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幻想現実世界の勇者  作者: ペサ
幻想現実世界の勇者
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第26話 打算と結末

 動けぬ脅威に背を向け、背中に血塗れの少女をを出来る限り揺らさぬように担ぐ。村へと伝えに行った時とは真逆の構図だ。


「仁、どうして身体強化が使え……背中に直接!?」


「さすがシオン。ちょっと血が出てるかもしれないけど」


「我慢してね!」


 背中にシオンを乗せたなら、血の滲みと魔力眼から刻印がバレてしまうのは必然だった。


「どんな影響が出るかわからないのに!前人未踏、しかも禁術でなんて正気なの!?」


「もしかしてシオン、気づいてた?」


「あっ」


 「のに」という、まるで最初から気づいて隠していたような単語。背中のシオンの詰まった息が、その答えだった。


「……ごめん、なさい。もしかしたらって思ったけど、禁術なんて禁じられる訳があるはずだから、その……」


「何の影響も出てないし、大丈夫だよ」


 黙っていた理由が心配であるならば、仁も強く出れなかった。とりあえず、今話すのはシオンを安心させるための言葉だけにしておく。


「剣だって何の問題もなかったしね!あいたたたた!あんまり触らないで!」


「バカ!」


 刻印を身体に刻むという行為は、思った以上にクレイジーだったようだ。心配して隠して怒って泣きそうなシオンの態度が、そう教えてくれる。


「とにかくここは逃げる。俺らが通る道の分だけ火を消せるか?」


「出来なくはないわ。でも、それをしたら魔力がほとんど限界になると思う」


「出来るなら充分さ!」


「生きて動ける人は動けないやつを担げ!全力で逃げるぞ!」


「この炎が魔物共を勝手に燃やしてくれる!守りたいものは守れる!だから、これ以上死ぬのは無駄死にだ!忌み子に従え!」


 シオンに作戦の役割を頼めるか確認してから、まだ生きている村人たちに向けて指示を出す。実力も無い忌み子の指示に戸惑いの空気が流れるが、ラガムの一声に従うことを決心してくれた。


 ここまでは、全て作戦通りだ。


 森を燃やして、魔物との戦いを極力減らして、オーガの元からシオンと村人を救い出す。火の壁の薄いところをシオンに破ってもらい、逃走。回復したシオンにオーガや残党を処理してもらおうという、なんとも他人任せな作戦。


「ここだ!シオン頼む!」


「ん、ちょっと地面に降ろしてほしいかな」


 火の薄い木々の前に少女を降ろし、魔法に血路を任せる。これは魔力の無い仁や村人にはできないことで、シオンだけができることだ。


「ありがと。水で消すより、地面をめくった方が早いわ」


「どゆこと?」


「え?」


 水でも出して消火かと思っていた仁は、聞こえた言葉に耳が詰まったかと困惑した。


「こうすれば!土は燃えないでしょ?」


 地面に手をついた少女が魔法を発動すれば、めくりあがった地面が木々を左右に押し倒していく。そうして出来たのは、幅約3m程の燃えるもののない道。


「この世界の魔法、でたらめすぎるって」


「そのうち天地がひっくり返ったり、不老不死になれたりしても僕、驚かないや。あ、そういえば一回くらいひっくり返ってたね」


「妙案、でしょ?」


 仁と村人達は、その馬鹿げた魔法の使い方に絶句する。仁は発想と魔法の凄さに。村人はその魔力量に。


 確かに、燃えるものがなければ火は燃えようがない。木々もなく、土しかない場所を作れば、そこに火は移らない。名案ではあるが、土をめくってそんな場所を作ろうなど常人の発想ではない。発想できても、即座に実行など魔力量的にできやしない。


「そもそも魔法が使える時点で常識外だよなぁ」


「ほら、早く!熱気自体は変わらないから、水を被って行ってね!」


 村人達は自らに水魔法をかけ、土の上を進んでいく。その列の中のラガムと彼を担ぐ妻を仁は呼び止め、


「俺はこの辺の地理が分かりません。どこら辺に逃げるがいいかは、ラガムさんに任せます」


 自分にはできない、この先のことを頼んだ。


「それくらいは任せろ。おまえもよく、こんな他人任せな作戦を思いつくもんだ」


「俺は逃げそうになる程、力が無いから。誰かに頼るしかないんです」


 快諾しつつもさらりと混ぜられた嫌味に、仁は言い返せない。この世界で一人で戦うには、仁は弱すぎた。だから他人に頼りまくって、なんとか生き抜こうとしてきて、これからもそうするつもりだ。


 それがいいことなのか、悪いことなのか、強さなのか、弱さのか。仁に区別はつかなくて。ただ、力が欲しいと拳を握りしめた仁を見て。


「ま、おまえがいなきゃ助けられなかった。ほらよ。忌み子の魔力あんまねーんだろ」


「あなた、いつの間にこんな仲良くなったの?」


「そんなんじゃねえよ」


 ラガムは、暖かい言葉と冷たい水魔法を忌み子二人へと送る。数時間前の冷たい態度からは到底想像のできない彼の変化に、シオンと妻は驚いていた。


「……俺が助かる、ついでだから」


 いきなりの冷水と態度で二重に驚いた仁の照れ隠しを、ラガムは笑って受け流し、炎を潜り抜ける道へと向かう。


「俺らも、行くか」


「ふぅ……疲れたよ。ま、新しい力も手に入ったし結果オーライだ」


 おぶられたラガムの背を追いかけて、かけられた水がすぐに乾く程の熱風が吹き荒れる道へと踏み入る。


「ねぇ、仁」


「なんだシオン?もうちょい、ゆっくり行った方がいいか?」


「……本当に、あんな無茶」


「わ、悪かった」


「でも、助けに来てくれてありがとう」


 耳元で呟かれた感謝に、不思議と目頭が熱くなる。しかし、心は重い石で水底に引っ張られるようだった。


 仁はこの少女を見捨てようとしたのに、この礼を受け取っていいのかと。自責と喜びが混ざり合った液体は頰を伝って、すぐに乾いて消えた。


「水が目に入っちまったじゃないか」


「おいおいそりゃねえぜ。俺のせっかくの水魔法は、お熱いお二人さんには余計だったか?」


 水魔法のせいにした温かい謎の液体を拭い、前を向いた仁の目と鼻の先に、ニヤニヤとした殴りたい笑顔があった。


「聞いてたのか」


「こんなヒゲおやじよりは女子のがいいよ僕」


「あなたねぇ。男女の雰囲気に水差すのは……」


「おい、ラシャ。どっちの味方だよ」


 戦の終わりの、戦後の悲しみを思い知る前の僅かな団欒。終わったという安堵が込み上げてきて、そして。


(……救ってよかったね。見捨ててたら絶対に後悔してたよ)


 今となっては怨嗟の声しか聞こえない、助けられなかった仲間たちの顔が浮かんだ。


「……ああ、そうだな」













「……!?」


 小さな微かな地の揺れ。直感が記憶を引きずり出す。この音と揺れは地震だとか、そういう自然なものではない。作為的なものだ。


 これはヤバイ。


 思考が危険という答えを導き出し、本能的にシオンを道の先へと放り投げた。仁にはこの経験が深く心に刻まれていた。勝ったと思い、油断した時に大事な何かを奪われた。そんな最悪な経験が。


「ちょっとなにする……の?」


 だから仁は非常に珍しく、シオンより速く動くことができた。


「あっ……ぐぅぅぅう!」


 少女を投げた勢いのまま前転し、音の発信源から距離を取る。方向が歪んだのか右腕を炎に突っ込むも、


「熱っ!……危ねえ!」


 落ちてきた岩に潰されることだけは、なんとか避けた。すぐさま手を火から抜き取り、岩の飛んできた方向へ振り向いた仁の目に映ったのは、予想通りの光景。


 動かない片足で危うい着地をしたシオンも、背負われたラガムも、背負っている妻も、道を渡る村人も、全員が岩を投げた魔物を見た。


「こんなところまで、あの日に戻るなよ」


 一体、この世界はどれだけ仁を弄べば気が済むのだろうか。


 悠々とこちらへ歩いてくる、五体満足にして無傷のオーガ。流れた血の跡だけが、傷があった(・・・・・)ことを証明している。


「塞がったなら意味ないだろ……!ああくそが!シオン、予備の剣貸してくれ!」


「……治癒魔法かけるから、少しだけ手をちょうだい。火傷してる」


 しかし、詰めが甘かった。再生にもう少し時間がかかると踏んでいた。切断まではできなかったが、それなりに深い傷を与えたはずだった。ただ単に、オーガの再生力が仁の予想を大きく上回っていた。


「落ち着け……落ち着け……」


 剣を受け取り、そのついでに治癒魔法で火傷した傷を塞いでもらう。くすぐったい治癒の感触も、飛んでくる火の粉の痛みも無視して、俺の人格はひたすらに考える。


 あの日も、このオーガと戦った時も、諦めたから負けたのだ。


 対抗できそうなラガムは脚がなく、オーガ相手には他の村人も当てにはならないだろう。頼りのシオンも魔法がほぼ使えず、脚も動かないままだ。


「もうちょい考えさせておくれよ!」


 オーガが手を後ろに、まるで何かを投げるような体勢へ。対する仁やシオン、村人たちも、いつでも逃げ出せるように身体の準備を整えて、オーガの行動を待つ。


「あいつ、何も持ってない?何を投げる気なんだ?」


「みんな!避けて!」


 弾けるようなシオンの忠告とほぼ同時、オーガは空中に現れた巨大な岩を握り締め、仁達の方へと放り投げてきた。


「どっから沸いて出できたんだあの岩は!」


 予想外の事態ではあった。だが、予め避ける準備をしていた仁やシオン、村人達はそれぞれ岩を避けることに成功。


「避けれたけどこれは」


「道を塞ぎやがった」


 しかし、オーガの狙いは別のところにあった。投げた岩の終着点と理由、それはシオンが作った道のど真ん中で、そこを塞ぐことだった。


「なんで俺らだけ!」


 その着地点はちょうど、後退したラガムと前へと逃げた二人の間。仁とシオンだけが、炎の森の檻に取り残された。


 村人にとっては良くても、仁にとっては最悪のパターンだ。仁とオーガ、戦って勝つのはどっちだ?シオンを背負って逃げ切れるか?そもそもこの燃える森の中を?


 しかも、いずれの選択肢を仁が取ろうが、相手はただのオーガではなく、


「魔法が使えて、知恵もある?なんでこんな相手ばかりと遭遇するんだよ!」


 旅の途中で遭遇した知恵のある堅いオーク。あれと似たような異常個体だろう。ただのオーガでさえ手に余るというのに、通常個体より遥かに強い。


「登るか?」


 自分の身の丈の倍ほどもある岩を前に、対処法を考える。岩の大きさはそこまででもなく、強化を使えば登れないこともない。


「くそっ……やっぱりだよなぁっ!」


 普通の魔物なら、ここで考える隙と登る暇をくれたかもしれない。しかし残念ながら、今回のオーガには知恵がある。


「また来たよ!」


 息もつかさぬ第三投。今度は細かい石の雨、狙いは道を塞ぐ岩のすぐ前。つまり、仁の後ろ。


 後ろは岩の雨、横には身を焼く炎。逃げるには正面の選択肢しか残されていなかった。それが誘導された答えだとしても、仁はそれを選ぶしかなかった。


「シオンごめん!前に出る!」


 少女の手を引いて背中におぶり、岩の雨から逃れるために前へ。オーガも当たらない攻撃をする気はないようで、次の岩の雨は仁狙いだ。


「……ッ!」


「耐えてくれ!」


 刻印で展開した氷の盾を、岩の雨が削り取っていく。空いた穴から侵入した石つぶてが額、脇腹、腕、脚に赤い線を刻み込んでいく。僕の精神が痛みに叫んでいる。


「このままじゃ!」


 ガリガリと音を立てて盾は壊れ、かざした手が衝撃にみしみしと軋み、防げなかった細かい岩雨にずきずきと身体の各所が痛む。氷の盾が耐えられなくなって壊れ、一発でもクリーンヒットしたなら骨が砕け散ることだろう。


 そんな傷を負った仁が動けるわけがなく、そこが終わりだ。


「どうする?」


 じり貧。今もまだオーガは岩の雨を生成し、こちらへと送り続けている。前に抜けようにも雨が盾にぶつかる衝撃で後ろへ押され、思うように進めない。


 このまま来るかも分からないオーガの魔力切れか、奴の気が変わるまで付き合うか?


「何か……!」


「仁、私を盾にして!魔法障壁張ったから!」


 未だ対策を打ち出せなかった仁に、背中から天啓が下された。その通りだ。障壁ならば衝撃さえ無効化し、前に進めことができる。


「助かる!よいせっ……と!」


「きゃっ!?」


 女性を盾にするのはどうかと考える暇もなく、仁はシオンを前に抱きかかえて雨の中を駆け抜けた。毎秒数十と降り注ぐ岩の雨も、それが魔法であるならば、障壁は一つも通さない。


「まじかっ!」


「俺君俺君、あんなの避けようと思ったら火の海にダイブだよ!」


 ならばとオーガが構えたのは、地面から掘り返した物理判定の巨大な土塊。この狭い道であんなものを投げられたならば、避けるなんてできやしない。


「なら突っ切って!」


「……分かった!」


 全力疾走で道を駆け抜け、より開けた場所に行くしかなかった。


「抜けたはいいが!」


 そうして仁とシオンが躍り出たのは、死骸の山がところどころに散らばり、周りを炎に囲まれた円形状の舞台。


「や……ばっ」


 広さに余裕のあるこの舞台なら、物理判定の岩も避けられる。オーガもそれを分かっているのか、土塊をポイと適当なところへと放り投げ、肩で息をする仁へと突進してきた。


「けど、セーフ」


 とは言え距離もあり、予備動作も大きかった突進。強化を使った仁ならば、十分に避けることができたものだったのだが、


「じゃねえ……!?こいつ!」


 突進の本当の目的は、別の所にあった。


「後ろが火事だってのに、逃げ道通行止めとかふざけるな!」


 唯一炎が薄いシオンの作った道、今しがた仁が通ってきた道の前でオーガの突進は止まり、奴がそこで立ち塞がる。


 仁の動きは、オーガに全て読まれていたのだ。


 岩の雨で全身に風穴を開けても、強引に道を塞ぐ岩を登るところを狙い撃ちしても、無理矢理炎の中を突っ切って逃げる仁を、燃えにくい皮膚を持つオーガが追いかけても、物理判定の岩塊で潰そうとも、突進で粉々にしても。


 そして仁を、そう長くは持たないこの舞台に追い込み、焼け死ぬのも待つのも、出口に向かってきたところを迎え撃つのも。


 どれを選んでも、仁が不利。


「あいつ人間より賢しいんじゃないかい!」


 仁の行いは、今の所全てが最善であるはず。しかしそれでも、不利すぎる。


「俺君!こんな開けたところじゃいい的だよ!」


「骸に隠れて!」


 近くのゴブリンの死骸の山にその身を隠し、オーガの様子を伺う。鉄の匂いと臓腑の異臭香るぶよぶよとした壁が幾つも連なるこの山ならば、姿を隠すことができる。


「あれで出てきたところを狙い撃ちか」


 どうやらオーガは、道の前を動く気はないように見える。しかし、全くもって静止のつもりはないらしい。仁の視線の先で手に岩を創成し、出てくるのを待っていた。


「どうする?」


 どうする?どうする?どうする?


 シオンを背負ったまま、炎を潜り抜けるか?彼女の魔力はどれぐらい残っている?炎を抜けるまで持つか?そもそも酸欠にならないか?ラガムを背負った時、たった数秒でも苦しかったのに?


「逃げるのはキツイ」


 逃げるにしても、オーガの脚の速さはどれくらいだ?馬車に追いついた時間から推測するに、鈍足であることだけはあり得ない。人間一人担いだまま、逃げれるのか?


「でも、俺じゃ倒せない」


 かと言って仁にあのオーガを倒せ、というのも無理に等しい。あの防御と再生能力をぶち抜いて、致命傷を与えるだけの力は仁になはい。


 なら、残された現実的な道は、


「シオン、あとどれくらいで脚の治癒は終わる?」


「七分くらい治癒に集中できれば、あのオーガを倒せるくらいには。歩けさえすれば私がなんとかなるわ。けど……」


 シオンの回復を待つ。


 集中できればということはつまり、シオンが戦えるようになるには炎を潜ってはいけないということ。全身に火傷を負いながらの治癒なんて、できるわけがない。


「七分」


 七分間。420秒。時間を稼ぎ、シオンにオーガを倒してもらい、火の手の薄い道を通って脱出。仁が稼ぐのには余りにも長い時間に、様子を伺おうと顔を出し、


「このまま時間が過ぎるまであいつが待っててくれ……るわけないよな!」


 大岩が、投げられた。間違いなく直撃コースであるその岩から逃れる為に、シオンを担いで死骸の山の裏を強化で走り抜ける。直後、隠れていた場所は、真っ赤と臓器と白い骨で弾け飛んだ。


「いっ……」


 背中のシオンが顔を顰めているのを見るに、急な移動でさえ治癒魔法としてはNGらしい。骨の折れた脚がぶらぶらと不安定に動き、痛むのだろう。


 死骸の山はそう大きくない。隠れて待っていても、七分の間に全て潰されるのがオチだ。そうなったら、逃げ場はもうない。


 炎とオーガと弱さで、仁とシオンの未来は絶望で八方ふさがりだった。


「仁、私を囮にして。あいつを引きつけている間に道から逃げて!二人で死ぬより……」


 だから、馬鹿みたいに心優しい少女が自己犠牲を提案するのは自然なことで、


「ダメだ。助かるならシオンもだ」


(そう、俺のために。自分のために)


 シオンのこの場限りでなら最良とも言える提案を、生きることに執着する仁が、この先の未来を考えて蹴り飛ばすのもまた、自然なことだった。


「どうして?このままじゃ二人とも死んじゃう」


 仁の返答に、意外とばかりにシオンは目を丸くする。非常にからかいたい表情ではあるが、事態が事態故、後回しだ。


(あとで散々弄ろうか。そのためには、やるしかないみたいだ)


 僕は「にしし」と痛みに顔をしかめながらの悪い笑いで、全てを見透かしている。


 反対側の山がオーガの投げた岩によって潰された。ここが潰されるのも時間の問題だろう。


 この先を含めて、生き残るためには、


「俺がオーガを引きつける。シオンは、脚が治り次第、あいつをぶった切ってくれ」


 そう、仁が時間稼ぎでシオンがフィニッシャー。これが、仁の考えた最善策。


「でも、オーガが仁を狙い続ける確証なんてあるの?私に来たら」


「ある。きっと狙う……と思う。シオンを狙おうとすれば、絶対に隙ができるから。あいつは下手に賢いからそれをしない」


 仁が斬り込んだならオーガは投石をやめて、仁を狙わざるを得ない。投石、またはシオンを狙おうとすればできる隙を突かれるからだ。少なくとも脚に傷をつけるくらいは仁でも出来る。


 先ほどの深さの傷はすぐに再生しなかった。跪いている間に逃げられる、またはシオンが回復を終える、という事態をオーガは避けたいだろう。


 あのオーガには知能がある。だからどう動くのかがある程度予測できる。戦闘も、行動も。


「とは言っても100%じゃない。あ、100%って言うのは完全とか絶対とかいう感じだ。一応、万が一には備えていて欲しい」


「狙う理由は分かったわ。でも、仁は戦えるの?」


「……」


 仁が勢いで隠そうとしたところを、シオンは許さなかった。少年が目を背けて、考えないようにしていたことを、少女は許さなかった。


「戦わなきゃ、死ぬだけだ」


「違う。そんなこと聞いてない。戦えるの?」


 すぐ近くの山が崩れるのを、どこか遠くに感じた。蘇る鮮明な恐怖、寒気、血の味、絶望、死のイメージ。仁を動けないよう雁字搦めに縛る鎖。抑え込んだ負の感情が、堰を切って溢れ出てくる。


(それでいいのか?)


 その全てが仁を押し潰そうとして、ふと、脳裏に誰かの言葉が響いた。


(何も残せず、守れず死ぬ方がずっと怖いんだろ?)


 脚を失った狩人の言葉に酷く似ている幻聴。でも、声はよく知っている別の誰か。


(死にたくないんだろ?)


 今度も、自分の思いが生み出した幻想だ。いつも、聞いている声。


「……分からない。でも、戦う」


 溢れ出た色々なトラウマと記憶が、仁の心を引きとめようとしてくる。だが、そのトラウマの根源は誰かの死と自分の死だ。


「死が怖いなら、戦わないと」


 かつての仁は、誰かを死なせたくなかったから、死ぬかもしれない戦場へと向かった。今の仁は死にたくないから、死ぬかもしれない戦場へと向かう。


 奇妙なものだ。死の恐怖が仁を縛る鎖で、死の恐怖が仁を戦場へと駆り立てる力だ。


(本当にそれだけかい?まぁ、今はそういうことにしておくよ)


 頭の奥に鳴り響いたのは、もう一人の自分の煩い声。


「信じるわ。けど、危なくなったら一人でも逃げて」


 耳に届いた現実の声は、血に塗れた少女の信頼の声。


「それ、信じてないんじゃ……てかよくさ、分からないなんて言葉で信じたな」


「どうして?」


 自分の言葉の矛盾も、仁の気弱な発言も、シオンは首を傾げるばかりで何も分かっていない。


 すぐ近く死骸の山が、血飛沫と肉の潰れる音と共に押し潰される。ぱちゃりと飛んできた血が、仁の髪を赤に濡らすほどの近さだ。


「やるしかない、なら、やる」


 もう時間だ。覚悟を決めるしかない。生き残るためには、ここで勝たなければならない。


「すぅ……はぁ……」


 抗う意思と剣をその手に、震えた両脚で大地に立つ。遠いとは言え炎は熱く、背中の刻印と火傷は今だに痛い。それでも、退くことはできない。


「なぁ、シオン」


「なに?」


 戦う前に、一つ。聞いておきたいことがあった。


「どうしてシオンは、村の人を救おうと思ったんだ?」


 ずっと、胸の中にあった疑問。仁の予想でしかないが、今までの村人の態度は冷たいものだったはずだ。


「……あまり、いい奴らじゃなかったんじゃないか?」


 きっと村へ調味料を取りに行ったあの時も、忘れたのではなく貰えなかったのだ。でも、シオンは仁に悟られたくなくて、それを隠そうと忘れたなどと嘘をついた。


「あいつらを見捨ててれば、こんな危険な目にはあわなかった」


 しかし、シオンは魔物の大軍が近づいていると気づいた時、すぐに村の人に知らせようとした。見捨てていれば仁が人質になることも、こんな怪我をすることもなかっただろう。


 いや、シオンが仁を村人と会わせなかったことから考えて、こうなる事態を予想していなかったとは思えないのだ。


 なぜシオンは利益にもならない、好きな人間でもない、むしろ嫌いとも言える人たちを助けようとしたのか。


 こんな暇じゃないかもしれないけど、仁はその答えが知りたかった。その答えがあれば仁も、シオンのように戦えるかもしれないから。


「やっぱり、シオンはその……優しい、からか?」


 お人好し、はどこか失礼に思い、咄嗟に言葉をすり替えた。おかげで変に照れくさい文になってしまったのは、致し方ないだろう。


「私はそんなに、優しくないわ」


 この場に沿わない質問にシオンは「うーん」と一声悩み、


「村人に知らせたのも、これを機に認めてくれるかもって思った打算だから。仁を川から引っ張り上げた時も、忌み子同士仲良くなれたらいいなって思ったから」


 自分なりにまとめた、仁の予想を大きく裏切る答えを口に出した。彼女は、村人や仁を助けた理由も包み隠さず、優しさではなく打算と言った。


「私が誰かを助ける時って、そんな理由なの。誰かを死なせたくないから、誰かによく思われたいから、助けるんだと思う。私はずっと、そうだった」


 誰かを助けるのは自分の為。シオンはそう生きてきたと言った。仁を救ったのも、村人に魔物の襲来を教えたのも。


 なら、ならば、


(俺はあの日、なんでみんなを救おうとしたんだろうか)


 簡単だ。仁がみんなに、死んでほしくなかったから。


 昔の想いの残り火がまだ心臓の辺りで燻っていたことに、仁は驚いた。自分一人を守るために、他者を切り捨てることを選んだのに。強くなろうとしたのに。その為に殺したのに。


 仁は思ったより、弱いままだったらしい。自分一人を守る為に、他者に寄りかからないと生きれないくらいに、弱いままだ。


「だから、助ける」


 寄りかかる|他者(仲間)の生死は、仁の生死に関わる。


「シオンのは優しい打算だよ」


「仲良くなるために命張って助けるなんて、聞いたことないや」


「なら仁は、なんで私を助けてくれるの?」


「俺も」


「僕も」


「「同じだ」」


 今の仁も打算だ。人を利用する為に、自分が生き残る為に、助ける。シオンと同じなら、きっと勇気ある彼女のように戦える。強さはなくとも、戦える。


「似た者同士だこと。準備はOK?」


「ああ、OK。神様も粋なことするもんだ。リベンジマッチさせてくれるなんて」


「こんなゴウカな舞台でね!」


「お前って本当にギャグセンス残念だよな」


「な、なんで!?僕と君は同一人物だよ!」


 恐怖を隠すための精一杯の強がりと、緊張をほぐすためのくだらない冗談を言い合う二人で一人。


 震えは止まっていない。まだまだ全然怖い。負けたら死ぬ、失敗したら死ぬ、擦れば死ぬ……たくさんの可能性が、仁の心を縛り付けて行く。


「仁、死なないでね?」


「死ぬわけない。俺は自分が生きる為に、自分の為に戦うんだから」


 それでも、戦わねばならない。生き残る為に。何もしなければ死ぬのみだ。可能性の鎖なんぞ、いくら巻きついても仮定に過ぎない。それを現実にしない為に、仁は戦う。


 賢き弱者と、少し賢い強者の炎に囲まれた再戦。おそらく次はないだろう。ここで終わる。


 他人任せの勝利条件での、再戦だ。




「しっ……!」


 骸の影から、オーガを目指して飛び出した。身を晒した弱者を知恵ある魔物は見逃すわけがなく、狙いを定めて投石で迎え撃つ。


「やーい!ノーコン!」


「集中しろ!」


 投石を仁が予想しないわけがない。予め決めておいた方向へと、軌道を大きく修正。悠々と岩の砲弾を避け、投げた隙を突いてオーガの足元へと近づいていく。


「学習しやがって!」


 脚に埋め込まれた氷を覚えているのだろう。近づかれる前に、オーガは敢えて足払いで仁を迎え撃つ。ただの足払いだ。しかしそれは、丸太ほどもある巨大な脚と脚力で繰り出せば、絶大な威力を誇る。


 仁がそのまま進んでいれば、電車に跳ねられたごとく身体が粉々になっていただろう。絡みついた死の恐怖の鎖に、足が竦みそうになって、


「なら竦めやこの臆病者がああああああああああああああああああ!」


 大声をあげつつ、恐怖に近づきたくない本能に従った。選んだのは脚の裏が焼けたかと錯覚し、地面に黒線を描きながらの急停止。足払いによって飛び散った余波の石を、刻印で生み出した氷の盾で受け止めて直進を再開する。


「行ける!」


「わっ、危ない危ない!」


 足払い直後の無防備な脚を斬りつけて、即座に離脱。一秒前まで仁がいた場所に振り下ろされた拳が地面を打ち砕き、飛んだ石が身体に赤線を刻み込んだ。


 仁の身体、裂傷いくつか。確認したオーガの身体、無傷。


「分かりきってるけど、マジで化け物だ」


 付けた傷跡はすでに再生済み。ゴツゴツとした岩のような皮膚は健在。痕跡すら残っていない。


「でも、戦えてるさ」


 パワー、体力、再生力、防御力はオーガの圧勝。読み合いとスピードは仁の圧勝。土魔法と一撃一撃に注意すれば、避けれないことはない。


「伊達にシオンの訓練に耐えてきてないからね」


「あの時の俺じゃない」


 仁は成長した。力を、魔法を、技術を手に入れた。前回の戦いと比べて剣術も、動体視力も、足捌きも、戦闘の流れも、読みも、痛みの耐性も、戦闘に関する全てのスキルが段違いだ。


「そしておまえは間違いなく、シオンより弱い」


「なぜか負けてたけど、サシで殴りあったらシオンの勝ちさ!」


 オーガの拳も、土魔法も、足払いも、シオンの剣に比べればなんと遅いことか。強化を得た仁に当たることはない。


「もっと遅い俺が、おまえより強くて速い彼女の攻撃をずっと見てきたんだ」


 身体強化無しで受けたシオンの訓練の全てが、ここで生きてきた。仁特有の臆病さと恐怖が、決して油断を許さない。


 オーガにつけた傷が全て再生しようと構わない。仁の狙いは、オーガを釘付けにすることなのだから。





 薄氷を補強して渡るとでも言うべき仁の戦いを、シオンは骸の陰から遠目で見守る。成長した彼の実力に、誇らしい気持ちが湧き上がってくる。


「けど」


 オーガの攻撃が当たらなければ無意味でも、仁の攻撃は当たっても無意味だ。少年の攻撃があまりに弱すぎて、相手の体勢を崩すことも、疲労に追い込むことも叶わない。


「体力だって……」


 ましてや、炎に囲まれた戦場だ。座っているだけのシオンでさえ汗をかいているというのに、戦っている仁の消耗はいかほどなものか。体力も出来る限り鍛えたが、休んでいた間のブランクもあって心配だった。


 本来なら、今の彼の実力で相手にしていい敵ではない。時間稼ぎに徹するとは言え、あのオーガは充分どころか相当格上だ。


 努力しているのは知っていた。人一倍強い、何かの思いでシオンの教えを受けていたことも知っていた。それを含めて、ここまで成長しているとは思っていなかった。


 でも、それは二ヶ月に満たない期間の間での成長の話。確か仁は素人ではなくなった。けれど、まだまだ初心者の階段の半ばくらいだ。


「早く治ってよ!いつもは早く終わっちゃうのに……!」


 四分。ここ最近だと楽しすぎて矢のように過ぎ去る時間が、今はどうしても過ぎてくれない。戦うことくらいしか能が無いと言うのに、肝心な時に少女の脚は動いてくれなかった。あの少年は震えた脚で、自分より強い敵に立ち向かったというのに。


「私が、弱かったから」


 シオンがオーガに負けた理由。それは、村人を守ろうとしたから。


 戦術的に悪手であったと思えど、助けたことに後悔はない。シオンは村人を助けたいと思い、戦っていたのは村人を救って仲良くなる為なのだから。


 後悔しているのは己の未熟さだ、まさか、土魔法が使える変異種だとは思っていなかった。そのせいで、物理障壁のみで戦っていた。しかも間の悪いことに初めて岩を撃ち込まれた時、後ろのコボルトに土の槍を打ち込んでいて、属性魔法が使えなかった。剣も魔法も使えなくて、体術で防ぐしかなかった。


 己の腕の未熟さが、仁に命を張らせてしまった。


「お願い……!」


 脚が動きさえすれば瞬殺できる確信があるのに、動かない。


 あと四分。迫る火に、少年のギリギリな戦いに、少女は焦っていた。






「ぜぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁ!」


 気合一閃。トラウマを掻き消し、あの日憧れた少女の幻影を追いかけて剣を振るう。あの少女なら、きっとそのままオーガを殺しきっただろう。


 だが、仁にシオンほどの力は無い。右に左に、時に方向転換する振りなどのフェイントも混ぜて撹乱、逃げ回りながらの戦いだ。


「見えてんだよ!」


 上から降りそそぐ大質量大面積のオーガの掌を避け、足元から繰り出される土の槍の予兆を見逃さず、仁にとって最低限の動きで最高の結果を狙い続ける。


「隙も見せてくれたら嬉しいんだけどねぇ!」


 そう願うも、オーガはなかなか大きな隙を見せてくれない。見せる隙はどれも、浅く斬りつけるのが精々の小さなものばかりだ。


「分かってやってんだろうなぁ!」


 仁の唯一通る攻撃が、刀身を埋め込ませて中から肉を食い荒らすことだと。


 だから仁は狡猾に、冷静に、ただただ牙を撃ち込める隙を待ち続ける。時には距離を取り、時には相手の懐へと入り込み、当たれば即死の攻撃をかわし続ける。


 対するオーガも仁のミスを悠然と、しかし油断をせずに待ち構える。時に突進し、時には土魔法で罠を張り、当たれば即死の掌を落とし続ける。


 危ない均衡の上で成り立つ、命を賭けた殺し合い。


「あああああああああああああああああああああああああ!」


 シオンの隠れた死骸の山を背に立つ仁は、トラウマを越えて生き残るため。


「ゴガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 火の手の回らない唯一の道を背に立つオーガは、仇敵を殺して生き残るため。


 互いに譲れない、生存本能と欲求と技術と知略のぶつかり合い。


 地面を踏み砕きながら、オーガが魔法を発動。衝撃で発生した亀裂を更に広げて、仁を飲み込もうとする。


「まじっ……かよ!」


「落とし穴作るとか賢すぎでしょ!?」


 最初から当たらない攻撃の時点で訝しんだ仁だが、亀裂が広がってくるのは想定外だった。空中で人間が自由に動けるわけがなく、そこをオーガが見逃すわけもない。


 ならば、地に足をつけたまま逃げるしかあるまい。


 オーガに向けていた剣を急遽、地面へと向ける。開いていく亀裂を塞ぐように氷の足場を生み出し、滑るように緊急離脱。


「間一髪だね」


「やっぱり気が抜けない。あと二分半くらいか?」


 空中に飛んだ仁を握り潰すためだった腕を引っ込めるオーガを見つめつつ、大体の時間を確認。正確な時間なんて計れない。一分が永遠にも感じるし、十秒が刹那に思える、そんな不思議な体感時間。


 命を賭けた戦いの、緊張感。気を抜いたら今にも崩れ落ちそうだ。


「ふぅ……」


 熱気に当てられて噴き出た汗を拭い、仁は剣を構え直す。その姿は不恰好ながら様になっていて、修練を積んだことが分かる。


 一方のオーガも身体をわずかに沈め、しかし顔は仁の剣が届かない高さを保つ、突進の体勢を取った。やはりシオンが回復中だということを理解しており、このままでは仁を殺しきれないと判断したのだろう。隙は大きいが、殺せば問題はない。


 ここが正念場だと、言葉ではない何かが仁とオーガの思考を駆け抜けた。


「アアアアアアアアアアアァァァァァァッッッッ!」


「––––––––––––!」


 鼓膜を破らんばかりの咆哮と、それに掻き消された仁の叫びが合図だった。


 真正面から最速で突っ込んでくるオーガと、予測して回避の道を選んだ仁。


 突進するオーガに剣を刺すなんて不可能だ。剣が折れたたけで済めば御の字、下手したら仁ごとへし折れる。


 突進は更に加速する。足元の骸を粉にし、大地に巨大な引きずった跡を残し、空気を押し退けて。


 仁の回避は突進に比べればずっと遅い。しかし、オーガが最初の一歩を蹴り出すより、仁が回避に移る方がずっと早かった。


「間、にぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 脚の筋肉が悲鳴をあげ、押し潰された土が砕けた音を立てひび割れる。迫り来る圧倒的なプレッシャー、蘇るトラウマ、人生で最大の破壊力を誇る一撃から逃れようと、人生最速の避けを実行中だ。


「あえええええええええええええええええええええええ!」


 死を予期したのか、スローモーションに遅れる視界で、コマ送りのように動く世界。一歩一歩と進むオーガに、その軌道から逃げる自分。両者の距離が極限まで縮まり。


「しゃあぁらぁ!!」


 寸前ギリギリでの回避。風圧と衝撃波が仁の髪をなびかせ、体を数メートル吹き飛ばしたが、無傷。


「ここ……あれ?どこに行って!?」


 突進が止まるその瞬間、オーガが初めて見せた大きな隙を突こうと仁は振り向いて、


「しまった……!?」


 自らの失敗に気づいた。オーガの突進は止まることはなく、むしろ加速の一途を辿っている。仁の背中の更に向こうにあるのは、死骸の山とシオンだ。先ほど逃げ道を塞いだ時と同じく、攻撃のその先に意味のある突進。


「狙いはシオン!?」


 筋肉崩壊ギリギリでの身体強化。勝手が分からず、全身がピリピリと痛むが、危急の事態だ。シオンを殺されたら、仁にオーガを倒す術はない。


「間に合わねえ!」


 だが最大限でも、仁の加速は間に合わない。どれだけ身体を急かしても仁の肉体、いや人の身体が耐えれるのには限界があった。


「大丈夫だから!」


 突進が骸の山を破砕して轢き潰す。宙を舞った臓腑と血が雨のように空から落ちてくる中、シオンの声が確かに聞こえた。


「ナイスだシオン!」


(学習してた!)


 驚く仁の感覚が、状況を理解した、鋼鉄1mの壁だって破けるであろうオーガの突進が、世界の摂理で強制的に押し止められたと。


 まだ希望は潰えていない。シオンが無事なら、まだ戦える。


 止まっていた脚を再度前へ。シオンは物理障壁で突進を防いだ。なら、オーガは魔法で彼女を殺そうと考えるだろう。それだけはさせてはならない。


 それにあの突進を止められて、オーガに出来た隙は、牙を撃ち込むのに最高の機会。


「はあああああああああああああああああああ!」


 ピンチでチャンスのこの刹那。逃せるわけがない。屍肉を踏み荒らし、脚を血に濡らし、仁は残りの距離を駆け抜ける。


 オーガが振り向いた時、刀身と脚との距離はもう1mもなかった。魔法の発動もご自慢の怪力も、全てが手遅れな距離。岩のように硬い皮膚も、強化された力と鋭利な刃物の前にはただ斬り裂かれるのみ。オーガの肉の中で、氷魔法を発動させて、


「は?」


 なぜ?why?なぜ?why?why?どうして?前は、なぜ?


 弾かれた剣と、行き先を無くして暴発した氷魔法。再生せずに無傷の皮膚。


「〜〜〜〜〜〜〜!?」


 疑問で頭が埋め尽くされ、ついで硬いものを殴った鈍い痛みが脳内で暴れ回り、仁は剣を取り落とした。


「えっ…?」


 理由は分からないが、弾かれた。千載一遇のチャンスは不意になった。仕切り直しとオーガから距離を取ろうとするが、やけに歩みが遅い。


「ち、からが……?なんで!?」


 身体強化が発動していない。背中の魔法刻印は痛みとともに存在を主張し続けている。刻印が消えたわけじゃない。なのになぜ魔法が解けたのか。答えは、


「もう魔力が!」


「切れたのは魔力か!」


 シオンと仁の声が重なる。それは全くもって同時で、そして両方とも手遅れだ。仁は魔力が見えないから確認できなかった。もう少し余裕があるとも思っていた。初めてで分からなかった。


「なんでシオンに確認を取らなかっ」


「じゃなくて!大事なのはどう動くかだろ!俺君!」


 湧き上がる理由と言い訳と後悔を、僕の人格が脳内から蹴り飛ばす。


「……悪い!」


 僕の言う通りだ。後悔は生きていたらいくらでもできる。歩みは遅くとも、オーガから距離を取るしかない。身体強化もなしに近距離で戦うなんて自殺行為だ。


「追ってこない?」


 オーガの動きを確認しようと、上を見た。しかし、なぜかオーガは先ほどの場所から動いていない。


「ダメ!」


「何が……こういうことかよ!」


 何かを察したシオンの声が届いた時には、仁の逃げ道はもう残されていなかった。


「サイテーだよ……こんな終わり方」


 上下左右に格子のついた土の檻が、仁を取り囲んだいた。文字だけ見れば脆そうに見えるが、現実は棒の一本一本が石のように硬い。叩き壊そうとした仁の腕が壊れそうになったくらいだ。


 オーガが動かなかったのは、この魔法を完成させるのに集中していたからか。


「ちくしょうが!」


 一度は絶望して全てを放り投げ、自分の命だけを抱えて逃げようとした。説得され、恐怖に怯える両脚を、力をくれる傷跡の魔法と希望の鞭で叩いて戦った。


「ちく……しょう……!」


 しかし魔法が解けて、希望も消えた。仁はもう一度、絶望へと落とされた。


 シオンの脚の治癒は終わっていない。座ったままで動ける範囲や魔法の範囲には限界があるだろう。そしてその狭い範囲では、仁を守ることができない。


 かっこをつけずに、未来など見ずに、あの時逃げていればよかったのだろうか。そうしたら今頃、仁は後悔に塗れても生きていただろうか。


 でも、そのifの未来は長くは続かない。恐怖に竦む足で魔物に殺されるのが目に浮かぶ。


 そして浮かんだところで、ifを思い描いたところで何も変わりはしない。


「くそ!他に何かないのかっ!」


「僕も必死に考えているよ!」


 ほぼ詰みといった状況。それでも仁は諦めない。何か、どこかに糸口はないかと探し続けている。諦めなければ、まだ負けてはいない。


 オーガが突進の前傾姿勢を取り、人間の努力を嘲笑うかのようにゆっくりと、狙いを合わせた。この檻ごと壊して仁を殺す気だろう。


 抜け出せなかった場合、生きれるのは数秒。心臓が締め上げられ、訪れる死に酸っぱい吐き気が込み上げる。全身の感覚という感覚が、一生分の世界を感じようとしたのか鋭敏に尖る。


「死にたくねぇ……んだよっ!」


 土の檻に手をかけ、なんとかして壊そうとする。火事場の馬鹿力に期待するが上手くはいかず、全くもって無意味な努力だった。


「こうなったらオーガが檻を壊した瞬間に逃げるしかないよ!」


「どんなシビアだ!他には……他に!」


 檻の隙間を抜けようと試みるが、仁の体では無理だ。そもそも隙間の間隔的に頭が抜けるわけがない。僕の案もタイミングが厳しすぎるどころか、はっきり言って不可能だ。


「ああああああああああああああああああああああああああああ!」


 喉が壊れる叫びを上げ、腕は最後の力を込めて檻を壊そうと動く。頭を土の檻に打ち付け、血が流れるのも構わずに少しでも削ろうとして。青痣をいくつも作ったその脚は、動かなくなるまで檻を蹴り続ける。


「俺はぁぁぁっっ!死ぬまでええええええっ!生きるのを諦めねええええええええええええええ!」


 口から血を吐き、傷だらけになりつつも、死から逃れようとする様は醜い。理性という理性を捨て、考えられる限りの手段を持って、本能が生きろと叫ぶ。


 最早狂気の域に達した仁の悪足掻きに、オーガも気圧されたのか動きが止まる。しかし止まったのは僅かな間、時間にして数秒だ。


 仁の命のロスタイムもこれで終了。血の匂いが香る臭い息を吐いて、短い人生に終止符が今、


「……!?」


 打たれることはなく、地に着いたオーガの脚がバラバラに切り刻まれた。


 何が起きたか分からないまま、膝から下両脚を切断された巨鬼は、文字通り地面に膝をつく。叫びとともに再生が始まるが、部位欠損の損害はすぐに治らず、血が止まっただけ。


「……なにが?」


 斬撃は脚だけに止まらない。先ほどまでは剣の届かなかった高さにあった太もも、腰、胴体に刃が入り、土魔法を使わせる暇もなく切り分けられていく。


「これ、内臓?」


 溢れ出た意外に短い腸や、見たことのない器官が仁の足元まで押し寄せてきた。通常であれば吐き気を催すような光景だろうが、助かったという興奮は収まらない。


「シオン?」


 その見覚えのある斬り方に。この二ヶ月近い間、仁を叩きのめし続けた剣術に、作戦の成功を悟った。これほどの技量を持ち、なおかつこの近くにいる人物など、彼女しかいないだろう。


 もはや胴より下は残っておらず、器用に再生を制御して蠢く腹の断面で立っているオーガの後ろで、白銀の輝きと黒い髪がちらりと姿を見せた。


「間に合ったのか……!あはははは!見たか!やったぞ!」


 七分間。オーガの注意を引きつけ、少女の治癒を待つ。


「ああ、そんな人任せな作戦だったなぁ!すっかり忘れてた!ああ!最高だよちくしょう!」


「諦めないでみるもんだよ!」


 仁の狂気とも言える足掻きが数秒の時間を作り、シオンの治癒が間に合った。諦めていたら、オーガの突進の方が早かったかもしれない。


 仁の足掻きが、シオンの剣が、仁の命を救った。


 解体ショーはまだ終わらない。せめてもの抵抗にと振り回した腕が根元から地に落ち、土の上でびくりびくりと飛び跳ね動く。もう片方の腕も動かす暇なく斬り落とされ、その役目を終えた。


 だるま落としどころではない。四肢を削がれたその姿は、ただのだるまだ。


「仁は死なせないよ」


 日々を思い出させるような暖かい声で、彼女は冷酷に剣を振るう。背中の肉を豆腐のようにくり抜き、抉り出した硬い肉を踏み台に首を目指す。


 オーガの最後の悪足掻き。噛み砕こうと開いた大口でシオンをお出迎え。


「だって仁は、私に初めて『優しさ』をくれた人だから」


 少女を挟もうとする巨大な黄色い歯を、閉じる寸前円形に切り抜いて口膣内に侵入。オーガの口の中でシオンが出した声は、仁の耳には届かない。ただ血と歯の切片が舞うが彼には見えるのみ。


「だから、守る」


 うねうねと動く舌に飛び乗ったシオンは、口の天井へと深々と剣を突き立てて、脳天まで一気に開口させた。


「終わった、のか」


 仁が見たのは、痙攣しながら力なく崩れ落ちたオーガの身体。そして、


「本当に助かった……ありがとう」


「どういたしまして。でも、私も仁が助けに来てくれきゃ、ここにいないからお互い様」


「とりあえず、家帰ったら風呂だねこれ」


 もう肌の色が見えない程にに血で塗れ、でろりと垂れたグロテスクな肉塊を振り払うシオンの姿。彼女としても、すぐに風呂へと直行したいことだろう。


「俺君、俺君。一緒に入ろうだなんて期待はやめときなよ?」


「し、してない。!てか空気読め馬鹿野郎!」


 戦いが終わった後の気の緩みか、冗談を投げ飛ばした僕を俺は殴りつける。


「でもまぁ、日常に一刻も早く帰りたいってのは、同意だ。帰ろう」


「うん」


 風呂に入ることや空気の読めない冗談を飛ばすこと、談笑すること、ご飯を食べること、シオンとの訓練や、ゆっくり二人で寝れること、こうして歩けることや息が出来ることは全て、生きているからできる。


 僕がきっと伝えたかったことは、そんなことだったんだろう。


 折れ曲がっていない脚と、もう震えていない脚で、二つの影と三人は少女の作った土の道へと歩き出す。


 作戦を成功させて、生き残ったのだ。仁はトラウマを乗り越え、シオンを助けて、村人を助けた。


 さすがのオーガもだるまにされ、脳と身体を切り離されれば息の根も止まるようだ。再生する気配はない。


「勝ったんだよな」


 今にして思えば、なんて密度の濃い一日だったろうか。遠足から始まり、魔物を見つけ、お姫様抱っこされ、頭を殴られ、人質にされ、魔物に追われ。


「色々あったね本当」


 逃げ出そうとして、敵だったはずの男に説得され、傷を選んで、魔法を使って、頭をひねって魔物を殺して。


「そして、生き残った」


 傷だらけになりながら、オーガの変異種との大立ち回りを演じた。最後は負けかけたが、生き残った方が勝ちだ。勝者は仁とシオンだ。


「本当に危なかったけどね」


 今日の出来事の振り返りの中、シオンの助けに来るタイミングが神がかりだったことを思い出す。この世界にはないと思っていた、神の恵みのようなタイミングだった。


「まぁ、たまにはこういうのがあってもいいよね!むしろ、いつもあって欲しいくらいだよ!」


 いつも理不尽に仁を嬲る世界が、たまに気まぐれで微笑んだとでも言うのだろうか。


「時間ギリギリで最高のタイミングでの援軍だった。シオン、脚は大丈夫か?」


「……っ!?」


 もしや治癒を途中で切り上げ、無理して助けに来たのではないかと仁は思い、少女の脚を見ようとした。しかしシオンは、咄嗟に左脚を隠そうとして。


「無茶とかして……な」


 だが、仁は見てしまった。シオンは隠しきれなかった。その見てしまった物に、俺の人格も僕の人格も言葉を失った。


「シオン……まさか!」


「ばれちゃった……か」






 仁が土の檻に囚われた時、シオンの治癒はまだ終わっていなかった。最低でも、あと二分は治療しないと動けないはずだったのだ。


 そもそも七分で治るというのもほとんど嘘だ。確かに傷は治る。激痛を我慢して戦えば、オーガを殺せるくらいには。


「動いてよ!ねぇ……動いてよ……!」


 仁を囲う檻を魔法で壊そうとしても、オーガがそうはさせまいと身体で隠して届かない。剣で斬ろうにも届かなければ、刃は空を斬るだけ。


 何をしようにも、この場から動かないといけなかった。願いは虚しく、どれだけ治癒しても脚は痛みを訴えるばかり。


「動かなきゃみんな死ぬのに、この脚は!」


 仁が死ねば、シオンの治癒は終わることはなく、オーガに追い詰められて死ぬだろう。いや、それ以前だ。仁が死ぬのは、それだけはダメだ。


「こんな脚なんか、こんな……?」


 いっそ片脚立ちでオーガと戦おうかと半ば自棄になって、思いついた。


「……いらないわ」


 今この場を乗り切るための、方法を。みんなの命が助かる、起死回生の策を。





「間に合わなかったの。でも、大丈夫。脚の一本で二人の命、僕も含めたら三人で、村の人達を含めたらもっとたくさん救えたんだから!」


 シオンの左脚は確かにそこにある。オーガの返り血がべったりとついた肌色の、木でてきた義足が。膝下からのシオンの脚にはもう、血が流れていなかった。


「そんなの、隠せるわけないだろうが……!」


 何が絶好のタイミングだ。理不尽な世界が微笑んだだ。作戦が成功したと喜んでいた馬鹿は、どこのどいつだ。


「なんで!」


 少女がただ、一生戻らない対価を支払っただけではないか。


 痛みか、それとも戻らない損傷を負った悲しみか、あるいは両方か。シオンの目が少しだけ湿っぽいのを見て、仁は自分の未熟さと愚かさを責め続ける。


「ラガムって人の脚を斬ったばかりだったから、そんなに難しくはなくて……えーとその、仁?」


「ごめん……シオン。ごめん!」


 間に合った、勝った、作戦が成功したと喜んでいた自分をぶん殴りたい気分だった。


「俺がもっと、頑張っていれば……!」


 火に囲まれた危機的状況ということも忘れて、仁は頭を下げる。


「俺がもっと、強かったら!」


 自分がちゃんとオーガと戦えていたら。自分がもっと強かったら、少女は片脚を失わなかったのに。たらればに意味はない。しかし、思わずにはいられなかった。


「なんで私より仁が泣いてるの?人の涙、取らないで」


 なの少女は仁の頭を撫で、困ったような声で慰めようとする。


 その優しさに、強さに、仁は余計辛くなった。いっそ責めてもらったほうが楽だと言うのに。それでも、無神経で優しい少女は責めはしなかった。


「これも打算だから。仁が死んだら、私も死んでた。だからね?」


 気にしないで、自分を責めないでと。言葉の続きが仁の脳内で紡がれる。都合のいい解釈ではなく、シオンの本心で、仁を苦しめる言葉だ。


「けど、今はここから出ましょ。あんまり時間もないしね」


「……分かった」


 シオンの話題転換に、少年は力なく頷いた。納得はしていなかったが、ここで話していて死ぬ、なんてエンドは嫌だった。


 魔物の死骸を踏まないように注意しつつの帰り道。火が燃え移っていない土の道を前へ、前へと進む。


 いつもと同じ速度で歩いているのに、シオンの歩みが遅れていく。原因はやはり、木の義足。


「ごめん。できたらその、肩を貸してくれない?もう魔力が保たなくて、脚が……」


「乗ってくれ」


「でも」


「乗ってよ。肩貸すよりこっちのが楽だから」


 要請を聞き、魔力が切れて動かせない左脚を見た仁は、背中へ有無を言わさぬ態度を取った。


(……暖かくて、冷たい)


 後ろに伸し掛かる暖かい重みと、左手に触れる木の冷たい質感が、仁の心に安堵と罪悪感の嵐を吹き荒らす。


「……」


「……」


 シオンと仁は互いに無言で、パチパチと燃え盛る火と崩れる木だけが音を奏でていた。全てが焼け落ちていくような、まるでお伽話に出てくる炎の地獄のような森。


 そんな地獄から抜け出すための道を、沈黙に包まれた三人が二本の脚で歩いていく。


 仁は自責の念で、シオンはそんな彼にどう声をかけたらいいのか分からない沈黙。いつもはお調子者の僕でさえ、言葉がなかった。

 

 熱気が肌を撫で、肺と喉が焼けるように感じる。出口はまたがまだかと進むが、一向に炎を抜けられる気配はない。


「なぁ。この世界……どんだけ最低なんだよ。なぁ、なぁ!なぁ!なあ!」


 仁の乾いた唇から発せられた、沈黙を破る絶望の声。燃えることない土の道の終点。それは地獄の出口。


「十分近く経ったけどさ、こんなのってないよ!」


 オーガを倒すのに時間をかけすぎた。出口なんて、ありはしなかった。戦いの間に広がった炎が、安全な土の道のその先を、仁の行く手を遮っていた。


 炎に突っ込むのが正しいだろうか。数秒なら燃え移らないのだろうか。果たして、数秒で炎を抜けられるのだろうか。


 いくつもの仮定が仁を縛り付ける。試しに火に近づいてみるも、あまりの熱さに身体が拒否してしまい、すぐに引き返してしまう。


 そして確信した。何の魔法も無しに突っ込めば、確実に焼け死ぬ。最低でも、水か何かを被らないとここは抜けられない。


「こんな結末、認めない」


 シオンが片脚を斬り落としてまで掴んだ勝利を、こんな形で落とすなんて。何の為に戦ったのか。何の為に命を張ったのか。何の為に作戦を考えて、


「一体、何の為に!」


 シオンが脚を斬り捨てたのか。


「考えろ……!考えろ!」


 考えるのをやめたら死ぬ。それは間違いない。しかし考え過ぎても、死ぬ。


 周囲は炎の壁。辺りに燃えるものはないが、熱が肌を焦がそうと押し寄せてくる。煙も害である上に、長くいれば酸欠になる。


「悪い。もう魔力はほとんどないと思うが道を……」


 シオンの魔力は限界のはずだが、それでも無理して道を開いてもらうしかない。怪我人で恩人の年端も行かない少女に無理を頼むなんて残酷かもしれないが、ここで立ち止まっても死ぬだけだ。


「シオン……?おい!シオンッ!」


 しかし、背中のシオンの呼吸はやけに荒く、意味のある声が返ってこなかった。先ほどよりも仁に体重を預けてきており、明らかに異常な状態。顔面も蒼白で意識も朦朧としてるのか、仁の声への反応が一切ない。


「酸欠?いやこれは?」


「俺君!義足の付け根から血が」


 左手を少し動かして触れた、新しく暖かい濡れた血の感触。義足の隙間から溢れ出ているということは、


「傷口をずっと、義足で押し潰して戦ってたのか?」


 切断でさえ想像を絶する痛みであろうに、更に傷口を直し切らないまま義足を押し付け、あんな激しい戦いをしていたなんて。傷を治す魔力まで、もう無かったのか。


「こんのバカシオンが!思いっきり燃やせって言ったのは……くそ!全部俺だ……!」


 あの場面では抜群の効果を発揮した作戦が、今の仁とシオンを殺そうとしている。その作戦の立案者は仁だ。


「俺だ」


 そもそもシオンが戦ったのも、仁のせいだ。人質に取られたせいでシオンは戦場へと駆り出された。


「僕だ」


 仁が魔力の量のことを失念していたから、シオンは脚を切断した。


 何もかもみんなみんな、全部仁が悪かった。


「また俺は、自分の作戦で誰かを殺すのかよ!あの時に戻ったからと言って、あの時をそのまま繰り返すのかっ!?」


 考えがまとまらない。果たしてそれはシオンの容態のせいか、それともあの時の後遺症のせいか。または、あまりにも突破口が見えないせいか。


「魔法で掻き消すのも無理、突っ込むのも無理、科学での消火も無理……考える時間も無理!」


 言葉がおかしくなるほど脳を酷使したのか。頭がクラクラと揺らめき働かず、ただただ怠惰に時間は流れるのみ。


「それとも酸欠か?ざけんなよ俺の身体……もうちょい持てよっ!考えさせろっ!」


 古典的ではあるが頬を血が出るほど抓り、痛みで意識を無理矢理引き戻す。解決策はまだ見つかっていない。だが、見つけなければならない。


 仁が悪いのだったら、仁の手で作戦を。


「……本当に俺ってダメだよなぁ!」


 仁は嫌になるほど凡人だ。身体能力もシオンに及ばず、技術もなく。あるのは中途半端な悪知恵と、諦めの悪さくらい。


 仁に残された、中途半端な悪知恵でさえ牙を剥いたこの状況。凡人を通り越して愚者とさえ思える。


「一か八かに賭けるしかないのか」


 作戦とも言えない作戦。どこかの本で読んだ、人間が大火から逃げ延びた方法。水か何かを被らねば先に進めないのなら、被ろう。


「ごめんな。生き残ったら、何されてもいいから」


 シオンを慎重に地面へと降ろして、まずは自らの衣服を下着を残して脱ぎ捨てる。シオンの服も強引に破り捨て、肌を露出させた。


 意図せずして見てしまった、至る所に傷のついた少女の裸体に仁はすぐさまを目を逸らす。邪な気持ちは、こんな時にも所構わず湧き出てくる。そんな自分に嫌悪感が止まらなかった。


「なんだこれ?」


 そんな自己嫌悪の渦の中で、仁はあるものを見つけてしまった。


 少女の胸部に深く、色濃く刻まれた古い刺し傷。仁のどの傷よりも大きく、致命傷に近いと分かるその傷。いや、こんな傷を負ってよく死ななかったとも思えるほどの、深手だった。


「……今はそんな場合じゃないよ俺君。なんでこんなことしてるか忘れてない?」


「ああ、忘れてない」


 燃えた衣服が皮膚に張り付き、更に火傷を悪化させるという聞き齧りの知識が、仁がこのような行動に出た理由だ。真偽は分からないが、やらないよりはマシだろう。


「こいつでいいか。気が進まないが、やるしかない」


 シオンの身体をできる限り見ないようにし、近くに転がる魔物の骸の身体に剣を突き入れた。そして骸を上へと持ち上げて、搔っ捌く。


「げほっ、げほっ……気持ち悪い」


 どろりとした内臓と、死してなお体内に残っていた血を、仁はまるでシャワーを浴びるかのように頭から被った。肩に引っかかったぶにぶにとした内臓だけは払っておく。


「死ぬよりは、いい」


 生々しい色の内臓と臭い血からくる吐き気を堪えながら、シオンにも同じことを繰り返す。二人仲良く鮮血に濡れた姿に。


「少し違うが、似てるな」


 仁はシオンの脚を眺めて零す。そう、似ていた。脚が使えなくなった少女と、絶対絶命に等しい状況の中という、いつぞやの旅とそっくりな今。


「……もう、見捨てない」


 血に塗れたどころか血の海に沈んだようなシオンをしっかりと。確かに、落ちないように背負い直す。あの日は繰り返さないと心に誓い、歩き出す。


「俺はここで、いや、この先どんな場所でも死ぬなんて、絶対に認めない」


「その通りだね。諦めて死を待つなんて柄じゃない」


 身体強化も魔法も使えないその身で、仁は決意と生き残る意思だけで炎へと挑んだ。


 何も全ての空間が炎ではない。無論、炎のない空白の空間も存在するのだ。その場所をできる限り選び、時に潜り抜けなければならない炎だけを選択して超えて、ガムシャラに前へと走り続ければ、いつかは出口に出る。


「ああああああああああああああっ!!?」


 じゅう。


 焼ける。


 火をくぐり抜ける際、身体中の細胞という細胞から抗議と痛みの大合唱が聴こえてきた。今や炎に当たるたびに、水膨れや黒い火傷が刻まれていく。


「はぁう……があああああああああああああああああああ!?」


 一歩進むごとに、脚が浮き上がりそうになる。一歩進むごとに熱せられた地面が素足と足裏を焦がし、燃えた草の火がちろちろ触ってくる。


「かはっ!出口はまだかよ!」


 異様な熱気と空気が少ないのも、仁の脚を止めようとする理由だ。口の中を噛み切るなどして意識を繋いでいるが、いつ意識が落ちてもおかしくない。


「はっ……ひゅ……あああぅ……ああああああああああああああああああああああああ!?」


 全身に火傷を負い、息さえまともにできない空間で火を踏み荒らし、少女を守るように背負って走る少年。


「あああああ……ガチで焼け石にいいいいいいい!水だっっっっっ!?たな。俺の作戦……」


 浴びた血など数十秒も経たずに乾き、最早役割を果たしていない。火に当たる度、仁の身体は少しずつ、灰へと向かっている。


 お粗末な頭で、うろ覚えな他人の作戦を違う状況で借りパクした当然の結果と言えよう。


「やっぱり……げほっ、血じゃダメだったのかなぁ……あああああああああ!」


 身体は今すぐ停止しようとしていた。炎から逃れるために、転げ回りたいと理性さえ叫んでいる。炎から逃げるために炎へと立ち向かっているのに、身体は今すぐ動くなと訴えている。


「……死ねない!」


 だが背中の少女の肌の感触が、仁の脚を歩ませる。仁を助ける為に、脚を斬り捨てた少女だ。そして利用価値の非常に高い存在だ。そして、大切だった。


「死なせ、ない……!」


 絶対に手放すわけにはいかない。この意識も、少女の命も、自身の命も。


「絶対に、生き残ってやる」





 しかし例え、仁が精神力でどれだけ頑張っても、限界、不可能、無理というのは存在する。


 人がその身一つ、魔法なしで空を飛べないように。


 人が身体強化を使わず、ダイヤモンドを頭突きで砕けないように。


 人がどれだけ息を吸い込んで海に潜っても、ずっと水中に居れないように。


 人がどう願っても、時を止められないように。


 人が酸素の少ない、炎に囲まれた空間で長くは活動できないように。


 意識の綱を一切緩めたつもりもなかった。口の中を血で溢れさせるほどに、小細工を噛んでいたのに。


 言葉もなく仁は無意識の内に、炎がない土の上へと倒れこんだ。熱せられた土が、身体の前面を静かに焼いていくが、彼の目は覚めることはない。


 まさに無意識。もう少年にも少女にも意識はなかった。


 燃え盛る炎が、何もかも燃やしていく。


 全てが、燃え尽きていく。


『変異種のオーガ』


 身長10m近く。仁が滝壺から落ちた原因にして、少女と共に森で交戦した異常な力を持つオーガ。魔法が使える変異種、知能の高い変異種と、なんとダブル変異種である。今回の魔物の大群を率いていた存在。


 通常、オーガは魔法を使わないが、この個体は土魔法を自由自在に操る。思い込み故に、オーガとの戦いではほとんどの者が物理障壁で立ち向かう。しかし、このオーガだけは別者。自分に立ち向かう多くの者が物理障壁と知っているが故に、いきなり魔法判定の岩をその手に出現させ、切り替えられる前に投擲してくる。人によっては魔力眼を怠り、岩は物理と勘違いしたまま突っ込んで死ぬことも。


 また、人間のように罠を貼ったり、突進で止まらずに先回りしたりと、知能が極めて高い。これら二つの変異種であるが故に、シオンは油断した隙を突かれてしまった。


 その上、魔法抵抗や再生能力も通常個体よりはるかに上。生半可な魔法や斬撃では傷すら付かず、例えついたとしても数分で完治する。部位欠損の傷でさえ、一時間もあれば元通りだろう。


 攻撃自体の速度はさほどでも無い為、魔法障壁をしっかりと張ってさえいれば、戦えなくはない。しかし、あまりの耐久力と再生力を誇り、それらを上回る火力がない場合、ジリ貧に追い込まれる。危険度でいえば、並みの騎士数人がかりでやっと安全に狩れるほど。


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