第39話 両親と頰傷
初めて見る、夢だった。
「待ってくれ……!俺を置いて行かないでくれ!」
俺は本当に一人ぼっち。いつもうるさい僕の人格はどこへ行ったのか、仁の中に仁は一人しかいなかった。
「なんだ、これ」
舞台は、学校と森が入り混じっている場所。その二つだけの夢なら、今までに何度だって見たことがある。
「止まった時計?」
しかし目の前にある大きな、透明で針が止まった時計だけは見たことがなかった。
「なんでみんな……!」
手を伸ばし、彼らへと声を投げ続ける。でも、帰ってくるのはただただ、誰の声でもない何か液体の流れる音だけ。
失った仲間は振り返ることなく、校舎の中を進み続ける。仁の足は止まった時計の針のように動くことはなく、どれだけ身を乗り出しても森へも入れず、校舎にも上がれない。
「なんで俺も、連れて行ってくれないんだ!待てよ……おい!」
時計の針はようやく正しい方向へと進み始めた。だと言うのに仁の身体は、望む方向とは反対方向へと誰かの手によって引っ張られていく。
「待っ」
最後の叫びが辺りに響き渡り、時計が真っ二つに割れて、世界は現実へ戻った。
目の前に広がるのは天井でも青い空でもなく、明るい木と葉の陰だ。
「仁!目覚めたの!」
「……もう慣れたな。このアングルと感触」
「ひぃ、ふぅ、みぃ……四度目かぁ。慣れるわけだよ。ああ、シオン抱きつかないで。めちゃくちゃ痛いと思うから」
「うっ……ごめんなさい」
大怪我なら四回、訓練を含めるなら、もう何回見たか分からない視界の角度だ。もう慣れすぎて、この後シオンが突撃してくることも予想済み。今されると死ぬかもしれないと、震える手を上げて彼女を制しておく。
「いつもなら大歓迎なんだけど、さすがに今回はやばいから」
「火傷の時より痛い」
「い、いつもなら良いの?」
背中の×型の傷が熱を持っている。腹に空いていた穴は塞がったようだが、まだ身体の中が痛い。治癒後では記録を更新する痛みだ。抱きつかれたら、痛みでどうにかなってしまうだろう。理性的な意味ではなく。
「ちょっとごめん。もう一回寝るね……その答えは俺君がまた後で」
「とりあえず、みんな生きてて、傷も治りそうなのが分かっただけ、よかっ……た」
「仁!追っ手は撒いたから安心して!」
心配そうなシオンの、少し曲がってはいるが治った鼻と、なんとか生きている自分を確認した仁は、耐え難い痛みからもう一度眠りへと逃げた。
五回目に見上げたのは、星がきらめく夜空だった。
「ん……傷はだいぶマシかなぁ。あ、シオン寝てる」
「また、つきっきりで看病してくれたのか?」
「僕ら一応、それなりに頑張ったからね。これくらいの役得良いんじゃない?」
すぅすぅと寝息を立て、腕の上で眠る暖かい感触に、二人して笑いあう。彼女の性格からして、寝る以外ずっと見ていて、診ていたことは間違いないだろう。
「だから、信じれるよな」
「彼女だけをかい?」
この世界は残酷で、どうしようもなくて、理不尽で、無慈悲で、最悪で、嘘だらけで、裏切りだらけで、血塗れだ。
その中でシオンも血塗れであっても、決して裏切ることだけはしないだろう。
俺が心から信じた他の人間はほぼ全員が死ぬか、裏切っていった。ラガムやサシャ、ロロといった例外はいるが、いざという時にはどうなるか分からない。子供を人質に取られたら、『勇者』の為なら、彼らは裏切るかもしれない。
俺の人間を信じるラインがとてつもなく高くなってしまうのは、自然のことなのだろう。
「上手く取り入れた。それどころか、好意を持たれるなんてのは想定外だったよね」
「初めて優しくしたのが俺だったから、だろう。卑怯だけど、シオンが俺のことをここまで信じているなら、きっと俺も信じれる」
シオンは強い。何度も死にそうな場面に陥ってはいるが、他の人間よりは絶対に生き残る。
シオンは仁を裏切らない。何故なら、仁に惚れているから。例え彼女の惚れた理想像が、現実とは程遠いものでも。
「ホント、クズだよな」
優しい人の好意までも利用し、保険とする己の汚さに吐き気がする。これはきっと、傷のせいではない吐き気だ。きっと今自分は、最低なクズの顔をしていることだろう。
「それでも、死ぬよりはマシなんだ。例えどれだけクズに堕ちても、死ぬよりはいい」
「……君がそれでいいなら、僕は構わないさ。でも、でもさ。できたら、クズじゃなくても生き残れる道を探したいもんだ」
「あるなら、俺もそうしたいよ」
それでも死人の顔をするよりはと、俺の人格はそう望む。この世界で綺麗に生きていくには、仁は弱すぎるから。
そうした事実めいた自虐の後、俺の人格は少しだけ躊躇いの間を置き、
「あと一つ。訂正だよバーカ」
「ん?」
「おまえもだ」
唐突に僕の人格へ、おまえも信じられると言葉を投げた。
「……俺君、急にデレられても困るんですけど」
「俺がどんな気持ちでそれを言ったか……!」
しかし、頑張って絞り出した言葉に対する僕の反応は酷いものだった。確かに自分へ向けたものとして考えるなら、これは友情とは言えないが。
「分かってるから、何かあった時は今の俺君の真似をして反撃するよ」
「そしたら俺は、イザベラに押し倒されたおまえの真似をしてやる。普段あんだけ高説ぶっといてあわわわわわ!だっけか?」
「お、俺君も動揺していたじゃないか!」
互いに互いの痛い過去を抉り合い、痛覚を投げ合っていつも通りの口論に。ちなみにお互い反撃として使われた暁には、頭を抱えて転げ回って悶えて「殺してぇ!」と叫ぶ自信があった。
「……むぅ……起きたなら言ってよね。ずっと心配してたのに…」
「うへぇ!?」
「いつから、起きてた?」
いつまで続くか分からない不毛で一文の得にもならない口論も、乱入者の低い声で終わりを迎える。
「今よ今。でも本当に……よかったぁああああああああああああ!」
「僕も嬉しわぁぁああああああああああああ!シオン、まだ治ってないって!あいだだだだだだだだだだだ!」
「うげぇ……やばい、口からなんか出る……」
「ああああああああああ!?ごめんなさい!ごめんなさい!」
強化で絞め付けられた仁は泡を吹きだし、それを見たシオンは慌ててぬくもりから離れる。その目は涙に濡れており、瞼は赤く腫れ、声は鼻声でくぐもっていて、また泣いていたことが丸分かりだった。
「げほっ……ごほっ……そうだ、シオン。一つ言いたいことがあった」
「奇遇だねぇ。僕もだよ」
「な、なに?」
仁はこういう状況にもう慣れたと思っている。だからこそ、シオンの次の行動が読めた。布団にちょこんと女の子座りの彼女の涙目とらぐずりかけた鼻の先に指を一本立て、
「これからはお互い、どんな怪我を負ってもギクシャク……あー、関係がなんか変に拗れるのは無しだ」
「僕達からの約束さ!」
仁はそうやって照れながら痛みながら、一方的に約束を突きつけた。
今回の傷に関しても、仁はシオンのせいで負ったなど欠片も考えていない。サルビアは彼女でも敵わないような相手だっただろうし、自分が生き延びるための必要な代償がこの怪我だっただけだ。むしろ、イザベラから救ってくれて感謝さえ覚えている。
しかし、腹の傷自体を作ったのはシオンで、彼女は絶対にそのことを気にして引きずって、仁を避けようとする。そうなればロロと出会う直前へと逆戻りだ。
「ギクシャクの意味、一応分かるから大丈夫なのだけど、でも、そんな気にしないなんて、きっと無理」
「気にしないってのはきっと無理だろうから、前みたいに変な風に距離取らないでくれって話だ」
「一回一回仲直りしてたら、時間が足りなさすぎるよ」
ならもういっそ、距離を毎回離れたり詰めたりするより、最初から離さないようにしようというのが仁の提案した約束だった。
それでも無理だと首を振るシオンへと、彼は畳み掛けるように、
「最近、というより何度も死にかけて、ようやく気づいたことがある。この世は生きているだけでぼろ儲けに幸運で、笑えるだけで幸せだって」
「そう、僕らさっき笑ってたろ?だから大丈夫、万事快調オールセーフさ。あ、オールってのは全部って意味ね。もし気にしてるって言うなら、この約束を受け入れて欲しいなぁ」
俺はこの世界で学んだことを言い、僕は気にしている弱みに付け込ませてくれと、笑顔で頼み込んだ。
「……ん。分かった。頑張って、みるから。仁、ありがとう」
説得に対するシオンの回答は、涙目を拭ってのYesと感謝であった。ここに、ある意味おかしな互いのことを気遣った約束が交わされる。
「ま、まぁ恒例だけど、シオンの治癒魔法がなければ死んでたし……うん。今俺きっとかっこいいこと言ってる」
「ねぇ俺君。後で恥ずかしくなって照れ隠しで台無しにするのやめない?」
シオンのお礼を受けてようやく、俺の中で恥ずかしさがこみ上げてきた。わざと滑って中和しようとするも、僕に見抜かれてむしろ恥ずかしさが倍増する。
「うん、助けに来てくれた仁、かっこよかったよ。布団に隠れて頭を抱えてどうしたの、仁。頭に傷はないはずなんだけど」
「…………〜〜〜〜」
「恥ずかしがってる恥ずかしがってる。だからもっといじめてやってよ」
それどころか、言葉通りに受け取った天然の本心からであろう言葉に更に倍増してメーターを振り切った。恥ずかしさに襲われた俺は薄暗い布団の中に閉じこもり、籠城作戦を展開。
「すごい人だよ。仁は」
「…………!」
「ぷほっ!こんな簡単な褒め言葉で!」
なのに、同じ布団の中から煽るもう一人の人格の声が面白くて。
「仁の言う通り、本当に生きてるだけで、笑えるだけで幸せね。みんな生きてて、よかった」
「でしょ?俺君の恥ずかしい姿をいじるだけで、僕ら幸せさ」
その様子にシオンと僕はくすくすと笑い、確かに幸せを感じていた。
「さて、仁も起きたことだし、ちょっと早いけどご飯にしましょうか!」
「おお!そういえば僕らずっと食べてない気がするよ!」
言われてから空腹であることに気が付いた僕は、布団の中でぱんと手を叩く。俺もご飯というワードに釣られ、耳を赤らめながらも布団から這い出てきた。
「それはそうよね。もう四日もろくな物食べてないもの」
「そんなに寝てたのか?」
眠っていた総合時間を聞かされ、信じられずに聞き返す。確かに眠っていた時間も少し怖いものがあった。しかしそれより、
「うわぁ……多分シオンにいろいろ迷惑かけただろうし、具体的に説明されると恥ずかしくて死にそうだから、聞かないでおくよ」
「さよなら」
「そ、その大丈夫!気にしないで!生理現象だから!あんまり見てないから!ああああああああああああああああああああ!布団にニートしないで!僕も止めて!」
「ごめん、僕も恥ずかしい」
その間の仁のお世話をシオンがどうしていたか。詳細は伏せるにしろ、想像するだけで恥ずかしすぎて死にそうになる。
布団に引きこもった仁を、シオンが間違った言葉で引き止める。病み上がりの彼を気遣ったせいで実力行使に出られず、長期戦に突入した。
ちなみにこの命がけでもないどうでもいいような、しかしとても大事な戦いの結末は、シオンが布団のすぐ横で幻豚のサンドイッチを実況しながら食べ出したことによって決着が着いた。
きっとこういう風景も、幸せなのだろう。
「「「ごちそうさまでした」」」
一時の恥が四日ものの空腹に負け、今度こそ布団から出てきた仁と引きずり出したシオンが食事を終え、手を合わせて感謝の唱和。
「相変わらず美味かった。がっつきすぎたかな」
「食べた食べた。お腹はちきれそうだよ」
「一応、まだ幻豚のサンドイッチの在庫はあるからね。明日も食べれるわ」
空腹は最高のスパイスというのも加わり、今日のサンドイッチは美味しすぎた。久しぶりで胃が驚かないかというシオンの心配もよそに、永遠と食べ続けたほどに。
「だな。楽しみだ……シオン、そろそろ聞いてもいいか?」
しかし、楽しい時間も一旦終わりだ。これから先は、真剣な話をしなければならない。
「……うん。仁も関わっちゃったというか、多分目をつけられたから、もう話すしかないかな。いずれ話せたらって思ってたし、いい機会だわ」
「ありがとうな。できたら、最初から詳しくで頼んでいいか?」
「助かるよ!ま、シオンの父さんのことを知って、僕達にどうにかできるとは思えないけどさ」
「ううん。話さないよりは、話した方がいいから。最初からね。でも、大体似たようなことが続くだけだから、そう長くはないわ」
今回は、辛いならやめていいとは言えなかった。避けて通れるに越したことはないが、相手の立場を考えるに、これから先も会敵する可能性は十分にあり得るからだ。
敵を率いる立場にあるものがなぜ、シオンの父親なのかを聞かなければならなかった。
「んーと、あの人も言ってたけど、私はなんていうかな……とても有名な貴族の家に生まれちゃった忌み子なの。生まれた時も、その後も大騒ぎだったんじゃないかしら?『黒髪戦争』が終結してすぐだったし」
こうしてシオンは、自らの生い立ちを語り始める。
シオンの父は騎士の名門、カランコエ家歴代最強と名高いサルビア、母は没落貴族カッシニアヌム家から成り上がった魔法の天才、プリムラ・カッシニアヌムだった。
「私も、両親の人柄とかは一部の面しか知らないの。だから、これから話す私が生まれる前の話の部分は、人から聞いた両親のことだから」
二人は共に王国に仕える騎士であり、出会いは同じ騎士学校に通っていた時の、価値観の違いによる決闘だったらしい。
結果は両者ボロボロの引き分け。これ以来二人はことあるごとに対立し、突っ掛かり合うようになったと言う。そんな二人がくっついたのは、件の『黒髪戦争』の時だったそうだ。
「あまりにも強い忌み子がいてね。その忌み子を仕留める時に背中を預けあって惹かれた……らしいわ。戦争が終わったらというか、戦場で結婚式挙げたのは有名みたいだし」
「なんというか、それだけ聞いたら普通の英雄譚みたいに聞こえるんだな」
「実際、二人の馴れ初めを描いた話があるくらいだからね……私としては、複雑だけど」
物語の先を予想できたとしても、一部を切り取れば、とても輝かしいものに聞こえるから不思議だ。
ここまで聞いた仁はあることに気がつき、
「なぁ、もしかしてシオンのお母さん、日本人じゃなくてまだ生きてる?」
今まで自分が勘違いしていたような、事の真相をシオンに訪ねた。
ここまでの話を聞く限り、彼女の母はどう考えても日本人ではなかった。それに今思い返せば、シオンの母が日本人というのは仁の早とちりで、彼女は一言も母親のことを黒髪黒眼などとは言ってはいない。
「日本人って忌み子のこと……よね?ええ。綺麗な白銀の髪の色に灰色の眼だから違うわよ。それにあれだけ強いんだから、まだピンピンしてると思うわ」
「違ったのか」
仁の勝手な予想はまた外れたが、それによって起こる不都合は今の所ない。そもそも、シオンの母親は死んだものと思っていたのだ。
「分からないことがあったら聞いてね。私、あまり人に話すの上手じゃないから」
話の途中に投げ込まれた質問にシオンは嫌な顔一つつせず、むしろ質問を推奨して答え、話を再開する。
「で、二人とも武勲をあげたんだけど、やっぱり戦友もほとんど忌み子に殺されたらしくて……両親は忌み子を激しく恨んでたわ」
その言葉に、仁はつい想像してしまった。
彼らはどんな気持ちだったのだろうか。殺し続け、戦友を殺され、忌み子を激しく憎んだ二人の英雄。そんな二人の夫婦の、愛すべき者になるはずの新しい家族が、憎むべき忌み子だったなんて。
シオンは何も悪いわけではない。ただ、彼らの視点から見れば、辛いことだっただろう。結果、負の感情は、生まれたばかりの娘へと向かうことになってしまった。
「うん。だから、なんていうかな。訓練って名目で虐待されたの。憎しみの捌け口というか、そんな風に」
「……」
脳裏に浮かんだのは、父親に剣で斬りつけられ、母親に魔法を撃ち込まれる幼いシオンの姿。助ける人間は誰もおらず、見捨てられ、ただ傷が増えるだけ。
きっとサルビアと妻は、シオンのことを愛せなかったのだろう。愛せなくて、シオンを憎んでしまったのだろう。
少女の身体に刻まれた多すぎる傷と、恐ろしいまでの強さの理由がやっと分かった。その訓練という虐待によってつけられ、作られたものだ。
「いつから?」
「初めて斬られたのは物心もつく前だったから、痛かったことしか覚えてないわ。ただ、もう五歳で今の仁と同じような訓練を受けてた」
「……よく、死ななかったな」
五歳。仁の五歳の頃なんて、何も考えずに遊びまわっていたような頃だ。その時にシオンは身には釣り合わぬ大きすぎる剣を握って、生と死の淵を彷徨っていた。
「正気じゃない」
先ほど虐待を受けるシオンの姿を想像した。でも、まさかここまで幼いとは思わず、ろくな言葉が出なかった。
今の仁でさえキツイと感じて胃の中の物を吐くような訓練を、五歳の子供が受けていたなど到底信じられない。
「そこら辺は父も母も加減を分かってたから。いい意味じゃなくて、死ぬギリギリで止めてたっていうのが正しいのかな」
そこからシオンが話したのは、虐待の様子の一部で、仁の想像を絶するような辛いものだった。
「痛いよ……お父さん……」
「立てシオン。戦場では足が折れたくらいで相手は止まらん」
まずは父サルビアから受けた訓練。今の仁が受けていたレベルの訓練は六歳で終わりを告げ、どんどん厳しさを増していった。
「早くしないと殺されるぞ?ん?」
齢十にも満たない子供に真剣で斬りかかり、身体に深い切り傷をつけ、時には骨を叩き折る。それでも訓練は終わらず、永遠と治癒され続け、その都度身体のどこかを壊される。
泣いても叫んでも、誰も助けてはくれなかった。
父との訓練が終わったら、次は母親から家事を仕込まれた。
「何回言えば分かるの?包丁の握り方、前に教えたわよね?」
「ごめん、なさい……腕が痛くて……いやぁ!やめて!」
一度何かを間違う度に、魔法に身体に撃ち込まれながら。
「罰よ?シオン。これが嫌なら、できるようになりなさい」
「……はい」
訓練でヘトヘトになり、ろくに上がらない腕で包丁を握って肉を切る。少しでも切る大きさにばらつきが出れば、包丁で指を切れば、シオンの身体の肉が炙られた。
掃除もそうだった。埃一つ、シミ一つでもあればシオンの身体が風の刃で刻まれた。そこまで完璧な掃除なんて不可能なのに。
洗濯物を畳むのも僅かにでもずれがあれば、シオンの身体が土魔法の腕で捻られた。どれだけ頑張っても、そんなの母のさじ加減で。
それは最早、ただただ魔法を撃ち込む理由を探しているような節があるほど、理不尽な教育だった。
「でき、ました……」
「食べると思う?こんな穢れた料理。食材には申し訳ないけどね」
「でも」
「捨てるわ。邪魔よ。退きなさい」
「うっ……はい」
辛いことに涙をこらえてようやくできた料理も、忌み子の作ったものなどと母の持つゴミ箱へと捨てられる。いつもいつも、どれだけ頑張って作っても、決して食べてはもらえず、罰だけが与えられ続けた。
「ほら、いただきますも言えないの!」
「なに……それ」
母の怒声がシオンの目の前に置かれた残飯の皿をカタカタと揺らした。
「『記録者』が伝えたとされる、食べ物に対する感謝の言葉よ。そんなことも知らないのかしら?」
「あがぁぁぁ……ごめん……なさい……」
口の中を凍らされて、シオンはとにかく謝った。一度も聞いたこともない、教わったこともない、知らなかった言葉を知っていろと言われても、シオンは謝った。これ以上傷つきたくはなかったから。
どんな理不尽でも、両親の方が偉くて正しかった。心身ともに傷は増え、栄養が取れず全身は瘦せこけ、生きることが苦痛の日々。
その痛ましい幼子の姿は、カランコエ家が忌み子を生かしているのではないかと国が疑い、派遣されてきた調査団達が、「もういっそ楽にしてやれ」と同情をかけるほどだった。
だがその同情に対するシオンの両親の返答は、「我が家の事情に口を挟むな。それに私の恨みはこんなものではない。もっとだ」というもので。
少なくない批判はあった。しかしそれでも、忌み子だからという理由で世間一般からは許されていた。それほどまでに、忌み子は世から憎まれていた。
時は進み、シオンの十歳の誕生日。苦痛な日々は終わる。その前日の夜から、何かがおかしかった。
「食べて、いいの?」
「構わん」
普段は何かする度に斬りつけ、魔法を撃ち込んでくる両親から振舞われたのは豪勢な食事。最初は食べようとすれば父に斬りつけられるのかと疑い訪ね、食べても良いという返答に、毒に耐える訓練かと疑った。
「毒を警戒しているの?入ってないわよ。疑い深い子ね。どうしてそんな風に育ったのかしら」
「……」
例え母の言葉が嘘で毒が入っていても、このまま食べなければ魔法を撃ち込まれる。そう思ってシオンは仕方なく、いつも通りの苦痛を覚悟してサンドイッチを口に入れた。
「……はむ……!?」
脳を襲ったのは苦痛ではなく、謎の味の感情。もっと食べたい、幸せ、心地よい、そんな暖色な感情がシオンの心を襲った。その感情が、この感覚こそが美味しいだとシオンは知った。
彼女の人生にとってあまりにも衝撃的な、初めての美味しい、暖かでまともな食事。
「……これ、おいしい!」
「幻豚のサンドイッチね。一番高いものだわ。あなたには釣り合わないくらいのね」
皮肉るような母の言葉も気にはならず、その料理の名前と、かつて父に見せられた魔物の図鑑に載っていた豚の美味しさをシオンは心に刻んだ。
「これも!これも!美味しい!」
肉も、野菜も、魚も、お米という異国の食べ物も、パンも、スープも、飲み物も、何もかもが初めてで美味しくて、何度も食べたかった。
その様子を父と母は、普段ではありえないような笑顔で見つめていた。
「まるで夢みたいな……日だったわ」
その日は明日槍でも降るのか、何の虐待もなく終わり、シオンは生まれて初めて幸せな気持ちで眠りについた。
夢とは覚めるものなのに。
翌朝はすぐにやってきた。いつも通り、母に怒られないよう彼らより早く起きて、剣を振った。死なないように、傷つかないように、少しでも強くならなければならなかった。
「誕生日……」
今日が誕生日ということは、一応シオンも知っていた。誰にも祝ってもらったことはないし、これから先も、もちろん今日も祝ってもらえるなんて思っていなかった。
「あれ?昨日のは……それ?」
当日ではないのと、あの両親が祝うということが知識と大きく食い違うが、あの不自然な優しさにそれ以外の理由は見当たらなかった。
「もしかしたら……少しだけ?」
認められたのかという、実に淡い期待。あれだけの苦行とも言える訓練と教育を今日までこなしてきて、両親の自分を見る目が変わったのかもしれない。そう思うと、不思議と心が弾むのを感じた。
「来い、シオン。話がある」
「……はい。どうか、しましたか?」
いつもよりずっと夢心地な自主練も、父が来れば終わりだ。仮想の敵との戦いは、本当の敵への戦いへと変わる。
しかし、その前の父からのイレギュラーな言葉に少しだけ胸を躍らせていたシオンは、
「本気で、私を殺す気で剣を振るえ」
「……どういうことですか?」
「私も、そうするということだよシオン」
「っ!?なんっで!」
想像の父とは真逆の言葉と行動に、反応が大きく遅れた。ただ冷酷に冷静に、辛く重たい負の感情だけを込めたその声が、信じられなくて、信じたくなくて。
「なんで?おまえ今日誕生日だったろう?」
「……!そう、だけど!どうして?」
霞む速さで飛び込んできた父の殺意の籠った剣を、少女は自主練で振るっていた剣で受け止めて、問い直す。
「だから話し合った結果、苦痛からの解放を贈ろうかなと思ってな」
「どういう、こと?」
受け止めた姿勢から、父のもう片方の鉄剣での第二撃。魔法障壁を展開していたシオンは地面から槍を創成して、父の鉄剣を弾くしなかった。
このまま防戦一方では危ない。そう判断し、腕に溢れんばかりの力を込めて父の剣を空へとかちあげ、攻勢に出ようとする。
「察しが悪い子だ。もう殺すということだよ」
「……うそ」
サルベアへの一撃目を振るう瞬間に呟かれた、自分への誕生日プレゼントにシオンは手を緩めてしまった。力の抜けた腕の代わりに、思考は昨日感じた疑問の答えを導き出す。
(今日が最後だから……情け?)
出荷される家畜に飼い主が優しくなるよう、いや、死刑囚が死刑の前日に好きなものが食べられるように。シオンは家畜で死刑囚で、昨日が出荷前日の死刑前日の優しさと豪勢な食事の日で、今日が出荷日で死刑当日だった。
父と母の笑顔も、シオンがいなくなるというものならば、納得がいった。
「どうしたシオン。殺す気で来いと言ったろう?なんで力を緩めた?」
力の入っていない一撃なんて、サルビアに当たるわけもない。土魔法の剣で勢いごと返され、シオンは血を撒いてくるくるひらひらと宙を舞う。
「そのために、人を殺すための訓練もしただろう?」
「いや……あんなの私じゃない!」
着地した瞬間を狙って迫る剣に剣を合わせて、強引に鍔迫り合いに持ち込む。いや、持ち込まれたと言った方が正しいのだろうか。きっとサルビアは少女の閉じた記憶の蓋をこじ開けたくて、会話の時間を作った。
「殺したのはおまえだ。シオン。死者から目を逸らすな。自らの罪に向き合い生きろ」
「違う……私は殺したくなんてなかった!」
「ああ、もう死ぬんだったな」
サルビアが自らの身体を引き、鍔迫り合いを終わらせる。押し出されたシオンの剣の斜面を滑るように、彼は刃を走らせ、少女の頬の傷をさっと撫でた。
「いたっ……い!やめて……でて、こないで!」
命に別状なんてあるわけもない、少し血が出るくらいの浅い傷だった。それなのに傷は燃え上がるほどの熱を持ち、シオンの頭がクラクラと赤い記憶でかき混ぜられた。
浮かぶ記憶は、少女の頬に剣を突き刺したサルビア、目の前の麻布を被せられた本物の死刑囚。そして、死刑囚の首に剣を押し当てたシオン。
「殺せ。そいつは黒髪戦争の生き残りだ」
「いや」
「だったら、おまえが死ぬだけだ」
頬の剣は少しずつ侵入してきていて、痛みは脳を揺らして、口の中は血の鉄の味と本物の鉄の味がして、舌に冷たい刃が当たっていて、このままだと自分がサルビアに殺されていた。
殺人には壁がある。その意識の壁を越えなければ、人は人を殺せない。その壁の形も、大きさも、強度も人それぞれで、超える方法も、恨み、憎しみ、復讐、快楽、興味、正義、誰かを守るため、などなどと様々だ。
「死にたく、ないよ……」
その中からシオンが選んだ理由は、自分が死にたくないからというものだった。
「ごめんなさい!ごめんなさい、ごめんない……ああああああああああああああ!?」
シオンは自分が助かるために、目の前の死刑囚の首を斬り落とした。
父から仕込まれた剣技による、骨まで断ち切られた異様なまでに綺麗な断面図を見て、そして一瞬遅れて死んだことに気がついたように飛び出た血を見て、少女は吐いて吐いて、泣き叫んだ。
これが九歳の子供が頬の傷に押し込み隠した、辛い記憶。
それをサルビアはこじ開けた。まるであの時と同じだと言わんばかりに。
「……ようやく、やる気になったか」
「はっ……はっ……はっ……ふぅぅぅ……」
目は血走り、頬は上気し、全身は震え、呼吸は荒い。明らかに異常な状態にあるシオンを見て、サルビアは満足そうに笑う。
「殺されなければ、殺される」
「その通りだ。さぁ、かかって来い」
赤い血が一滴、涙のように頬を伝い落ち、
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
地面に跳ねた瞬間、娘は足元を粉々に踏み砕いて、父親を殺しにかかった。
「ふむ……肉親であろうと、ちゃんと殺しにかかれるくらいには成長したか」
「あなたたちの、おかげよ!」
果たしてそれは成長なのか、そう疑う思考回路さえ、シオンからは失われていた。
少女の本気の一振りも土魔法の剣でやすやすと受け流し、サルビアはその直後に土の剣を分解。空いた手をシオンの首へと伸ばし、掴み取ろうとする。
「まだ、よ!」
「犬に育てたつもりはないのだがな!」
咄嗟に腕に噛みつき、首を折られることを回避。むしろ強化による咀嚼力ならば、腕の肉を噛みちぎり、骨を砕く反撃さえ可能だった。
「……!?おえっ!」
「体の内側には魔法障壁は貼れないと教えただろう」
だが力を入れる暇さえ、父は与えてくれなかった。口の中で創成され、刺し暴れ狂った土の棘にむせる。異物感に嗚咽と血とサルビアの手を吐き出し、眩む視界のまま後退。
「一度仕切り直しに距離を取るのはいいことだ。だが、読まれていては意味がない」
「くぅ」
後退した分を瞬く間に詰められ、ぶつかり合った剣と剣が金属音を辺りに鳴らす。口からだらだらと血をこぼし、音が鳴るたびに傷が増える。その増える傷はシオンの傷だけで、サルビアは治癒魔法を使うことなく、無傷だ。
「つよ、ふぎる」
なんとか傷を負わせようとしても、その度に自分が撤退せざるを得ないような、むしろシオンに傷を負わせるような対処の手を的確に、全ての場面で打ってくる。
化け物だった。
だがそれでも、父に仕込まれた全ての剣術と戦闘技術と、母から教え込まれた魔法を駆使し、シオンは奪われそうな一瞬を生き、相手の一生を奪おうとした。
「ようやく、終わりだな。誕生日の贈り物だシオン」
「……まっ!」
生きようとして、奪おうとして、でも化け物には届かなかった。
物理の剣も魔法の剣も同時にへし折られ、障壁は魔法だと見破られ。体勢も大きく崩され、腕はぶらりと垂れ下がり、全身血塗れの絶望的。
「苦しみからの解放を贈ってやろう。嬉しいか?けどもう」
そして、その絶望を覆すような奇跡が起きることもなく、
「さよならだ」
シオンの胸を、サルビアの剣が貫いた。
「それがこの傷跡ね。あ、あんまり見ないで欲しいんだけど」
シオンは、さながらロロのように非常に上手く、暗い暗い自分の過去を語り終えた。胸の傷跡を仁に見せながら、頬を赤らめる様子はどこか場違いで、しかし彼女にとってはそう育つのが普通だったんだろう。
だからこんな話でも、彼女は笑えるのだ。
「……」
聞いていた仁の方が、話した本人よりも辛かったのかもしれない。腹に重たい鉛が埋め込まれ、暗い気持ちへと身体を引っ張っているかのようだった。一番辛いのは当時のシオンだとしても。
「……そんなことで俺が嫌ったりなんかしないってのだけ、言っておく」
「てか、どこにシオンを嫌う要素があったのさ。ご両親は嫌いになりそうだったけど」
辛かったのは分かる。だけれども、その辛さがどれほどのものか体験したことのない仁は同情じみた慰めを口にすることはできず、シオンの心配に関することしか言えなかった。
冷たいように思われるかもしれないが、それが彼の定めた自分のルールだった。
「へへ、よかった。あんまりいい話じゃなくて、本当にごめんね。私、仁に出会うまで人に優しくしてもらったことなくて、どうしたら嫌われるのか、好かれるのか、まだ分からないの」
「そうか。シオンが別に分からなくても、好く奴はきっと好くよ」
「忌み子ってのがあるから嫌われただけで、君本来の性格なら大丈夫だよ。僕ら日本人の街なら、人気者間違いなしさ」
あの過酷な過去を生き、見ず知らず男の嘘の優しさでころっと落ちるくらい優しさを知らず、仁の「嫌わない」に本当に嬉しそうに笑うシオンだからこそ、この言葉は嫌になる程、心に刺さった。
「ありがとね。やっぱり仁は優しい。こう言ったら、好感度って上がる?」
「……口に出さなきゃ、その、考えた」
「ありがとねーシオン」
こんな自分を優しいなどと言われ、俺は非常に恥ずかしく否定したくなり、僕は素直に頭を下げた。
(俺君、照れ隠しって分かんない?もう一回サルビアに斬られてきなよこの朴念仁)
(俺もさっきやった、最後に自爆する感じの照れ隠しか?)
(そうだよ。全く見てて腹立たしいよね二人とも)
俺の人格のどうにもヘタレで鈍感でしばきあげたい軽口に、心の中の僕は精神世界でゲシゲシと蹴っていた。これに関してはもう俺自身が悪いと自覚しているため、されるがままである。
「あの、だシオン。俺からも話しておかないといけないことがある」
「うん」
さて、空気が和んだが、少しだけ重いものに戻さなばならない。とはいえシオンの生い立ちなんかよりはずっと明るく話せるだろう。一部を、隠せば。
「信じられないかもしれないけど、俺は違う世界の人間なんだ」
仁はまず初めに、一般人が聞いたら狂気か中二病を疑うような真実を吐きだした。
「あの、仁。それは薄々分かっていたというか」
「えっ」
「俺君。君がロロに日本人の街があるって言われた時に、ちょっと口走ってたよ」
「まじか」
しかし、彼女の反応は驚くわけでも疑うわけでもなく、きょとんとしたものだった。僕に言われるまで忘れていたが確かにあの時、興奮でそれに近いことを言っていたような気がする。
「だって魔力無いし、変な言葉話すし、常識ないし、この世界で生きていける力がなさそうだったし、あ、悪い意味じゃないの!ただ推測できた要素というか!」
「シオン。フォローになってない」
全てがマイナス方向の判断基準。しかし、全てが正しく判断に値するもので、俺は涙を静かに流すのみだ。
「もしかしてなんだけど、仁と私達の世界が混ざったの?」
「うん。少なくとも、俺とロロはそう思ってる」
「誰がやったかは知らないんだけどね。てかシオンすごいね。ロロはあんまり分かりにくいだろうって言ってたのに」
仁とロロが出した結論に、シオンも自力で辿り着いた。やはりこういう時の彼女の勘は、普段とは違って動物並みだ。
「仁一人だけ来たのかなって最初は思ったけど、忌み子の街なんてあるって聞いたら、さすがにね。だって、あるわけないもの。生まれた時点で殺されるのが大半。運良くそこを潜り抜けても、大きくなる前に捨てられて死ぬわ」
「……そんなに、忌み子がこの世界を生きるのは辛いのか。だから『黒髪戦争』が起きて」
(辛く生きた例がシオンだね。殺されそうになってたけども)
「『黒髪戦争』までは、もう少しマシだったらしいわ。差別が強まったのはあれ以降なの」
シオンの話が本当なら、最初から何百人もの忌み子が集まらない限り、街を作るなんて不可能だ。仮に出来たとしても騎士団が黙っていない。そんな街があるとしたら、違う世界から来た仁と似た境遇なのではないかと推測できる。
「それに違う世界から来たって、困ることはあっても私が嫌うことはないわ。むしろ違う世界から来た仁だから、私を差別しなかったんだし……」
「……あり、がとう」
「シオンシオン。今好感度上がってるよ」
シオンを励ました言葉で返され、仁はむず痒くてぼそぼそと照れるばかりだ。さっきの自分はこんな歯の浮いたセリフを言っていたのかと、穴に入りたくなる。
「うるさいだまれ」
彼女の言う通り、違う世界の人間だとしても、何ら変わりはない。しかし、話していない仁の生き方と行いを知れば、全ては別だ。知った彼女が自分をどう思うかが、怖くて怖くてたまらなかった。
だから、仁は言えないし、言わなかった。
「今日はもう、寝ましょうか。明日からのこともあるし、仁は身体を休めなきゃ」
「おやすみ。シオン」
「おやすみー!できたらシオン、早く寝て欲しいかな」
「え?まぁ、いいけど。おやすみ。お大事にね」
彼のどす黒い心中を知らずか。重い話もここまでと体調と心を気遣ったシオンの提案を、かなり疲れていた二人はありがたいと乗り、寝床作りに入った。
(別に知らなくてもいいんだけどさ、やっぱりね)
(言わなくていい。何があったかを感づかれる可能性が、僅かにでもあるのなら)
それにしても、シオンは気づいていないのだろうか。忌み子と同じ容姿で、鍛えられる仁より非力な人間達が、この世界に放り込まれた時に何が起きたか。
(ま、あんな惨状、知らない方がいいよね)
日本人はほぼ全てを奪われ、侵され、壊され、殺されたことを、自らの世界が基準の彼女は知らず、気づかず、分からない。
(それはともかく、本当に早く寝て欲しいでしょ?俺君)
いつも通り、ふかふかの毛皮の布団の中でくるまりシオンの就寝を仁は待つ。
(僕ら二人で分け合ってだけど、ずっと我慢してるんだから)
鉛のような熱いものはまだ腹の中で暴れまわっていて、それが出口を求めていたからだ。
『プリムラ・カランコエ』
シオンの実の母親。旧名、プリムラ・カッシニアヌム。没落貴族カッシニアヌムに産まれる。「二重発動」の系統外の持ち主にして、魔法の天才。下に一人妹がいるが、確執があった様子。
白銀の髪に灰色の眼に鋭い顔立ちの、冷たい印象を与える美貌の女性。若い頃の他者を見下して勝手気儘に振る舞う大変問題児であり、それが原因でよく周囲と衝突していた。
しかしながら、他者を見下すのは仕方がなかったのだろう。そう言われるほどに彼女は強く、天才だった。十五歳で騎士学校に入学してすぐに、国内最強の魔法の使い手と認められるほどに。
高飛車で冷酷で高慢だった性格も、学校を卒業する頃には口が悪い女程度にまで丸くなる。その傾向は続き、結婚した頃には最早ただの乙女になっていたらしく、昔を知る者は皆「誰だお前」と口を揃えた。
だが、シオンが生まれてから彼女に対しては、昔の性格に戻ってしまったようだ。プリムラも黒髪戦争の参加者であり、忌み子を強く憎んでしまっていた。腹を痛めて産んだ我が子であれど、許せなかったのだろう。
『二重発動』
プリムラの持つ、非常に強力な系統外。魔法の発動枠が一つ増加する。魔法陣と合わせれば、同時に三つまでの同系統の魔法を使用可能。ただし障壁魔法は系統外である為、物理障壁と魔法障壁の同時発動は不可能。
 




