第59話 願望と『勇者』
揺れる暗い波の水面から、顔を出したと思った。ずっと深い海の底にいてようやく空気を吸えたけれど、世界は真っ暗闇の夜のままで、暗いのは変わらない。
そんな錯覚と痛みに囚われてはいたが、静かな目覚めだ。起きるのも嫌だと感じる事なく、起きた事に喜びもなく、少女も抱きついてはこない。
「……よかった。起きたのね」
ただ、いつもと変わらずベッドの横の椅子に彼女が腰かけていて、意識を取り戻したことに安心したように覗き込んでいた。
シオンが生きているという事は、やはりアコニツムは死んだのだろう。
「どうなった?」
「ひどかった。というより、その、今もひどい」
「……そうか」
全身に蔓延する痛みから察してはいた。酔馬が死んだ後、アコニツムを倒す為にした無茶。
「治癒できてない分があるだけで、もうこれ以上魔法では無理なの。安静にしてないといけないけど、骨と筋肉は全部繋いだから」
安心させるように仁の額を撫でながら、シオンが傷の経過を教えてくれた。寝ていたのは二日間ほどで、その間にできる限りの治療はしてくれたらしい。
今は鈍い痛みが慢性的にあるだけだが、当時は筋肉が張り裂け、骨は粉々に折れていたらしい。あんな馬鹿でかい氷の剣を脚で振り上げたのだ。それくらいの怪我は負って当然、むしろ、これだけ治っている方が異常なのだ。
「限界を超えた強化の傷による後遺症は、今の所ないわ」
「相変わらず、魔法はすごいな」
「本当だねぇ。左脚痛くないよ……あれ?」
おまけに、あんな無茶をして後遺症も無しと来た。特に一番無茶をさせたはずの左脚の膝から下に至っては、痛みすらない。他の場所は動かすだけでも一苦労だと言うのに、これは一体どういうことかと仁は布団をめくって、左脚を見た。
「なに、これ」
シオンのように脚が無かった訳でも、木の義足になっていた訳でもない。見慣れた形で、刻んだ場所に刻印はある。力を入れれば筋肉がピクピクと動き、感覚は布の柔らかさを脳へと教え、抓れば痛むのは全くもっていつも通り。
「ははっ。おかしい、だろ」
故に、異常。全くもっていつも通りの見慣れた形で、刻印の場所は同じで、動かせる筋肉があって、感覚も痛覚もある氷の脚だなんて、まるで脚そのものが氷に置換されたようではないか。
「氷だけど、これはただの氷じゃないね」
触った僕が、そう判断する。温度は冷たいが、溶けて周りを濡らす事もない、まるで魔法でできたような氷の脚だ。故に、思い当たる節はただ一つ。
「強化の後遺症は、なかった」
「刻印にはあったんだね」
前と変わらない場所にある四つの氷の刻印を、仁は原因だと断定した。何事にも理由はある。禁じられている事にも、理由があったのだ。
「……ごめんなさい。私も、知らなかった」
「別にいい。見る限り、大して変わらないから」
「驚いたけど、動くのなら問題はないし。刻印を使おうとしたのは僕らだし」
シオンが沈痛な声で謝っているが、彼女は何も悪くない。禁術だと知ってからも、身体に影響が見られなかったと使い続けたのは仁だ。
「禁じられるわけだ」
人に使うべからず。脚が氷に置き換わっている事から考えて、刻んだ物質を違う物へと変質させるのが刻印の副作用なのだろう。おそらく刻印を使えば使う程、変質の速度は早くなる。
「右脚はあんまり変わってない」
しかし、二重発動をした右の脚に変化は見られない。つまり、多くの刻印を同時に発動させてしまえば、更に速度は加速するということなのだろうか。
「あのね、仁。氷だけじゃ無いの」
「強化の刻印にも、副作用があったんだな」
「この僕の脚にある黒い点がそうかい?」
氷から心臓に近づいた位置に、いくつもの黒い点があった。触っても何も感じず、ただそこにあるだけのような黒ずんだ皮膚。範囲は1cmと小さく、大きなホクロに見えなくもない。
「梨崎さんが言うには、そこ、もう死んでるって」
言い得て妙である。感覚もなく痛覚もなく、まるで黒い部分だけが先に寿命を迎えたようだ。
「……これだけか?俺の傷は」
「うん。ごめん、一生残るようなのが、また!」
「酔馬さんは?」
まるで己の傷に一切の興味がない仁の態度にシオンは硬直し、質問の内容に言葉を選ぶのに再び固まった。
「……覚えてない?」
彼女の右頬はガーゼによって隠されていて、仁の見上げる角度的に顔はほとんど見えない。それでも、伏せられた目や言いづらそうに迷っている仕草から、答えは分かってしまった。
「もう、葬式も終わっ」
「そう、か」
「て?……っ!仁!」
反射的な、意識していない発作のようなものだったのだろう。何せその行動は、最も仁らしくないと言っても過言ではなかった。シオンでさえ反応するのに、いや、理解するのに多大な時間を要するものだったからだ。
「何、しようとしたの?」
「勝手に手が動いたんだ」
「なんで、だろうね」
首元に突き付けた氷の短剣と、それを素手で握り締めて止めた少女の小さな手。刃を伝って流れ落ちる血が、一定の間隔で布団に赤い染みを広げていく。
「……うそ」
勝手なんて事はない。仁の身体は俺と僕の意識が合わさって、初めてまともな挙動ができる。つまり、これは二人が共に思った故の行動。
「ごめん。怪我させた」
「僕らじゃ治せないのに、悪いね」
氷を解除し、シオンの掌の傷を見る。余程焦っていたのか、思ったよりも深い。その事がまた彼女を傷つけたと、仁は沈みながらも謝るが、
「こんな馬鹿な事、もうしないで」
彼女が傷付き、謝って欲しかった事は、掌の傷なんかじゃなかった。
「そんな事しても、誰も喜ばないから……!」
仁らしくない、彼女が泣いて止めた事。彼女の手に赤い線を、心に傷を残した事。
「生きたいって、言ってたのに、自殺なんて!」
それは、あれだけ生きたがっていた仁が、その為なら人を欺き、見捨てた彼が。自ら命を絶とうとした事だった。
「……悪かった」
「けど、止めなくても良かったさ。どちらにしろ死んでいなかった。死ね、なかったよ」
抱きついてきた痛い程の力に、仁は己の行動が齎した彼女への傷を知る。それに対しては謝罪しても、衝動的な短剣の動きについては、謝るつもりはなかった。
「刺さる直前で、止まってた」
「度胸がなかったんだね。まぁ、あったら死ぬってのもおかしいもんだけどさ」
本来なら彼女の手が短剣を握るより早く、首から血が溢れ出す予定だった。強化を使い、シオンの意識のの外をついたのだ。短剣の方が早かったはずだった。
それなのに、生きている。つまり仁は自身の手で、首に刺さる前に剣を止めたのだ。衝動的に死のうと動き、本能と理性が生きたいと反対の動きをしたのだろう。元より二人の意思を持つ心だが、それとはまた違う意味で真っ二つに分かれたのを感じた。
「するにしても、シオンの前でするわけないよ。止められるに決まってるんだから」
これもそうだ。理性が自殺を叫ぶなら、もっと上手く、誰にも見られずに止められない場所でやるはずだ。シオンの前など一番自殺しにくい場所である。
仮に彼女が止めてくれなかった時は、それこそもう死ぬ時であろう。こんなお人好しに愛想を尽かされるなんて、何をすればいいのか検討もつかない。
「なんで、こんなこと!」
「分からない。ただ、一瞬そうすべきだって思って」
「怖くなってやめただけさ」
理由を聞かれても、分からなかった。酔馬が死んだ事を改めて聞いた時にはもう、首元に剣が突き刺さりかけていたし、すぐに死ぬ事を恐れて止まった。
「なんでだろうな」
「俺にも分からない」
パレットに載せた絵の具全部を混ぜ合わせたように、頭の中が理解の出来ないもので溢れかえっている。逃げたいと願う色、死にたいと願う色。けれど最後に仁が選んだのは、死にたくないという色。
「このクズは、本当にどうしようもない。救いたいのは己だけってことと、もうダメだって事くらいしか分からない」
空を仰ぎ、空虚に笑う。己の醜さに。己の惨めさに。己の生への執着に。そして、それら全てが築き上げた骸の山に。
「そんな事ないよ。仁は、危ない事をしようとしてた。戦う前にみんなを守りたいって言ってた」
壊れたように笑う仁を、少女は否定した。自分だけが生き残ればいいなんて思っている人間が、あんな馬鹿げた賭けはしないと、仁は命を賭けて誰かを守ろうとしていたと、否定した。
「……ああ、危ない事、したさ。僕らは命だって賭けたよ」
「けどな。俺は、自分の命と罪悪感の為に賭けたんだよ」
仁を良い人間だとでも言うような少女に、現実を知る彼自身はまた声を荒げる。
確かに仁は命を賭けた。空から飛び降りて、龍の前に身を晒すような危険を。アコニツムが上を向けば死んでいた。ミサイルを止めるのに遅れていたら死んでいた。不測の事態、牙が当たっていれば死んでいた。
だが、それら全ては自らの為なのだ。
「でも仁、助けたいって言って!」
かつて仁が言った言葉で、彼女は責め立てる。しかしその言葉が純粋なものではなく、後ろめたい何かを含んでいたら、彼女の反論に意味はなくなる。
「そうだよ!助けたいって思ったよ!」
「罪悪感から、命賭けてでも助けようってな!」
否定を否定。仁を肯定するような物言い全てを、仁は否定する。
そうすれば、許されるとでも思ったのか。はたまた単に贖罪だと思おうとしたのか、分からない。ただ分かるのは、助けようとした事に変わりはなくとも、その根底にあるのは罪悪感を少しでも和らげようとする醜い欲望だったという事だけ。
シオンのように、綺麗な欲望ではない。
今回、シオンは仁に英雄像を押し付けず、助けようと言ったことを評価した。口で助けようと言い、命を賭けた少年の行いを見て、頑張ったと言った。
「自分が助かるついでに救えば、みんなに胸張れるって思った!中途半端にそう賢くもない頭捻って作戦考えた!って言って」
だから仁は醜い心の内を、本音を叩きつけて、その評価は作り上げられた幻想だと叫んだ。
助ければ、今まで欺いてきた負い目をなくせると思った。自分も助かって一石二鳥とでも考えたのか、出しゃばって頭に思い浮かんだ荒削りな作戦を、軍の人間に披露した。
「そして、どうなった?」
翼を落として遠ざかれば、物理攻撃は来ないと考えた。物理と魔法の同時攻撃の対処を全く考えていなかった。可能性としてはあり得たのに、選択肢に入れていなかった。
「僕らが考えておくべきだったよ。この世界は狂っていて、あいつはどんな方法を使ってでも殺しに来るってね」
故にアコニツムの牙に対応できず死にかけ、酔馬が死んだ。何らかの対策を講じておけば、彼の死も仁とシオンの危機もなかった。後は、地に堕ちた龍を殺すだけだった。
「……仁は酔馬さんが死んだ事で、自分を責めてるだけだよ」
「シオン、僕らだって多少は気に病むさそりゃ。死なせたのは僕らと僕らの嘘なんだから。けどね。それだけじゃないんだ」
「……俺が、俺が目覚めた時、何を思ったか分かるか!酔馬さんが俺を庇った時に、俺は一瞬!」
布団を顔の前で握り締め、黒い瞼の裏であの時の感情を思い出す。外聞も何も無く、ただ心の中で純粋に湧き上がった一言。牙を防いで堕ちていく機体を見て、思ってはならないのに、思ってしまった思い。怒りで塗り潰して誤魔化そうとした、酔馬の死と仁の生還という結果に対する、率直な嘘偽りのない感想。
「「ああ、助かったって、思ったんだ」」
仁は、酔馬が死んだ事を悲しむより、庇われた事に感謝や自責の念を覚えるより、自らが生き残った事を喜んだのだ。
「前みたいに自分で危機に陥っておいて、命を捨ててまで救われて、思ったのが生きていて良かった、だよ?」
「酔馬さんが代わりに死んでくれて、良かっただぞ!」
あのオーガの時と同じだ。自分で考えた作戦で、自らの首を絞めた。あの作戦の失敗で対価を支払ったのはシオンの脚と仁の皮膚で済んだが、今度は訳が違う。
学ばずに挑んだ今回、また死ぬかもしれないと思い、また助かった。庇われた時に、仁の心を支配していたのは、生きている事の喜びだった。
酔馬が庇って死んでくれたという結果に、喜んでいた。
「そんな人間が、心の底から助けたいって思うわけがない」
助けて守ろうとした人を失って、喜ぶ奴はいるのだろうか。それは果たして本当に助けたいと、守りたいと思ったのだろうか。助けたい人を助けた時、守りたい人を守れた時、人は喜ぶのではないのだろうか。
ならば、仁が本当に守りたかったのは?守れたのは、一体何だったのか。
「俺は、俺の命が守れた事に、守られた事に喜んでいた。酔馬さんじゃ、ない」
アコニツムは死んだ。頭が弾け飛んで生きている訳がない。シオンと仁が無事なのが、あの場で龍が死んだ証拠だ。
「街は助かった。これで魔法は使えるし、嘘もばれないし、守られるし、特権は維持できるし。ほら、これで助かるのは僕らだろ?」
この街は未曾有の危機から救われた。街を救った英雄であるシオンを差し出せなどと言う人間はいない。つまり、仁は目的を達成したのだ。自らが生き残る為に、シオンと街を生存させるという目的を。そこに酔馬はいてもいなくても変わらないと、少年は嗤う。
「僕らは死にたくなくて、生きたい。その為なら何でもするって誓って、守り続けてるような人間て事だよ」
仁が本当に他人を大切に思っているのならば、街に来た時に刻印の事を隠さずに言ったことだろう。
「それなら私だって言わなかっ」
「言おうとして、俺が脅して、止めた」
「僕らが止めなかったら、君は言わなかったかい?」
自分も共犯だと胸の前に手を置いたシオンの訴えを、間違っていると正す。確かに彼女も黙ってはいたが、それは仁の脅しがあったからだ。それさえなければ、この少女は間違いなく言っていただろう。
彼女が悪くないというのは仁の中での話であり、シオンも同罪だと思う者はこの世にたくさんいるはずではある。しかし、この自らも共犯者だからという慰めは、仁の中でシオンに罪がない限り成立しなかった。
「俺だって変わろうとは、した」
自分のせいで死んでいく人間に心を潰されかけて、言おうとして止められた。だったらせめて誰かを救う事で、言えなかった罪悪感を埋めようと考えた。
「けど、俺は何も変わっちゃいなかった」
しかし、酔馬が死んで喜んだ自分は、前と何が変わったのだろうか。救おうとして救えなくて、湧き出た感情に変わっていない事を突きつけられた。
「誰かの為に生きるなら、さっきだって死ねたはずさ」
死のうと首に氷の剣を突き立てて、出来なかった。いや、元からする気などなかったのかもしれない。ただ、悲しんでいるよとポーズを取ろうとしただけなのかもしれない。
しようと思えば今でもできる。舌を噛みちぎれば、目に氷の剣を突き立てれば、刻印を暴走させて氷で身体に穴を開ければ。シオンでさえ防ぐのに間に合わない手段も多く、簡単にも程があるくらいだ。
だが、出来ない。死ぬのが怖いから。死なない為なら、何でもするくらいに。
「けど仁、刻印の事話したじゃない!そこは絶対に変わって、良いことで!」
「あんなの既に手遅れだっただろ!何が手遅れじゃないかもなんて……なんで、そんな事思えたんだろうな俺……」
「僕だって、後悔してるよ。あの時なんで、刻印を隠す事自体には賛成したんだろうってね。生き残る為にはそれがいいって、思ったからなんだけどさ」
死なない為に他人を見捨てた。嘘を吐き欺き、刻印を隠した。そうする事で、自分が生き残りたかったから。
「柊さんに言った時点で何人死んでた?それからの今日まで何人死んだ?」
「僕らは見えないところで死ぬ人達を、見なかった」
後になって言わないのは悪いと思い、話した。しかし、もうその時点で手遅れだった。大多数の人間を殺していた事に気づいてはいたが、直視しなかった。柊に言われても、香花一人を殺した時より悩まなかった。
だって自分は、ちゃんと本当の事を話したのだから。前を向いているからと、過去の死者を忘れようとした。
「酔馬さんに庇われて、ようやく突きつけられたよ」
「僕らがどれだけ酷い事をしたのか」
自分の嘘で人が目の前で死んだのは、酔馬が初めてだった。今もなお、彼の思い出と最後の瞬間が脳に生々しく鮮明に刻まれており、消えてくれない。
そして、その後ろにはたくさんの骸が並んでいるのだ。刻印があれば助かったかもしれない骸の山が、ずらりと列をなしているのだ。
「今回だって、刻印があればもっと方法は増えたはずなんだ」
「そんなの、実際にそうならないと分からない仮定よ!あれ以上に犠牲を出さないで戦える方法を、私は思いつかなかったわ!」
もしもの世界を幻想し、今の世界との差異に己を憎む。少女はそんな仮定に意味は無く、刻印が増えたところでそんなに変わらなかっただろうと、戦闘に長けた者の目線から断言する。
「じゃあ聞くよシオン。刻印が増えて僕らに不利になる事はあったかい?予め刻んでおく時間も二週間前からあっても、何も変わらなかったかい?」
「……それ、は」
戦闘に長けてない仁でも分かる反論。使える駒、取れる手段が増えて不利になる事なんて、あり得ない。
もし、仁以外にも刻印が使える人間がいたのなら、ヘリから降下する人数を増やす事が出来た。仁一人しかいなかった故に柔らかい翼しか狙えなかったが、10人近い人数だったなら、氷を束ねて頭に叩きつけて脳を潰し、仕留めることだって出来たかもしれない。
そしてその未来なら、きっと酔馬は生きている。この世界の同じように進んだなら、誰も死ななかった。
「それに、酔馬さんはただ死んだんじゃないよ」
「俺らに託して、死んだんだ。希望だと勘違いしたまま、最後まで俺らが嘘吐きだなんて気付かずに……!」
彼の死因は、牙に貫かれた事ではない。仁とシオンという希望を信じて、庇って死んだのだ。未来を、嘘吐きのクズに託したのだ。
天国で事実を知ったら、彼はどう思うだろうか。
「仁だけじゃない。私も庇われたの。だから酔馬さんの死は!」
「だから、嘘を吐いてても吐いてなくても、変わらなかったって思って罪の意識を軽くしろってかい?」
確かに、酔馬は仁だけを守った訳ではない。本当の英雄で『勇者』であるシオンも、守った。代用できる仁ではなく、代用できないシオンを守ったと思えば、仁は自分を責める理由が無くなる。
「そんな風に思える訳ねえだろうがっ!俺もっ!」
「僕も、託されだんだよ!シオン!君だけじゃない!僕らも!助けられたんだ!」
シオンの口から出た慰めが、自分の為と分かっていても許せなかった。そんな風に思えたら、どれだけ楽だろう。自分は悪くないと思えたのなら、どれだけ楽しく生きられるだろうか。仁には、思えなかった。
「これが俺の望んだ結果だ!代用の出来ない存在となる事で、誰かに守られて生き残ろうと嘘を吐いたんだから!」
この結末を望んで嘘を吐き、創り上げたのは仁だ。
「面白いくらいに望んだ通り人が死んだよ!こんなのが人助けの英雄?街の希望?笑い過ぎて死にそうじゃないか!」
過去に願い、叶った今に、おかしくなったように仁は笑い転げる。
人を盾にして生き残ろうと、死体の山の上で息をしようと願った少年に、希望を託した足元の死体達。信じ、守り、庇った少年こそが、自らを殺したとさえ知らぬまま死んだ善良なる人々。
この構図は何の冗談だ?悲劇を通り越して、最早喜劇の域だろう。
「数え切れない数を自分の為に殺しておいて、それを見なくて、今更何を言ってるんだって話だよ」
僕は指を折って数えて、脚を使っても足りないよと首を振る。
世界が変わったあの日に、作戦を間違えて殺した生徒と先生。殺されそうになったから殺した香花。刻印を教えずに、殺した数え切れない人々。そして詰めを誤り、嘘によって殺した酔馬。
何人殺したか分からない。どれだけこの身が血で汚れているか、分からない。訓練で人を数人殺しただけのシオンなんて目じゃない。それこそ、百倍近くの差があるだろう。
「でも、仁は殺したくて殺した訳じゃ」
「なら、許されるのか?一緒に戦った仲間達が俺の作戦によって死ぬのを眺め続けていた事も、共に生きようとした少女の首をへし折った事も、刻印を隠した事も、全部?」
シオンの知らない仁の過去と、シオンの知る仁の今。何も変わってはおらず、仁は間違い続けてきた。殺したくて殺した訳じゃないとは言うが、死ぬ事が分かっていて手を止めなかったのは、仁だ。事故のように、偶然が殺した訳じゃない。
誰だって分かる。強大すぎる敵に立ち向かえば死ぬ事も、首を絞めれば死ぬ事も、誰かを助ける力があるのに、それを隠して使わなければ、死ぬ人間がいる事も。
「俺なんかが『勇者』になれる訳なんて、なかったんだ」
片手で額を抑え、もう片手で心臓を握り潰そうとして、吐き捨てた。
こんな人間がこれから正しく清く生きる?夢を託される?希望となる?『勇者』を名乗る?
馬鹿も休み休み、寝言は寝て言え。仁はもう間違った生き方をしてしまったし、託された夢を叶える力も持たない。この街に齎したのは希望ではなく絶望で、名乗るなら大量虐殺者の方がお似合いだろう。
「俺は人間じゃない。クズだ」
仁は今まで、人間の事を醜いと言ってきた。だが本当の事は分かっている。
自分という人間がクズだから、他も同じだと思いたかっただけだと。鏡に映る人間を、クズと言っていただけなのだと。
「桜義 仁っていう人間は、自分さえ助かれば他はどうでもよくて」
「誰も救えない、どうしようもないクズなんだよ」
そんなクズに誰が救えるというのかと、何もかもを諦めて投げ出したくなった。どうせ街は『魔女』と『魔神』の復活か、騎士達の襲撃か、食糧難かで滅ぶのだ。
それを防ぐ為の希望の旗の片割れが自分だなんて、おかしな話だ。
この街は近い未来に滅ぶ。ならば全ての行いに、酔馬の死に、仁が生きる事に、何の意味がある?
だらんと、力を抜き、ただただ布団を眺め続ける。滅びかけた世界で、死んでも足りない罪を犯しておいて、仁は死ぬ事も出来ない。もう何をすればいいのか、どう生きればいいのかさえ、いや、もう全てが分からなくて、全てがどうにでもなればいいと思った。
その姿は生きていても、死んでいた。思考を放棄し、ただ後悔と過去に溺れて沈む仁はもう、生ける屍だ。
「頼むからシオン。慰めないで一人にしてくれないかい?」
「俺は、滅ぶと分かりきっている何かを救おうと思う程、いい奴じゃないんだ」
裏切らないかを観察し続けた賜物か、シオンの思考がある程度読める。脳に蓄積されたそのデータは彼女が仁を慰めて、励ますという答えを出していた。
「一人になんかしないよ。慰めるし、励ましもする」
先回りして釘を打っておいても、シオンが食い下がってくるのはデータ通りだ。どうしても退かないのなら、仁が彼女と距離を取らせるまでだ。
「なんでそこまでするのかって問いは、意味がないかな」
ここまで内側を曝け出しても、彼女がどうしても、仁を見捨ててはくれない理由。
「……シオン。俺は、君が好きになるような人間じゃない。恋愛の相手は、人間にしとくべきだ」
それは、仁に惚れてしまったから。我ながら実に気持ち悪いが、それでいい。シオンがそう思ってくれれば、彼女の気持ちは離れる。もっとも惚れた弱みか、彼女はそうは思わないだろうが。
「えっ?あ、その、えーと。伝わっ、てた?」
その表情は、とても場にそぐわない。頰を手で隠し、嬉しいのか、恥ずかしいのかは分からない。でも、さっきの発言で仁を嫌った訳ではない事だけは分かる。
「当たり前だよ。どこをどう見れば気づかれないとでも思ってたのさ」
幾ら仁が朴念仁であるとは言え、あれだけアピールされたら気付かないわけがない。シオンは自分の事が好きだと、ずっと前から知っていた。
「……はい」
シオンは仁が好きだと、だから励ましたいし、力になりたいと認めた。よくよく考えれば、告白されたようなとんでもない状況だが、これでよかった。
「好きなら、放っておいてくれ。俺のしたいようにさせてくれ」
「そして、ちゃんといい人を見つけるといいさ」
「……え?」
そんな彼女を、突き放した。もし本当に好きなら言うことを聞いて距離を取れと、これで嫌いになったのなら他を探せと。仁はもう、他人の為に命を賭けるシオンの隣にはいられないと。
彼女の想いを踏み躙って、決して実らせないようにする。最悪にして醜悪な告白への返し方だろう。しかし仁の醜さの底は、まだ深い。まだ、足りないのだ。
「けど、私。好きな人にそんな顔してほし」
「どうせ、その好きなんて、誰だって良かったくせに」
「……!?」
あの森の家でシオンが好意を向けてきてから、仁がずっと抱いていた思い。それは、彼女は仁という人間に惚れたのではなく、ただ優しくしてくれた人間に惚れたのではないかという、疑問だった。
恋に恋し、優しいに憧れる、愛に飢えていた少女。仁なんかをあっさり好きになったのも、今まで接した人間よりはマシだったからではないか?
「僕より先に優しい日本人がいたら、そっちに惚れたんじゃないかい?」
そしてそれは、仁である必要が無かったのではないか?
言えば彼女が深く傷つき、本当の意味で取り返しがつかなくなる事は、本当なら心の奥底で秘めて苦しむべきだと事は分かっていた。最低にして最悪。仁が思いつく限りで、最もシオンの心を壊すような言葉だとも。
仁は、そうなることを望んだのかもしれない。たくさんの過ちを犯して、色々なものが壊れて、どうでもよくなって、残った物さえ壊そうとしてしまうような、自棄になっていたのだろう。
例えるなら、友達と喧嘩して、言ったらもう戻れないかもしれないような事を、後で決まって後悔するのに、つい言ってしまうような。
「そうかも、しれない。仁以外に優しい人と会っていれば、その人を好きになったかもしれない。私は、優しさを欲しがったから」
シオンが椅子から立ち上がり、仁の言葉を肯定した。別に仁である必要は無かったと、優しければ誰でもよかったと、そう告げた。
これで終わりだ。シオンとの関係まで壊してしまえば、仁に残るのは自分の命のみ。だが、そう望み、そうしたのは自分だ。
決別するようにシオンと反対の方を向き、彼女が出て行くのを待つ。なぜか、その瞬間だけはどうしても見たくなかった。
「……?」
「っ!?」
しかし、いつまで待っても鳴らないドアの音を不審に思ったその時。
「でもね!私が出会ったのは!シオン・カランコエが森の家で出会ったのは、仁!あなたなのっ!」
胸ぐらを痛いくらいに掴まれて、引き起こされた。呼吸が重なるようなその距離に、仁は目を白黒させて、気圧された。
「まだ分からないの?例え誰でもよかった、他の人でもよかったんじゃないかとか仁は言うけど、そんな未来はないの!私は知らない!」
「けど、俺以外と出会っていれば……!」
真正面、間近にいる彼女は泣きながら、仁の身体を何度も揺さぶる。鼓膜と心が痛いと思う程、大きな声でシオンは叫ぶ。まるで耳を塞いで聞こうともしない子供に、無理やり届かせるように。
「だから私、仁以外となんて会ってない!ずっと寂しかった私に初めて優しくしてくれて!助けてくれて!私が好きになったのは他の誰でもない!あなたなの!」
他の誰かだったらという仮定を、今自分が好きなのは仁だという答えで、彼女は論破した。
「そ、そうかもしれないけどさ……」
「かもしれないじゃなくて、そうなの!そんなあるかも分からないような、現実には無かった仮定の話なんかで、私の想いが変わるわけないでしょ!」
他の未来なんて知るものかと、そんな仮定ごときに自らの心は変えられないと、シオンは仁に告白した。
「……け、けど……なんで、シオンはこんな俺を嫌わない?」
失礼で、嫌われても仕方のない物言いなのは分かっていた。しかし、こうなる事だけは予想できていなかった。
醜態を曝しても距離を取ってくれないのなら、自分から距離を取ろうした。一人になりたくて、彼女を傷つける刃で関係を壊そうとした。
なのになぜ、シオンは自分を嫌わない。思いつく限りの言葉をぶつけても、何故彼女はこんな生きてる価値もないような存在から離れてくれない。仁を、見捨ててくれない。
それがどうしても分からなかった。
「本っ当に朴念仁っ!自分の事も私の事も!酔馬さん達の事だって、何にも分かってないじゃない!」
「……シオンの事は分からなくなったけど、自分の事くらい分かってるさ!」
分かっていないと言われて、初めて得た反論の糸口。さっきまで理解不能な言葉の嵐に押されいたが、今は違う。
「シオンこほ、俺達の事を分かってない!俺は、俺は他の人間なんてどうだっていいんだ!自分さえ良ければいいって、そういう薄汚い」
「嘘吐き!そんなこと、欠片も思ってないくせに!みんなが大切で大切で、仕方がないくせにっ!優しい、くせに!」
至近距離で唾を飛ばし合って、互いの鼓膜なんて気にかけずに叫びあった。
仁から見た仁と、シオンから見た仁の差。シオンは彼の今までの最低な行いを見てなお、優しいと言い切った。
「なんでそう言い切れる?なんでそう思う?そんな優しい奴が、こんな酷い事できるわけないだろうがっ!」
分からない。理解できない。シオンは、仁が他のみんなを見捨てようとした事を知っている。その自己的な行いの果てに、たくさんの人を殺した事を知っている。
「なんで?呆れたわ。まだ、分からない?」
「分からない。何もかも分からない!」
なのに、なぜか。
「だって仁、口では矛盾しているもの」
「矛盾……?何が」
「たくさん。酔馬さんを死なせた事に、自殺しそうな程自分を責めてるとか。私が出て行くのを待つ時に、真逆の顔してたりとか。他にもたくさん。けど、他の所と過去を見れば、矛盾はしていないっ分かるの」
仁の言っている事はおかしくて、矛盾しているように見える。けれど、口ではない場所から感情を覗けば、非常に筋が通っている。彼女の口は心からの言葉で、仁の耳元の空気を震わせた。
「どこを見れば、そんなの」
「泣いてるところとか、辛そうなところとか」
「えっ?い、いや、これは」
一体どこが口以上に物を言うのかという問いに、シオンは何故か笑顔で答える。そうして仁の目元の涙を、細くて硬い指で掬い取って、濡れている指を見せつけるようにかざした。
「仁の顔って、本当に分かりやすい。考えた事がそのまま出るの」
「……!」
シオンに見られて、仁の心を伝えてしまったのは、いつも通り、隠し事のできない顔だった。
「人は、心の底からどうでもいいって思った人達の為に、泣いたりしないよ。そんな辛そうな顔をしたりしないよ」
「違う!俺は!」
「逃げないで。自分が醜いからあんな結果になったなんて、思わないで」
シオンは仁を人間だと扱い、首を振って逃げようとした顔を強化の手で固定して、現実と向き合わせる。
「醜いから、あんな酷い行いをしても仕方がないなんて、もう何もできないなんて、心を隠さないで」
「な、何を言ってるんだい?僕達が醜いのは事実じゃな」
「優しいからあの結果を、自分がした事を受け止められないのは分かる。辛いのも分かる。けど、自分の気持ちにまた嘘を吐いたら、仁は絶対に後悔する」
だって、失う事を覚悟していたモノを失う方が、助けようとしたモノを失った時より楽だから。しかし、そうやってこれからもずっと見捨て続ける方が、仁にとってはダメだ。
涙目のまま互いに向き合い、向き合わせ続ける。現実を紡ぎ続けるシオンは、許さなかった。醜さから行いを正当化する事を、そうやって結果から逃げる事を、仁を想って、許さなかった。
「うるさい!やめるんだ……!」
「やめない。うるさくても言う」
「俺はもう!後悔してるんだっ!」
「ほらやっぱり。後悔してるって事は、みんなが大切なんだ!」
「っ!?」
後悔していると認めた仁を、彼女は逃さなかった。これこそが彼らをどうでもいいなんて思っていない証拠だと、畳み掛ける。
「なんで私と会った時、椅子を持って加勢しようとしたの?」
「……シオンが死んだら、次は俺だと思ったから」
「私を非力だと勘違いしたのに?囮にして逃げる方がずっと効率的だわ」
初めて会った時の、意味の無かった加勢を思い出す。あの時仁は、何も考えずに飛び出していたような気がする。途中で恐怖に足が止まったが、それでも。
「なんで刻印の事、話したの?」
「……言わなきゃ、僕を守る戦力が足らないと思ったから」
「仁も使い捨てられる兵に加わるかもしれないのに?大切だと気付いたとか言っていたくせに?」
ずっと隠していた刻印を柊に明かした事を、彼女に報告した時を思い出す。確かに仁は、死なせたくないからだとか、変わりたいだとか言っていた。
「変わりたいって思ったのは、見捨てた自分が嫌だったからじゃないの?みんなが大切になって、助けたいって思ったんじゃないのっ!」
「……」
「素直になって!自分が生きたいように、生きて!思ったこと、口に出して、守りたいって思ったなら、守って!」
指摘され、仁の嘘を突き崩したのは、心と口がすれ違って生まれたいくつもの矛盾。どれだけ反論したくても、できなかった。
だってそれは、全部真実だって分かってたから。
「……そう、だよ!俺は助けたかった!助けたくなったんだ!」
「今じゃ大切だって思ってるさ!けど、けど……!」
観念した仁が遂に吐いた、嘘ではない己の気持ち。罪悪感で助けようとしたとか言っておいて、本当の所ではただ助けたいだけだった。認めてしまえば、辛くなるそんな気持ち。
「俺なんかじゃダメなんだよ!希望を託されても、絶対に無駄になる!『勇者』になんてなれやしない!」
だって、仁は彼らを助けるには弱すぎて、醜すぎるから。あれだけの間違いを重ねた自分は希望にはなれないと、少年は叫ぶ。
希望を無駄にしてしまうことを悲しむのは、希望を繋げたいから。なれやしないと嘆くのは、なりたかったから。
「『勇者』になれない?違う。なってないだけ!託された物は無駄?無駄になるのかなんて、まだ決まってないでしょ!それなのに放り投げてるのは仁なの!死なない限り、次はあるのっ!」
「次……?あれだけ、間違えても、か?」
「間違えたからこそ、次は間違えないようにするんじゃないの。託されたモノ、捨てたくないんじゃないの?」
悲しむのも嘆くのもまだ早いと、シオンは仁に歯を見せて怒鳴りつけた。まだ死んでいないのならいくらでも機会はあると、そう叱りつけた。
「……なんで、シオンは諦めている俺に、諦めるなって言うんだ?」
自分を励まし続ける少女が、諦めるという意思を許さないシオンが、仁には分からなかった。
「仁が本当に諦めたいなら、私はその意思を尊重する。けど、そうじゃないならっ!諦めて仁が後悔するなら!私は何度でも、諦めるなって言うわ」
「……そう、かい」
いつまでもいつまでも、彼女がこの争いを続ける理由。それは、仁に後悔して欲しくないから。そして、このまま嘘を吐き続ける生ける屍のままなら、必ず後悔するから。
「なんで、僕に後悔して欲しくない?」
「あなたが好きだから。私が、他のみんなに託された希望を叶えたいから。みんなを、救いたいから」
少し落ち着いた呼吸の中、静かな問いと静かな答えが交わされる。
好きな人に後悔して欲しくないからと、希望である仁が壊れれば街に影響が出るからと、そうなればみんなを救えないからと、シオンは答えた。なんとも欲張りな彼女らしい、より取り見取りな答えだ。
「……俺は、どうしたらいい?」
「私が決める事じゃない。仁が思うように決める事」
自らの道を定める問いに、なりたいものは自分で答えてと、少女は答えた。
「俺は」
「僕は」
答えは決まっていた。それは世界が変わった日にいないと思ったモノで、嫌いだと吐き捨てた。だってそれは余りにも理想すぎて、仁から見れば馬鹿にしか見えない、綺麗事。
「託されたから、守りたい。もう失うのは嫌だ」
「大切な人、救いたいよ。もう、誰にも死んでほしくない」
鼻をすすり、躊躇って、そしてようやく口を通って心から出たのは、
「「勇者に、なりたい」」
希望の象徴で、酔馬に託されたモノで、メッキではない、本当の意味の『勇者』だった。非力な仁にはまだ、遥かに遠い理想だけれど、目指さなければなれやしないのだ。
「やっと、素直になった」
返答に満足がいったのか、彼女は仁の胸に顔を埋めて、笑顔でまた大粒の涙を流し出した。仁も、彼女の肩に頭を置いて、同じように泣き出した。
「「……ありがとう。シオン」」
服に触れた唇で、シオンに感謝を述べた。潰れて腐る所を、彼女に救われたから。
進む道は決まった。間違えたからこそ、次は間違えたくないと願う。失い続けたからこそ、次は守りきると誓う。
しかし、いくら前を向いて人助けをしようと、犯した罪は決して消えない。過去は変わらず、多くの人を見殺しにした事実も何ら変わらない。仁はその罪と、一生向き合って生きていくことだろう。
だが、未来は変えられる。戦う事を仁が辞めなければ、救える人間が一人はいるかもしれない。ならばその為に、仁は『勇者』になりたいと思ったのだ。
『刻印の代償』
刻んだ魔法を使うことによって、刻まれた物質が徐々に変化していく。変化の行き着く先は炎魔法なら灰、水魔法なら液体化、土魔法なら土もしくは石化、風魔法なら風化、氷魔法なら氷と、刻んだ魔法に沿ったものになる。身体強化の場合、付近の細胞が死滅する。代償というより、性質と言った方が正しい。
変化した先は基本的に、魔法と同じ性質を持つ。魔法障壁に弾かれて物理障壁をすり抜けるようになるし、氷の場合は冷たくない温度や常温で溶けないように設定することができる。強度は僅かに落ちるが、それでもまだ人体に近い。動かし方も変わらず、別に魔法の枠を食うわけでもない。治癒魔法で治すこともできるし、身体強化も使える。
これだけ書くとメリットばかりに感じるだろうが、デメリットももちろん存在する。まず、成長することも新たに筋肉がつくこともない。そもそも魔法に置換された時点で生きてはいないので、代償の部分が広がり過ぎればいずれ死に至る。また、日本の手術で治すことが基本的に不可能。氷や土にメスを入れて手術出来るなら話は別だが。
最終的に行き着く先は、部位ごと完全に置換されることである。仁の氷の左脚がこの状態に該当する。このまま使い続けたのなら、代償は徐々に脚から体の中心へと向かい、限界の地点に達するだろう。
だが、代償の速度は刻印一つの通常発動ならば微々たるもので、数年から十年でやっと自覚症状が出るかどうか。最終段階に行き着くのには数十年単位で恒常的に使い続ける必要がある。
しかし多重発動になれば、その速度は急激に加速する。二重発動で倍どころの話ではない。恒常的に使い続ければ二年と経たない内に最終段階に辿り着くだろうし、そもそもそれ以上の同時発動で刻印を使うなど、仁以外にいない。故に、彼のみのデータではあるが、三重ともなれば目に見える速度で侵食は進むようだ。四重以上だと、最早一瞬で置換されてしまうらしい。
何事もにも理由はあるものである。刻印が禁術指定だった理由は、これである。
 




