第6話 慟哭
北棟西階段。約十分前まで魔物対人間だった戦場は、人対人へと形を変えるはずだった。少なくとも、仁はそう予想していた。
南棟の校舎が魔法により半壊した後、北棟西階段も東と同じようにパニックに陥った。ここまでは、東階段と同じだった。
違ったのは、初めて魔法を見て、その威力を見て、彼らはこの戦いに勝ち目がないと悟ったこと。実際、隕石が襲撃者に降り注ごこうと、日本人に勝ち目はなかった。正しい思考だったと言えただろう。
しかし、彼らはその後を間違えた。
仁が彼らの結果を知るのはすぐ後で、なぜそうなったのかを知るのは、しばらく後になる。
「また、誰か死んだのか?」
校舎の中から聞こえる断末魔に、仁は自らの失敗を悟った。そしてその失敗の意味もまた、悟った。
「俺の、せいか?」
死にたくないが為に草むらに隠れ続け、撤退や逃亡を促すことも、作戦の指示を出す事もしなかった。だから、生徒達は為す術なく死んだ。その事実に、ガチガチと歯が震えた。呼吸も浅くなり、頭に酸素が回らなくて、世界はカメラのフラッシュのように明滅し始める。
「俺は、今からどうすれば……?」
様々な思考がぶちまけられたペンキのように、脳の中で混ざり合う。誰かの赤い肉片。騎士の銀。蒼い紋章。人間の肌。黒髪。混ざり合った色と焦りが、仁の長所である判断力を鈍らせる。いや、鈍らせてはいない。既に彼は、最善の判断をし終えているのだ。
今すぐにここから逃げ出せ、と。
「逃げれられるわけ……見捨てられるわけが……」
しかし仁は、その判断を自らに下すことはできなかった。彼の人間である部分が、人である部分がそれを許さなかった。今すぐここから逃げ出すということは、完全にみんなを見捨てるということ。それだけは嫌だった。みんなを失いたくなかった。
「北棟東階段はもうダメだろうさ……くそ!しかし、他には生き残りがいるかもしれないだろ!」
小さな希望にしがみつき、その可能性の低さに絶望。そしてまた、小さなその希望の可能性の低さにしがみつき絶望を繰り返す。
仁は景色が少しずつ遠ざかる風景の中で、自らの心が少しずつ擦り切れ、壊れていくのを感じていた。
幾度となく、その救いようの無いループを繰り返しただろう。経った時間は一日か?数秒か?分からない。分からない中突如、変化なき絶望の中に変化が現れた。
「もう失っているかもしれないのに?もうみんな、死んでいるかもしれないのに?」
耳元で誰かの、とても聞き慣れた声が聞こえてきた。おそらく、世界で一番多く聞いたことのある声。諦めたような言葉に反論しようとして、やめた。反論したところで何の意味がある。それで死んだ者は帰ってくるのか。代わりに口から出たのは、純粋な疑問であった。
「俺?」
「そうそう。君で僕さ。正確には少し違うけどね。君が作り出したもう一つの君」
茂みの側にもう一人の自分が見えた。少し薄い、どこか影をまとったような雰囲気の、普通の黒髪黒目の仁。
「ついには幻覚か。本当に、救いようねえな」
仁は思わず自嘲する。仲間を間接的に死に追いやったどうしようもない人間が、ついに狂ってしまったか。
「幻覚。まぁ近いものだね」
目の前の自分は、仁の自嘲を肯定する。いつもの自分の口調、友達から「なんか普通だよな」と笑われたその声で。その友達はもう、いないかもしれないけど。
「大丈夫。君は人間としては狂ってはいない。君の心が辛いと叫ぶのは、申し訳ないと泣いているのは、その涙は君が人間であり正常……いや異常ではないということの証さ」
薄い仁が、そう言って涙を流す。同時に、仁は自分の頬を伝う熱い雫に気づいた。まるで二人は鏡のように全く同じ場所に涙を流し、同じように心を傷めた。
「実際、鏡みたいなもんなんだよ。それより君、いや、俺君はそろそろ自分の世界に帰らないと。また会わないことを祈っているよ。そして願わくば、君が自らの命を断たんことを」
目の前の仁が願うようにそう言った途端に、意識が遠のいていく。まだ聞きたいことがあったのに、待ってと叫んだのに、それも無意味だった。
意識を取り戻した仁が見たのは、さっきと何一つ変わらない茂みの陰。もう一人の仁がいた場所には、何もなかった。
「夢だった?それにしてはあまりに現実的で……」
思考のうねりは失われていた。ただ、とても悲しい感情だけが仁の心を支配している。なにか、とても悲しいモノを見たような。そんな気がした。
「今、何時だ?」
少し空を見上げると太陽の場所が変わっていて、影の長さも夢の前と違う。
「悠斗は?保奈美は?香花、康則、健太、芝田に近藤は……?先生は?」
茂みの近くに誰もいないことを確認し、恐怖と心配を胸に立ち上がった。立ち上がって、何かを見てしまった。
一つ、訂正するとしよう。確かに茂みの陰は何一つ変わっていなかった。ただし、それは茂みの陰だけの話だ。茂みの外の光景、赤き世界は終わりを告げていた。
「……あぁっ……」
仁はゆっくりと、赤い場所へと歩き出した。そこに敵がいる可能性など考えてなどいなかった。ただ、そこに行かなければという思いが、彼の足を動かしていた。
「……あ」
赤い場所に辿り着き、そこにあるものを見下ろし、許しを乞うように膝を折った。ズボンが足元の赤い血を吸い込んでいくことさえ、気にもならなかった。
「悠斗……」
仁の友人の死体が転がっていた。虚ろな目を向き、疑問の表情を浮かべながら。胸から血が溢れて固まっていた。
「保奈美……」
友人の彼女の身体が少し離れたところに、斬り捨てられていた。別れた頭は泣き叫んだ表情を浮かべながら、地に座っていた。
誰かの死体が転がっていた。痛みと苦悶の表情を浮かべながら。首に締められた跡があった。
涙が溢れる視界で見上げると、また誰かの死体が槍で校舎へと吊るされていた。腹に大きな穴を開けられ、怨嗟の表情を浮かべながら。
他にも様々な殺され方をされた残酷な死体が、赤いモノを大量にぶちまけていた。それらの光景にこみ上げてきたのは、吐き気なんかではなかった。ただ、悲しみと嘆きと絶望の嗚咽。口から吐き出されたのは嘔吐物ではなく、掠れたうめき声だった。
「うっ、あ。あ、あ、あ、アアア」
生きている者は誰もいなかった。ただ仁だけが、そこに生きていた。
生存者がいないことを確認した仁は、ゆったりと起き上がり、まるで幽霊のように歩き出した。まだ生きている誰かを探す為に。そんなか細い希望と期待に縋っても、裏切られ、更なる深き絶望へと堕ちることを、心のどこかで分かっていながら。
「はっ……はっ……はっ……」
昇降口を抜けて階段を、一段、一段と上がっていく。
「……」
魔物の死体と、それらを押し潰した机と椅子が、踊り場に積み上がっていた。不快な血の匂いが、どこからか臭ってくる。自らの服のオーガの返り血か、それともゴブリンとオークの飛び散った血か。
もしくは、生徒たちの血か。
最悪の想像を感情面では振り払いつつ、理性では確信する。人が通ったような、無理矢理こじ開けられたような踊り場の中央を、ゆっくり進んでいく。
そして、仁はそれを見た。
「蛇?」
赤い蛇。いや、蛇のように細長い、赤くこぼれ出た新鮮な腸。先を辿っていくと、腹をばっさり切り裂かれた少年が地に伏していた。息などあるわけもない。
他にも何匹、何本もの赤い蛇がいた。その数だけ、腹を切り裂かれた仲間たちの死体があった。
「ははっ……」
次に目に入ったのは肩を斬られ、胸を貫かれ、何か救いを求めるような表情のまま息絶えた少女。そして彼女の骸の近くに横たわる、悔しげに顔を歪めた少年だった。主を失った手は少女の近くに落ちていて、手を繋ごうとしたような形で固まっていた。
「良作と……恋人だったのかな」
最後に手を伸ばして、そして。
死んだ二人の関係など、仁には分かるわけもなかった。クラスでもあまり話したことのない男子と、名前も知らない女子。ただの予想でしかなかったし、実際外れていた。
「重いな。なんでだろ」
彼は無意識のうちに、斬り落とされた少女の腕を拾っていた。ずっしりと重みのあり、だらんと力なく垂れる肉の塊。血の通っていないそれを、少女の腕があったはずの場所へと戻す。
「……なぁ……」
胸から血を溢れさせている少年の手を取り、少女の手と重ね合わせた。血に染まった手で顔を触り、目を閉じさせる。
「目、覚まさないよな」
立ち上がり、一歩後ろに下がって二人を見る。血と傷さえ無ければ、一緒に手を繋いで眠っているように見える。しかし、彼らを死へと追いやった傷と溢れ出ていた血が、そんなものは所詮幻想だと教えていた。
現実だと、教えていた。
不意に、目から涙が溢れてきた。乾いた涙跡を新たな涙がなぞり、落ちていく。
一時は抑えられた感情が腹から湧き上がる。感情の波が溢れ出る。もう、抑え切れるわけがなかった。
家族を、仲間を、親友を、皆殺しにされて。自分の命以外、全てを失って。
「なんでっ!なんでっ!なんでなんだよっ!」
天井に覆われた空へと叫ぶ。分からないままに。
「なあ!教えてくれよ!神様!こんなことして、一体なにが楽しいよ!俺らの人生ぶっ壊して、勝手に終わらせて、なんの意味があるんだよっ!」
存在するかも分からない神へ問う。思いつくがままに。
答える声などありはしない。それでも仁は叫ぶ。
「これが運命ってやつなのか!?決められてたってのか!?」
答えも目的などあるわけがない。ただ訪れただけなのだから。それでも、仁は叫び続ける。
「どうしてさ!なんで彼らが死ななきゃならないっ!」
いつか、自らにも訪れるであろう死へと答えを求める。悲しみのままに。
死に分かるわけもない。それでも、彼は叫ぶのをやめない。
「どうして、あいつらは悠斗達を殺したよ!」
変わり果てた世界へ、叫ぶ。ぐちゃぐちゃになった感情のままに。
なにも答えを返さない世界に、彼はまた膝をついた。死者が生者を取り囲む空間。自分以外、誰一人いない世界。
一人一人の死に顔を見て、仁は慟哭する。意味の通り、泣き叫んだ。
笑いあった日々が仁の脳裏を駆け巡る。小学校からの親友との思い出。中学からできた友達の思い出。高校でできた友達の思い出。輝く楽しかった記憶が、彼を切り裂いていく。
本当に大切な物は、失ってから気づくと言う。まさにその通りだった。いつも通りの変わらない日常こそ、本当に大切な物だった。そして今回、つまり仁の場合は、先の言葉にこう訂正するべきだろう。
本当に大切な物は失ってから気づく。そして、失われた本当に大切な物は、気づいた者の心を傷つける。
喉と涙が枯れ果てるまで、泣き叫び続けた。仲間の骸に囲まれた世界で、ずっと。
これが、幻想が現実になった世界の現実だった。