
「刻印の魔力が朝起きて減ってたから。そして何より、こんなに成長してたら」
シオンの口調と剣はどこか咎めるようで、しかし嬉しがっているようで。彼女の伝わってくる思いに対して、剣で答えを返すしかなかった。
「一週間……少しの年月で、こんなに変わるんだなって思う」
たかが七日間程度の日課。だが、その時に振るった剣への想いの密度は今までの比にならない。仁がどれだけ重い十字架を背負い、どれだけ固い誓いを結んだか。それを知るのは仁の嘘を知る、僅かな人間のみ。
人に嫌われようが、己の身が代償に蝕まれようが構わない。ただひたすらに、何をしても強くなりたい。どうなろうと守りたいという仁の願いは、振り下される一振り一振りに込められ続けた。
技術としての進歩は、一週間の間にしては目を見張るもの。しかしやはり、シオンの年月と密度からすればまだ足元程度のもの。
「前までの仁は、無駄があった」
変わったのは戦いの姿勢だ。彼は前まで保守的で、攻めていい場面でも守りの事を考えていた。いつでも防げるように、僅かながら戦いにスペースを作っていた。それはきっと、死ぬ事を何より恐れている彼の性格の表れだった。
「今はそれがないの。剣士として成長してる」
しかし今の仁は違う。その無駄が消え去った。攻める時は思いっきり攻め、守る時は守るようにケジメがついた。それはきっと生き残る事ではなく、勝って何かを守る事を何より望んだ彼の誓いの表れだろう。
たったそれだけで、見違える程に強く感じた。一皮剥けたというのが正しい表現なのだろうか。
「ありがとう」
「ここまで来れたのはシオンのおかげだよ」
剣だけで答えを返していたのを撤回し、俺は戦いに無駄な言葉で、僕は痛みに呻いて礼を述べる。斬り合う最中なのにシオンは微笑み、まるでついて来いと言わんばかりに剣の速度は上がっていく。
彼らの戦いは、想いは、見る者の目を惹きつけていた。柊に剣を振るおうとしたシオンも、仲が良かった彼女と死ぬ気で剣を交える少年という関係を忘れ、理解を超えた速さと感嘆する技の冴えに見惚れ、剣が奏でる感情の色を聞き取り続ける。
時にこれでいいのかと我に帰る者もいたが、状況を見直してすぐに観客へと立場を戻した。斬られそうになった司令が何の動きもせず、ただ戦いを眺めているだけなんてあり得ないから。
しかし、この時間も長くは続かなかった。シオンの上げた剣のペースに、仁の短き努力の限界は迎えたのだろう。対応が遅れ、身体に傷がつき始める。
一度形成が傾けば、もうひっくり返る事はなかった。天才と長き年月に仁はついていけずに膝を着き、鉄の剣は遠く地に落ち、魔法障壁で刻印を封じられ、首元には剣を突きつけられた。
「……参った」
「降参だよ。悔しいなあ」
これより先、勝てる未来が思い浮かばない完璧な詰みに彼は両手を挙げる。自分の中の理想を体現しても届かないのなら、未来永劫勝ちはない。
「……終わったけど、これって?」
剣舞の終幕に、拍手も歓声もなかった。終わった事に気付いた者達が、これが一体なんの意味を持つのかとざわめき出しただけ。
疑問が溢れる空気の中、手を挙げて注目と静けさを戻させたのは、先ほどシオンに斬られかけた柊だった。
「少し熱の入っていた先の演舞を見てもらって分かったとは思うが、魔法とは恐ろしいものだ。彼らと正面から戦って、勝てるかね?」
メガホンによって拡声された彼の言葉に、ほぼ全員が無理だと心中で首を振る。あんな剣の軌道もろくに見えず、自分達の何倍もの速度で動く相手にどう勝てと。
「こんな相手が我らの敵にごろごろいるそうだ。それこそ、例の障壁とやらを持った者達が数百で一かたまり。それが無数にだ」
「数百!?」
「……騎士団ってやつか」
続く言葉は、取り戻したはずの静けさが奪われてしまっても、仕方のない情報を秘めていた。
たった数人で300人以上の人間が殺された。しかも無傷でだ。だと言うのに、それと同じ魔法を使える者数百人の団体がいくつもある。その者達の中に目の前の剣舞を披露した者達と同等の強さがあるなど、想像したくもない。
「勝てないと思うだろう。当たり前だが、その根源はなぜだ?それは、こちらの攻撃がこの二人以外通らないからだ」
それが事実なら、勝機はどこにもない。核すら通じない数百×無数に、日本人が勝てるわけもない。
「しかし、逆に考えよう。こちらが攻撃を通す手段を持てば、彼らについていける身体能力を得れば、勝機は見えてくるわけだ。命令だ。見ろ」
今の戦力で絶望的なら、今の戦力を強化すれば希望は見える。そう言って柊は、俯向く人の顔を上げさせる。
「危な––!」
最初の目的を思い出しかのように、シオンの剣が柊へと一直線に振り下ろされる。注意の叫びは届いても、銃弾は絶対に間に合わない距離。
「このように」
しかし柊は死ななかった。目の前に迫った斬撃に仁やシオンと同じ人外の速度で動き、掌の刻印から伸ばした氷の刃で受け止めて見せた。
「は?えと?」
魔法が使えなかったはずの司令が、魔法を使ってシオンの一撃を防いだ。文にしても光景にしても、至極理解簡単な現実。しかしそれを見ていた軍人達、それこそ熊でさえ口をあんぐり開けていた。
「理解が追いつかないとは思うが、諸君。この目の前の光景が全てだ。私達は、魔法を使える術を手にしたのだよ」
事実を簡潔に口にした柊は手を掲げ、美しい氷の剣を天に伸ばし、先の光景が幻覚ではないと証明する。
「いやでも、俺ら魔力ってのが無くて使えないんじゃ?」
「刻印というものだ。予め魔力を持つ者が直接身体に刻む事で、魔力を持たぬ者でも魔法が使えるようになる。これは本来、魔法が上手くない者の補助に使われていた魔法陣だったが、それを仁とシオンが改良してくれたのだ」
軍の列の中から飛んできた質問に柊が答え、脇のシオンと仁が一礼。そしてようやく、彼らは現実を受け入れ始める。
仁とシオンが開発してくれた技術なら、自分達でも魔法を使えると。使えさえすれば攻撃を通す手段となり、今まで程絶望的では無くなると。狩りの効率もずっと上がり、強い魔物とだって戦えると。
死者は減る。いや、それ以上だ。もしかしたらこの世界でも生きれるかもしれないと、彼らは理解した。
「もちろん、代償が無いわけではない」
湧き上がった喜びに身を任せそうになったのを、柊は再び手を挙げて押し止める。古来より、美味い話には裏があるもの。
「仁、見せてくれ」
「……はい」
呼ばれた仁は喉元に刻んだ拡声の刻印で返事をしてから、脚の白い包帯をしゅるりと外し、晒し始める。
「ひっ……義足?」
露出した皮膚は本来、肌色であるはずなのに。そこには透き通るような透明しかなかった。
「いいや違う。これは本物の脚だ」
上がった悲鳴に嘘吐き『勇者』が返したのは、信じられない真実だ。ぎょっとした反応があちらこちらで上がり、せっかく見えた希望に躊躇う者もちらほら見える。
「ただ、安心してほしい。使い方を間違えなければこうはならない。正しい使い方をすれば刻む時の痛み以外のデメリット無しで、障壁と虚空庫以外の魔法は使えるんだ」
魔法が使える事を教えて上げて代償で落とし、更にその小ささで印象を上げる。この事に関して嘘は無いが、それでも人の心を誘導する話術に心が痛む。
実際、仁の眼下に広がる彼らの目は、希望に満ち溢れている。絶対的な絶望の暗闇の中、僅かに差したか細い光を太陽だと勘違いしている。
故に、仁は騙し続ける。誘導し続ける。それが救いの道ならば、何をしてでも彼らを導くと決めたのだから。
「諸君らに選択の権利を与える。身体に痛みと共に魔法を刻み、力を得るか。万が一を考え、刻まずにこのままでいるか。強制はしないし、処罰もしない。これは権利だ。拒む者は、訓練場から出て行ってくれ」
再び訓練場に響き渡る、柊の選択を迫る声。目を瞑った仁が数秒後に世界を再び見渡せば、
「よろしい」
ほとんど列が欠けていない、身体を刻まれる事を了承した戦士達が並んでいた。
「絶対に、生き残ろう」
そして柊が発した、普段の彼からは考えられない優しい声かけに全員が驚き、
「「「はいっ!」」」
大きすぎる返事が、軍の訓練場を突き抜けて街の空気を震わせた。
それはまるで、あの日の教室のようだった。
『仁が使う魔法の種類について』
桜義 仁は身体に多くの刻印を刻んでいる。ここではその一部について説明する。
彼に現在刻まれているのは身体強化と治癒が2。氷の刻印が24。火、土、水、浮遊が2である。飛龍との戦いから大幅な増量で、全身刻める限り刻んでおけといった状態である。
彼がこれだけ多く氷の刻印を刻んでいる理由は、少しでもタイムラグを減らす為。左下からの攻撃に対し、右手で氷の盾を作っていても間に合わないだろう。左手も悪くないが、最高は左脚だ。更に贅沢を言うなら、太ももか足首かでも大きな距離がある。少年は弱い。弱いが故に、こういった部分で補わなければならない。
浮遊は空中に回避した際の隙をなくす為である。戦い中で必ず、上以外に逃げ場がないという事態に直面するだろう。その時に一瞬でも浮遊が使えるかどうかは、生死を分ける。一瞬だけ、その一瞬だけで体制を整えられれば、無防備が防備に変われば、戦いは変わる。そしてもう一つとしては、万が一高所から紐なしバンジーと相成った際、着地前に一瞬浮遊することで落下の衝撃を0にする為である。最大飛行時間は魔力最大で約一分ほど。
火、土、水に関してはもしもの時に備えての保険であり、普段から使うことは少ない。水魔法で作った水は飲み水にもなるし、火魔法があれば簡単に火を起こせる。土魔法も数回くらいなら土製のかまくらを作れるだけの魔力がある。仮に遭難したとしても、少しの間は生き残れるだろう。2で止められているのは、シオンが三重発動することを嫌ったからである。
強化や治癒の刻印、浮遊以外の刻印は小さめであり、一個辺りに込められる魔力はさほど多くない。しかし、数の多さによってその点はカバーされており、仁の刻印の総魔力数はトップクラスとまではいかずとも、相当なものである。よっぽど無茶な使い方をしない限り、オーガ戦の時のようなことはないだろう。
これだけの数が刻まれているのだ。もちろん、仁の戦い方はがんがん刻印に頼ったものになっている。刻み直しの間隔が短くなるが、何も悪いことばかりではない。仁が惜しみなく強大な魔法を何度も使うことで、軍人に刻んだ刻印との差別化を図っているのだ。
しかし、そのデメリットはやはり重い。いくら痛覚を分けることができ、間隔はバラバラとはいえ、計36もの刻印の魔力の補充は凄まじい。毎日数個ずつ、切れない内にシオンが刻み直しているが、その時間は苦痛に満ちたものである。
 




