第4話 大火
断末魔が飛び交い、生徒が慌ただしく行き交う南棟西階段。他の階段に魔物が来たという知らせがあったのが三十分前。それから五分と経たずに、ここにも魔物が押し寄せていた。
「もう無理よこんなの!」
「女子と体力ねえ男子にはキツイっての!仁の馬鹿野郎、その辺考えてくれよ……!」
疲労の報告は絶え間なく、各階から仁へと上がって来ている。文字だけでは伝わりにくいが、当の本人らは、息をするのさえ苦しい程に消耗していた。
「作戦変更しないと、こっちがばてちまう」
机や椅子を投げる行為は、体力の少ない生徒にはきつかったのだ。数回繰り返したあたりから、腕が疲れ始めてしまった。
「疲れた者は階段から机を落とせ」
このままでは戦線が崩壊すると悟った仁は、すぐさま指示を変更。ポンっと押されて落とされた机は階段を跳ね転がり、ぶつかった魔物数匹をひき肉へと変えた。威力は多少減るものの、元々がオーバーキルだ。殺傷力自体に問題はなく、負担は大きく軽減され、長期的な戦闘が可能になった。
「これも仁が考えた結果なのか?あいつ本当にすごいな!昔から頭のいいやつだとは思ってたが!」
「すっごい綺麗な手のひら返しね!」
良作が賞賛するのは、変更前から広がる仁の作戦が作り出した二次効果。押し潰された死骸と、落とされた机や椅子で作られた真っ赤なバリケードが、魔物たちの進軍を食い止めていた。
「けどまぁ心情は、もうちょい加味して欲しかったかな」
ゴブリンがバリケードを壊そうと、死体や机を運び出す。できた空間に再び魔物が押し寄せ、投げられた机にまた潰され、自らがバリケードの一部となる。
こちらが投げる机が無くならない限り、無限に築けるバリケード。グロテスクな見た目を除けば、実にいい防護壁だった。
「俺らがキツイのは欠片も変わねえけどさ」
ぶちまけられた臓物、人型の者の死体などを見る精神的な疲労も、生徒には大きい。
耐えきれずに吐いた生徒がいたら、すぐに横へと退けられて、代わりの生徒が机と椅子を投げ落とす。そこに励ましの声はない。みな、自分の役目だけで手一杯なのだ。魔物を近づけさせないのが作戦のキモなのだ。近づけさせたら、死者が出る。
戦況は膠着していた。いや、確実に敵の数は減っている。僅かに生徒側が有利か。しかし、生徒達にも疲労の色が濃く表れ始めており、ミスも出始めていた。
それは、どこの階段でも同じことであった。
「いい感じ、なのかな?実際見てみないと分からないけど、今のところはどこも破られてない」
彼らが命を賭けている中、ただ一人だけ戦いに参加していない生徒が呟く。しかし、そのことを責める者は誰もいない。彼は、今から命を賭けるのだから。
「まだ誰も死んでない。先生、よろしくお願いします」
三年A組の教室にいるのは、先生と仁だけ。彼らの戦場は、階段ではなくここなのだ。
「いける。きっといける」
教室を見渡しながら、ゴム手袋を左手にはめる。これは、あのオーガを倒すのに必要な準備だ。
「……あとちょっと、頑張って」
伝令役からの情報を聞いた仁は、自らの準備に取り掛かる。
ワンダーフォーゲル部の持っていた腰に巻く小さなカバンの中に、ガラスの瓶とかなりの重みの金属製の缶、それに液体の入ったビニール袋を入れる。後はオークから奪った粗末な槍を手に持てば、完了だ。
「頼むから、ここに来てくれ」
あとは、標的が自ら来るのを待つのみ。大丈夫。やつはわざわざ、真っ直ぐ進むためだけにそこらのコンクリより堅い鉄の門を壊したバカなのだから。
今度もきっと、直進してくるはずだ。
北棟東階段。オーガに最も近く、敵の数も最も多い激戦区。
「え、嘘……?」
「どうした?」
静かに響いた鬼気迫る声に、休んでいた良作が反応する。音の方へと振り向けば、同じく休憩中だった女子生徒が、真っ青に震えていた。
「え?なにが?」
彼女の震える声に潜むのは、尋常ならざる何か。目の前の光景におかしくなったのではなく、正常であるが故に恐怖からくる震え。そして少女の隣に立つのは、苦しげな顔の連絡役の少年。
「あの、でっかいのが、こっちに来てる……」
少女の震えたその言葉は今戦っている生徒にも、休憩中の生徒にも等しく届いた。
「まじか?せっかく上手く行ってるってのに!」
化け物の中の化け物が動き出したという知らせ。簡単な予測で生まれた弱気な言葉が、生徒の心の中で反響していく。
未だ犠牲者が出ていない。未だゴブリン一匹侵入させていない。まさに奇跡とも言える均衡だ。
しかし、奴が来たのなら。この均衡は壊される。アレと戦えば間違いなく死者が出る。それだけで済むならば、まだマシかもしれない。
最悪、死者になるのは全員かもしれないのだから。
「ここから机や椅子を投げるか?」
無理だ。奴の頭は二階にいる生徒より僅かに上。致命傷にはならない。それ以前に、屋内からどう屋外のオーガへと机をお届けするのか。
「……これ、俺ら何もできないってこと?」
暗い考えに思わず手が止まる。敏感になった五感が、地響きを感じてしまう。それが勝てないと思う彼らには、死の足音に聞こえてきてしまう。今までが出来すぎなくらいに勝っていたから、崩れ落ちる恐怖は更に大きく感じてしまった。
「ひっ……」
耳に入り込むカツカツという音は、階段を登ろうとするゴブリンの足音か。それともただの幻聴か。
「あの、そのことについて、仁さんから言伝が。今から読み上げます」
そんな彼らの暗い思考を打ち破ったのは、同じく連絡役の声だった。机を投げている者も、休んでいる者も、全生徒が彼の声を聞く。
『あのでっかいのは俺がなんとかする』
送り主は、桜義 仁。諦め、俯き、絶望した自分たちを立ち上がらせた男。暗い闇の中で唯一人、手探りで光を見せた少年。生徒は皆、まるで神の啓示であるかのように、耳を傾ける。
『俺があいつを倒すから。負けないでほしい。だから……諦めるな!がんばってくれ!俺が勝ったら、みんななんか奢ってくれよな!』……以上、です」
良作の口から、思わず笑いが漏れた。それは彼だけではなかった。全員が戦場ということも忘れて笑う。この状況で、奢ってくれなど馬鹿もいいところだ。
「なんでそんなに余裕あんだよ……あんなのと戦うなんて。勝ち目なんて、それこそ奇跡を起こさないと、ないってのにさ」
全身を覆っていた絶望と恐怖が、いつの間にか消えていた。たった一分足らずの言葉で、日常を思い出してしまった。
「すっげえ近道な自殺だろ……なのに、なんでやれるんだろうな」
「……私も、頑張らなきゃ」
ふと良作が横を見ると、顔面蒼白だった彼女の顔に血色が戻っていた。意味もなくただ心の熱のままにその子に笑いかけ、良作は自らの心の赴くままに行動した。
「あのさ、これ、仁に届けてくれねぇか?」
「あ、はい」
そこらに積み上げられていた誰かのノートを拝借し、急いで書き殴るのは恥ずかしい文章。「!」で締めた紙を千切って折り畳み、連絡役の生徒に渡す。
「あ、あの!私も……!」
続くように頼む声。良作の視界、先程まで顔面蒼白だった少女が、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
同じ部活の香花も、クラスメイトも。生徒会の書記も、誰だか分からない違うクラスの女子も、違う学年の生徒も。
階段にいる誰もが皆、机と椅子を正しい用途で使い、日常のようにノートに文字を書き込んでいる。バリケードを破るのに魔物が苦労している今限定の、戦場に似つかわしくない、なんとも気の抜ける光景だった。
「でもま、気が抜けるってのは、緊張が解れるって意味もあるよな」
連絡役に託される手紙の数は、増え続けていく。良作達はその度に、心が熱くなるのを感じた。
そして、止まった。腕の中から溢れるほど、恥ずかしい手紙で埋め尽くされている。何人渡したかなんて、数えたわけじゃない。けど、全員が分かる。この場の全員が、手紙を渡したと。
「おい、あれ大きい奴が……!」
良い方向へ傾きかけた空気だったが、男子生徒の声で緊張が戻る。積まれていた机と椅子と死体のバリケードが崩れ、ゴブリンではない一際大きな豚、オークが姿を現したのだ。人間を上回る巨体に、東階段の生徒の動きが止まる。
「俺がやる!」
ただ、一人を除いて。
止まった時間を、一人の少年の声が無理やり動かした。人を押し退け、他の机より背が高い教壇を持ち上げる。道は、全員が自然と開けてくれた。
良作は自分の花道を駆け抜ける。階下にオークの黄色い牙と醜い豚面が見えた。隙だらけで、的もでかい。
「がんばって!」
チラリと隣の少女の笑みに励まされ、少年は雄叫びをあげる。吊り橋効果とでも言うのだろうか。余計なことで、とても大切なことが彼の頭に浮かんだ。
「ここは通さねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
雄叫びとともに手から離れた教壇は、世界の法則に従って回転しながら落ちていく。階段で一回跳ねて、轟音を立てオークの頭に直撃して粉砕、脳漿を撒き散らした。
「おい!俺らも仁のやつに負けてらんねえぞ!奴がデカブツ倒そうとしてんのに、ここをちっこいのに破られたんじゃ話にならねえ!だから、頑張ろうぜ!」
気がつけば、良作は叫んでいた。思いついた稚拙な文章をそのまま声にして、高らかに。先ほどまで凍っていたような、ガチガチに怯えた心はどこに行ったのか。
心に火がついたようだった。
そこにいた全員の掛け声が上がる。手を止めていた生徒たちが動き出した。今までと違い、掛け声や励ます声を出しながら。 それに引き続くように他の階段の方からも掛け声が聞こえてきた。
全員が、仁のことを信じていた。あいつなら、なんとかすると思っていた。負けてられるかと誰もが思った。異常な空間だからこそ、絶望に満ちた状況だからこそ、彼らはすぐに熱くなった。
そして数分後、連絡役の生徒から、仁の返信が届いた。
「送ってからすっごい恥ずかしくなったけど……今はちょっと嬉しいかな」
下から聞こえた叫びと掛け声に、仁は苦笑する。自身の緊張をほぐすためにふざけた文が、ここまで予想外に良い方向へ転ぶとは、思っていなかった。
「仁さん!」
「これ、みんなから!」
「こっちもです!」
「俺達からも!」
そして、帰ってきた連絡役が抱える手紙に、踊る文字に、今度は苦笑どころではない。仁は思わず、声を上げて笑ってしまった。
「みんな……」
汗に塗れ、滲んだ、ボールペンとシャーペン入り混じる紙切れ。そこに並ぶ文章の列は、どれも似たようなモノだった。
「おまえこそがんばれよ!奇跡見せてくれ!」「こっちは全然大丈夫だぜ!やってくれや!」「ダッサ。でもありがとう」「心配しないで!みんな無事だよ〜がんばって!」「fight!Yes,you.can!」「あのでっかいの倒したらアイス100個奢ったる!その代わり、俺が生き残ったらお前も俺にアイス1000個な!」「がんばれー!」「惚れちまうだろ!」「頑張りなさい!私の自慢の生徒!」「負けるな!若人よ!」
内容はまとめると「がんばれ!」だろうか。ここまで文字に、言葉に、暖かさを感じたことはなかった。
「これもう、失敗しましたなんて言えないや」
思わず、目頭を抑える。なぜかその部分が熱かった。冷めていた部分にさえ、火がついた。
「仁君。これ、私達から」
ちょんちょんと背中をつつかれ、手渡される。何かなんて分かっている。だからもう、文を読む前から限界だった。
「……先生達もですか?大人じゃないんですか?」
照目から流れそうになる液体と照れを隠すため、顔を向けずに話しかける。涙声なのは隠しきれなかったかもしれない。それがなんか、悔しい。
「あら、私もまだ若いわよ?」「少し、若い子たちの熱に当てられたみたいね!」「ほれ!言ったからにはがんばってこい!」「ちょっとイタズラ?したくなっての。たまにはこんなのもいいかなと」
帰ってきた答えはとても子供っぽくて、そして大人だった。
「全く、本当に子供ですね。生徒と精神年齢同じですか?そして、状況分かってるんですか?」
「あらまぁ、ひどいこと」
精一杯の照れ隠しの、青臭いガキの反撃。それを笑って受け流す、子供っぽい大人達。
涙を拭い、もう一度シャーペンを取る。そして、連絡役のみんなに持たせる。ついでに、後ろの教師達にも忘れない。内容なんて恥ずかしくて、仁から言えるわけがないけれど。それでも、伝えたいことだった。
「あら、ありがとう。だって」「かわいいねえ」「若いですなあ……」「我々もまだまだ……」
「あー!何も聞こえない!」
後ろから聞こえてきたからかいに、仁は耳を塞ぎ大声を上げる。振り返れば絶対、ニヤニヤと笑う先生の顔が見れることだろう。涙を流した跡のある、自分の顔を見られてしまうだろう。
「ねぇ、さっきあなたは、誰も死んでないって言ったわよね?」
「……はい。それが?」
先生の確認のような質問に、涙を拭いながら鼻声で答える。バレてしまったかもしれないが、答えないわけにもいかない。しかし、意図が分からない。
「死んでないんじゃないわ。あなたが死なせてないのよ。そのことを誇りなさい」
「仁君がまとめてなかったら、みんなバラバラできっと死んでたわ」
せっかく涙を拭ったのに、今の言葉で無駄になってしまった。本当に先生達は大人で、自分は子供だと思い知らされる。
決して振り返ってたまるか。見せてたまるか。
「負けてたまるか」
仁の心の中の火が、心焦がす大火へと変わった。
ゆっくりと、こちらに進んでくるオーガを見下ろす。まだ仁のことには気づいていない。まさか、9mを越す巨体を見下ろす1m70cmほどの人間がいるなど、考えてもいないのだろう。
「この盲点が勝機だ」
その考えに嗤い、見下ろしているという事実に笑う。後ろの大人に聞こえぬように心の中で一人呟き、また涙を拭うのだ。声なき声援を受けながら。
「これ勝たなきゃ、奢ってもらえないしな。それに……みんなで生き残りたいしな」
仁も、がんばらなければならない。ここが仁の勝負所だ。
オーガは校舎の近くで歩みを止めた。どうやら、自分が入れる入り口が無いかと探しているようだ。人間の身長を考えればそんなものがないと分かるのだが、オーガの知能はそれほど高くはない。
だから、人間に負けるのだ。
愚かな強者は時に、賢き弱者に喰われる。そうやって、人類は食物連鎖の頂点に立ってきた。
「人間の底力、舐めんなよ」
オーガがいることを確認して反転し、後ろの先生達を一瞬見る。頼んだとばかりに頷く。任されたとばかりに頷かれる。
何の為に四階の一番東にに先生らを呼び寄せ、仁もそこにいたのか。全ては、この局面を作る為。
これからやることは、とても怖い。死ぬかもしれないし、みんなの命がかかってる。
「すっ……はぁ……」
息を大きく吐き、深呼吸。大丈夫。きっとやれる。このために準備したんだから。槍を右手で強く握りしめる。
「よしっ」
大丈夫。みんなが応援してくれたから。背中を押してくれたから。
さあ、飛ぼう。
「そっらァァァァァァァァァァァァァァァァ!」
大声を上げ、左手で窓を大きく開け放つ。勢いよく窓際を踏み越え、外へ、いや、空へと走り出す。至極当然、この世界のルールに従い、高度14mから真下に9.8の速度で加速して、落ちていく。
「けどなぁ!」
奇妙なふわっとした浮遊感が怖い。ゆっくりと迫るオーガの顔が、地面が怖い。
「みんなを失う方が怖いんだよっ!」
オーガに、恐怖に、世界に、
「負けるかああああああああああああああああああああ!」
怖さなんて大声で消し飛ばせ。オーガが気づき、顔を上げたのが眼下に見える。
「上げたな?」
仁の顔を見たオーガは、背筋と動きを凍てつかせる。予想外の場所、まさか真上から人間が降ってきたのだ。その驚愕に、オーガは対処できなかった。
「ぶっっっっっっ!刺されええええええええ!」
巨鬼が慌てて手を振るうが、遅い。仁の9.8の速度の方が速い。二秒にも満たない落下時間、まさに刹那の間、仁は少し槍の穂先をずらす。敵に、的に刺さるよう。
人間の五倍並みの身長のオーガ、その目のサイズも当然五倍、それ以上の大きさで。実に大きく、狙いやすい目だった。
ズシャアアアアァアアア!
グサリなど生易しい音では無く、生々しい音がした。目の肉を、槍が深く突き破ったのだ。
「いっつ……でも、やった!」
顔の上に落ちた衝撃で、足に激痛が回る。だが、今は我慢だ。痛みを無視し、仁は手に力を込める。さらに深く突き刺さるように、何度も何度も渾身の力を振り絞る。
「まだだこんちくしょう!」
余りの痛みと理解不能な出来事に、オーガの喉と脳が悲鳴を上げる。しかし、これで攻撃は終わりではない。
片目は潰した。が、まだだ。怖いけど、まだ降りちゃいけない。
「もう一つ!」
落ちそうになる体を槍で支え、広いオーガの顔を足場に立つ。腰のカバンからガラスの瓶を左手で取り出し、まだ生きている目に思い切り叩きつけた。
「いてぇだろ……!化学の実験なんてしたことないお前には分かんねえだろうけど、これ目に入るとやばい薬だからな!」
割れた破片が眼に突き刺さる。それだけではない。試験管の中に入っていた液体が漏れ出し、オーガの眼へと染み込んでいく。
「グルアアアア!?」
目に刺さったガラス片と液体の痛みに、さらなる悲鳴の振動を足元に感じる。想像を絶する痛みであることだろう。右目を突き破られ、左目はガラスに刺され、劇薬に溶かされ。
劇薬の正体は、水酸化ナトリウムだ。目に入ったなら、すぐに洗い流さないと失明する。皮膚についても同様。この液体だが、学校の理科室からくすねてきた。
当然、目に水酸化ナトリウムが入った時の対処法など、オーガが知るわけもない。知っていたとしても、間に合わないだろう。
「つってもこいつに効くか俺も知らねえけど……!でも、俺にも危ないってのは知ってる」
叩き割った仁の手にも、水酸化ナトリウムとガラス片が襲いかかる。
「だから、その辺は準備した」
だが飛び散った液体も、左手のゴム手袋に阻まれ仁の皮膚には届かない。この時の為に、わざわざ着けたのだから。
痛みから逃れようと暴れまわるオーガに、仁は振り落とされないよう、必死に槍にしがみ付く。残るは隙を見て、最後の仕上げを食らわすだけなのだが、
「嘘だろ!?」
水酸化ナトリウムをかけられ、ガラス片まで突き刺さっていた左目が、ぐじゅりぐじゅりと音を立てて再生し始めていた。それだけではない。槍を突き刺した右目でさえ、肉が蠢き元に戻ろうとしている。
「……バケモンかよ」
化け物の名に違わぬ、化け物染みた再生力だ。だが、まだ最後の攻撃が残っている。
「これで、どうよ!」
固定されていた槍を更に左右に動かし、傷口をより大きく抉り広げていく。ある程度まで拡張した後、仁が腰のポーチから取り出したのは金属製の缶と液体の入ったビニール袋がいくつか……ガスボンベとガソリン、サラダ油などだ。
オーガの絶叫など聞き飽きた。聞きたいのはこいつの断末魔だ。
「死ねよ……!」
開いた傷口にガスボンベを詰め込み、ガソリンやサラダ油を流し込む。ガスの栓を緩め、ガスの出る面を外に出るように。可燃性の液体が、できるだけオーガの傷口へと垂れ込むように。
新たに加わった異物の痛みに、オーガはのたうち暴れ回る。しかし、その顔面の上に仁はもういない。
「くっ……あっつ!いでででででで!?」
槍の固定がなくなったことで、武器であった重力加速度は仁に牙を剥いた。オーガのゴツゴツした岩のような背中を、摩擦の熱を感じながら滑り台のように滑って降りていく。
「いっでぇ……けど、やることはやった」
予想通り、柔らかい土の地面の上に尻餅をついた。腰の骨が折れたかと思うほどの激痛が走るが、歩けないことはなく、問題ない。周囲の魔物達から急いで距離を取り、仁は天を仰ぐ。
「先生!あとはお願いします!」
これで、巨人討伐での仁の仕事は終了。ここから先は頼れる先生たちの出番だ。
「任せて!」
四階の窓から小さな茶色い物体が落ちてくる。投げたのは、三ーAで待機していた先生達四人。
茶色い物体の正体は、みなさんが一度は使ったことがあろうアルコールランプだ。これも理科室からくすねさせていただいた。
もしも、アルコールランプがガソリンに触れたなら?結果は、オーガが身をもって教えてくれた。
「ははっ!全部大成功だ!さすがにこれは再生できないだろ!」
炎が燃え移る。油を辿り、ガスボンベに行き着き、眼が灼熱に包まれる。それだけではない。可燃性の液体は、顔全体に付着している。
「アッツ!思ったよりこれは熱い!けど……」
これも全て計算通り。生物の燃える臭いを嗅ぎ、火の中の影を見て、仁は勝利を確信する。
潰れた目を炙られ、火だるまになりながらも、オーガは暴れまわってもがく。見えない闇の中で水場を求めているのか、校舎から徐々に離れ、校庭へと向かっていく。残念ながら、仁の学校のプールとは別方向だ。
暴れまわった事により幾分か火は消えるが、脳まで火が達した事実は変わらない。火傷の損傷に再生が追いついておらず、命は削られる一方だ。オーガはこれでなんとかなった。しかし、
「大将首とったんだけど……ダメか」
仁が飛び降りたのは校舎の外。つまり、敵陣ど真ん中。耳障りな音ともに蠢く小鬼達に囲まれながら、仁は必死に考える。
「強引に突破すればいける、わけがない……なんでこいつら襲ってこないんだ?」
ここから先は、はっきり言ってノープラン。仁は立ち尽くすのみだったのだが、いくら時間が経っても、ゴブリンは一向に襲ってこなかった。
「……火?」
その原因は、彼らが見つめ、後ずさるものにあった。ゴブリンは、燃えているオーガを見て固まり、瞳に映る炎に震えているのだ。いや、もしかしたらオーガが倒されたことに、呆然としているだけかもしれないが、
「見惚れてるってことは変わらない。利用するしかないよな」
腹をくくった仁はゴブリンの群れを掻い潜り、全速力で燃え盛るオーガの元まで移動する。何匹かのゴブリンが気づくも、その時には彼らの攻撃範囲から離れている。
「まだ、生きてんのか……」
燃える巨体の近くへと辿り着いた仁は、その熱気と動きに呟く。頭部中に火が回ってから、もうすでに一分は経ったはずだ。それでもこのオーガは大地を揺るがし、木々の葉と火の粉を散らして暴れ狂っている。
「……頼むから、こっち来るなよ」
オーガと炎による、魔物避けの恩恵に預かる。その恩恵が、こっちへ転がってきた巨体に押し潰されるという災厄に変わらないよう、祈って気をつけて。いつ燃え尽きるのか、どっちに動くのか。仁はオーガと魔物を観察し続け、
「やっとか。ゴキブリが土下座するぞ」
それから三分ほど、オーガは動き回った。最後に一声咆哮して地に倒れるまで、頭にガソリンを撒かれ、目を突き破られ、脳を燃やされ、血液が沸騰して尚、三分間動き続けた。驚異的を通り越して、恐怖さえ感じるほどの生命力。
だが、もう死んだ。賢き弱者が愚かな強者を喰い破った瞬間であった。
「ははっ……勝ったんだよな?」
ただ、炎だけがゆらゆら動くオーガの骸を見て、
「よっしゃああああああああああああああああ!」
腕を天に突き上げ、膝を地につけ、全身で仁があげた勝鬨は、全校へと響き渡る。人類の勝利が、そこに生きる者全員に伝えられた。
『ゴブリン』
緑色の肌の、人間から見て醜い小鬼。平均身長は成人男性の腰より少し高い程度。しかしその小柄さとは裏腹に、力の強さはほぼ日本の成人男性と変わらない。木を削った棍棒や、石斧、石槍などの武器を持っていることが多い。時たま、人間から奪った農具や武器を構えていることもある。これまた珍しいことだが、そういった人間から奪った武器は希少価値が高いらしく、奪い合う姿が目撃されている。
基本的には数匹〜数十匹の群れで行動する。その群れごと、オークやオーガに力で従わされていることが多い。ごく稀に変異種が生まれ、その者が部族や集団を率いる事もある。
一度に繁殖する数と、成長の速度が尋常ではない。メスは一度に五匹以上、多い時は二桁の数の子を生み、子供は一ヶ月半ほどでほぼ成体になる。魔物達の中では最弱に等しい代わりに、数の暴力で種を存続させてきたようだ。
彼らもまた、オークと同じ。ある日突然、現れた。