第54話 告白とメッキ
目を開けてまず脳に入ってきたのは、床に反射した太陽の光だった。見渡した部屋に治療中の人はいるものの、怪我人が運ばれて来る頻度はかなり減っている。救助もひと段落したのだろう。
「まだ、起きてないか」
「死んでないだけマシさ」
次いで得て安心した感触は、まだ暖かい彼女の掌。起きたら冷たくなっていないかが怖くて怖くて、眠りの中でも辛い夢を見ていた。
「またあの夢で、少し違った」
「僕は見てないけど、みんなが死ぬ夢?」
「うん。シオンも軍の人間も、悠斗も香花も、みんな。死んでた」
校舎、森、崖、火の中、洞窟、月明かりの下、そして燃え尽きるこの街と、場面は何度も移り変わる。その度に、仲間の命が砂時計の落ちる砂のように、零れ落ちていった。
「最後はシオンだった」
炎が生ある者も無き物も終わらせていく街に、シオンは黒い膜を張っていた。これ以上の被害の拡大を憂いて、一人でも多くを助けようと思っての行動だろう。
「その前は、軍の人」
現にシオンの前は軍の人間達が、炎に焦がされる方だった。
「あの龍を倒そうとして必死に戦ってたけど、障壁のせいで無理で」
鉄面皮なのに禿げと言われたらキレる司令。周囲の事など気にせず我が道を突き進むのになぜか憎めない蓮。
「勝てないならせめて、人を逃がそうって避難させるんだけど、門を燃やされて閉じ込められて」
「だから、シオンがダメだって分かってても膜を張ったんだね」
堅物で真面目だが根は悪くない堅。気楽に構えているように見えて実はすごい人を気遣っている環菜。いつもいじられてみんなを笑わせている酔馬。
「俺は強化であの岩壁を登って逃げるんだ。けど、他のみんなは誰も登れなくて」
引っ込み思案で臆病で優しい楓。嫉妬するくらいに顔も心もイケメンな桃田。多くの人を救う為に日夜永遠と働き続ける梨崎。
「見下ろす街は全部燃えてて、みんな焼け死んでる」
美味しい料理をいつも食べさせてくれる五つ子亭。熊に連れて行かれた美味しい虎の子の焼き鳥屋のおっちゃん。最近運送業始めました!と挨拶に来たおかしな四人組。
「リンクしていることがバレて、龍は膜をずっと狙うんだ。そして、ボロボロになったシオンが、俺の目の前に落ちてくる」
彼らだけではない。配給に行く度にウインクしてくるお姉さんや、すれ違ったら堅と一緒に時々遊んであげる子供達。よく訓練する軍の人間や、魔法を見せてとせがむ中学生くらいの男子達。もう滅ぶ事が決まっているようなこの街でも、精一杯今を生きている彼らが、守ろうとした人たちが、死ぬ夢。
「立ち上がったシオンは、止まった時計の向こうにズタズタの姿のまま歩いて行って、俺がどれだけその先に行こうとしても行けなくて」
今にして思えば、あの時計は死を表していたのかもしれない。止まった時間は心臓で、動かない針は脳だ。死んだ者達は時計の針の向こうにいて、生きている仁だけがこちら側だった。
「俺は、一人でだった。一人でで炎を、後ろ姿をずっと見てるんだ」
「君はその光景を、心から嫌だって思ったわけだ」
「ああ」
体育座りをして顔を埋めたまま、素直に頷く。シオンが本当に死にかけて、自分の両肩にたくさんの命がかかっていることを認識し、その全てが大切だと知った。
龍に勝てる策が全く思いつかなくて、ようやく俺は、迫り来る街の滅びの未来を迎えたくないと思った。
「この街を救う為の作戦を考えないとね」
「救いたい。けど、手が足りない」
思いつけない。例え戦闘機を飛ばせようが、ミサイルを撃てようが、物理障壁の前には無力なのだ。問題があるとすれば、魔法の側。策も何もなしにシオンが魔法剣で突っ込む以外、思いつかない。だがそれは三分間耐えられたら負け、そして龍の身のこなしを見る限り、そうなる可能性の高い博打だった。
「全力尽くすのなら、やっぱり互いに情報共有した方がいいんじゃないの?」
「魔法の手を増やして飛ぶって言いたいんだろ。それも、考えたんだ」
仁は自由に飛べない。刻印一つに刻める魔力の量には制限がある。いや、それは違う箇所に複数刻めば解決できるから良いとしよう。問題はシオンと同じ時間制限と、彼女とは違う弱さだ。
「数個に分けて刻んでも、飛べるのは数分くらいが限度。そして俺が飛んだところで何にもならない」
仁は障壁も使えず、空中での戦闘なんてしたこともなく、地上での身のこなし自体も大したことはない。
「近づこうにも障壁がない時点で炎の餌食、いや、俺が飛んでも戦闘機の攻撃が当たってしまうから、択を狭めてしまう」
シオンと戦闘機で、魔法と物理の択を迫る。それができるのは偏にシオンの物理障壁があり、爆撃の中を無傷で近づくことができるからだ。シオンが近接で魔法剣、戦闘機で中距離から攻撃の構図を作る事ができるからだ。
刻印の刻まれた物にのみ作用する性質から、中遠距離だと攻撃は届かず、消去法的に仁も近くで戦わざるをえない。しかし、そうすれば戦闘機の攻撃が仁に当たるのだ。わざわざ飛んで死にに行くなんて、夏の虫なんかよりも酷い。
「もし俺が刻印の事を軍に話しても、これは変わらない」
魔法のど素人がごく短時間空を飛んでも、戦闘機にとって巻き込んではならない邪魔な的が増えるだけ。
「欲しいのは、障壁が使えて長い時間空を飛べる人間なんだ」
「そらいないね。条件に一致するのは敵方じゃないか」
あの龍に物理と魔法の択を迫るなら、龍の攻撃を全て防ぐことができる物理障壁を持つ、何分も浮遊できる魔力の持ち主が必要。そんなの、シオン以外には無いものねだりで、無いなら作ろうと考えても、答えは出ない。
「けど、答えが出ないのは俺一人の考えだからだ」
「僕もそこに追加しておくれ。何にも思いつかない。でも、まだ頭はたくさん残ってるよね」
考えて考えて、ダメなのは仁のみだ。他の人間に同じだけの知識と問題を与えれば、仁の『無理』とは違う答えが出せるかもしれない。他の考える頭を持つ人間なんてたくさんいる。柊なら、情報を渡せばすごい作戦を思いつくかもしれない。
「例えそうでなくても、お互いに意見し合えば変わるかもしれない」
「周り、もう一度信じて頼ってみる?」
「……生き残る為には、そうせざるを得ないと思った。この街から出て一人で生きていけるとは思えない。つまらない意地張ってる場合じゃない」
一人では、この戦いに絶対勝てない。一人では、この先絶対生き残れない。裏切る裏切られる以前の問題として、誰も信じなかったら、仁は死ぬだろう。故に、信じる。
「あの人達は悪い人じゃない。俺の見たあの人らを、信じてみる」
この二週間で、彼らの人柄はだいたい分かった。この街の為なら裏切るような人間もいるが、それでも良い人ばかりだ。もちろん、負の部分も見た。だが、それは大切な何かを守る為で、仁を傷つけようと思って向けられたものではない。
彼らは彼らなりに、仁を信じていた。裏切っていたのは、仁の方だった。
「だから怖いし、恥ずかしいけど、言わなきゃならない。それが、生き残るのに最善だから」
生き残る為に吐いた嘘で死ぬのなら、いっそのこと生き残る為に真実をバラそう。例え嫌われ、蔑まれ、憎まれようと、死ぬよりはいい。ここでもまた、自分本位な理由。
「それに昨日襲撃されて、今朝あの夢を見て、分かったんだ。俺はこの街、嫌いじゃないって、こと」
そして、この街やここに生きる人を、仁は存外好きになっていたらしい。騙し続けるのを辛く感じ、助ける為に少しくらいなら、危険を背負っても良いと感じるくらいには。例え嫌われてでも、救おうと思うくらいには。
「やっとすぎて遅いよ。手遅れだったらどうするのさ」
「……それは、本気で謝る」
「ま、教えたところで劇的に変わってた、かって言われたら怪しいんだけどさ」
許してもらえるなんて思わない。仁がしたのは他者を見殺しにした行為だから。初めて会った時に真実を言うべきだったから。
「罰、受けなきゃ。シオン、信じてくれて、ありがとう」
火傷にガーゼを被せられ、顔の三割が隠された少女に仁は礼を言って、医務室を抜け出した。
「ああ、怖いね」
司令室の前で、未だかつて無い種類の緊張を解す為に深呼吸。怒られるだけで済めば上々、この場で殺されても文句は言えないことを、仁はしたのだから。
「ん、入れ」
「失礼します」
ノックの後、入室を促されドアノブに手をかける。未だかつてない冷たさと硬さに感じる金属を、仁は下へと押し下げて、一歩前へと踏み出した。
「気分はどうかね?」
相も変わらず書類と紙の匂いに埋め尽くされた部屋とその中心の柊に、また息が詰まった。
「悪くはないです」
体調を気遣うような問い掛け。仁の事を心配しての言葉に嘘で答えたが、本音を言えば吐き気で倒れてしまいそうだった。それも僕に顔の筋肉の主導権を渡すことで、笑顔を取り繕ってなんとか誤魔化す。
「上々。さて、極秘で話したいことがあるとな?安心しろ。人払いはしてある」
「お気遣い、感謝します」
事後処理に忙しいであろう柊に、無理に頼んで時間を用意してもらった。本来なら今頃被害を調べ、対策に駆け回っていたであろうに。
「私が今行っていたはずのことより、価値のあることだと嬉しいな」
だがこれは、それ以上に重要なことで、そう簡単に他者に教えて良いものではない。
「しかも秘密とは、もしやシオンの容態が悪いのか?」
まず真っ先に司令が思いつく秘密は、やはりシオンの事だろう。貴重な魔法が使える人員、しかも英雄視されていた少女が死んだとなれば、その影響は計り知れない。
柊の心配は不正解であったが、英雄が死ぬという意味では、そう間違いではないだろう。
二人にしか使えないと思われていた魔法が、実は全員に使えました。これが今の街でどれだけ重要なことかは、仁にだって分かる。いきなり全員に流布でもしたら、混乱は免れない。
「まだ目は覚まさないけど、悪くはないらしいです」
「それとは別のお話があってきました」
故に仁は街の最高権力者にして、人の支配に確かな手腕を持つ彼に、最初に報告する事にした。
「極秘で私にだけとなれば、作戦の内容が捨て駒といった感じか?」
「それならまだ、よかったかもしれないです」
「どういうことだ?いや、すまない。早まったな」
座っている柊と立っている仁の視線が、疑問と自虐で交わった。命を捨てる作戦よりも悪いとは如何にと、彼は珍しく驚きの色を見せる。
悪い事だろう。命を捨てて日本人を救う作戦より、たくんの命を見殺しにして仁一人を救っていた作戦の方が。
「説明、してもらおうか」
「はい」
一層鋭くなった目線が、怯える心の更に深きを射抜いてきた。
詮索、疑問、不安、思案。様々な感情が混ざった彼のその目に宿る色。そしてその中で確かに見える、仁への信頼。
(言わなきゃ、ね)
怖かった。僕の言う通り、説明しなくてはいけないことは百も承知。だが、それ以上に言いたくない気持ちが混ざっていた。
「あ……う……」
喉から言葉が出てこなかった。言わなければ、言おうとしても、心がそれをどこかで拒んでいた。
嫌われ、たくなかった。
やっと出会えた仲間。見知らぬ人の為にさえ、自らの命を死地へと放る。まるで、仁を拾ってくれた少女のような優しさと心の強さを持った人達。避け続けてきた仁に温かく接し、裏切られて疑心暗鬼となっていていた心を溶かしてくれた人達。
笑みが恨みに変わるのを、見たくなかった。
こんな傷だらけで嘘まみれの自分にさえ、笑顔を向けてくれる、笑顔にしてくれる人達。
「どうした?大丈夫か?」
ほら、目の前の机に肘をついた彼だって。冷酷な独裁者を気取ったりしていながら、こんなに優しくて、信じてくれている。
彼らに好かれていたかった。優しさが欲しかった。信頼が欲しかった。仲間が、欲しかった。
「その!」
ならば、なればこそ、言わねばならない。嫌われたくない程、笑顔を向けていて欲しい程、好かれていたい程、優しさを強請る程、信頼を欲する程、仲間だと思われたい程、彼らが好きならば、言わねばならない。彼らに嫌われてでも、彼らが生きてもらう為に。
死んでも、告白しても、彼らの優しさも信頼も笑顔も何もかもが無くなるだろう。それならどちらがいいかなんて、明白だ。
(言えよ俺。こんなクズ、好かれる資格なんて、ないだろ)
仁は人を信じなかった、助けなかった、見殺しにした。そんな俺が何を望むか。友?信頼?仲間?優しさ?それとも愛?
(笑わせるな。そういうもの全てを、俺は裏切ってきた)
優しさを願う資格なんて、欺き、騙し続けた仁にはないのだから。
胸に当てた手を握り締め、皮膚の細胞を幾億か殺した痛みで決意を整える。
(せめて、彼が少しでも生き残れるように、言うんだ)
好きならば、大切ならば、生きていて欲しいならば、言え。真実を、吐いていた嘘の真相を、己の罪を。
視界が揺れる。歯は怯えにカチカチと震え、血の気が引いていき、動機は壊れんばかりに上がっていく。汗がたらりと首筋を舐めあげ、呼吸は必要以上に肺へと空気を送り込んでいく。全身が、恐怖している。今まで浴びていた歓声が、罵声へと変わる事を。向けられていた笑顔が、怨嗟に変わる事を。
全身も、脳もやめろと叫ぶ。だが、二人の心は言えと叫んでいた。
「大切なお話です」
(がんばれ。俺君)
身体の異常は全て、僕が引き受けてくれたのだろう。おかしいことは分かるのに、思考はいつも通り、憎たらしい程に良好だった。言えば、どうなるのかを分かるくらいに。言わなければ、どうなってしまうのかが分かるくらいに。
これ以上、後悔をしたくないのなら。大切な人達の命を失いたくないのなら。
信頼を失うしか、なかった。
膝を折り、少し埃の落ちている床へと頭をこすりつける。地面ばかりが映る視界を閉じ、真っ暗な闇の横を涙が一つ、零れ落ち。
「ごめん、なさい」
最後に後悔の涙を流して、仁は過ちを謝った。
「俺や、シオン以外でも、魔法は、使えます。隠してて、ごめんなさい……!」
ようやく言えた。ついに言ってしまった。たった一つの今の行動に、解放と後悔の相反する二つの感情が仁の心でせめぎ合う。
「は……?」
一度出た言葉の後戻りはできず、今まで仁が吐いてきた嘘が、そして真実が柊へと伝わった。
「なんて、言った?」
土下座をした仁には今、柊がどんな顔をしているのかは見えない。ただ、彼が動揺し、驚愕に襲われていることは声から理解できた。
「頭を上げろ。説明をしろ。一からだ」
カツカツと靴の鳴る音が耳に届き、顔を上げた少年の首元が掴まれた。服が千切れそうになる姿勢で、苦しい息と一緒に事情を全て話し出す。
「まず柊さんも、俺に対して違和感を持っていたはずです」
シオンに比べて使える魔法と魔力の少なさ、自身の身体近くにしか発生させることの出来ない制限。
「おかしいとは、思っていた」
それら全てを才能だと、騙し続けていた。そして彼は仁を、仁の言葉を信じていた。
「身体に刻まれていた補助の刻印とやらで、全ての者は魔法が使えるわけだな?そしておまえはやはり、純粋な日本人。異世界など行ったこともない!」
「そう、です」
持ち前の洞察力で、言わずとも全てを言い当てられた。知らぬが故に、仁とシオンを信じてしまったが故に、聡明でお人好しな彼は騙されていた。多少のおかしさは感じつつも、信じてくれていた。
「シオンは本物、おまえは偽物」
その可能性だけは、やはり彼の頭の中にあったのだろう。シオンは本当に日本の常識を知らず、仁は異世界の魔法以外の知識に疎かった。異世界の知識なんて、確かめる術がないから、彼らは嘘を見抜けなかった。
「かはっ」
一つ一つと事実を知る度に強まる力と彼の感情に比例するよう、仁の苦しみも増していく。
「シオン程の自由度はなくとも、貴様が言えば使えたのだな?死ぬ人間は、少しでも減ったはずだったのだな!」
もう一度、強まる首への力。それは、死なせてしまった者達への無念から来る、仁を責め立てる怒り。
「はい!俺が、隠さなければ、シオンはみんなに刻んでいたはずです……」
魔法が使えれば、日頃の狩りでの犠牲は何十分の一までに減らせただろう。それどころか成果を倍にし、もっと多くの人々に食料を届けられたことだろう。仁があそこで騙そうなどとしなければ、笑顔はもっとこの街にあったことだろう。
「あいつも、共犯か」
仁だけではなくシオンにまで騙されていた。その事実に怒りを通り越したのか、柊の手が緩み、仁は呼吸の苦しみからだけ解放された。
「それは、少し違います。シオンは、ずっと言おうとしてました」
肺が新しい空気を必死に取り込もうとし、以前心の苦しみが続くまま、柊の言葉に訂正を加える。仁の事はいくら貶められようが責められようが構わない。事実であり、受けるべき罰だからだ。
「俺が弱みを突いて、黙らせてました」
「だから貴様らは衝突していたのか」
だが彼女は違う。きっと軍に何度も伝えようとしたし、仁を説得しようと試みてもいた。魔法を教えない代わりに、身を粉にして働いていた。
「俺は、シオンと違って弱いです。何度も裏切られて、殺されかけて、殺して、ここにいます」
「続けろ」
柊は視線を1㎜足りとも逸らさず、独白を続ける仁の話に耳を傾ける。
裏切られて、裏切られて、人はみんな信じてはいけないと思って、自らも誰かを裏切った。信じて命を預けた相手に、もう裏切られたくはなかったから、最初から信じようとしなかった。
「独裁をしていると聞いた時、カメラと盗聴器を仕掛けられた時、俺はこの組織を信じてはいけないのではないかと、思ってしまいました」
「それで、嘘をついた」
あの時の仁は、イザベラに裏切られて人間不信だった。高くなっていた信じるハードルに、カメラと盗聴器は決定的すぎた。自分を信じていない相手を、どう信じればいいと仁は思ってしまった。
「あれがなければなんて、言いません。俺だって、司令の立場ならこんな怪しい二人組、疑いますから」
信じなかったのも刻印のことを隠したのも軍のせいなどと、責任を押し付けるつもりは無い。騙していた俺が悪かったし、あの対応は仁とシオンという異物の敵味方の判別に必要なものだった。
ただ、ただ事実としてタイミングが悪かった。
「嘘の意味はなんだ?それが分からない」
「俺が、生き残る為、です」
柊は分からないと言ったのは、吐いた嘘で信頼を死なせてまで生まれた、価値のある意味のこと。それは非常にシンプルな、仁の目的の為。
「なぜ、そうなる?むしろ戦力が減って……そういうことか。貴様、自分とシオンだけを唯二の存在にするつもりだったな?この街なんか、助ける気はなかったと言うわけだな?」
他の者を捨て、己だけを優先させようとした俺の浅ましい策を、柊は仁の心境に立つことで当ててみせた。この街を大事にするのなら、魔法のことを皆に伝えるはずだから。伝えなかったのは、この街のことを守ろうとしなかったから。
「……確かに、確かにあの時、貴様らを疑ったのは失敗だったのかもしれん。全てを失う覚悟で完全に信じ、両手を上げて迎え入れるべきだったのかもしれん」
もう一度襟元を掴まれ、顔を上げられる。直視した柊の顔は、握り締められた紙のごとく、怒りと涙に歪んでいた。
彼も、後悔していた。あの選択は間違いだったのか、ああしなければ、仁が嘘を吐いていなかった未来があったのではないかと。事実、軍が本当に綺麗な組織で、仁達を疑わなければ、その未来の可能性はあった。
「しかしだ。貴様が、貴様が魔法を使えると広めれば、助かった命がいくつもあった」
「そう、ですね」
だが、その未来は無かった。あるのは、助けられたのに救えなかった命が、骸の山を築いた今のみ。嘘がバレた今、目の前の柊の流す涙の意味は、きっとそれだ。
「その命全てを、貴様が殺したということを忘れるな」
仁が嘘を吐いてしまったから、見殺しにされた人々の事。目の前の柊の怒りの意味は、きっとそれだ。
「俺だけに、話したのは正しい判断だ」
ぎりりと首が彼の手によって絞められて呼吸が止まって十の後に放された。仁とは違って、柊は戦力となる人物を、ただ感情に任せて捨てるような人間ではない。仁のように、己だけを優先させたりはしない。
「今回の龍を堕とす時、魔法を使っていいのは貴様とシオンだけだ。それ以外が魔法を使う策は、本当の最後の手段とする」
「えっ。どう、して?」
床で噎せ返る仁に、もう元の無表情に戻った柊から投げかけられたのは、ここに来た本来の意味を無くすような制限だった。
「分からないのか!」
理解の追い付かない仁に、柊は今までに無い程声を荒げる。
「貴様は魔法が使える数少ない存在となる為に嘘を吐いた。そして実に!その通りに!事は進んだ」
仁の狙い。何事においても優先される為に、貴重な替の効かない存在となる為に、刻印のことを隠し、さも自分とシオンしか魔法が使えないかのように振る舞った。
「民衆は貴様らだけが、魔法を使えると思い込んでいる。あの異世界人共を打ち破ったおまえらに、希望を見ている!」
「……あ、えっと」
魔法の使えない日本人は、異世界人の障壁を前に一方的に虐殺されるしかなかった。そんな中、壁の外で何ヶ月か過ごしたと言う少年と少女が現れ、決して勝てないと思っていた相手を無力化し、街を救った。
「人々は貴様らを英雄だと信じ込んでいる!ああ、俺もそうなるように必死に手回しをした!だがそれでも!それに足る、呼ばれるに足る行いをおまえらはしたんだ!」
何とも英雄的な行いで、それは本来褒められるべきもの。だが、それがいけなかった。柊が軍の求心力を高める為に宣伝したのもあるだろうが、瞬く間に仁とシオンは英雄のように迎えられた。
「あの時の我らの気持ちを、希望を、貴様には分かるか!分からないだろうな!裏切っていたんだから!」
あの後、二人が受けた歓迎ぶりはすごいものだった。屋台の料金はただにされる、配給に色をつけられる、街を歩いていたら礼を言われたこともある。とはいえ。すぐにシオンの方が強いことが知れ渡り、仁はオマケと化したとけれど。
(僕らは、さながら本当に勇者か希望みたいに見えんだろうね)
それでも、例え仁が弱いことを知っても、礼を言ってくれる人々はいた。みんな、もしかしたらなんとかなるかもしれないと、暗い絶望にいたからこそ、小さな二人の希望という、熱い熱にあてられていた。
(こんな弱くて、人を騙していたやつだなんて知らずに)
希望は、絶望の中でこそ光る。小さくて、頼りなくて、縋るには余りにも弱々しい光でも、縋ってしまう。信じてしまえる程、大きく見えてしまう。
「俺も信じていた。軍の者も、一般人も、誰もかも、貴様らを信じていた。希望だと、英雄だと。その英雄が今まで騙していたなどと広まれば、それこそこの街は終わる!」
偶像が虚像だと、希望が嘘だと、英雄が偽物だと、勇者がメッキだと知った時の一般人の気持ちは、如何なるものだろうか。
期待するのが仁とシオンしかいなかったが故に、全ての期待は二人へと向けられていた。二人にしか異世界人を倒せなかったが故に、全ての感謝は二人へと向けられていた。その期待と感謝を軍は取り込み、独裁への不満を誤魔化してきた。
今まで向けられた期待と感謝と同じだけ、不満が爆発するのならば、この街はどうなるか。
「反乱が、起きるのですか?」
「ああそうだ!それくらいは、分からなかったのか?なぜあの時、言わなかった!」
今考えれば、分かる。軍が魔法を独占しようとしたのではないかとでもあらぬ疑いを、反軍派の人間が少しでも流せばどうなるのか。
「少しでもこの噂が流れれば、終わりだ」
裏切られたと感じ、日頃から軍に不満を持つ市民達は容易く立ち上がる。独裁を、秩序を保つ為に権力を振りかざしている軍を倒さんと。
「奴らは熱にあてられやすい。英雄を気取り、悪役である軍に歯向かってくるだろう!それが滅びへと一直線に繋がる道だとも知らずに!戦って誰が笑うと思う?」
銃で武装した少数の勢力と、鈍器や刃物で武装した大多数の勢力。ぶつかったとして、どちらが勝つ?立場を守ろうとし、純粋に秩序を守ろうとする軍か?それとも義憤にかられ、悪を倒そうとする民衆か?
「答えは誰も笑わない、だ。こんな狭い壁の中で争い、大多数の死人が出れば!銃や弾の生産は追いつかない!軍人がいなくなれば、魔物達を間引くことすらまともにできなくなる!」
そこに勝者などいやしないのだ。不満が限界に達し、大規模な争いがこの街で起これば、それは本当の終焉を意味する。今までは柊が手腕で、仁とシオンが来てからは二人が不満の蓋として作用させていた。その蓋が取れれば、中が溢れ出すのは当然といえよう。
「奴らは今を、自分が生きることに必死だ!周りを見ずに己だけが生きようとすれば、必ず終わりへと向かうとも知らずに!現に今、『魔女』の身柄を渡せと言う奴らの対応に追われている!その中にはおまえも渡してやれと言う奴だっている!」
(耳が痛いね。己だけ生きようとして他者を見捨てたやつなんて、まるで僕らじゃないか)
あの化け物には敵わない、そう思い、シオンに助けられた恩を忘れ、龍の要求に従おうとする人間は、昨日の男以外にもたくさんいるのだろう。
「俺はともかく、シオンはダメです。シオンさえいれば何度でも何人でも、刻印を付与することができます」
「やはりか。シオンを渡せば。我らは障壁に対する術を失い、滅びは確実となる」
シオンを渡してしまえば、物理障壁を使う相手への抵抗手段が皆無となってしまう。そこにはシオンを渡せば手を出さないと言った、あの龍も含まれている。なぜか。手を出さない約束が嘘だったら、という話なだけだ。
「今はなんとか、シオンを失えばこれからの戦いが困難となると言って生贄にするのは待たせているが、果たしていつまでもつか……!」
今をなんとか乗り越えようとする民達を、乗り越えた先の未来が無くては意味がないと柊は抑えつけていた。救われた恩と未だ残る英雄への信頼で、なんとか繋いでいたのだ。
「決して、この嘘は明るみに出てはならない。英雄が偽物であったと、『勇者』が嘘というメッキで塗り固められたものだと、知られてはならない」
だが、仮に全てが明るみに出れば、信頼はすぐに地に堕ちる。それこそ、大多数の人間がシオンを差し出すことになんの反対もしなくなるように。そうなったら終わりだ。例えシオンが抵抗して無事であっても、人間は自らの争いで滅び去る。
「それは、これからも俺とシオンの二人だけが魔法を使うようにと?」
「それが望みだったのだろう?と言いたいが、考えはある。龍退治が終わった後、貴様らは仲直りし、魔法の開発をしているように振る舞え。頃合いを見て刻印を新しく開発したと発表する」
「嘘を、吐き続けるってことですか」
これ以上大切な人に嘘を吐きたくはない愚か者の問いに、柊は嘘を吐いたまま隠したものを広めると答えた。
二人だけしか魔法が使えないのもまた、魔法を広めるより滅びに近い。どちらもシオンが死ねば終わるということは変わらねど、彼女を守る兵力が段違いだ。
「いいな?シオンを渡さない為に、反乱を防ぐ為に、この街を守る為に、嘘を吐き通せ」
「……はい」
真実を言いに来たというのに、あの龍を倒す為に情報を明かしたと言うのに、みんなを騙すのが辛くて告白したと言うのに、その全てを柊は許さなかった。
(言えないのは、逆に辛いね。だからこそ、なんだろうけど)
二人しか使えない魔法で危機から何度も街を救い、それどころか他の者にまで魔法が使える術をもたらした者達。外から見た二人は、本当に英雄だ。
そう見せる為には、吐いた嘘を吐き続けねばならない。喧嘩してることが周囲に知れている中で一体いつ開発したのかと怪しまれないよう、龍を殺すのに二人以外が魔法を使ってはならない。
「空っぽでも何でもいい。外面は英雄であり続けろ。嘘で塗り固めたメッキの『勇者』であり続けろ。信じる者達を騙し続けろ。裏切った貴様に向けられる、知らぬ者達からの賞賛と感謝が貴様への罰だ」
「……受け、ます」
そして英雄で、『勇者』であり続けねばならない。無知なる者達からの、守りたい人達からの、裏切っている人達からの、感謝と賞賛の風雨に死ぬまで晒され続けなければならない。それが、人を殺すような嘘を吐き、罪悪感に耐えかねて吐露した仁への罰。
「一時間後に会議室であの龍への対策を練る。そこに貴様も、目覚めて動けそうならシオンも参加させろ。分かったら出て行け」
「失礼、しました」
顔を押さえた柊の言葉に、仁は従うしかなかった。きっと彼は泣いていたのだろうが、その原因は自分だったのだから。
「痛かったね」
「ああ」
扉を閉め、一人の空間に立った仁は呟き合う。
首を絞められた時が、一番痛かった。いや、今この瞬間も同じだけ痛かった。今まで散々と刻まれた傷なんかより、ずっとずっと痛くて、治癒魔法なんて効くわけもなくて、時が治すわけでもない。そんな傷だった。
「けど、これは受けて当然だ」
廊下に出た仁の耳に、何かが壊れた音が聞こえた。現実で壊れたのは物だったに違いない。だが、決して壊してはならない何かが、壊れたのも違いなかった。
『一般人の暮らし』
冷たい夜に凍え、何も食べれない夜に耐えて震える。ただ生きているだけの尸達。
基本的に収入はなく、生活のほとんどを配給に頼って暮らしている。中には特異な技術を活かして店を経営する者もいるが、そういった例外を除けば、大半が働く場所もないので飢えをじっと耐えていたり、瓦礫の山などから価値のありそうなものを掘り出そうとして一日を過ごす。
道の上にゴミはほとんど転がっておらず、雑草が生えていることも少ない。紙切れは何枚も重ねて羽織れば寒さをしのげるし、空き缶も雨水を貯められる。雑草だって大半が食べられる。もし残っていたら、毒があるか疑うべきである。
時たま軍が瓦礫の撤去や、建築の仕事を呼びかける事がある。対価として食料や入浴券、色街優待券などが手に入る為、体力のある者は奮って参加する。しかし中には無理に参加して倒れ、そのまま死んでいく者も多数存在する。
軍が所有する兵器工場の従業員、五つ子亭や串焼き屋のような料理店など、手に職を持っているのはほんの一部だけで、成功を収めている者は更に一握りである。
医療を満足に受けられることはかなり珍しい。医者の大半が魔物の狩りで怪我をした軍人や、病気になった軍人で手一杯である。この街で一般人が病気になるということは、ほぼ死と同義である。
食生活は硬いオークの肉や干し肉、雑草、薄い水のようなスープくらいである。スープは軍が配布する出し用の動物の骨を、焚き火などで温めた雨水などに混ぜたもの。
正直配給の量は「軍に入らなければ死ね」と言っているような者で、大半が本当になんとか生きているという者が大半。
裕福な暮らしを送る軍人を恨むのも仕方がないほど、差があった。




