第50話 風呂と太陽
「……いないか」
「当たり前だよ。これも君の選んだ道なんだから」
仁が起きた時、シオンが願い出た彼女の別室は既にもぬけの殻だった。燃えて消えたあの家の時は、彼女がいつも早起きして起こしに来てくれたというのに。
「別に、俺は」
「いつまでも意地張ってて見苦しい。まぁ本心からそう思ってるなら、更に酷いね」
「やたら突っかかるな」
「生き残るには君の道が最善だとは思うけど、理解と納得は別物。けど、強情すぎる君と喧嘩なんかしたら、この身体まともに動かなくなっちゃうよ」
彼女が部屋にいない事を確認してから、自室へと戻る。気分を変えようと顔を洗う目に映るのは、鏡の中の不満そうなもう一人の自分。僕だって俺の道には反対なのだろう。意識と身体が半分しか動かせなくならないように、折れてくれているだけ。
「知ってるでしょ。俺君と僕が違う事をしようとしたら、この身体が止まるかおかしな動きをするかってこと。僕としてはとっととシオンに稽古つけてもらいたいの」
「あんな空気で頼めるわけないだろ。俺らだって暇じゃない」
「シオンのが引っ張りだこだよ。軍のみんなから可愛がられてるし、君は影薄いね」
あの喧嘩から、既に二週間もの平和な日が経っている。その間、仁は強情に軍を信じない態度を貫き通し、シオンは軍のメンバーとの訓練や狩りに出かけ続けていた。一応、仁もその全てにくっついて回っているのだが、
「僕らの貢献度、シオンに比べたらゴミみたいなもんだからねえ」
「障壁も使えないし、弱いし、しょうがないだろ。そんなすぐに強くなるわけないんだから」
立ち位置は完全にシオンのおまけである。軍の新人に格闘術を教える時も、やはりシオンの方が上手い。狩りの時だって仁がオークを二頭仕留める間に、シオンは群れを仕留めて歓声をもらっている。才能と積み上げたものが違いすぎた。
彼女の功績は凄まじい。シオンが来てから狩りでの死者が激減、収穫も倍増、おまけに弾丸などの資源も大幅に削減と、あの鉄面皮の柊でさえ笑顔を見せるほどの活躍だった。
「それに関しちゃ仕方ないのは分かるけどさ。でも弱いって思うなら強くしてもらわないと」
「シオンはもう訓練に行ったんだ。俺らも行くぞ」
「……はぁ」
人はそう簡単には変わらない。武としての強さも、心としての強さも。そう言い聞かせた嘘吐きは、振られているのに離れられないヒモ男のように、彼女のいる場所へと向かう。
それは彼女が裏切って、嘘をバラさないか見張る為だった。
銃声飛び交う訓練場を、ただ一人の少女が駆け抜けていく。彼女の剣が弾丸を斬り、腕が身体の中心から離れたその一瞬を狙って、新人は引き金を引いた。
「今のは惜しいわ!相手の次に動く場所と剣の軌道を読んでた!」
「は、はい!」
間一髪。シオンが創成した氷の剣が銃弾を受け流し、美しい黒髪を掠めて空へと飛んでいく。彼女にしては珍しい、掛け値なしの賞賛であった。
「これが日課だってよ俺君。追いつける気する?」
「しない」
数個の銃口の向きから大方の弾の軌道を予測し、銃弾を躱し、時には剣で撃ち墜としと人間業ではないことを、彼女は平然とした顔でやってのける。もちろん全ての弾が防げるわけではないが、どちらにしろ障壁に阻まれて彼女には届かない。
「強化は使えても障壁が使えない人はいっぱいいるの。私に安定して当てられれば、その人達には勝てるわ」
それでもこの訓練を行う理由は、障壁を使わない異世界人との対人想定である。少量ながら量産が出来るようになった粗悪品でも、シオン達の世界より高性能な日本の銃ならば、これだけで彼らに勝つ事は可能だ。
シオン達の世界で銃はそこまで発展していない。物理障壁と魔法が、銃の存在意義を大きく奪ってしまったせいだ。
「シオンは強化を使う相手に当てれるようになれって言っているけど」
「……強化している相手に当てるのが、まず読みと運ゲーなんだよな」
自分の何倍もの速さで動く意思を持った相手に、照準をしっかり合わせる事などほぼ不可能だ。合わせたと思った時には、既に違う場所に相手がいるのが常。場合によってはこちらが斬られている。ならばこちらも強化の恩恵も受けれて尚且つ、物理と魔法両方の剣でぶった斬るスタイルが異世界では定着したのだ。
「騎士ってのは障壁が使えないとなれないって、聞いた」
物理障壁を展開している相手にいくら銃を撃とうと、全てが無駄弾。一応、魔法と絡めれば物理障壁の固定をそれなりに強いる事ができる。実際、シオンの世界にはそういう銃と魔法の使い手も、少ないだけでいたにはいたらしいのだ。
しかし、魔法の使えない日本人にこの戦法は取れない。
「にしてもまぁ、誰かさんのせいで焼け石に水だよねこれ」
「黙れ」
この訓練は一般人との戦いを想定してのもの。騎士じゃない。しないよりはマシではあるが、正直物理障壁を前に効果があるのかは疑わしい。仁が刻印を明かせば話は変わるが。
「ちっ、また詰まった!」
「……現状、無駄弾撃たされているようにしか見えないな」
「無駄弾どころか無駄銃だよアレ」
一人の兵士の銃が詰まり、その隙にシオンが彼の首に剣を突きつけた。手入れを怠っていなければ弾詰まりはそう起こるものではないのだが、そこはろくな技術もない滅びかけの日本が造った粗悪品。弾の質も良くない為、数十発に一回と酷い割合で起こる。それより低い確率ではあるが、暴発することもあるのだ。
「確かにあんな性能なら、確実性の高い剣が流行るわけだわ」
一応、詰まったまま壊れた銃などは再び溶かしてリサイクルするため、資源的な意味ではそう無駄ではない。しかし、戦場であれだけ大きな隙を見せるのは、やはり致命的である。シオン達の世界の銃がこれと同レベルかそれ以下だったなら、廃るのも頷ける。
「魔法弾って夢のある奴もあったらしいが」
金属を特殊加工したり、とてつもなく頑丈な弾丸の形をした石を土魔法で作ったり、魔法判定の弾もあるにはあったらしい。
「なんだっけ?シオン達の世界の銃では、半分以上の確率で弾づまりだっけ?それなら普通に魔法で弾丸を飛ばすって話になるよね」
「おまけに加工は金と手間と時間がかかる、土魔法での弾丸作成に至っては消費魔力が桁違い、しかも長時間の集中が必要だとか」
戦場で土から銃弾を錬成し、銃に込めて撃ち出す。なんともロマン溢れる戦い方だが、その一発の錬成に数時間はかかり、シオンの魔力量でも一日に三発が限度などやってられるものでは無い。
「でも、僕らにとってはよく詰まる銃でも脅威だよ」
「俺らだったらハチの巣だ」
しかし、やはり銃は障壁の使えない者や魔物に対しては有効である。障壁の使えない仁は、この訓練に参加することすら出来ない。
ちなみに1対1で、相手がアサルトライフル等の連射できる銃でもない限り、シオンは銃弾を剣のみでほぼ弾けるらしい。相も変わらず恐ろしいまでの冴えだ。
「あなた達はこの辺にしておきましょう。他の人もいるし」
「は、はい。全然、障壁にさえ当たらなかったです」
「しょうがないわ。アサルトライフル?と狙撃銃でもない限り、難しいわね」
銃の種類によっては、シオンでさえ驚異と感じる物は多々ある。そのどれもが弾も含めてまともな物を量産できず貴重品、詰まらせて壊して実践で使える本数が減るのは良くないと、訓練には使われていない。
「あの数はさすがに剣では対処できないわ。不意か魔法障壁をつけばほとんど殺せると思う」
騎士に通じるのは先も述べたアサルトライフルのように、強化した速度で追いつかないほど連射が効く銃だ。魔法障壁を張っている間に撃たれれば、シオンでも危ないらしい。一応、土魔法で壁を作るなど、防ぐ方法自体はあるにはある。
「こっちの、ライフルでいいのかしら?これは一番怖いわ。気づかない間に殺せるなんて、恐ろしすぎるくらい。惜しむらくは数がないのと、最初の一発以降は警戒されてしまうこと、後、接近戦に極端に弱いことかしら」
遠距離から狙撃のできる銃も、障壁が使える相手に非常に有効だ。魔力消費の大きい障壁を24時間常時張れる存在など、『魔女』か『魔神』や伝説の中くらいしかいない。
しかし、まともに動くライフルは三つしかない故に無駄にできず、元から技術を持つ者だけが偶に訓練する方針となっている。
「それ以外……その量産されてる連射もできない銃で私に安定して当てようと思うと、相当な技術がいるわね。私の剣くらいの」
「じ、銃弾弾く剣技と同レベルはおかしいというか、化け物でもないと」
「そう。じゃ、他の訓練頑張ってね!はい!次の人達。かかってきなさい!」
(今、化け物って言われて傷ついたね)
化け物と呼ばれてうな垂れた少女と、軍の積み上げた技術の差の幅は広い。何より、魔法の存在が大きすぎる。やはり魔法が使えるようになれば、今よりはいい勝負はできるようになるだろう。
「なにせ動体視力だとか反射神経だとか、瞬間的な思考速度まで強化されるんだからね。強いったらありゃしないさ」
「黙れ。もう二週間だぞ?バレたらどうなるか。嘘は嘘でないと意味がないって、何度言ったら分かるんだ」
動体視力が向上すれば照準も合わせやすくなるだろうし、物理以外の択が取れれば障壁を固定する意味も出てくる。教えれば?と嫌味ったらしく笑う僕に、もう遅いと返す。
「ま、今のところ襲撃らしい襲撃もないしね。それでも、狩りの時の犠牲者を減らせるとは思わないかい?」
「……」
この二週間、柊や堅が懸念していたことである、生きて返した異世界人の襲撃はなかった。それどころかこの街は騎士に見つかることも、大きな魔物に襲われることもなく、順調に資源を消費し、緩やかな滅びへの道を進んでいた。
「どっちにしろ滅ぶんだ。ここを救っても意味がない」
「全く君らしくない。言いたきゃ言えば?みんないい人ばかりでしょ?」
「バカ言うな。いい面ばかりの人間がいるわけなくて、あれだけの組織を汚いことをせずに支配できるわけないだろ」
シオンに待つと言われたあの日以来、仁はできる限り軍の人間との接触を避けてきた。避けてきてなお、彼らが悪人ではないことがよく分かるほど、みんないい人ばかりだった。堅と桃田と蓮はよく食事に誘ってくれるし、酔馬はよくいじられてる。シオンも環菜と楓とよく出かけているようだ。
だが、いい奴だからと言って信じていいわけではない。いくらいい人間でも、命が関わるような嘘で騙されたことに喜び、笑って許すことなどあり得ないのだから。
そして、いい奴が綺麗事の為に汚いことをしていることは、よくあることなのだから。
「特に柊は危険だ」
「それに関しちゃ同意。あの人は鋭すぎるよ」
彼らの誘いを断らず、取り入ることも考えた。しかし深く付き合えば、それだけボロが出る可能性が増えてしまう。
荒れ果てた日本を武力でまとめ上げ、民を支配する男。守る為の行いとはいえ、並大抵のことではない。それを成し遂げた者が仁の秘密に何も勘付かない、というの楽観に過ぎるだろう。
「今は才能の差で誤魔化せてはいるけどね」
「やっぱり情報は最強の武器だ」
魔法の仕組みをシオンは仁の嘘により話せず、故に軍の魔法の知識はひどく少ない。仁に才能がなく、刻印に頼ることで発動している。そしてその刻印は魔力がないと使えないという嘘が、まだバレないくらいには。
「けど、シオンと僕らの魔法が違うことにすぐ気付いたのはヒヤッとしたよね」
だがそれでも、柊の知らないが故の推測は実に危ないところをついていた。シオンと仁の不仲もばれているようだし、やはり彼は侮ってはならない。
「見捨てる予定の人間に情なんて湧いて、決断が鈍ってみろ」
「いっそ、そうなったら決断しやすいんじゃない?」
それに、仁だって人間だ。例え見捨てることを決意し、騙し、欺いていても、彼らに情が湧くことは十分にあり得る。いや、もう湧きかけてしまっているのが現状だった。罪悪感と情、己の命の天秤が軍の方に傾かないように注意しなければなるまい。
「さっきも言ったろ。どうせここはもう無理だ」
「否定は、しないね」
二週間経って分かったことの一つ。この街は軍と平民とで歪ながらバランスをとってきたが、それは限界に達しかけているということ。
「民の不満がやばいことになってきてる。クーデターでも起こるかもしれないが」
「これ以上混乱したら、クーデターどころか僕ら自体が滅ぶよ」
軍に守られていると分からない人間達の声が水面下で大きくなっていること。反乱でも起きて強引に鎮静すれば、また軍のヘイトが溜まる。当然、反乱を抑えるのに資源も人手も割くことだろう。
「食糧だって、もう一刻の余裕もない」
「全部乗り切っても『魔女』『魔神』か」
食糧難で滅ぶか、内乱で滅ぶか、魔物で滅ぶか、騎士で滅ぶか、それとも魔女か魔神によって滅ぶか。どれも滅ぶ事に何の変わりもない。
「あまりにも状況が酷すぎて、例え信じても言える気にはなれないよ」
いい奴と分かっていても信じることはできず、例え信じても言える気にもなれず、仮に全てを話したとしてこの街が救えるわけもない。
これが仁が嘘を吐き続けた理由だった。
「うーむ、例え人類が滅ぶことは分かっていても、この場所だけは守る気にならないかい?」
「……ない」
「今間があったねこの子。ま、分かるよ。ここは極楽だしねえ」
カポーンと、どこからか鹿おどしの聞こえる温泉に、仁はぐったりと浸かっていた。世界は変わろうとも、お風呂の気持ち良さだけは絶対に変わらない。これぞ世の常、世界の真理である。
「ここ、かなり高いポイントないと入れない最上のお風呂らしいね」
「だから人がいないってわけだ」
僅かに硫黄が臭うでっかいお湯にたった一人で。なんとも素晴らしいことに、仁はこの温泉を独占していた。最近これと五つ子亭の料理だけが、シオンと喧嘩した彼の毎日の楽しみになってきている。
「……まぁ、この身体はそうそう見せていいもんじゃないしね」
人が少ないこの温泉を、わざわざ深夜に使う理由は独占したいからだけではない。他の人の精神衛生を考えると、この火傷塗れの身体と顔を見せるのはあまり良くはないからだ。
「独占楽しめるからいいんだけどさ。それにしても、めっちゃ幸運だと思わない?ここに温泉湧いてるなんて!」
「そして軍が整備して配給の欄に載せていることもだよ……抜かりないというか、なんというか」
旅の最中、もしできれば探そうなどと言っていた源泉がなんとこの地にあったらしい。風呂の気持ち良さを知っているのは軍も同じで、すぐさま整備し、入浴券を通貨代わりにしてしまった。仁は入浴券を配給所で見つけた瞬間、お姉さんがビビるほど速攻で引き換え、それから毎日全身綺麗になりまくっている。
「動物の脂で作った石鹸があるってのもいいよね。匂いはやっぱり負けるけど」
「それでも、綺麗になる」
動物性の脂から石鹸も作っているらしく、こちらも光の速さで引き換えを決意。しかし悲しいかな。動物性の油で作られたこの石鹸、あまりいい匂いはしなかった。とはいえさすがは石鹸。汚れを落とす役割はしっかりと果たしてくれる。
「本当、軍って抜け目ないよね」
「賢い。利益をがっちりとってる」
配給にこのような無形のものや、ほとんど使わない動物の脂から作ったものを載せる事で、資源が減るのを防いでいるのだろう。よく考えられている。
「ふぅ。ふやけるまで浸かろうかなぁ」
僕はもうしばらくだけと顔を湯の中に半分沈め、泡を出して遊ぶ。この時間、この最高級の風呂は本当に人がいない。はずなのだが、
「入ろぉー!ざっぱーん!ぬはははははははは!」
「れ、蓮さん。身体を洗ってからにしてくれ……」
仁の気を遣った独裁風呂政権は、入ってきた五人の男によって終わった。身体を洗わずに湯船に飛び込んだ熊は津波を引き起こして驚いた仁を流し、堅はため息をつきながら野生へと帰りそうな熊を注意する。
「そうっす……よおおおおおおおおおおおおおお!尻が割れたああああああああああ!」
「酔馬さん、なんでわざわざ石鹸避けて歩いてるのに、何もないところでは綺麗に転ぶの?」
何もないところで足を滑らせてすっ転び、尻を石にぶつけて悶絶する酔馬に、桃田は手を差し伸べる。石鹸が下に落ちていないか一々確認しながら歩いていたのに、何とも残念というかさすがである。
「軍の人って、割と公私混同するよね」
「だな」
軍が利益を得る為だけに風呂を整理したのではなく、自分達が合法的に入りたいからという理由が裏にあったのは、彼らを見れば非常によく分かることだった。
「貴様ら、風呂ぐらいは静かに入らぬか」
「ハゲ!お主は全身ハゲとるのう!」
「……沈めてやる」
なにせ軍のトップも思う存分に楽しんでいるのだから。
「まーたやってるよ。よっ!仁君、来ちゃった!」
「お、お疲れさまです……どうしてこんな時間に?」
風呂桶が宙を舞い、冷水と熱湯を撒き散らす二人を横目に、タオルを巻いた桃田達は近づいてきた。いつもは誰もいないこの時間を狙って入ったというのに、なぜこうも知り合いがたくさん乱入してきたのか。何かの陰謀を疑ったが、
「いや、月一の風呂清掃でね。俺らが普段入ってる時間にいつもの場所がたまたま使えなくて。堅と俺と酔馬はそんな理由」
「わしは色街の帰りでな!遅くなった!」
(沈めばいいのにこの熊)
「俺は仕事が終わらなくて、この時間だ……あ、まだ終わってなかったな……」
「お、お疲れ様です……あっ」
全員偶然だったようである。堅、桃田、酔馬の三人には納得を、蓮には殺意を、死んだ目の柊には憐憫の感情を俺が向けたところで、自分がなぜ一人風呂を狙っていたのかを思い出し、慌ててタオルで顔を覆う。
「ここくらいでは別に外してもいい。俺も桃田も酔馬も気にしない」
「蓮さんと司令は元から気にしませんし」
「仁さん、男は顔じゃないって一緒に証明しましょう!このイケメン二人をぶちのめすんです!」
しかし最後の酔馬だけ以外、彼らは仁の醜い傷跡を怖がる事も恐れる事も、気持ち悪いと言う事もなかった。元からタオル一枚で全身の傷を隠しきる事は出来なかったのだが。
それでも、優しく温かい彼らで、彼らを見捨てようとする奴の心には、罵倒されるより突き刺さった。
「傷は男の勲章とも言う。気にすることはない」
「背中の傷は恥、とも僕は聞いたことあるけどね」
さすがにこれだけ傷だらけの男性。傷フェチなる性癖を持たない人間以外には、あまり良いものではないだろう。特に背中の傷はやはり、敵に背を向けたと思われがちである。
「いや、別に勝てない戦いなんて、無理に挑まず逃げてもいいって俺は思うよ。てか背中の傷って普通に戦ってもつくとは思うし」
「そう、なんですか?」
「僕なんてこの前、すっ転んで背中に釘刺さって傷つきましたから!」
「酔馬、それは誇るな」
それなのに堅達は嫌がりもせず、仁の傷を負った理由も知らないで、誇るべきものだと言ってきた。例え勝てない戦いで逃げた背中の傷でも、それは間違いではないとも。
逃げてばっかりで、これからも誰かを見捨てでも逃げようとする仁はその言葉が本当に欲しくて、甘えそうになって、
「ただダメなのは、勝てないけど大切なモノを守れる戦いで逃げること。そこで逃げたら男が廃るよ」
「……」
けど桃田の言葉は、甘えを許さなかった。絶体絶命な状況に一人で陥った時には逃げてもいいが、守りたいものを守らず逃げた時は恥だと、彼は言った。
「ついた傷より、した行いということだ。しかし、本当に壮絶な生き方をしたんだな。この腹の傷は一体どんな……」
「あ、それはものすっごい強い敵を退ける時に、シオンが僕らの身体を遮蔽物代わりに使った時のだね」
「……自ら刺されたの?」
「ま、まぁ、そうです」
堅が指差したのはサルビア戦の時の傷だった。怪我の中で、火傷の次に目立つのはここだろう。彼女の許可はまだ得ていないため、サルビアとシオンの関係性は伏せたまま、お湯ならぬ茶を濁しておく。
「やっぱり名誉の傷だぞ」
「酔馬さんのとは違うね」
「あ、ありがとうございます」
「ちょ、わざわざ比べなくても!」
仁がこの傷を選んだと知った彼らは、それを褒めてくれた。こうやって褒められる度に、彼の心は己の惨めさに荒んでいくというのに。
「この魔法陣みたいなのも全身にあってすごいな……例の魔法の補助に使うやつか」
「これ刻む時痛そうだね。麻酔なんてなくない?あ、そういう魔法あるの?」
「麻酔無いのでかなり痛いですけど。もう慣れました」
嘘の意味を持つ傷を心配され、僅かに息が詰まった。止まった息を咳と誤魔化し、ここ最近の経験を彼らに話しておく。シオンとは気まずい関係であるが、刻印がなければ仁はろくに戦えず、また魔法が使えない事がバレてしまう為、刻む作業は定期的に続けられている。
「痛覚ワリカンってのもあるとは思うけどね」
「すごいな。二重人格ってそんなこともできるのか」
脳が感じている痛みは常人と変わらないが、精神が感じる痛みは半分だ。浅いとはいえ身体を切り刻まれる痛みに、呻き声もあげずに耐えられるようになったのは、あの森の家での訓練の賜物だろう。
「ま、これは僕らだけの特権さ!」
「この身体の傷全部を体感するってのは、ぞっとしないな」
「シオンの訓練はスパルタだったからね……一日十時間二十五ゲロ……思い出すだけで寒気と吐き気が」
こうして仁の強くなれた理由や日々には、彼女がいつも薔薇のように突き刺さっていた。色鮮やかに彩り、喧嘩した今となっては棘となる、薔薇のように。
「火傷の痕のがやばいっすよ。やっぱり外は地獄っすね」
「炎に巻かれたのか?そういう魔法の使い手にやられたのか?」
「これはその、魔物の軍勢を退ける為に森を燃やしたら、オーガっていうでっかい魔物に足止め食らってしまって、それで出口が無くなって、ちょっと焦げました」
「こ、焦げた?よく生きてたな」
自らの作戦にて身体に黒く、複雑に巻きついた火傷の跡。顔を隠す理由になったのも、この火傷だ。
「にしても、オーガってゲームっぽい魔物の名前は仁さんが命名すか?俺ら会ったことないんで分からないというか、どんな特徴あったか言ってもらえれば……」
酔馬の疑問から察するに、どうやらまだ壁の中にオーガが侵攻してきたことはなかったらしい。例え来ても、日本の持つ兵器でどうにかなりそうではあるのだが。
「7〜8mを越す赤い身体に一本角、アホみたいな再生能力を持つ魔物です。俺もずっとオーガって呼んで……きた?」
今まで過去の記憶を洗って答えを返していた仁は、その最中、妙な引っ掛かりを見つけた。それは少しずつ大きくなっていく違和感の芽。いつしかそれは疑問に、そして驚愕ととある情報の推測へと変わる。
「どうしたの仁君。何か気づいたみたいな顔してるけど」
「……いや、その、少し」
仁はゲームや日本の知識である小説の敵キャラに例え、魔物達をゴブリンやオーク、オーガと呼んできた。しかし、思い返せばシオンやラガム達も、仁と同じように呼んでいなかったか?
「背中すごっ!?前は火傷で後ろは十字型の傷って……あっ、ここにも刻印が」
「一目は変装できる女に不意を突かれて、二本目はそいつの上司からシオンを庇った時についたやつ、です」
「僕らは彼女より弱くてね。あんまり役に立たないんだ」
(勝手に翻訳されてる?いや、虚空庫だとかも俺らの認識に合わせられるはずだ)
傷についての話に受け答えしつつ、頭の中では気づいた事象の推測を進めていく。
架空の物の認識を強制的に合わせるように翻訳されているのならば、虚空庫もアイテムボックスと訳され、仁の耳にそう聞こえる可能性が高い。
「喉も大丈夫なのか?これは?」
「それは尋問の傷です。大した者じゃないです」
「美人のお姉さんに上にのしかかられてたしね!もう二度と嫌だけど!」
(サンドイッチもズレがあった。僕らの中のサンドイッチの定義で考えるなら、ハルナムって料理もサンドイッチって訳されるはず)
そもそも翻訳がなされるのならば、セーフなどの言葉も訳されるべきだ。以上のことから、強制的に翻訳されている可能性は低いと考えていいだろう。なら残された現実的な可能性は二つ。
「この黒い線はなんだ?見たことような傷跡だが」
「俺も傷を負いすぎて、分からないのがたまにあるんです」
「痛くないなら構わないや」
「そ、そうか」
(やっぱり誰かが、過去にシオンの世界に渡ってた)
(もしくはシオンの世界から誰かが来た……けどこっちは俺君のよりはないかな)
仁が吐いた嘘が、違う人間で真となった可能性。小鬼をゴブリン、二足歩行の豚をオーク、巨大な鬼をオーガと思う知識を持った者が世界を渡り、魔物に名前をつけ、それが広まったという予想。
「ひええ!この腕のやつ、貫通してる!脚の皮剥がれてる!腰にもひどい傷が」
「腕と脚はゴブリンに捕まった時、もう一つはシオンとの訓練です」
(でも、それがどう関わって)
馬鹿げてる。アホらしい。それを誰だか知ったところでどうなるかと考えて、
「『魔女』……懐かしい魔力の色だ」
空から降ってきた声に、異世界で最も有名な黒髪黒眼の人物に思い当たった。
「ん?今誰か喋った?」
いつか述べた通り、運命は人を待たない。自分勝手に、唐突に、突然に、不平等に、そして平等に訪れる。世界が移り変わったように、当人の意志とは関係なく、訪れる。それと同じなだけだ。今回もただ、運命とやらがやってきただけなのだ。
「所縁のある地をしらみ潰しにきて……ここでようやく本命か」
「柊さん!」
「おまえら風呂から出ろ!非常事態だ!」
今回の運命は、空に浮いていた。翼をはためかせる姿は夜の服に隠されて、誰にも見えることはなく、ただ声が空から響き渡るのみ。
「ハゲ。あれは、なんだ」
「知らん!だが、何もないわけがない!戦いの用意もできてないやつは死ぬぞ!」
仁が声の正体を思い出したと同時に、柊も急いで備えろと指示を出していた。あれが尋常ならざる何かであることを、悟ったのだろう。
「光ってる?」
「待てよ……おい!それはダメだ!」
「炎?」
空の闇に灯ったただ一つの灯りが、一瞬だけ宙に止まる。夜に現れた小さな太陽に照らされたその姿に、今起きている街の人間達は一斉に顔を上げ、目を疑った。そして、
「龍?」
「また、燃やされるのか」
太陽が、落ちていく。
「『魔女』を、出せ」
流星のごとく綺麗に幻想的に煌めいて、赤々と世界を真昼のように照らして、街へと落ちた。
「聞こえぬか。魔女の地に巣食う蛆虫ども」
落ちた区画が消し飛び、人も家も想いも思い出も何もかもを灰へと変える火の手が、屋根と壁を伝って増殖していく。その真上で運命は、次の太陽を口に蓄えつつ日本人へと問い、
「『魔女』を、出せ」
ここにいもしない『魔女』の身柄を要求する。落ちる二回目の太陽が暴いた運命の正体は片腕のない、仁の街を燃やした龍の姿だった。
この世界での日常なんて、すぐに壊される。命は羽より軽く、平和は砂の城より脆い。
『軍人用配給』
24時間営業であり、いつでも受け取りに来ることが可能。数日に一度などの制限は一切なく、場所も自由である。受付にて軍のバッジを見せ、番号と顔と名前を照会して貰うことで受け取ることができる。
魔物の討伐数や犯罪者の検挙数によって、ポイントが支給される。そのポイントを使うことで、欲しい物質を受け取ることができる。また、それ以外にも、日曜日に階級に沿ったポイントが支給される。
例え一番下の階級であっても、一般人とは雲泥の差。美味しい肉に栄養の取れる野菜、暖かいお風呂に寒さをしのげる住居、綺麗でしっかりとした作りの衣服は保障されている。
このポイントで引き換えられるものは食料、衣服、住居の他に、お酒、タバコ、高級料理店のお食事券、入浴券、色街優待券、布や裁縫セットなどの趣味の為の道具などと、非常に種類が多い。
また、ポイントは配給以外にも一部の店で代金として使うことも可能。客側はバッジを見せて番号と名前を述べ、店が軍に申請を出せば、後日その番号から店へとポイントが移動する。
 




