第58話 憎しみと終わり
「あとはあの龍をどう堕とすか」
手を組み、ベッドに目の前の腰掛けた少女と一緒に考える。ぐっすり睡眠を取れたおがけでまだ頭はがんがんに、それこそ扇風機のように回っていた。
シオンの魔法の制限に関しては、腕から直接生やした剣で戦うでなんとかなるだろう。刃こぼれした時に魔法の枠が必要になるが、それはいつも通りだ。
「普通に正面から戦闘して、勝率はどれくらいある?」
「多分、魔力切れで負けるわ。勝ち目があるとしたら私が生贄の振りをして、喰われる直前に奇襲をかけるだとは思うんだけど」
仮にこのまま戦いを挑んだ場合、勝つのは相当に厳しいだろうと彼女は目を伏せる。余りにも浮遊魔法が魔力を食い過ぎる。
「あっちから近づいてきてくれればいいんだけど、そんなヘマはしないと思う。遠くから炎を浴びせてくるか、自殺を求めるかの二択じゃないかな……多分、魔法障壁を張ってると思うから、私の攻撃は届かないわ」
唯一の可能性のある邂逅直後の奇襲も、シオンの予測では他よりマシといった程度。
『魔女』に単身で挑もうと考える程、アコニツムは狂気に染まっているが、彼自身の戦闘のセンスと経験は決して馬鹿ではない。シオンから見ても凄まじいと感じる程だ。生贄の振りをしての奇襲を、予測しないとは思えなかった。
「空中だから動きに関しては自由度が高くなると思うんだが、それで意表をつけたりしないか?」
「ミサイルとの同時攻撃はダメ?」
地上での戦いとは違い、空中では全方位が足場となり、移動可能な空間となる。それで死角になんとか回り込めないかと仁は考えるが、
「相手の方が空中戦闘に慣れてるわ。ミサイルの爆発は物理、炎は魔法なのもあまり良くない。考え無しに突っ込んだら、どちらかに巻き込まれちゃう。やるなら、それで動けなくなるくらいの怪我を負う覚悟で行かなきゃ」
常に大空で戦ってきた翼を持った龍と、常に地上で死線を潜り抜けてきた剣を握った少女。技量の差で見るならシオンの勝ちだが、今回ばかりは舞台の差が大きすぎた。
あの馬鹿げた魔力の炎の滝から、アコニツムは炎属性の適性が高いことが伺える。奴の炎を掻い潜り、懐に入り込むのには魔法障壁はほぼ必須だろう。そしてまた、ミサイルの爆発の瞬間にも物理障壁が必須となる。
タイミングを誤れば、ミサイルの爆発でシオンが撃ち落とされる可能性だってあるのだ。
「……キツイな」
足りない。龍にシオンと戦闘機をぶつけても不利。障壁を貫く攻撃を増やす為には刻印を広めるか、仁を使うかしかない。
前者は論外だ。柊は龍を凌いだ先を考えてシオンを助けていると言うのに、それを台無しにしてしまう。
ならば残るは後者だが、ろくに飛べず、障壁の使えない仁ではアコニツムに近づくことができない。
「シオンに抱きかかえて空まで運んでもらって、そこから一分間の浮遊は?」
ヤケクソじみた僕の提案その一。近づく際に障壁が必要ならば、シオンを盾にして行こうと言うもの。
「ミサイルで蜂の巣どころか跡形も無く吹っ飛ぶな。もしくは龍に殺されるかのどちらか」
「まず仁を抱きかかえながらだと、戦えないと思う」
すぐさま継続的な戦闘、そして近づくことさえ不可能と断じられ、却下。
「真面目に人間大砲でもやるかい?シオンが物理障壁貼って、僕を抱きかかえたら耐えられるんじゃないかな?運が良ければ射程範囲に一気に入って一撃かも知んないし」
提案その二。一瞬で近づけてなおかつ意表を突く、というより発想が馬鹿すぎて、相手が想定できない人間大砲で二人を飛ばすと言うもの。
確かに、もの凄い確率の果てには近づけるかもしれない。射程圏内に入れば、ミサイルとシオンと仁の三人で一気に攻め、落とす事も可能かもしれない。しかし残念ながら、確定に限りなく近い確率で仁が木っ端微塵になっているだろう。
「おまえ、真面目の意味とその作戦の成功率分かるか?」
「多分、真正面から戦ったほうがいいと思う」
ふざけているような僕の提案の羅列に、俺は青筋を浮かべ、シオンは無表情で拒絶したのだが、
「けど、悪くない?」
「え?飛ぶの?」
「じ、仁?私の知る大砲、絶対死ぬし、当たらないと思うわよ?」
近づく為のヤケクソの案二つを聞いた俺の人格が発した一言に、僕とシオンは気でも触れたかと心配する。元より気が触れているような熊は別として、俺の口からそんな自殺願望のような言葉が出てくるなんて、本当に想定外だった。
「違う!そうじゃない!発想じゃなくて、その根底が悪くないって言ったんだ」
「根底?」
「あ、近づく為って事ね」
誤解が解けてホッとした様子の彼らを見て、俺はもう一度思考のノートを開く。ほとんど空白で、ただ決意と状況だけが書かれたノート。
「シオン。何か、書くものを貸してくれ」
「ん。どうぞ」
脳だけじゃ容量が足りないと、部屋の中に置かれていた紙をひっつかんで並べ、白の上に羽ペンで黒い文字を書き連ねていく。
「近付けさえ、すればいい」
そうなのだ。今まで障壁と浮遊が使える人間を欲していた理由は、龍に刃を届かせる位置まで近づく為。
「そうなんだ。本来の目的を見失って、ありもしない理想の手段を求めてた」
近づく為に障壁と浮遊を欲しがったのが、いつの間にか障壁と浮遊を欲しがっていた。それ以外にも近づく方法はあるはずなのに、そう思い込んでいた。熊が提案した人間大砲、僕の提案したシオンに運んでもらう方法。どちらも現実的ではないだけで、近づく為の方法には違いない。
「何か良い方法、近づく為。自分の手では届かない相手に、手を届かせる方法」
思い出せ、死にそうなった中での経験を。捻り出せ、ありったけの生きる為の知恵を。頭を回せ、少しでも役に立ちたいのだろう?少しでも、救いたいのだろう?
目を瞑り、真っ暗にリセットされた世界で、混沌とした内容を整理。
「なんで、シオンや大砲に頼る?」
「四日間の間で回復できるシオンの魔力に、限度があるから」
己が問に、もう一人の己が答える。浮遊で飛べる時間は短すぎる。仁に刻印を刻めば、その分シオンが自らに刻める量も飛べる時間も減ってしまう。だから僕は大砲に飛ばしてもらったり、シオンに連れて行ってもらおうと考えた。
「近付けば、どうにかなる?」
「長期戦は元から無理。だけど数秒だけなら、ミサイルを止めてもらえれば、もしかしたら」
仮に近づいたとして、仁は役に立つのか。答えは瞬間的な戦闘の介入はできる、だ。
魔力的にもミサイルで択を狭める的にも、長期戦は不可能だ。だが、択を狭めない程の短時間であれば、戦闘に参加できる。
「つまりそれが決め手となれば、いい。トドメでなくても、相手を追い詰めることができれば、それでいい」
浮遊状態でまともに戦えるかは分からない。しかし、その短時間で状況を一気に有利へと傾けられるかもしれない。単純に考えて、仁とシオンの二人を龍は同時に相手取ることになる。
仁に気を取られれば、シオンが間違いなく決めてくれるだろう。しかしその逆の場合、仁は決められるのか?
「けど僕らで決め手とか、いけるかな?あの龍の鱗が鎧種のオーク並に硬いとかなら、きついかもよ」
「俺らでも間違いなく通せて、あの龍に致命的な損傷を与えられる場所に、心当たりはないか?」
技術の拙い仁が、ただ単に氷の刃を伸ばして突き入れるだけで刺さる部位はあるのか?今までの経験を参考にすれば、柔らかい目くらいしか思いつかない。
「目はいいけど、相手の視界に入っちゃう。仁だと対応されるかも。狙うなら、翼がいいかもしれない」
「翼……地に引きずり落とすってわけか」
仁の技術から考え、シオンが導き出した結論は、相手の翼を奪うというものだった。
目を狙った場合、攻撃が当たる前にどうしても仁が見つかってしまう。その点、皮膜は鱗より柔らかく、また死角から狙う事も出来る。
「地面に落とせさえできれば、私一人でも殺せると思う。小さな千傷、一太刀に勝るってね」
「落下時に物理障壁を張るなら、こっちは魔法打ち込み放題!ダメージも期待できる!いい場所だよ!」
グッドアイデアと手を叩いた僕に、シオンは頷き、俺はノートに書き込んでいく。翼を奪いさえできれば、戦況は一気にこちらへと傾くことだろう。
「どうやったら、そこに行ける?」
「もし死角を狙うなら、というより、不意打ち狙うならどうすればいいんだろう?魔力眼持ってるんだよね?」
「こ、こればかりは私もなんとも言えない……そんな簡単に不意が打てるなら、私が打つわ」
そして、最後の問題。どうやって翼を破る位置までたどり着くか。また、死角を取るにはどうすればいいのか。
戦いの最中、魔力眼と翼を持つ相手に不意打ちを叩き込むのは非常に難しい。360°視界を見渡し放題。しかも、遠くでも魔力さえあれば目に留まると言うのなら、ほぼ不可能と言ってもいいくらいだ。
故に求めるのは、見つからずに翼まで届く移動と不意打ちの方法。ここに代入する策が見つかれば、それが龍を堕とす問の答えとなる。
「不意打ちは、俺がずっとやってきたことだ」
不意打ちとは、勝つ為に非常に有効な手段である。卑怯ではあるが、決まった時にはシオンでさえ対処が出来ないこともあるのだから。
「今まで、どんな不意打ちをしてきた?」
成功した不意打ちを思い出し、探り、考える。それをそっくりそのまま流用することは無くとも、参考にはなるはずだから。
「……戦力外の予想からの、戦力」
サルビアへの不意打ち。動けない、つまり、戦力としてカウントされていない状態からの介入。
思い出し、書く。
「意識外からの、一撃」
炎の森でのオーガへの不意打ち。シオンと戦闘中故仁に気付かず、氷を埋め込んで脚を奪った。
羽ペンをインクに浸して、更に一行。
「他に注意を逸らしてからの、襲撃」
森のオークへの不意打ち。携帯を鳴らしてとんちんかんな方向に敵がいると思わせてから、死角から一撃で仕留めた。
ひたすらに、不意打ちが決まった時の状況を事細かに書き連ねる。一点の漏れもないよう、今回と重なるところはないか探しつつ、書く。
「常識を超えるような、飛び降り」
学校で戦ったオーガへの奇襲。三階の教室に届こうかという巨体の顔に飛び乗り、眼球を突き破った。
「……どうだ?」
成果と経験が、現実のノートに実に細かく書き殴られる。それら全てに目を通し、考え、思考のノートへと写していく。
「重なる」
今回、仁の存在は龍にバレていないと考えても良いだろう。龍が刻印を知らないのならば、魔法攻撃ができるのはシオンだけだと思うはず。仮にどちらも知っていたしても、まさか空の上に来るとは思うまい。
サルビアの状況は、今回に重なる。
「注意……シオンと戦闘機に挟まれて、他に気を使う余裕はあるか?」
物理と魔法のどちらにも自分を殺しきる可能性があるのなら、龍は意識をかなりシオンと戦闘機に傾けるはず。全くもって参戦の予想されていない仁に、気づくだろうか。
他で注意を逸らす、炎のオーガとオークの状況は使える。
「あり得ない場所からの、飛び降り?」
活かせやしないかと、学校でのオーガの文章を見て、仁の思考が赤信号のごとく一時的に止まる。
「ははっ……そうだ!飛ぶだけが移動手段じゃない!上に行きたいなら落ちればいいんだ!」
一瞬で切り替わった青信号に、アクセルをいきなり最大で踏み込んだ思考が急発進。思考が連鎖するように、広がっていく。
「な、何を言ってるの?落ちたら下に行くだけ……!あっ!」
「俺君頭おかしくなったのかい?そんな僕らここから落ちても地面しか……ああああああああああああ!?」
手を打ち鳴らして羽ペンを振り回し、壁にインクを振り撒いた俺の人格の正気を疑う。しかし、俺の言っていることの意味をすぐさま理解したシオンと僕は、狂喜乱舞に加わった。
思い付きもしなかった発想の逆転。龍に刃を届かせる為には、浮遊で空を駆け上がるしかないと思っていた。だが、それだけじゃない。
地面より上に行きたいなら、その目的地の上から飛び降りる事もまた、移動方法として成立するのだ。
「シオン、あいつが上を向かないよう、下に目線を向け続けるように、立ち回れるか?」
「それって難しいんじゃ?」
「うん。それなら戦闘機?の人と相談して、ずっと龍の下で戦うようにすればいいと思う。あの龍も炎を降らせたいと思うから、上にいたがるだろうし」
息を深く吐き、少しだけ落ち着いた仁からの問い。一見難しそうに見えるが、シオンはやりようによってはできると、首を縦に振った。
「よし」
この方法を思い出した経緯を考え、そしてシオンがアコニツムの視線を固定できるのなら、
「なら、これは不意打ちとしても成立するっ!」
不意打ちの為に、過去の経験を活かせないか考えていたのだ。それが使えるとなれば、不意打ちとなるのも至極当然の事。
「奴には翼がある。自由に空を駆け回り、俺らには無い翼が!」
莫大な魔力を持つシオンですら数分間しか飛べない空を自由を駆け回る、天空の覇者である龍。もちろん戦闘機等を使えば、人も空を駆ける事は出来る。
「だから、そこを突く」
だが、生身では?しかも上空の彼方から、空を飛べない人間が降ってくるなんて、異世界の誰が予想する事ができようか。
「魔力も持たない人間が、自分より高い空を飛べるわけが無いと思っている奴の常識をだ!」
「け、けど仁。着地はどうするの?幾ら何でも、そんな高い所から落ちたら死んじゃう!それに龍が都合良く落ちた下にいるなんて!」
数少ない、こちらの世界が魔法の性能に勝っている事。それは、空を飛ぶ手段が容易にして簡単だという事である。シオンの世界からしたら、仁の飛び降りは自殺行為に等しい。
「だからシオン。その二つの問題を解決する為に、飛ぶ時間を俺に分けてくれないか?」
「刻印?けど、魔力が足りるかどうか……行きの魔力だけでも殆ど足りないと思うのに!」
故に仁は新しい刻印を刻んでくれと頼み込み、シオンはやっと見えた希望が絶たれた事に気付いたように、目を伏せて答えた。
「いんや。十分足りるよ!」
「龍への位置合わせと着地の瞬間だけ、浮遊が使えればそれでいい」
シオンの絶望を、仁は一瞬で否定した。彼女は知らないのだろう。日本が誇る科学の数々。魔法が使えない代わりに地球人が発展させてきた、空を飛び越えて星々にさえ手を伸ばす技術を。
「蓮さんの言葉が本当なら、動くはずだ」
仁を空へと運ぶ手段は、もうあるのだ。
「夜も遅いけど、みんなを集めよう」
後は作戦の困難、または不可能な点をみんなに洗ってもらい、是非を問うだけ。
「さてと、さっき帰したところで悪いのだが」
僅か三十分後、会議室には先ほどと同じメンバーが再び集められていた。徹夜して疲れ切って、休めると思った途端に召集された彼らだが、嫌な顔一つしなかった。
「ね、寝させて」
酔馬以外。もちろん、総員は残酷にも無視。二時間程前に終わりとなった会議が再開される事の意味を、分かっているからだ。
「構わん。それだけの事があるのだろう。どでかい希望か、それとも絶望のどちらかが」
街を救う希望の光か、または更なる絶望へと誘う問題点か。そのどちらかでしかなく、ここの皆は前者である事を、後者でないことを祈っている。
「察しがいいな。寝て目が冴えたか?蜂須。仁から作戦の提案があるそうだ」
「……本当に、使えるような作戦なんだろうな?」
一度希望を見てから、後で紛い物と気付きたくはないのだろう。その作戦とやらは希望足り得るのかと、蜂須は真剣に真っ直ぐに澄んだ目で問い質す。
「少なくとも、さっきよりは絶対にマシだと思います。その作戦は龍に辿り着けなかった俺を、空から落として奇襲するってものです」
「スカイダイビングってことさ」
故に、立ち上がった仁も真剣に真っ直ぐに、己が身を危険に晒す奇襲作戦を提案した。
「何を馬鹿なことを言って!」
「落ちる?空を飛べないのにどうやって!」
「正気か?……いや、そうか。なるほど!スカイダイビングをするのだな?」
夜中に呼び出され、一発逆転の策があると聞かされた挙句、その中身はスカイダイビングというもの。ふざけるなと反論が飛び交い、彼らは仁がスカイダイビングでどうしようとしているのかに、気付いていった。
「……そ、そんな頭おかしいんじゃ」
「え?何?確かにスカイダイビングをこんな時にやるなんて頭おかしいですけど、なんでみんな分かってる感じなんですか!?」
「よ、酔馬お前……寝てていいぞ」
「酔馬さん。疲れてるんですよ」
「叩き起こされて寝ろってどういうことですかねえ!?」
酔馬以外。余りにも察しが悪いのはいくら酔馬でも寝不足だからだろうと、蜂須と楓から寝る事を促され、更に困惑を深めていく。本当に気付いていないのなら、絶望的なまでの察しの悪さだ。それこそ、この作戦の成功率なんかより、よっぽど絶望的だ。
「まぁいい。酔馬鹿もそのうち分かるじゃろ!」
「ちょっと!?名前もじらないでください!小中高のあだ名じゃないですか!……あ、ごめんなさい」
真剣な空気に自分だけ置いてけぼりを喰らい、なぜか謝ってしまった。椅子に小さく座ったのを見るに、どうやら聞き手にまわるようである。
「問題はどうやって上に行くか、だ。魔力は足りないのだろう?」
「魔力は無くとも、俺らには科学があります」
咳払いで取り直した空気の中、蜂須達から向けられた疑問の視線。彼らに魔法ではない方法なら、魔力なんて要らないと仁は述べ、
「だから、虎の子を使います」
彼はずっと前に見た、そしてついさっき名前を聞いた虎の子を使うと、自分より低い位置にいる座った彼らに宣言した。
「すまん。どいつか分からん」
もっとも動物園が出来そうな程に蓮が虎の子を量産しすぎたせいで、どれなのかは蓮本人を含めて伝わらなかった。
アコニツムの襲撃から五日目の日の出。約束の刻。
「仁さん。日が昇ります」
「ん。もう、少しだな」
少しずつ明るくなり始めた東の空の光を、虎の子は照り返す。操縦席に座っている楓に残り時間を告げられた仁は、緊張に指を固まったのを感じた。
「ヘリを運転できるなんて、すごいですね」
「い、いえ。軍なら、できる人は珍しくないかと思います」
意外や意外、なんと彼女もヘリを運転できるのだ。と言うより軍設立初期に、街を捨てる際の逃走手段の一つとして、希望者に酔馬が教えていたとのことである。
「音が聞こえないの、すっごい違和感でやりにくいですけど……」
「あれ、案外近くだとすごい音しますからね」
音はしない。しかし止まっているわけではなく、魔力を一切使わずに回る上のプロペラが、この機体を浮かし続けてくれている。
「それにしても、ヘリ通じなかったね」
「あれはしょうがない。虎の子が多すぎるんだ」
そう。仁が虎の子と呼び、今正に降下の準備をしているこの場所はヘリだ。
最初は戦闘機から飛び降りる事も考えた。だが、二機しかない戦闘機を使うのは大幅な戦力の低下である。それに何より、あんな速い機体からまともに飛び降りられるのか、という疑問がある。
そうやって困難な選択肢を除外して思い当たったのは、蓮が戦闘機の代わりにしようとしていたヘリのことであった。素人である仁の提案に、彼らは音等の様々な問題点を挙げてきたが、
「魔法と科学をハイブリッドさせる事で全て解決できた」
音で気付かれるのではないかという問題は、シオンが風属性の防音の刻印を刻み込み、仁がここに乗っている間発動する事で解決。
着地時に粉々になるかもしれないという心配は、地面との接触寸前で浮遊すれば回避できる。
位置のズレもなく落ちれるものなのかと言う当然の疑問には、最初の爆発を見て飛び降り、浮遊で逐一軌道修正。そして、シオンが出来る限り相手の動きを止めるように立ち回るという事で話をつけた。
「15m。これが僕らの氷の刻印を二つ同時で届かせられる限界」
「外した時に備えて、予備にもう六個刻んでもらってあるが……まぁ多いに越したことはないか」
両脚に四個ずつ刻まれた、計八の新たな刻印。空の道中、風魔法で自らの身体を後押しするつもりである。しかし、魔法で宙を舞う事に慣れていない仁は、体勢を大きく崩してしまうかもしれない。浮遊で動きを戻すにしても、できる限り刻印の魔力を温存しておきたいのだ。
「着地の際に浮遊の刻印が切れていたら、僕ら死んじゃうかもしれないからね」
故に、頭との重さを氷で逆転させて空中で体勢を整える為に、脚に刻印を刻んだのだ。元より腕にも数個、氷の刻印が刻んではあるが、やはり脚の方が込められた魔力は多い。
「できれば、一撃で届いてくれよ」
至近距離である必要はない。翼に手か脚から伸ばした氷の刃が届く距離なら、それでいいのだ。仮に掠っただけで龍が堕ちなくとも体勢が崩れていれば、第二撃のチャンスはある。念の為と第四撃まで渡されたのは、偏に仁の技術が信頼できないからか。
「残る明確な不安は龍が逃げないかと」
「何の気なしに空を見上げないか、なんだよな」
一つ目の不安要素は、アコニツムが瞬時に撤退すること。約束を破り単身で来ず、ましてや生贄なんてごめんと言った仇敵に背を向け、逃げる選択を龍が取ったしよう。
「あいつがプライド高い奴だといいんだけど」
「シオンはそう見えたっていうしね。仇敵を前に逃げるなんて事はしないって、僕も思うよ」
余りにも距離を離されれば、仁の軌道修正だけでは届かなくなる可能性がある。そうなれば当初の作戦通り、戦闘機とシオンが残り少ない魔力でごり押しという勝ち目の薄い賭けに出ることなるのだ。
「むしろ僕は二つ目が心配なんだ。万が一シオンか酔馬さんが龍の上に行っちゃったら、僕ら見つかるかもしれないんだから」
「よ、酔馬さんはなんだかんだ頼れるひ、人ですよ?」
僕のため息にフォローを入れる楓だが、その声はとても震えており、説得力はほぼ皆無だった。
シオンと戦闘機が常にアコニツムの下で飛び回る事で、視線を固定するつもりではある。だが気紛れに、または天然二人がうっかり龍の上を取ってしまい、龍が空を見上げれば、降ってくる魔力の刻まれた仁を見れば、この作戦は終わるのだ。
「さすがにまだ刃の全然届かない距離で気づかれたら、絶対対処されるよ」
「遠くに行くか、上に炎を吐くか。どっちかでも詰みだ」
あくまで完璧に気付いていない状態で接触し、大氷刃で破くか、時限爆弾を仕掛るのどちらかで翼を奪うのが、この作戦なのだから。
「それ以外にも不安はあるし、何と言ってもこれすっごい危ないよね。五分後には死んでるかと思うと僕の心臓ドキドキしてるよ」
「奇遇だな。けど、落ち着いてる」
何ともまぁ、運任せにしてシオンと堅と酔馬任せの、不測の事態ですらない予測の範囲でさえ十分に、そして簡単に仁が死ぬ作戦である。
何せ龍が上を向けば死ぬ。龍が撤退すれば死ぬ。ミサイルの爆発に巻き込まれば死ぬ。龍の流れ炎弾に当たれば死ぬ。
「バットエンド多すぎるんだよ」
仁の見ているハッピーエンドは完全勝利だけだというのに、予測できるバッドエンドはこんなにもあるのだ。全くもってやってられない。
「まぁ、僕らが見るのはハッピーな未来さ!」
しかし、未来が一つだけなら、ハッピーエンドをもぎ取ればいいだけの事である。
「死にたく、ない」
死ぬのは、前と変わらず怖い。誰かを助けたい、変わりたいと願っていても、それでも変わらず死ぬのは怖い。
だがしかし、生死の境界線を綱渡りするようなこの作戦こそが、思いついた中で最も成功率が高そうに見える作戦なのだ。
「延命じゃダメ。僕らが全うしたいのは寿命なんだから。その為にこうするしか、命賭けるしかないのなら、するしかないよね」
「ああ。生き残る為に」
これから先、長く生きる為には、これがベスト。
「そして、街のみんなもシオンも助ける為には、するしかない」
「言ったな俺君!偉いぞ!」
そしてこれから先、街のみんなやシオンと一緒に長く暮らす為には、この作戦がベストなのだ。
「……もう、すぐです」
言い切った俺を僕が褒め称えた所でかけられた、楓からの最後の報告。あと数分もしない内に、下で爆発が見えるだろう。それが飛び降りる合図だ。
「防音の魔法は、俺がいなくなったらすぐに切れます。楓さんも急いで離脱してください」
何度も言い聞かせられていただろうが、念の為。彼女が少しでももたもたすれば、それだけアコニツムに気付かれる可能性は増える。
「わ、分かってます。気づかれないよう、うまく逃げて見せますから……!ご武運を。街の運命を、頼みます」
自分でも嫌だと思った確認だったのに、彼女は笑って親指を立て、仁の幸運と勝利を願った。
「頼まれました。あなたこそ、お気をつけて」
「絶対に勝ってくるから!」
こんな優しい人さえ欺いている己の醜さに、自虐が止まらなかった。しかしそれでも、危機を前に笑う英雄像だけは守りきろうと、仁も笑って親指を立て返す。
「作戦名、考えたの仁さんでしたよね。私は好きですよ。あのネーミングセンス」
「やめてください……あれは俺じゃない。魔が差したんだ……」
「なんでさ!?みんなには割と好評だったじゃないか!」
ああ、緊張しているのがばれたのか、気遣われた。その事に気付きながらも、ガチガチの身体を解す為の冗談に、俺は本気で恥ずかしがっていた。
「人類を救った作戦として、僕らの名前と共に歴史に残るかもしれないんだよ!教科書載るかもしれないんだよ!とびっきりかっこよくていいじゃないか!」
作戦の全てが煮詰まった後、僕の馬鹿が言ったこのアホな動機によって始まった、作戦名命名会議。柊達が「降下作戦」等無難なのを出していく中、俺がとある神話を思い浮かべて、ポツリと呟いてしまった単語。
すぐさま恥ずかしくなって取り消しを求めたが、それに悪い大人達が悪ノリ。結果、意味を教えられたシオンまでもが大興奮で賛成となり、多数決で可決された作戦名。それは、もし日本人が生き残れば歴史となり、俺にとっては黒歴史となって教科書に刻まれるような、少し痛い名前だった。
「仁さんは嫌がってますけど、教科書なんてものが出来て、学校に子供達が通えるって事は……この街が救われた時です」
「むしろ教科書読む子の大半はかっこいい!って目を輝かせるさ!」
しかし、そうなのだ。教科書に載るなんて、世界が救われた時以外にあり得ない。龍を堕とし、食糧難を乗り切り、反乱も起きず、魔物の襲撃も無く、騎士達が虐殺を行わず、『魔女』も『魔神』も復活しない、それこそ元の世界戻ったような時以外、あり得ないのだ。
「だから、諦めてください。ね?」
故に、彼女は教科書に作戦名が刻まれる未来を望み、仁の願いを笑顔で却下した。
「……回避するには滅びるしかないって事ですか……それは嫌です」
「死んでもごめんさ!」
ああその通りだと頷き、仁は扉の前に立つ。大人しく滅ぶ気など、死ぬ気など、元よりサラサラない。
「死ぬのは、怖い」
「本当にさ。絶対に僕は死にたくない」
ここは天空。ヘリの遥か下に並べられた大地との距離を覗き、足が竦む。心臓が早鐘を打っているのは、後数分後には死んでいるかもしれないからか。
「何度も言うがな。全部失って死ぬ方が、もっと怖いんだよ」
強がりとは違う本心からの言葉と共に、大地と見えない龍を見下げる。逃げて野たれ死ぬくらいなら、
「全部救う賭けして勝って、全員で生き残ってやる」
それが、新しい俺の在り方だった。
「俺君見えた!」
「分かってる。行くぞ。僕」
ほぼ真下で起きた巨大な爆発を見届け、ドアを開け放つ。舞い込んで来た風が服をなびかせ、外の匂いが死地を前に鋭敏となった嗅覚を刺激する。降下時に邪魔にならないように顔の布を外して、準備は整った。
「イカロス作戦、発動!世界を救うスカイダイビングと洒落込もうじゃないか!」
人である仁が空を落ち、龍の翼を消失させる。かの有名な神話が由来のイカロス作戦。終わった時に死んでいるのは、どちらの翼無き者か。
空の覇者たる傲慢さを、己より遥か高くを飛び回る者などいないという思い込みを、打ち破る。
「嫌だけど、必ず教科書に載せてやる」
黒歴史を叫びながら命を賭けるのも、歴史の教科書に載るのも、恥ずかしい事この上ない。しかし、その未来こそ俺と僕が、そしてみんなが望む未来だ。
「死ぬくらいなら恥かけばいい」
恥なんていくらかこうが構いやしないし、死にやしない。自分が死ぬより、大切な人が死ぬよりは、ずっとマシなんだから。
己を、大事な人達を救う為に、
「そっらああああああああああああああああああ!!!!」
さぁ、飛ぼう。
上の服を脱ぎ捨てて肌を露出し、仁は天と死地へと身を投げた。
「う……ぐおおおお……!」
まるで、暴風の中を通り抜けているようだった。先ほど舞い込んで来た風がそよ風だったと思える程、足場を無くした仁へと空気が襲いかかる。
「はぁ……風の制御は、俺がやる!位置の情報は頼んだぞ!」
わざわざ露出狂のように服を脱いだ理由。それは、背中に刻まれた風を噴出する刻印の役割を果たさせる為であった。
俺の意思で刻印を発動。風が刻印から噴き出し、背骨に何か重いものが乗ったような感覚と共に重力以上の速度へと加速していく。
「あいあいさ!このまま真っ直ぐ下……いや、右!」
ぐんぐん下の景色がズームされていく中、目印となる大きな爆発を頼りに、小さき動く龍を強化された眼球で探すのは僕だ。
龍が空を飛び回る方向を僕が教え続け、その都度俺が浮遊を使って軌道をずらしていく。互いが互いに己のしたい事に全力を注げる、人格を使った役割分担だ。
普通に一人で龍の方へ行けば良いわけではない。何せ噴出も浮遊も制御が異様に難しく、他の事を考えればすぐに錐揉み飛行になってしまいそうなのだ。
「俺君大丈夫かい?戦闘に関しては器用な君に任せたけど……」
僕は思ったよりも辛そうな半身に交代を告げるが、
「他も器用だよ。舐めんな大丈夫だ。お前にだけ辛いの任せるわけいかないだろ」
帰って来たのは、強がった口調の頑固で不器用な俺の意地だった。
「ま、この後の痛みは僕が引き受けるから。それまでね」
「いつも悪いな」
「なぁに。僕の生まれた意味を考えればいいって事さ。うわ、下すごい」
やれやれと首を振った僕も、謝った俺も自らの仕事に戻る。再び下を見た僕が見たのは、大空を這い回る何本もの赤き蛇。八岐大蛇、ヒュドラ、メデューサ……そんな言葉が思わず口から出てくるような、巨大で荘厳で幻想的な魔法だった。
当の本人達はそんな事を考える余裕、一切ないのだろうが。
「あいつが味方だったら、花火とかやってくれたのかもな」
「面白い発想だと思うよ俺君。わぁ!?危ない危ない!錐揉みなりかけたし、酔馬さんぽい動きのファントム落ちそうだったし!」
花火みたいに綺麗だと、戦場に似合わない感情を抱いてしまう程に。そのせいで危うくバランスを崩しかけて浮遊に手を出してしまい、頭の痛みを代償として支払う事になったのだが。
「うわぁ……シオンやっぱり凄いなぁ」
「ああ」
銀が一瞬だけ太陽に光れば、その周囲全ての蛇の首が途中で断たれて河へと炎が落ちていく。それは正しく字のごとく、縦横無尽に空を走り回る少女の剣が通った軌跡だ。
「さすがだよ」
いつ見てもいつ見ても、ため息が出るくらいに綺麗だと、ため息が出そうになるくらい追いつけないと思い、そして、その度にいつか俺もと思ってしまう、彼女の剣技だ。
「GJ!」
炎に囲まれて逃げ場を失っていた二機が解放され、安心したように息を吐いた幻を見たような気がした。
「もう少しだ!耐えてくれ!」
「お願いさ……!」
今のは少し、危なかった。腕時計を見て確かめた時間は後一分弱。どうか耐えてくれと、作戦的にも心情的にも、仁は下の三人の無事を祈り続ける。
「俺君、今龍の動きが止まってる!」
「焦るのは分かる。けど、まだだ」
龍の動きが止まり、スパローを受けても無傷な事実から物理障壁と判明している、期せずして訪れてしまった絶好のチャンス。だが、まだ作戦によって決められた時間ではなく、距離も少し残っている。
「時間になったらシオンが最大限に注意を惹きつけて、障壁の判断もしてくれるはずだ。それを、待つんだ」
彼女の指示を、仁は信じた。思考停止ではなく、これが最善だとしっかり考えて、決めたから。
「きた」
そして、水面から飛び出して来た槍に隠れていたシオンと、護られるように飛ぶスパローを視認。安定と時間稼ぎの為に風魔法の加速を解き、浮遊に切り替える。
「全部、問題無し」
「オールグリーンだね!」
刻印が問題無く発動するか、僅かに氷を発生させて確認。刻印に一切の問題無く、薄い氷が手足を覆い、解除と共に砕け散った。
「十秒後、必ず生きていよう」
体勢を整え、浮遊による全力の加速に入りながら、二人の自らへと呼びかける。下で爆発。ミサイルが炎に迎撃され、撃ち落とされた。
普通に考えて、アコニツムが今張っているのは魔法障壁。しかし仁は、シオンの判定が来るのを信じて待つ。
「馬鹿言うなよ相棒君。ずっと生きてるに決まってるじゃないか。もちろん、みんな一緒にね」
それに返されたのは、当たり前だろという笑顔と、輝かしい未来の想像。
下へとシオンが回り込み、姿が見えなくなった。しかし、彼女が放り投げた魔法の剣はしっかりと龍に突き刺さっている。物理障壁を張っていると、教えてくれた。
シオンが水面に逃げた時から、ずっと龍の位置は動いていない。今に至っては下を覗き込んでいて、仁に気づいていない。彼女はわ役割を完璧に果たしたのだ。
それは、視線を下へと固定して択を迫ってくれた酔馬と堅も、空の上まで運んでくれた楓も、作戦を一緒に練った軍のみんなも、同じ事。役割を果たした彼らは仁に期待し、希望と日本人の命運を託した。
ならばその期待に、希望に、仁も応えるしかないだろう。
右脚に刻まれた二つの刻印が、淡い水色に輝く。同時発動の痛みは僕が引き受けている為、戦闘担当の俺の意識は至ってクリアー。
迫る赤き巨体を前に脳に浮かぶのは街のみんなと、傷だらけの少女が笑顔で、無事で、日常。
狙いを定めるは、アコニツムを空の覇者足らしめる翼。仁達を苦しめた翼を折り、こちらの土俵へと引きずり込む。
仁が生き残る為に、思い描く光景を守る為に、彼らの期待に応える為に、その、為に。
「「堕ちろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」
声と共に氷刃を錬成。魔力は全力、イメージは竜の爪。皮膜を無惨に、障子に穴をあけるような気軽さで引き裂けるような、三つの巨大な先がある爪。
「がっ……!?」
シオンに豊かと評されたその想像力と魔力によって、思い通りに具現化した氷の牙が、アコニツムの右翼の皮膜に接触。すぅっと、ケーキにフォークを刺すような軽さで刃が刺さり、仁の落ちる速度と連動して、下へ下へと空いた穴を広げていく。
間違いなく、翼は奪った。
「仁!GJ!すごいわ!」
翼を裂き終えた仁は、空でシオンと合流。温存の為に浮遊を風魔法に切り替え、全力で下へと体を沈めながら、三人はアコニツムから距離を取る。
「シオン達のがすごいよ」
「お疲れさん!」
決定打を褒められはしたが、本当にすごいのはその決定打を打てる完璧な状況を作り上げた者達だと俺は否定し、僕はその人達を労った。
「な……なぜ!?どこから湧いて出た!?」
いつの間にか現れた、魔力を持っていないのに魔法が使える少年。彼とズタズタになった翼を見比べて、驚きのあまり未だに状況が読み込めていない龍が発した疑問。
「おまえの上からだよ!」
「どうやって!」
当然だろう。そう思うだろう。理解出来ないだろう。見落としたわけがないと思うだろう。仁の返答に、さぞや驚いたことだろう。
しかし、ここはそういう世界だ。想像も出来ないような事が、最悪を超えた最悪が、いつでも起こり得る。
「貴様ああああああああああああああああ!」
空の覇者も地に堕ちれば、シオンの敵では無い。そして、その時間は数分足らずで訪れる。それを読み切れなかったアコニツムの、負けだった。
「おまえが『魔神』の生まれ変わりとやらか!殺したと思っていたのに、まだ器を残していたのかああああああああああああ!」
敗北を悟ったのか。狂乱に喚き、叫び、咆哮し、大気を震わせ、新たな敵と古き仇敵へと莫大な殺意を向けてくる。
「『魔神』なんて、本当に倒せたのか?また勘違いだろうどうせ」
しかしアコニツムは、バカの領域に達するレベルに優しいシオンを『魔女』と思い込んだ挙句、あれだけ弱い仁の事を『魔神』と勘違いしてきたのだ。見る目がないにも程がある憎しみに狂った瞳と、嵐のような声の圧力に仁は向き合って、
「俺は、そんなんじゃねえよ。ただの嘘吐きの、メッキの『勇者』だ」
「けど、救いたい者は救わせてもらうよ。仮にも『勇者』の端くれだからね」
「「おまえの負けだ。アコニツム」」
腰から剣を引き抜き、龍へと刃を向けて否定し、赤き龍の敗北を宣告した。
「ッッ!敗ける?そんなわけが、無いだろう!」
「無駄よ。彼に魔法障壁は無いけど、私が守るもの」
シオンの魔法障壁が仁の前を、同時に展開された土の盾が後ろを炎から守る。内側で仁も氷の盾を展開しており、蒸し焼きになることは無い。
魔法障壁と他の魔法を併用できるシオンがいる限り、アコニツムがいくら炎を吐こうと、仁には火花さえ届かない。これで詰みだ。
「許さん!許せぬ!敗北など我が許されぬ!貴様らだけでも、ここで殺す!仇を討つ!死ね!滅べ!朽ちろ!」
何度も何度も炎と怨嗟を吐かれ、視界が眩しいまでの赤と頭から落ちていく龍の姿の交互に入れ替わる。しかし、その全てに意味はなく、少し熱いかなと感じる程度だった。
そう、シオンが異変に気付くまでは。
「だから無駄だって言って……仁!氷の剣を創って盾代わりに!早く!」
初めて聞いた、シオンの本気の焦った声。疑問もある。理解は出来ない。しかし、その指示に従った。彼女がこんなに焦るなんて、命の危険以外に無いからだ。
仁が右脚のまだ生きている刻印一つで作り出したのは、刀身が異様に広くて太い、段平を何枚も何枚も重ねたような氷剣。これならば少し溶けても十分に盾代わりとなるがら一体何が。
「魔力切れか!?」
「違う!……来る!」
シオンの魔力が限界で、障壁が切れるのかと思ったが、そうではなかった。ならばなぜという仁の疑問の答えは、
「嘘だろ!?」
シオンの作った急造の土の盾と、仁の作った氷の剣を貫いて粉々に砕き、シオンの胸前ギリギリで止まった。
「あいつ、牙を引き抜いて飛ばしやがった!?」
仁の予想外の範囲の、自らの身を削る物理判定の攻撃だった。
そう簡単に牙が抜けるわけがない。人間だって本気で殴るか、何か道具を使わない限り、中々取れやしない。だというのに一体どうしてかと、炎に囲まれた視界で、俺は頭を必死に働かせる。
「引き抜いたんじゃ無いよ俺君……歯茎ごと抉り取ったんだ……」
歯の根元に見えた赤い肉から僕が言い当て、そして炎が晴れた視界で、アコニツムが実演して見せた。
「許さぬ……必ず、殺すぞ」
残った片腕の爪を歯茎へと突き立て、皮膚も肉も裂く。歯の根元に触れたならば、上へ上へと引き上げるのだ。血が湧くように溢れる痛みも、肉がごっそり抉れる痛みも、神経が千切れる痛みを、狂気で耐え、それら全てを、目の前の敵を殺す為の方法へと変えるのだ。
「……俺らの身体も、物理判定だ」
アコニツム程の狂気に染まっていなかった仁では、予想もつかなかった物理判定の武器を作る方法。
しかし、ここはそういう世界だ。想像も出来ないような事が、最悪を超えた最悪が、いつでも起こり得る。
「仁!もう一度お願い!」
「……くそっ!」
現に今だって、ほら。引き抜いた牙を魔法で浮かせて撃ち込んで、とてつもない量の魔力を使って作った氷と土の盾を、もう一度砕いてきた。
「刻印が残り四つしかねえぞ!」
「ごめん……もう魔力が!障壁だけしか無理だわ!」
仁が使える大規模な氷の刻印は、左脚の残り四つ。シオンに至ってはもう魔力はなく、障壁を数秒展開するので精々と言ったところ。次の牙は防げるかも分からない。
そして、龍の口には次の炎が。傍には巨大な牙が。
予想できなかった、仁とシオンの敗北だった。
「終わりだ」
どうしようもなくなった仁は、焼け石に水と分かっていながら、二人を守ろうと氷の刻印を発動させようとした。しかし残念なことに、氷の盾だけでは守れない。シオンの堅牢な土の盾と合わせても、破られたというのに。
「お願い……!」
シオンは荒い呼吸を吐き、せめて仁だけでも守ろうとあの時の黒い膜の出現を願うが、答える声は無かった。
飛んできた牙が終わりを教える。仁の脳を埋め尽くすイメージが死へと変わり、魔法の発動さえ失敗。氷の盾も土の盾も、黒い膜もなく、仁達はその身を晒し、
「「酔馬、さん?」」
牙と三人の間に急速で割って入り、コックピットを撃ち抜かれたのは酔馬の機体だった。
「ちぃ!邪魔しおって!」
苛立ったアコニツムが血と共に吐いた言葉も、耳に入らなかった。ただ、爆発して落ちていった酔馬の機体だけが、ずっと仁の目に映っていた。
「「貴様」」
庇われた。そして、酔馬が、死んだ。
強化された眼球は最後に親指を立てる酔馬と、彼が牙によって押し潰される様を確かに現実として、記録していた。死ぬ所をコマ送りのように遅く、目の前に突きつけられた写真のように鮮明に、見ていた。
「「貴様あああああああああああああああああああ!」」
そして仁の中で何が切れて、感情が爆発でさえ物足りぬ程、溢れ出した。
「いい顔だ!その顔が、見たかった!後悔と憎しみと怒りに塗れたその顔だ!」
「「殺す……!貴様、よくも!」」
恨み、悲しみ、憎しみ、怒り、後悔、恐怖、喪失感、殺意、そのどれもが混ざり、もはやどれとも呼べなくなった感情のままに、仁は支配されていた。もう一人の半身の声が重なり、共鳴し、無限に増幅していくような。荒れ狂う感情のままに、仁は動いていた。
「「殺す、殺す!」」
ただひたすらに、目の前で嗤う龍を殺してやりたかった。とにかく殺してやりたかった。何が何でも、殺してやりたかった。
「「死ねよ。死ねよ!死ねえええええええええええええええええ!!!!」」
「仁!」
残された左脚の刻印の内、氷二つを頭痛と共に発動。怒りや憎しみ、殺意そのものを体現したかのような、禍々しく、刺々しい形の氷刃が龍へと迫るが、それ以上は届かない。
「ダメ……!あの距離は届かない!」
距離を取りすぎていた。どれだけ憎んでも、どれだけ殺したくても、魔力が足りなくて届かなかった。
「私の魔力で、なんとか時間を稼ぐ!だから仁だけでも!」
意味が無いと、抱きついてなんとか自分を逃がそうとしてくれるシオンの声。届かなった剣が、自重によって諦めたように下を向く。
「なん、とか?」
ああ、そうするのが普通だろう。彼女の残った魔力を使って盾を作り、その間に仁が浮遊で地に降りて、なんとか逃げるのが。具体的な策もない、なんとかだとかいう無謀に賭けるしか、ないのだろう。
「「嫌だ」」
それでも、許せなかった。認めたく無かった。
「「殺したい」」
こんな現実。酔馬が自分達を庇って死んだなんて。彼を殺したアコニツムを殺せない世界なんて。
「「死なせたくない」」
そして、自分を庇ってまた誰かが死ぬなんて、認められるわけが無かった。
「「殺してやるぞ……!アコニツムッッッ!!!」」
声が枯れそうになるまで叫ぼうと、殺そうと努力しようと、涙を流す程恨もうと、かつての騎士と同じくらい憎しもうと、無理だ。感情では奴を殺せない。魔法のルールに阻まれて、殺せなかった。
「「……届けよ!殺せよ!死なせろよ!守れ、よおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」
だから仁の脳は本能的に、無意識に、感情のままに、魔法によって殺す事を提案した。
「う、嘘?」
地上に向けて伸び始めた氷の刃に、シオンは雷に撃たれたように驚く。あり得ない。彼女の常識を遥かに超えている、限界を超えた刃の長さだった。
「それでも届きは……ちっ!羽虫め!」
まだ届かない事は確かだ。それでも念の為の警戒し、アコニツムは魔法障壁を張ろうとした。だが、状況を理解した堅が撃ち込んだミサイルが、物理から変えることを許さない。
「仁、ダメ!」
爆風が頬の傷を撫でる中、シオンは気づいた。仁のやろうとしている事に。仁の脚で魔法の光に輝く刻印の数が、三つという事に。
そうだ。二つ以上同じ魔法を使えない理由が、痛みによって意識が落ちるというのなら、その痛みを分担して耐えればいい。僕が二つ、俺が一つ発動させたなら、人格一人あたりの痛みも減る。後遺症が残るというのなら、残せばいい。発動さえできれば、それでいいのだ。
「そんなことしたら……!きゃっ!」
全力で止めに入ったシオンを、仁は常用と予備の二つの刻印を重ねて限界を超えた強化の力で振り払う。
頭が金属で何度も殴られたように痛み、筋肉が千切れ、骨がめきりと音を鳴らして壊れるのを感じた。でも、この衝動と感情を前には些細な事だった。
浮遊で体を固定し、限界を超えた肉体に更に無理を強いる。
「「だから、死ねって、言ってるだろうがあああああああああああああああああああああ!」」
壊れる事なんて構わずに振り上げられた脚と、氷の刃。そして四つ目の刻印に光が灯り、仁の中を超えてはならないラインを超えた痛みと感触が埋め尽くして、刃がアコニツムの口へと届いた。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……!?げぼっ!ごほっ!」
「「黙れ」」
意識がヒューズのように落ちる寸前、アコニツムが炎で氷を溶かそうした直前、仁は氷の刃に更に命令を与える。それは、
「「弾けろ。そして死ね」」
更に刃を伸ばし、口の中を突き刺して回り、喉を張り裂けさせ、脳をぐちゃぐちゃに蹂躙して、頭の中に溢れさせて命を奪え、というものだった。
指示の通り、想像通りに魔法はこの世の法則を書き換える。龍の頭が氷によって弾け飛んだのを、仁は真っ暗な世界で、見届けた。感覚がおかしくなったのか、シオンの声さえ聞こえない。
落ちる感覚もないまま、落ちていく。それは意識なのか身体なのか、もう分からなかった。
『三重発動以上の魔法について』
基本的に魔法の枠は人間が一つ、陣もしくは刻印で一つの、計二つとされている。しかし厳密に言うならば人間が一つであるだけであって、陣、もしくは刻印に枠の制限はなく、三重発動以上も理論上は可能である。
例)「人間の氷刃」「陣の氷刃」「陣の氷刃」「刻印の氷刃」を同時に発動することで、個人で四重発動が可能。
例)「陣の氷刃」「陣の氷刃」「刻印の氷刃」「刻印の氷刃」で、人間の枠がなくとも四重発動は可能。
例)「陣の氷刃」「陣の氷刃」「陣の氷刃」「陣の氷刃」。全て陣もしくは刻印からでも、四重発動は可能。
魔法の多重発動にによって強化される効果の値は単なる倍ではなく、二次関数のグラフのように急激に変動する。ただ二回連続で同じ魔法を使うよりも、同時に発動させた方が威力が大きい。四重発動までくると、もはや常識に囚われない効果となることだろう。
しかし、あくまで四重発動は机上の空論に過ぎず、そもそも三重の時点で発動はほぼ不可能。二重の時点で相当な頭痛や激痛に襲われ、三重を発動しようとした時点で余りの痛みに意識が落ち、ここで大抵が行き止まりになってしまう。それより先の三重以上に進んだ者は、歴史の中でも数えるほどしか存在しない。
痛みによる限界は二重だ。だが、痛みを感じない身体であるのならば、二重の限界を飛び越えて、肉体および脳の限界まで挑むことが可能。本当の意味の限界、つまり精神や根性ではどうにもならない数まで魔法を多重発動できるのだ。そのラインは四重発動とされている。
しかし、痛みとは「これ以上はダメだ」という警告でもある。それを飛び越えて脳に更なる処理を強いるのだから、その代償も凄まじい。かつて三重発動に成功させた魔法学者は、代償で死にかけたらしい。
歴史を紐解けば、何人もの二重以上の多重発動成功者は存在する。人をやめた大悪魔、『二重発動』などの特異な系統外の持ち主、天才魔法学者プラタナスなどが有名だろう。だがそのほとんどが三重発動成功者であり、四重発動を一瞬とはいえ成功させた仁は、何気に歴史に名前を残してしまった。
 




