第62話 医者と推測
あれから軍に戻るやいなや、待たされてフグのような顔をしていた環菜にシオンは連行された。仁はたった一人、孤独に部屋へと戻ったのだが。
「おい怪我人。主治医に何も言わずベッドから出て行くとは……なかなかいい度胸だね」
自室の前、こちらも待たされていた医者が腕を組んでいた。言い草と手の中で回されたメスに、彼女の立場を思い出す。
「……すいませんでした」
「悪かったよう」
視界の上にドアノブが来るまで腰を曲げて、謝罪。柊には報告したが、梨崎の事はすっかり忘れていた。治療中の要人の患者が知らぬ間にいなくなっていたのだ。彼女はさぞかし慌てた事だろう。
「ま、私は治ったなら勝手に出て行かれても別にいいし、今回の事に関して怒ってもいないんだけどさ。困った事になりかけたってのは自覚しといてね」
しかしまぁ、一般の医者から大きく外れた彼女なら、慌てなかったかもしれない。少しでも多くの命を救う事しか考えていない彼女にとって、治って目覚めて勝手に出て行かれるのは、退院した事と同義だ。
その価値観によって、シオンを見殺しにされた事については良い感情は抱けていない。しかし、彼女は己の信念に従って行動した事、シオンを生贄にする案も決して悪い案ではなかった事は、論理的に仁も認める所である。
苦手ではあるが、嫌いにはなれない。それが仁にとっての梨崎という医者であった。
「他はそうはいかないからねえ。ハゲに報告してなかったら、軍が捜索に出るところだったよ?」
メスにカバーを付け、白衣に仕舞った彼女からの忠告が飛んでくる。仁とシオンの重要性を改めて教えるような内容の裏に潜むのは、三人が軍に帰って来なくなる可能性の示唆だった。
「……以後、気をつけます」
「僕らを狙う奴らがいるって、事かい?」
ポケットに両手を突っ込み怠そうに立つ、まるで普段と変わらないような梨崎へと、仁は裏の意味の説明を求めた。
自分達の意思で出て行ったのなら、後で帰ってくると分かるはずだ。捜索に動かすとしても数人くらいだろう。なのに、彼女が軍そのものが動きそうだと言ったのは、
「そそ。今回の件で軍の信頼はガタ落ち。それでもまだギリギリのラインで引っかかってるのは結果的に街が助かったのと、君達がいるからだからね?」
「やっぱり、心象は悪かったんですね。騙したのこちらですけど」
軍は龍を堕とし、街を救った。それなのに支持率が下がった理由は、シオンを差し出すと一般人には説明して出かけたのに戦って墜としてしまったから。
「助かったから、助けたから悪く言われるってのは面白いよね。あの頭でっかちの蜂須ですら、最後はこれが最善だって呑んだのにさ」
邪魔されずに飛行機とヘリを飛ばせたのも、シオンが逃げないか監視するという名目があってこそ。助ける為にはこうするしかなかったが、やはり騙されたという印象は残ってしまった。
事前に全てを説明するよりは、あの時点で言わずに救い、事後報告した方がまだ反乱の可能性は低いと予想され、現実その通りとなった。懸念であった支持率の低下も予想の範囲内だ。
「で、俺らを狙って軍を崩壊させようって算段ですか」
仁とシオンで信頼を繋いでいるなら、そこを突くのは自明の理。この街の人間にシオンが遅れを取るとしたら、銃弾を防げない仁が人質に取られるくらいしか思い浮かばない。
「でも、その割には手を出されなかったよ?出されても僕が死ぬくらいだったとは思うけど」
道中、向けられた目に様々な種類があった事を思い出しながら、僕は頭の上に疑問符を浮かべる。確かに悪感情を感じる物はいくつかあったが、直接的な手出しはなかった。
「取り込むか殺すかで意見が割れてるんじゃないかってのが、ハゲの予想。どっちにしろ、この街まとめる大変さを理解していない馬鹿どもには無理だろね」
彼女が教えてくれた柊の予想は、実に頷けるものだった。信頼と言うよりは希望、障壁への対抗手段として仁達がいるから、彼らは迂闊に動けない。出来ることなら殺したいが、仁とシオンの死は障壁的にも支持率的にも、自らの首を絞めることになりかねないのだ。
「これからは気をつけます」
「馬鹿共がまとまる前に、先走る大馬鹿がいるかもしれないから。君が死んだら救えるものも救えないからね」
仁ではなく、仁がこれから救う人数を気にした忠告を受け、罪悪感に蝕まれながらも頷く。
先走った大馬鹿が仁を殺せば、障壁の対抗手段を一つ失ったと一般人は思い、反軍勢力の力は大きく削がれる。いや、削がれる以前に、一人の少女によって壊滅される。
「全く、救った奴らに滅ぼされたら報われるものも報われやしないね。ん?何だいありゃ?ハゲかな?」
「なんだろあれ」
「な、なんだろうな」
何かに気づいたような梨崎に釣られて仁が見たのは、こちらへと走ってくる巨大な影。命に関わる話を思わず中断してしまう程、関心を持ってしまった理由は、
「プレゼントがプレゼント持ってきてる」
「四人と四つ?」
「最近軍に出入りしている運送業者?困ったね。私、助からない傷と頭の怪我だけは専門外なんだ」
色とりどり鮮やかにプレゼントボックスの仮装をした四人の男達が、巨体と比較して小さく見えるプレゼント箱を持って走っていたからである。こんなので注目するなという方が無理なほど、彼らは目立っていた。
「あんなの絶対止められ……入場許可証がプレゼントについてるから止められないのね……」
愉快すぎてこの場で射殺されても文句の言えない彼らの格好に仁は度肝を抜かれ、梨崎は馬鹿は医学で治せないと匙を投げる。
「桜義 仁さんですよね?」
「仁は俺だけど……」
あの格好の前で真剣な会話もしづらく、そのまま過ぎ去るのを待っていたのだが、何と彼らは目の前で立ち止まり、名前を確認してきた。
「いやぁ、大兄貴がこんなすごい人だったなんて、強いのも俺らがやられたのも納得すよ!」
「お、大兄貴!?」
「……君、こいつらの社長さんだったの?」
巨大なプレゼントに視界を埋め尽くされ、大兄貴と呼ばれた。全く理解が追い付かず、梨崎への反論さえできない。
「どうもお届けものっす!」
「僕ら戦場から天国地獄までお届けいたす四人組!」
「安全安心、迅速にお運びするぜ!」
「荷物の運送は」
「「「「ヴァルハラヘルヘヴン!」」」」
挙句、むさ苦しい四人組が目の前で筋肉を見せつけるようなポージングを取ったとなれば、考えるのをやめるのが吉だと考えた。分からなければ、そのままの事実を受け入ればいい。
「な、なかなかにイカした格好ですね」
なんかやばそうな奴らに絡まれたという、事実を。
「大兄貴を元気付けようと、兄貴が提案したんです」
「で、俺が箱の設計して三葉が組み立てて、双葉がペンキで塗ったんすよ!」
「か、感謝」
「自信作ですぜ大兄貴!」
「器用なもんだねぇ」
胸筋を貼る四人の言う通りだ。色合いや箱の形のバランス、アクセントにつけられたハートマークや星等は非常に可愛らしく、素人の仕事とは思えない。
(これ、女の子がしてたらダイブするのに)
(俺は嬉しいよ。形はともあれ、励ましてくれる人がいてさ)
小物であったのなら、買う人がいたかもしれない。しかし、言うちゃ悪いが着ている人が着ている人、素材が素材である。そこらの軍人顔負けの強面達が、可愛らしいプレゼントから顔と手足を突き出すという光景は、前衛的だ。
「で、俺らにお届けって一体なんですか?」
目の前の現実から目を逸らし、彼らの持つお届け物に意識を集中させる。それなりに街にも馴染めた仁ではあるが、わざわざ何かを送ってくれるような人を思いつかなかったのだ。
「ちょい待ちちょい待ち。さっき警戒しろって言ったのに……中改めさせてもらってからでいい?爆弾とかだったら困るからね」
「こういう狙われ方もあるんですね」
箱を受け取ろうとした仁の手を梨崎が遮り、これが暗殺である可能性を提示する。つい、今までの日常の感覚で、プレゼントが安全かどうも確かめようとも思わなかった。これからはこういう事にも、気を配らねばならないのか。
「へ?ああ大丈夫だぜ。これ見せればいいって柊さんが」
「あー。もう対策されてるのね。軍内の中なら基本的には安全って訳か。ハゲは奥手な癖に、相変わらず手を回すのが早いなぁ」
一葉はごそごそと身体についた箱から一枚の紙切れを取り出し、梨崎と仁へと内容を見せつける。そこには軍の判子と見た者のサインの二つの黒、そして「チェック済み」の文字の赤色が刻まれていた。
「僕らも危なかったし、シオンなら死んでたねこれ」
暗殺を防ぐ為に、柊が用意してくれたらしい。さすがのシオンもこのようにプレゼントで警戒を解かれれば、危ういと判断したのだろう。プレゼントなんて貰った事がない彼女なら、大喜びで警戒もせずに開けて木っ端微塵となった可能性は十二分にある。
「軍内でこの書類があるならある程度は安心していいけど、過信はダメだよ。それと、外とこの書類が無い時は開けないで軍に連絡ね?」
安心して箱を一つ受け取った仁に、主治医は更なる警戒を促した。軍内ではチェックしないと入れないようにしてあるようだが、この書類の偽造や外で渡すなどして掻い潜ろうとしてくる輩がいるかもしれない。基本的に、物を受け取らない方針の方が良さそうだ。
「疑って悪かったね」
「……狙う輩がいるのは、分かってますから」
梨崎は届ける事を誇りとする職業を疑った事を謝罪する。しかし、彼らはその事を理解していると手を振って許し、
「酔馬さんと大兄貴達に救われたってのに、恩知らずな奴らだよ」
「これで暗殺なんてされたら」
「報われ、ない」
疑う側が悪いのではなく、疑わなければならない状況を作った大元が悪いと、反軍勢力へと敵意を向けた。その顔は鬼の顔が涙と悲しみに歪んだような、怖くて優しいもの。
「あなた達も酔馬さんを知ってたんですね」
「この職始めた時に、経営だとか方法についてアドバイスしてもらいまして」
「あの人のおかげで軌道に乗れたって言っても過言じゃないっす!」
彼らも酔馬と知り合いでお世話になっていた事に、目を見開く。何と酔馬は経営まで出来たらしく、新しく起業した彼らの補助をしていたそうだ。ここにもまた、彼の意思が残っている。
「だから、某達も彼には返せぬ恩返しに何かしようと」
「俺らにできるのは、責任感じてそうな大兄貴達の為に、美味しいもんお届けするくらいだ」
彼らは助けてもらった恩を返せなかった。故に、彼の遺した仁へと恩を届けに来たのだ。
「美味しい、もの」
「わぁ……これはすごい!晩飯まだだったんだ!」
熱々の野菜炒め、ラーメンらしきもの、餃子、チャーハンと、渡された箱を一つずつ開け、中身を確認し終えたものから自室へと運び込む。空腹な仁にとって見覚えのあるこの贈り物は、とてもありがたいものだった。
「五つ子亭の人達に作ってもらいました」
「これ食って、元気出してくださいってメッセージもお預かりしてるっす!」
ヴァルハラヘルヘヴンが注文し、彼女達が引き受けてくれたのだろう。まだ冷めていないのを見るに、ついさっき出来たのを急いで持ってきてくれたようだ。
「某ら、あなた達に救われた者達」
「他の馬鹿どもはあんたらに救われたと思ってねえかもしれねえが、少なくとも俺らは分かってるぜ。 大兄貴。助けてくれてあんがとよ!」
これも全て、仁達がアコニツムを倒したから、酔馬が命を捨ててまで希望を繋いだからだと、英雄達が街を救ってくれたからだと、彼らは笑って親指をぐっと立てて礼を言って。
「あら」
鼻の奥に何かを突き入れられたような感覚。目の奥が熱くなって、視界が滲み出す。
「……ありがとう、ございます……!」
感謝されて、嬉しくなって涙して、傷ついた。かつてシオンが言った、脚一本で大切な何かを救えたのなら安いという言葉に、今ならば非常に共感できた。
(ごめんなさい)
しかし、こうやって感謝されればされる程、仁の罪の意識は膨らみ、心が膿んでいく。それは絶対に顔に出さないよう、ポーカーフェイスが出来る僕に表の主導権を任せ、俺は裏で届かない事を知っていながら謝った。
「わぁ!?ちょっと泣かないでください!」
「救われたのはこっちですよ」
「な、何故?」
助けてくれてありがとうと感謝したのに、何故か助けた側に感謝され、泣かれてしまった。汚い世界で生きてきて、そんな経験なんてなかった四兄弟は仁の涙に動揺するばかりだ。
「……嬉しく、てね。ついつい」
(……辛いな)
表情は笑顔、心情は罪悪感。表情と心情の半分が合致し、もう半分は乖離していく。
知らない人にまで感謝されて、そして彼らを騙し、これからも騙し続けていく事実を再認識して、つい涙腺が緩んでしまったらしい。
「少しでも大兄貴が元気出してもらえたなら、こんな格好した意味があるってもんよ!そいじゃ、俺ら次の配達行かなきゃなんないんで!」
「……頑張ってください」
「元気でたよ!ありがとうね!」
嵐のように来て、嵐のように走り去っていく四人を見て、仁はその眩しさに眼を細める。わざわざあんな馬鹿な格好をし、軍内の注目を集めてまで、こんな自分を励ましに来てくれた。何と、気持ちのいい連中だろうか。
「あれ、誰だったんだろうな……向こうは知ってる風だったけど」
自分の事を大兄貴と呼んでいたが、どこかで会ったことがあったのだろうか。あのプレゼント箱のインパクトで記憶が出てこないのだろうか。いや、大兄貴と呼ばれるようになる記憶なんて、滅多にあるものではない。
「心の病を治すのは医学じゃないってのは喜ぶべきなのか。さて、本題入っていいかな?」
「本題」
「お願いするよ」
誰だったのか答えは思い出せそうにはない。彼らには悪いが、梨崎の持ち出した本題とやらを今は優先する。シビアな生と死の価値観を持つ彼女が、暗殺などの警告以上に重要だと判断した事柄とは何なのかが、仁は気になった。
「あんた、これから先もあんな魔法の使い方するなら、多分死ぬよ?」
躊躇いも無く、彼女は淡々と明日の天気を告げるような気軽さで、限界を超えた魔法の使用の末路を仁に突きつけた。
「原因はこの黒い点、ですか?」
「この黒子みたいなのは死んでるってやつ?これが広まるとやばいって訳かい?」
「あんまり驚かないってことは、予想できてたのかな?」
しかし、このままだと死ぬぞと告げられた仁の態度は、大して動揺するものでもなかった。梨崎はこの事に関して少しだけ驚いたのか、眉がぴくりと上がる。
「まぁ一応」
「ちょっと無茶な使い方をしたから一気に来ただけだからね。普段の使い方なら大丈夫だろうし」
予想もできていたし、対処も分かっているのなら、そう怖がるものでもない。この程度の死の可能性以上のものを、仁は腐るくらい経験してきた。驚いた度合いで言えば、さっきの仮装の方が遥かに高い。
「ふむ。まぁ火事場の馬鹿力じゃないけど、リミッターを解除したみたいなもんか。あ、けど死んでるのは黒子だけじゃないよ」
「この脚も、ってことなら」
「頭、痛かったりしない?」
もう左脚に血が通っておらず、自由に動かせる義足のような事は理解している。そう言おうとした仁に梨崎が被せてきたのは、医者である彼女が推測する危険な部位。
「いや、脚というよりその氷も危険なんだけどさ。死んでる部分が膝下まで来てるし。血管も筋肉の働きをするようなものも無しになんで活動出来てるかが不思議でならない。これが生命維持に必要な臓器にまで達したら、まあ普通死ぬね」
氷へとまるまる置換されたのが脚でよかったと、梨崎は本命の部位を前に説明していく。
仁の脚を現代の日本で例えるのなら、切断してとんでもない性能の義足をつけたような状態である。もし切断に例えられる箇所が臓器まで達する事があれば、その時は死ぬだろう。何の計算も手術のように適切な摘出をするわけでも無く、バッサリ臓器を切り取るのだから。
「ま、この際それはいいのよ。他の箇所を氷に置換すればいいんだし」
左脚が危うくなったのなら、右脚を、そうでないなら両手をと、氷に変えても良い箇所なら、まだストックはある。だが、ストックが効かない部位はどうなるのか。
「問題は頭ね」
梨崎はとんとんと自らの額を小突き、指を一本だけ立てる。それが意味するのは、氷に変えてはならない最も重要な脳が入った、一回壊れれば代用のできない器官という事。
「で、頭痛はする?」
「……少し、だけ。けどこれも魔法の影響なんですか?」
「二日間も寝てれば頭痛くらいするだろうし、他の身体の場所だって痛いし」
頭痛が今現在も頭を殴りつけている事は認めたが、それは魔法の発動とは関係ないのでは?と反論してみる。しかし、本当は分かっていた。あの時、仁の脳は超えてはならないラインを超え、今の頭痛の原因はそれだと言う事なんて、分かりきっていた。
「目鼻口耳……こんだけの部位からたくさん血を流してても?シオンからも多重発動は脳に来るって聞いたんだけど?」
「……やっぱり、ですか」
梨崎が更につけ足した根拠とは、それは仁の知らない気を失った時の己の姿と、魔法に詳しいシオンの言葉だった。
「酷かったよ?もう、これお手上げなんじゃないかって思ったくらいに」
全身の筋肉と骨は限界を超えた酷使に、折れて張り裂けていた。今となっては鈍い痛みを与える程度にまで回復しているが、それでも、痛覚を二人で分け合ってようやく動けるくらいなのだ。怪我のピーク時は一体どれほどのものだったのか。
「顔はもう血で真っ赤。赤い絵の具に突っ込んだんじゃないかってくらいに、べちゃべちゃだったね」
顔面はまるで潰れたトマトのごとく赤く染まり、溢れ出る血で窒息死しないように大変だったらしい。
バッキバキになった肉体、血を流し続ける頭部、氷へと変わった脚。満身創痍でも足りない状態で、よく帰ってこれたものだ。
「魔法ってすごいねえ。でも気をつけてね?壊れた頭は魔法では戻せないらしいから」
それら全てをたった数日で動かせるようにした治癒魔法を褒めつつ、梨崎は魔法では治せない損傷もある事を忘れるなと忠告する。
「どんな悪影響がでるか、いや、もうすでに出ているかもしれない。ただ、良くない事しか起きないのは分かるし、これ以上使えば取り返しがつかない事は分かる?」
「それは、分かっています」
代償のある無茶をした事は、仁でも分かる。絶え間なく根付いた頭痛の時点で、それは察していた。
一つの電卓で一度に計算できる式は基本的には一つ。魔法陣や刻印という計算画面とボタンをもう一セット用意する事で、多重発動は可能となる。しかしこの場合、脳という大元の電卓のスペックは強化されず、一つのとなんら変わらない。故に発動時に頭痛という、無理をした代償が生じるのだ。
(僕らは一つの電卓の性能で、四つの式を無理矢理計算したんだ。オーバーヒートして然るべき。壊れなかったのが不思議なのさ)
本来なら激痛による気絶というセーフティが存在する所を、仁は痛覚を分配する事で乗り越えてしまった。故に、仁が止まった場所は脳の機能の限界と推測される、四つ目の刻印。
「忠告、ありがとうございました。使用は控えます」
「控えるって事は、使う事もあるってわけだ」
ならば、使わなければいいと仁は梨崎に伝えようとし、作った曖昧という抜け道を見抜かれた。
「必要に迫られれば。死ぬくらいなら使います」
「まぁその判断は止めはしない。けどね?シオン以外を助ける時に使うのはやめな」
前の言葉に適用される場面を例に出し、自身の保身の為だけに使うと思いこませようとしたのさえ、彼女には通じない。
「……えっ?俺は自分を助けようとした時にしか使わないですよ」
曖昧で逃げれなくなり、手で口元を隠しながら吐いたのは嘘。誰かの為に使う可能性が梨崎からシオンに伝えれば、彼女は刻印の刻む数を制限しかねない。そしてそれは、命の重さを平等で量る梨崎ならやりかねない行為だ。仁が救う命の数と一般人が救う命の数は、大きく違うと判断するだろうから。
「目線が右斜め上。手で口元を覆う。妙な間といつもは使わない言葉……まぁこれだけ揃えば役満」
「バレて、ましたか」
言葉の綾も嘘も、真実を隠せはしなかった。医者として得た知識なのか、彼女は人が嘘を吐く時の異常を理解しているらしい。
「君の嘘はずっとね?嘘を吐くなら上手く吐きなよ。偽りの英雄さん」
「!?」
「あー、やっと素顔見せたね?ビンゴかな?」
そしてその知識があるならば、仁が今までに吐いた嘘全てが見抜かれているのも、不思議では無い。
だがそれは余りにも、仁にとっては予想外の一言で、思わず隠す事さえ忘れて驚いてしまった。それは自白と同義だと言うのに、素顔を見せてしまった。
「……なんで、言わなかったんですか?」
「私は軍医だし、軍が崩壊したらどうなるか分かってる。だから、言わなかっただけ。柊が君を担ぎ上げたいのは、シオンの無茶な要求飲んだ時に理解したし」
言わなかった理由は、彼女の価値観によるもの。より多くを救えるのはこっちだから、梨崎は仁の嘘に誰よりも早く気づきつつも、黙っていた。しかし、天秤が逆に傾く時が来たら彼女はあっさりと、軍を崩壊させるだろう。
「まぁ今の状況的に言う事は無いだろうから安心して。あと刻印の頭のデメリットとか、氷が広がった場合どうなるかもシオンには隠してあるから。精々、鈍い彼女に気付かれないように振舞いなよ」
これも、同じだ。仁がいざという時に無茶が出来る方が救えると考えたから、シオンに刻印の制限をかけさせない為に、彼女は仁の身を削らせる。仁自体の価値はどうでもよく、救える命の価値だけ見る梨崎の姿勢はとても、
「「助かります」」
非常に、都合のいいものだった。自らをできる限り延命させ、末永く使い潰そうとする梨崎の意思に、仁は笑うわけでもなく、皮肉るわけでもなく、ただ単純に心から同意する。
「あらぁ、これなら酔馬も報われたのかな?よかったねえ」
そんな少年を見た彼女は非常に珍しい事に、満面の笑みを浮かべてみせる。それはまるで、同類を見つけて安心したような表情だった。
「まぁ、精々頑張って救い続けて、本物の英雄になって、あいつに意味をあげてね。じゃ」
梨崎はひらひらと手を振り、廊下の角を曲がって姿を消した。少し汚れてよれた白衣の背中を見届けて、聞こえない距離になってから、仁は口を開く。
「あの人も変えられたんだね」
「……すごい人だよ。酔馬さんは」
生者にしか興味が無いはずの彼女が、死者である酔馬の名前を何度も口にして気遣っていた事は、きっと悪い変化では無いだろう。
生きていた時も、死んだ後も大切な何かを残す。それが酔馬という男だった。
「……この街を何とかする方法と、騎士への対策、荒削りでも考えておこうか」
扉を開けて、椅子へと腰掛ける。街の寿命は少なくとも、朝まで考える時間はある。
ちなみに、酔い潰れたシオンが帰ってきたのは仁が思考のノートを取り出した一時間半後。部屋に戻るなり、すぐに布団へと入っていった。寝る前になんだかとんでもない事を口走ったシオンが仁に抱きついてきたのだが、起きた彼女はそれを覚えておらず、その思い出は俺と僕の心の内に大切に仕舞われた。
翌朝。紙の匂いの中に酒の残り香が混じる軍の司令室。昨日酒を飲んだのか、匂いの発信源は柊とシオンだ。唯一違いがあるとすれば、シオンは二日酔いで頭を抑えているのに対し、柊は平気な顔をしている事だろうか。
「……騎士。聞いてはいたが、知れば知る程厳しいとしか言えん」
「やっぱり、ですか?」
いずれ来る可能性の高い化け物揃いの軍団の情報を知る限り伝えたのだが、彼の表情は硬くなる一方だった。
「相手の位置さえ分かっていれば、空爆と魔法の二択で攻めれなくはないだろう。しかし、それは現実的ではない」
アコニツムへの作戦は通じないと、柊は酒の匂いを吐く。
現実的な作戦の一つとして、空からの爆撃とシオンが大魔法をぶっ放すというものがある。決まれば全員を一撃で沈め得る可能性があるが、それは相手の居場所を完全に把握しており、なおかつ固まっている事が前提。しかも耐えられてしまえば、魔力を大きく消耗したシオンを敵に晒すという事になる。
普通なら、耐えられないとは思う。しかしサルビアのような化け物を見てしまえば、信じきれなかった。
「どちらにしろ、街に攻め入られてからでは遅い。壁さえ乗り越えるというのなら、入り口を一つだけに絞ってそこで迎え撃つ作戦も難しいだろう」
街の入り口は一つのみ。そこに地雷を仕掛け、シオンが大魔法で歓迎も考えたがこれも却下。そもそも彼らの身体能力からすれば壁は無いに等しく、入り口を狭められない。
「黒い膜で街を覆ったらって考えたけど発動条件があやふやだし、私が動けなくなっちゃう」
壁を登っても街へと入れないようにする為、シオンが黒い膜を張る事も案の一つには出たには出た。
アコニツムの一回目の襲撃では発動できたが、二回目は発動できなかった。仮に発動できたとしても、シオンの身体は襲いかかる代償によって動けなくなり、最悪死に至るかもしれない。大魔法を確実に当てる為の策で、大魔法が撃てないのなら本末転倒だ。
「不意打ちで空襲……気づかれてから障壁張られる一秒以内に全員吹き飛ばすのも難しそうだしね」
「騎士もその気になれば、上空のミサイルに魔法当てて射ち落すくらいやってのけそうだしな。やるとしたら夜か」
これも場所さえ分かればという条件が、前提の作戦だ。一番マシなのはこれだが、確証がなさすぎる。実行に移せるような成功率の作戦は、無い。
「近接戦闘は論外だ」
作戦を捨て、刻印と銃での挟撃。一見すると悪く無いように見えたのだが、想定してみると使い物にならなかった。
「こっちの銃は全部防がれる。けれど、俺らは同士討ちの可能性が常に付きまとう」
まず、相手が物理に障壁を固定さえすれば、銃は通用しない。そうなればシオンの魔法が通るようにはなるのだが、日本人もその魔法に高確率で巻き込まれてしまう。
こちらも障壁が使えれば、これらの問題は全て解決できた。やはり、障壁の有無は大きすぎる要素だ。
「刻印は身体からしか刃を生やせないからリーチは負け。物理も魔法もこっちはくらい放題」
長いリーチや、足元などの死角からでも生み出せることが魔法の長所。故に、シオンの世界の人間同士の戦いでは魔法障壁が一般的だが、仁のように刻印だとどうしても制限がつきまとう。
彼ら並に魔法が使えさえすれば、障壁を魔法に固定でき、銃の本来の威力を発揮する事が出来たかもしれない。
「単純に練度の差もあるわ。銃じゃ彼らの剣は防げないから、互いに剣を合わせる事になると思うんだけど……惨敗の未来しか見えない」
もっとも、彼ら並の魔法と障壁があったとしても、ようやく不利な近接戦闘ができる舞台に立てるくらいなのだ。
銃弾を剣で斬れるような奴らと、一部を除いて格闘術の訓練くらいしかした事がない日本人。どちらが勝つかなんて、明らかすぎる。
「戦いにはなるだけマシかな」
だがそれでも、刻印があれば一時間程度の戦いにはなるかもしれない。少なくとも蹂躙は無くなるだろうが、勝つのは不可能に近い。
「早急にシオンのような本物を増やす、もしくは騎士が来ないことを祈る……しかないね。僕と俺君が考え付く限りだけど」
「私も現状、勝つのは厳しいと言う他にない」
考えるのを止めるつもりはないが、現状の戦力でどうにかするより、戦力を上昇させた方がいいというのが仁が出し、柊も頷いた結論だった。
「私みたいに生きれた忌み子なんて珍しくて……多分、無理。来ないのを祈るのは、ちょっと調べたい事があるわ」
「調べたい事?」
シオンは、前者の可能性は藁にすがりつくくらい、後者に関してはまだ分からないと述べた。仁としてはほとんど冗談、願望として出した意見であるというのに、実現の可能性があるとはどういう事か。
意味が分からず、疑問と僅かな期待の入り混じった六つの目線にシオンは咳払いを一つ溢し、
「この街の壁、もしかしたら『魔女』が創ったんじゃないかしら?」
この街を守る防壁の創造主と、隠された希望があるのではないかと、推測した。
『奴隷の首輪』
着けられた者の精神を支配し、人間としての尊厳を全て奪う、歴史上最悪の魔道具。製作者も内部構造のほぼ全てが不明。現状、再現は不可能とされる旧時代の最高傑作。見た目は普通の首輪と変わらないものから、ちゃんと痕が残るほどごついものまで。
名前の通り、着けられた者は首輪に設定された主人の奴隷となる。実現可能な範囲であれば、本人の意思に関係なくどんな命令だろうと遂行する、最高の奴隷にだ。死ねと命じられれば死ぬし、抱かせろと言えば拒否は不可能。記憶をいじったり消すこと、感情そのものまでをも変更させることができる。まさに人間への冒涜の具現である。
全盛期、ほとんどの人間がこれを着けられていたとされるから驚きである。
しかし、現在存在が確認されているのは、貴族と思われる女性の墓から出土し、壊れかけていたただ一つのみ。それ以外で存在が確認されたのは今より遥か昔、それこそ障壁ができるより前の話。どうやったのかは分からないが、完全服従しているはずの奴隷達が一斉に反旗を翻した「権利戦争」から数年で、この首輪はたった一つを残して消滅した。こんな最低で人の欲望をくすぐるような首輪が、一斉にこの世から消えたのだ。一体何があったのか。人類の善性は、誘惑を振り切ったのか。それは『記録者』ですら記していない真実であり、専門家達は頭を抱えている。
以外、余談。
契約解除の時の為、各首輪ごとに10桁の解除番号が存在する。その数字が分かるのは主人と奴隷売買の関係者くらいなものである。
内部構造が複雑過ぎて、これは少なくとも現状の技術でどうこうできるレベルではない高度さである。ほぼ全ての魔法が進歩してきたのに対し、この首輪だけは超えることも解明することもできない。
 




