第61話 幸福と不幸
「仁、人の足音がする」
墓の前で耳をひくつかせたシオンの呟きが、静かに届く。いつでも虚空庫から剣を抜けるように構えた少女が周囲を、腰の剣と刻印の動作を確認した仁が入り口となる坂を警戒。
「……聞かれた?」
まず心配だったのは先ほどの誓いと、刻印の事を聞かれたかどうか。後半部分だけならまだいいが、場合によっては拘束し、口止めをせねばなるまい。信頼できそうにない人物なら、柊は斬れと言うかもしれない。
「聞かれたくないな」
たった数人の命で街の命が救えるなら、それは正しい選択だ。しかしそれは、仁の立てた誓いの道に反する行いである。こればかりは、聞かれていないことを祈るしかない。
「それより味方かい?あんな宣言しといてなんだけど、騎士相手だと守れる気しないよ」
もう一つは弱音と心配。人気も少なく、壁の上。化け物揃いの忌み子殺しの軍隊達が侵入しようと壁を登ってきたのなら、聞かれる以前の問題だ。嘘がバレるバレない以前に街が滅ぶ。
「明日にでも柊さんに騎士の詳しい話をした方がいいな。シオンが眠っている間に触りだけしといたけど」
具体的な特徴を教えても対策を考えられるとは思えないが、言わないよりはいいだろう。だから今来ないでくれと、近づいてくる足音に祈りを捧げる。
「仁さん!目覚めたんですか……よかったぁ!街を救ってくれて、ありがとうございます!」
「作戦成功お疲れ様。やっぱり、ここに来てたんだね。まさか目覚めて直行とは思わなかったけど」
そして姿を現し、開口一番に仁とシオンの無事と街の防衛を祝った楓と桃田の二人に、胸を撫で下ろした。
何か聞いていたならば、桃田はともかく楓が挙動不審となるはず。仮に聞かれていたとしても、穏便な口止めができる二人だ。最善な組み合わせと言っても過言ではない。
「二人は墓参りかい?」
「ん、まぁね。欲しかった花が手に入ってさ。早い方がいいかなぁ、なんて」
「それ、司令の部屋にもありました」
どこか寂しそうに笑う桃田の手に握られているのは、鈴蘭に似た花だ。つい先程記憶の片隅にある飾られた花の意味を知り、仁とシオンの中の司令のイメージがまた一つ、柔らかいものへと変わる。
「基本、トゲとか毒があるのは避けるんですけどね。これ、酔馬さんが自分の名前に似てる!って好きだったから」
仁の中での墓に供える花といえば、菊くらいのイメージしかない。しかし、多少マナー違反、非常識とは言え、供えられる本人が生前に好きだった花なら別にいいだろうとも思うのだ。それくらいの好意な無礼を、許さない酔馬ではない。
「名前はなんて言うんですか?」
「馬が酔う木で馬酔木って、言うんです。馬が酔ったみたいになるくらい強い毒があるから。前は結構庭にも生えてたんですけど、めっきり減って……」
「綺麗で可愛いね。この花」
花にめっぽう疎い仁には、やはり初めて聞く名前だった。ただ、彼が好きだった理由には共感して、納得できた。
あの異変以来、生態系にも多大な影響が出たのだろう。めっきり減った毒花をなんとか取ってきた二人と柊は、それだけ酔馬の死を悼んでいるのか。
「酔馬さん、お花にも詳しかったんですよ。本当に多趣味で手芸も料理もできて。女性に教えたりもしてました」
普段の彼からは想像できないが、車やヘリに戦闘機に兵器と機械いじり全般、花や手芸、果ては料理などなど、よくよく考えれば酔馬のスペックは凄まじいものだった。
そしてヘリの操縦は楓達に、手芸や料理は街の女性達に、機械や兵器は軍の者達に。酔馬が残した知識や技術は一体どれだけ、彼がいなくなった後も助けてくれるのだろうか。
こんなところで死んでいい人間では、なかった。
「花言葉には落ち込んでたけどね。『犠牲』と『献身』とか暗い奴でさ。神様も酷いことするよ」
「……ええ。本当に酷いですね」
まるで、犠牲となって仁とシオンという希望をつないだ彼の死に方を表しているような。まるで、常にいじられる事で周りを笑顔にしていた彼の生き方を表しているような。腹が立つくらい似合ってしまっている二つの花言葉だった。
「私、これくらいしかないわ。美味しいと思うから、味わってね」
花を供えた二人に触発されたシオンが虚空庫から取り出したのは、可愛らしい紋様の入った土製の皿といつぞやの彼女の思い出の、幻豚のサンドイッチ。
「俺と僕からはこれ、です」
「天国で存分に呑んでね」
元より何かお礼を渡すつもりだった仁からは、大人に憧れて入手し、一滴さえ呑めなかったお酒を。結局、あのまま自室に持て余していたのを思い出し、どうせなら呑める恩人にと持ってきておいたのだ。
死人に食べる口も呑む口もなく、供えて無駄にするくらいなら、飢えた誰かの口に入った方がよっぽど有意義だ。飢えに満ちたこの街では、特に。
「本来ならあんまり良くないかもだけど、街を救った英雄には、一切れと一瓶あげても大丈夫かな」
「その分、働けばいいんです」
だがしかし、あれだけの偉業を成し遂げた死人なら、自分たちを救ってくれた彼なら、許されるだろうと桃田と楓は目を瞑る。
理で見れば無駄、情で見るなら当然。この荒廃した世界にしては珍しく、今回は情が選ばれた。
「ああ、勿体無い」
とはいえ、あの美味しいサンドイッチと貴重なお酒を腐らすのは、と惜しむ気持ちも無くはなかった。
「今絶対、「街救ったのにお供えケチるなんて酷くありません!?」って突っ込んだよ」
「ですね」
僕の貧乏性な反応に、全員の頭の中で酔馬の突っ込みが動いて再生された。実際に聞こえてきたがようなリアリティには、驚くしかなかった。
「余りにもリアルで、後ろにいるんじゃないかと錯覚したわ」
こうして振り向いたら彼がいて、実は生きてましたとハッピーエンドな物語になれば、どれだけ良かったか。
「……いないって、分かってるんだけどね」
振り向いた先には、誰もいない。ただ彼の守った街が、彼のいない街が広がるだけ。
この世界は甘くはない。死んだ瞬間を仁とシオンは見ていたし、焦げて原型も無くなっていたとは言え、機体の中の死体も確認済みだ。これはどうしようもない、変えられない現実なのだ。
そして現実は、変わらない過去は、残された人を苦しめ続ける。
「休み欲しいだとか言ってたのに、永遠に取るなんて怠け者すぎない?」
「……桃田、さん」
「勝手に休まれて、こっちがどれだけ困るのか分かってないのかなぁ」
その苦しみに、墓に花を挿そうとしていた桃田の膝と感情が崩れ去った。大粒の涙を目から、どろりとした悲しみの水を花からと、整った顔を台無しにするような、大泣きだった。
「死んじゃったら、もう」
楓はかっこよくはない、触れられたくはない桃田の隣で肩をさすって、一緒に静かに泣きだした。
その光景は、仁とシオンの心に深く突き刺さり、生涯決して抜けない棘となった。
あと一時間ほどで陽は沈む。帰る頃には暗くなっているかもしれない。環菜との約束もある。だが、それでも、墓の前で泣く男女の姿から目を逸らす事も、この場から離れる事も、しようとは思わなかった。
険しい斜面と隣り合わせの降りる道を踏み外さないよう、シオンの光がふわふわと足元を照らす暗い夜の帰り道。
「いやぁ……酔馬さんのせいでかっこ悪いところ見せちゃったね」
「……わ、私、涙もろくて……」
桃田は照れたように後頭部を手で抑え、楓は眼鏡を上げて目元を何度も拭う。泣いているところを見られるのは、やはり恥ずかしかったようだ。
「別にかっこ悪くなんてないですし」
「泣くのは普通だと思うよ」
「大切な人が死んだら、私だって泣いちゃう」
仁とシオンはその姿が恥ずかしいだなんて、欠片も思わなかった。だってそれは、彼がどれだけ好かれていたのかを表す事だから。
仁と堅だって酔馬の死に心を壊されかけたし、シオンだって機体が堕ちた直後に涙を流した。環菜と司令も気にしていない、慣れただのなんだの言っているが、きっと本音の部分では泣いている。
「……シオンさんはともかく、仁さん変わりませんでした?」
「なんかあったねぇこれ。酔馬さんが死んで清々しい顔になってるよ」
桃田は仁の顔を光で照らして、楓は眼鏡ふきで汚れを取り、少年の変わり様に驚いていた。誓い一つでここまで変わったと思われるということは、前の仁がそれだけ誓いとは遠かった存在だったのだろう。
「言い方悪いけど、合ってるよ!」
「きっかけは、酔馬さんでしたから」
ブラックにからかってきた桃田に、笑みと悲しみの間で揺れる様な表情を返す。自分を映す彼の目が広がり、ついでにこやかなものへと変わる。
「……本当にいい人、だったからね。天使に連れてかれるどころか恋のキューピッドになっちゃうくらい」
「きゅ、キューピッド?」
「し、シオンさん。えーと、意中の人達を結びつけてくれる人って意味で……おめでとう」
彼らもまた、距離感から何かを感じ取ったのか。意味の分からないシオンへと、いやらしい大人たちは説明と祝福とニヤニヤを送りつけた。環菜といい桃田といい、からかうのが大好きな人達の多い事である。
「……」
「シオンちゃん。悪かった。頼むからいきなり灯り消さないで。足元見えなくて落ちちゃう」
暗くなった視界でよろめいた桃田は、灯を消してうずくまった乙女へ謝る。横の斜面の角度は、暗闇で足を踏み外してしまえば命に関わる程険しい。危ないと楓は光石を懐から取り出し、世界を再び視界に明るく映し出す。
「もしかして、その……付き合ってない、です?」
「う……」
「「……」」
楓のストレートな質問にシオンは喉を鳴らし、俺と僕は黙秘を貫いた。これまた分かりやすい反応である。
「うう……」
足元の土をじゃりじゃりと掻き回して拗ねるシオンの頭の中は、かなりごちゃ混ぜとなっていた。ここで仁に黙秘を貫かれるという事は、単に恥ずかしかったのか、拒否を気遣って言い出せないのか、分からなかったのだ。
「ご、ごめんなさい!てっきり!」
楓は腰を直角に曲げ、盛大な勘違いを謝った。酔馬の死以前から好き合っているのは周知の事実。それが彼の死をきっかけに慰めからくっついたと、皆が思い描いた筋書きはこんなところか。
喧嘩の内容を知らぬ者からすれば、妙な距離感と変貌を遂げた仁にそういう推測をするのだろう。しかし、事実は小説よりも奇なり。勢い任せの告白をしたはいいものの、返事が返ってこないというのが現実である。
睨みながらも再び歩き出したシオンへの、大人達のからかいは更に加速。
「もう付き合っちゃえば?というか、まだ付き合ってなかった事に俺は驚いてるかな」
「わ、私も……この街に来た時から、恋人なのかなって……きゃっ!?」
この場で告白の返事を貰えるような状況を作った質問に、魔法の光がシオンの感情を表したのか、瞬いて破裂した。
「つ、付き合……恋人!?」
「ひえっ!?ついに僕もリア充デビュー……!」
シオンと僕、どちらの純情も耐えられなかったらしい。少女は指先を突き合わせて永遠とブツブツ言いつづけて夢に浸り、僕は永年の夢に頭のおかしい事を呟き出す。
しかし答えを出したのは、やはり変わった俺だった。
「そういう関係じゃ、ないです」
拒絶。振った振られた。様々な考えと結果が渦巻いたのだろう。シオンの顔が真っ青を通り越し、真っ白になっていく。
「……今は、そんな気分じゃ、ないんで。またいつか」
「っ!?」
しかし、続く言葉ですぐさま再起動を果たし、意味を理解すると同時に光が再び弾け飛ぶ。シオンの脳は今までで一番働いた事であろう。
「ごめんな。シオン」
(俺君ヘタレたな?馬鹿野郎!)
(そんなんじゃ、ない。理由はある)
僕は折角のチャンスを棒に振った事に怒り、心理世界で殴りかかる。しかし、俺は彼の拳をあっさり受け止め、口元を僅かに動かして否定した。
「い、いいのよ!ま、またでもいつかでも!」
シオンは口をパクパクしつつ胸を撫で下ろす。飛び上がるほど嬉しく、そのいつかとやらが待ち遠しい。しかし、それまでに自分が嬉しさで死にやしないかが心配であった……内心はこんなところだろうか。
「付き合うまでもないか。今でも吐き気しそうなほど熱いし」
「もう付き合ってるみたいですもんね」
砂糖に砂糖をぶち込んだようなお菓子を食べさせられた気分だと、軍人二人は胸の辺りを摩っている。言われた仁も納得してしまう程、シオンと付き合ってとして何かが変わるとは思えなかった。しかし、熱いかと言われれば、主に醜い思いの丈をぶちまけ合う事に関しては頷くが、他は至って健全そのものである。
「……そういう二人だって、そうじゃないですか!」
ところが、この純情娘はそういう受け取り方ができず、顔を真っ赤にして反撃に出てしまった。感情に比例して動く光の玉と、ワイパーのごとく払われていく足元の砂。その内穴が掘れそうである。
「付き合ってるんですか!付き合ってないんですか!」
だが、冷静ではない反撃の内容は実にいいところを突いている。桃田と楓はよく行動を共にしていたり、シオンや仁以上に距離が近かったりと、前々から怪しいとは思っていたのだ。
(確かに、二人とも遠いところにいる見た目だよね。地味な子と派手イケメン)
(……あんまり見た目で判断は良くないと思うが、今回ばかりは)
非常に偏見ではあるが、彼らは全く違うカテゴリの人間に見えるのだ。
(イケメンだしイケメンだし。合コンしてそうだし)
桃田は、派手で軽そうな目鼻立整ったイケメン。喋りも上手く、軍の女性人気も高い。配給所のお姉さん方が来て嬉しい男性一位に挙げていたのを、仁は目と耳から血を流して聞いたことがある。
(言うちゃ悪いけど、楓さんってクラスに上手く馴染めてなさそうな感じの)
(自己主張が激しくないって意味なら、分かる)
一方の楓はあまりパッとするイメージではなく、盛り上げ役の美人と言うわけでもない。顔を眼鏡と髪で隠していている為断言出来ないが、絶世の美女ではないだろう。
別に二人が釣り合わないと言っているわけではない。住む世界が違うように、気が合わないように見えるのだ。なのに常に一緒にいるという事は、友人関係ではなく、
「本当はふ、二人こそ……す、す好き合ってるんじゃ!」
互いに想い合っているのに、壊れるのが怖い純情同士の本を読んだことのあるシオンは、そういう関係かと勘繰った。仁はもう付き合っているに一票入れたが、彼女にはその想像さえ恥ずかしかったらしい。
「いや、普通に付き合ってるけど」
「 ……えーと、そういう、こと、です!」
仁の予想通りにして、シオンの予想以上の関係だった。端正な顔を惚けさせてあっさりと答えて手を組んだ彼氏と、下を俯きぼそぼそと認めながら嬉しそうな彼女。明らかに恋愛の経験値に差が出ているが、答えに差はない。
「…………」
「爆ぜろ」
「やっぱりですよね」
反撃したのはこちらのはずなのに、腕を組んだ男女を見せつけられたシオンは撃沈。こんなんで本当に付き合えるのか疑問ではあるが、そこは中指を立てながら頷いている僕と眩しい物を見ている俺の腕の見せ所だろう。
「私はこれから約束があるので、帰りますね」
「俺も楓を送るから、ここでお別れだね」
「た、助かった……」
と、なんやかんやいじったりいじられたりいちゃつかれたりしている間に坂道の終わり、街の入り口に仁達の足は付いていた。いじられるのも終わったと、安心したシオンが肺からため息を大気へと返しているが、この後環菜に質問責めされる事をすっかり忘れているようである。
「ま、酔馬さんが死んで責任感じて、そんな気分じゃないの分かるけどさ。早い方がいいよ」
「あって損な幸せなんて、ないです。酔馬さんだって付き合わない理由にされるより、きっかけにされた方が喜ぶと、思います」
足を違う方向に向けようとして告げられたのは、恋も人生も先輩達からの忠告だった。彼らは仁の理由の一端を見抜いていた。
こんな自分が幸せになっていいのか分からず、シオンの返事を宙に浮かしたままにしている、仁の自分の事しか考えていない勝手な理由。
この目の前のカップルはきっとそれが分かっているからこそ、わざとこういう話題でからかい、意識させようとしたのだろう。
「何があるか、分かりませんから」
生きている者達が灯す街の光を背景に、楓は悟ったように笑う。
酔馬のように、戦いなんて死と隣り合わせ。いや、アコニツムの最初の襲来で死んだ、ただ運が悪かっただけの何百人もの人のように、この世界自体が理不尽な死に溢れている。今この瞬間に騎士が来て、命を刈り取られてもおかしくはないのだ。
「だから俺はその瞬間まで、幸せでいようって告白したんだよ?まぁ早死にする気はないけどね」
「桃田さんの方からだったんですね」
この世界では、日本人は生きられない。彼らはどれだけ足掻いても残り短い命と、分かっているのだろう。愛すれば愛するほど、いずれ来る別れが悲しくなる事を分かっていながら、一時の幸せを選んだのだろう。
「そ。俺がこんな子人生でもう見つからない!ってメロメロでベタ惚れだったの。あんなに頑張ったのないくらい、頑張ったんだ」
「困るくらいでした……最初こんな派手そうな人に言い寄られるなんて思ってもなくて、遊びなんじゃないかって。知り合ってすぐ、この人はそんな人じゃないって分かったんですけど」
なぜだか分からないが、その過程は簡単に思い浮かかんだ。チャラい感じのイケメンが、精一杯意中の眼鏡をかけた女の子を口説き、困られる。試しに食事に行ったら、男の似つかない誠実さに気づいてもらって。
「酷いよね。人は見た目じゃないっていつも言ってるのに」
「嫌味かい!?」
整った顔から出る言葉ではないと、僕はものすごい速さで食いついた。しかし俺の人格は、桃田が心から思っていることだと分かっているから、何も言わなかった。
「そうやって僻んでるとモテないよ。これ俺の経験談」
「ぶ、ぶっ殺してやる!」
「……性格は悪いですね」
訂正。本心から思っているかもしれないが、からかいの意味もあったようである。
「悪くは、ないですよ。その、優しいです」
「ほら、一番の証人もそう言ってる」
「爆発しろ!」
恥じらいながらも援護射撃を送ってきた楓に、僕の嫉妬ゲージが振り切れて、シオンの方を振り向いた。それはまるで、他の犬が褒められているのを見た犬が対抗するように、自分も褒めて褒めて!と飼い主に頭を差し出すような仕草だった。
「だ、大丈夫!僕も俺も優しいわ!……たまに、難があるけど」
「ちょっとシオン!?分かるけど……昨日言ってくれたのはなんだったのさ!」
振り子のように目線を逸らして、シオンは犬の頭を気遣いで撫でた。
あれだけの人を見殺しにしといて優しいと言われるのもおかしな話ではあるが、昨日彼女のその言葉に救われた僕にとっては少しショックなものがある。
「あ……惚気ちゃい、ましたね。ごめんなさい」
「ごめんごめん。俺ら惚気すぎるって良く言われるんだよね。ちょっと時間押してるから、この辺で」
何度かアツアツぶりを見せつけ、その度に苦情を言われたことがあるのだろう。二人は謝って会釈し、壊れた街並みへと消えていく。
「……なんか、ありがとうございました」
「素直に言いたくはないけどね……」
俺と僕とシオンは、苦々しげな顔で彼らへと手を振り、別れを告げる。遠のいて行く男女の距離は無く、遅れないように繋いだ手を引き、引かれ、互いに気を遣い合う二人の背中は。
「……なぁ僕。二人を全く違う人種だとか言ってたけど、お似合いじゃないか?」
「全くだい。誰だよ意外だなんて言ったやつ」
「お前だな」
僕が悔しがるくらいにお似合いで、
「いいなぁ」
「……」
思わずシオンが声にしてしまう程、羨ましくて、綺麗な二人だった。
「手、繋ぐ?」
「「へ?」」
だから俺は、そんな彼女へと傷だらけの手を差し出した。
「羨ましくて、俺と僕の事が好きで、嫌じゃないなら」
空中に置かれた手を見て素っ頓狂な声を上げた僕とシオンに、俺は表情を変えぬまま、もう一度手を押し出す。
「ちょ、ちょっと俺君、どうしたのさ!?本当に何か悪いものでも食べたのかい!?槍でも降るの隕石落ちるのこれ明日世界滅ぶんじゃないの!?」
「だ、大丈夫?ちょっと私、俺が変わりすぎてついていけな……でもこっちも……」
恥じらわない俺に、二人は何が起きたのか理解ができていないようだった。僕は世界の終わりだと迷惑に叫び、シオンは何やら葛藤している様子。ちなみに俺が悪いものを食べたならば、僕も食べている事になる。
「いや、墓の前でも繋いだと思うんだが」
「「あ、あれは勢いで……!」」
もうすでにした事じゃないかと言う俺に、シオンと僕は嫌々と首を振った。桃田と楓を見て意識させられた後に、もう一度改めて手を繋ぐのは訳が違う。これが、シオン達の言い分なのだろう。
「……嫌か?」
中々取ってもらえず、手が触れているのは冷たい空気ばかり。さすがに、これはハードルが高すぎたのだろうかと、俺は最後の確認を取る。これで断られたり、迷われたなら、やめるつもりだった。
「……う、ううん!そ、その、お願いします!」
「何だろうこれ、僕とシオンだけ恥ずかしがってない?」
出された少女の右手を力強く、壊れないように握る。小さく、少し汗ばんでいて、震えていて、暖かくて、生きているとわかる、シオンの生身の手。
「し、幸せ」
オーバーヒートを起こしたのだろう。もう真っ赤を通り越して爆発するのではないかというくらい、少女は嬉しくて恥ずかしくて、たまらなくなっているようだった。
「お、女の子の、手……!?」
「……俺もきっと、幸せ過ぎるくらいに幸せだよ」
顔から湯気を出している少女と手を繋げて、彼女に幸せと言われて、そして慌てるもう一人の人格を見て、俺は心から幸せだと思った。
(……幸せすぎて、地獄に堕ちそうだ)
自らに問う。許されるだろうかと。数多の最悪の悲劇である死を量産し、大切な人達の幸せを奪い去った仁が、こんなに幸せでいいのだろうかと。
(……ダメだろうけど、思い出が欲しくて、あげたいんだ)
いや、良いはずがないと俺は自答し、せめて今だけはと、これだけでいいからと願う。
(諦めるつもりなんて欠片もないけど、多分、一年後には俺はいないから)
きっと諦めなくても、仁は長くは生きられないだろうから。自らが生き残る事を最優先としなくなれば、仁なんてすぐに死んでしまうだろうから。
(街を守ると、決めたから)
街はこれから滅びに突き進むだろう。それを命を賭けて止めようとするのが、仁の誓いだ。止めれない可能性の方が、いや、それよりその過程で仁が死ぬ可能性の方が高い。
(ごめんな。シオン、僕。これくらいしか、してやれない。俺はこれ以上幸せになっちゃいけないんだ)
そして、僕にさえ分からない心の底で謝るのだ。付き合う事は身に余る幸せで、自らが許せない事を。長くは、生きられない事を。
歩く。ゆっくり、一歩一歩。幸せな時間を噛みしめるように、土をしっかりゆっくり踏みしめて歩く。
いつもは淀んで見える街なのに、今日だけは輝いて見えた。夜の空は真っ暗なはずなのに、今日だけは星が輝いて見えた。ただ手を繋ぐ、それだけの事で世界は変わったのだ。
手に残る最愛の人の温もりを、俺は死んでも忘れないだろう。
『陣及び刻印による、同魔法の多重発動について」
多重発動で同じ種類の魔法を発動した場合、違う魔法を二つ発動させた時とは別の現象が生じる。
例)一つの魔法の効果を仮に3とし、違う魔法を発動した場合、
火魔法3+氷魔法3=6。
となる。しかし、同じ魔法を多重発動した場合、
火魔法3×火魔法3=火魔法9
となる。足し算ではなく、掛け算で計算されるのだ。
また、全話のあとがきにて説明した『魔法の指向性の範囲の初期ポイント』も増加する。なお、この初期ポイントの計算式は掛け算ではなく足し算である。しかし、それでも効果は絶大。硬さと速さを兼ね備えた魔法などを発動させることができる。
効果が大きくなる為、多重発動は同じ魔法の方がいいと思われがちだが、一概にそうとは言えない。違う種類の魔法を同時に使い分けることで、多くの戦局に対応しやすくなる。
同魔法を多重発動して特化する項目を増やすか、または特化していた項目を更に尖らせるか、それとも平均的に伸ばすか。違う魔法を多重発動し、選択肢の幅を広げるか。このように、魔法は種類だけではなく、使い方によって大きく変化するものである。
ここでは常識である二つまでの同時発動について記した。しかしもし、常識の外、歴史上でも数人しかいない、三重以上の枠を持つ者による同魔法の多重発動ともなれば、一体どれだけのものになるのだろうか。
 




