第25話 作戦と脱兎
「命をかけてくれて感謝する」
「礼は終わった後で。失敗する可能性だって、まだありますから」
「僕らが行っても何も変わらないかもだし。もしかしたら、シオンが片脚でオーガぶった切ってるかもだしね!」
片脚のない不安定な姿勢で頭を下げた狩人の感謝の気持ちを、照れた仁は手を振って受け流す。
「おまえ、さっき俺の作戦を偉そうにダメ出ししてたくせに」
「やってみなきゃ分からないというのは、分かります。でも、やる前に確率を上げるのは悪いことじゃないです」
時間の限りより良い方を目指すのは正しいと、じと目を向けてくるラガムを論破。生死が関わる場面なのだ。ほんの0.1%でも確率は上げておきたい。
「やっぱりあの忌み子好きなんだな。まぁ。ありがたいねぇ」
「ち、ちがう……俺が生き残るために、どうするのが最善かを考えた結果、たまたま提案に乗っただけだ!」
しかしそんな俺もラガムの反撃には、やけに長い理由で否定して声を震わせた。でも、その否定は事実でもある。仁の未来までの生存率を考えた結果、ここでシオンを助けた方がいい。
「そんなことはいいから、早く刻んでくれ」
笑うラガムにそっぽを向き、もう一度背中を晒して刃が己の身体を抉るのを待つ。
「そういうことにしといてあげてよ。この子、本当に素直じゃいだだだだだだだ!もうちょっと優しくできないのかい!?」
「今、おまえから刃に身体押し付けてたぞ」
ラガムの虚空庫から取り出された短刀が、自分の背中の皮膚を貫いていくのを感じる。とは言え叫びの通り、僕に痛覚を丸投げしている俺の人格に痛みはない。背中を何かで抉られ、皮膚の下が空気に触れているのを感じる程度だ。
これで、俺は考えられる。
もう一人の自分に聞こえないよう、心の奥深くで感謝する。僕がいなければ、痛みと恐怖でまともな思考が出来なかっただろうから。
僕も頑張っているのだ。自分も頑張らなければ。
「今日は、あの日に戻ろう」
魔物の恐怖を刻まれた今の仁では駄目だ。自分だけ生き残ればいいと思う今の仁では駄目だ。誰かを、名も顔も知らぬ仲間さえ守ろうとした、あの日の仁に戻らなければ誰も守れない。
「思い出せ」
賢き弱者を、誰かを守れる強さをもう一度。守ろうとする理由は違えど、守ろうとすることに違いはないのだから。
(本当に君は素直じゃないねぇ)
背中にたらりと垂れていく赤い雫も、戦場の音も、僕のやれやれと言った声も、遠ざかっていく。
残ったのは拙く整理された、あの日と全く同じように書かれた今の状況。誰もが落ち着いて、意識すればできるくらいの、大したことはない仁の思考のノート。
あの日を思い出せ。自分はどうしてた?
絶対的全滅不可避とも言える戦力差をどう覆した?
いや、どう覆したかではない。その前だ。
「冷静だった」
焦らず、諦めず、目の前の難解に見える問題を解くように。身近にあるものを利用し、地形を活用し、敵の心理を予測し、可能性を可能な限り、できる限り勝利に近づけるよう努力してから、博打を打った。
仁の強みは、そこにあるのかもしれない。危機的状況でも諦めず、冷静に考えようとすること。それをしなかった時、諦めた時、仁は仲間を失った。
「落ち着け」
冷静になれ。その大事さを知っているのが仁の最大の強みで、助けになる。
一ページ目に、世界が変わってから知った教訓を刻み、ページを捲る。
ここからが本番だ。捲り切る前に紙を抑え、食らいつくようにノートへ状況を書き出していく。
Q、今、使える駒は?
A、強化された仁、片脚はないが障壁と魔法は使えるラガム。
Q、敵の数と強さは?
A、数、たくさん。単体では弱いのがほとんど。強い個体も何体か。
Q、地形は?
A、森の中。前回のような作戦は不可能。しかし、他の作戦が取れないわけではない。
Q、武器になりそうな……etc
そして最後のQ、勝利条件は?
A、シオンと、できる限りを救って生き残れ。
この手の中にある戦力から始まり、魔物の数、地形、思い浮かぶチープな小作戦、それを組み合わせた更に大きな安っぽい作戦。そして、勝利条件。
仁とラガムだけでは、魔物の群れを掻い潜るのに全くもって戦力不足だ。真正面から突破できるわけがない。だからラガムは自らを囮にする提案したのだろうが、それでもダメだ。
「あれだけの数を真正面から相手にはできない。つまり、できる限り戦わない」
しかし囮、というより、何かで注意を惹く案は悪くはない。
「何か……気を逸らす……戦わずに済む方法を」
足りない。戦力も情報も何もかも。新たな情報を手に入れに、思考のノートから顔を上げて、現実へ。
途端に戻る風景と戦場の音、垂れていく血の感覚に、冷えた傷跡。感触からして、刻印の進行速度はちょうど半分と言ったところか。
「ラガム……さんはどんな魔法が得意だ?ド派手な魔法とかたくさん殺せるのとかはできたりは?」
「殺傷力なら火だが、森の中では使えん。木々に燃え移って火事になる。派手なのは音を大きくする魔法とかだな。さっき村長に使ったやつだ。風魔法は見えねえから派手さはねぇよ。土と氷のどちらかをオススメする」
彼は初心者にも分かりやすいように教えてくれた。得た情報をその手に、俺は再び思考の海へと沈む。
火魔法、燃え移るから不可。
音魔法、敵の注意を逸らすのに有効。
風魔法、派手さは無いが、注意を惹くのは不可。
氷魔法と土魔法、殺傷力も派手さもあり有用。
爪を齧り、考える。与えられた情報量と書き留めたい作戦で頭がパンクしそうだ。というより、既に一杯一杯で頭からいくつか転げ落ちている。
自分にもっと、絶望的な状況を好転させるような力が欲しかった。いや、それは過ぎた願いだろう。せめて思いついた作戦を全て留められれば、いくつもの物事を並行して考えられる脳味噌が。
「くっ……」
仁の頭では足りない。考えすぎて、頭がどうにかしそうだ。
「分かってんだろ。俺なんてその程度だ。でも、その程度でも出来ることを探せ」
でも、ここで考えるのをやめてはいけない。考え続けろ。賢い弱者になると決めたんだろ?思考停止は何も生まない。
「……足りない。足りない足りない足りない! 」
「おい忌み子!あんま動くな!」
白い爪を噛み切り、そのまま地面へ押し付ける。それは忘れないための、新しい記録。土に描かれるのは、仁が今考えている作戦や事柄達。
駒が足りないなら、取りに行けばいい。シオンを助けて、他の村人も助けて合流して、仁が指示を出せばいい。
そのためには、あの魔物を群れを掻い潜らなければならない。それは今の仁が使える駒では足りない。めちゃくちゃだ。今ある戦力で助けに行くのが不可能なのに、助けた人を駒にしようなど。
「いや、めちゃくちゃじゃない?取りつつ助ける?」
自分とラガムの力だけで突破するんじゃない。他の駒に、突破させてもらえればいい。そして、その上で助ければいいのだ。
「何かで注意を惹く案は悪くはない。ならば、音魔法がやはり最適?」
シオンほどの魔力なら、爆音を鳴らすことだって可能だろう。
銃の音やブザーの音にオークが驚き、逃げ出したのをよく覚えている。しかし今回、これだけの数の魔物が一斉に、ただ音に驚いただけで逃げ出すだろうか。注意が逸れるのは一瞬で、持続性はない。
「銃……ブザー、槍の雨、机、椅子……」
これじゃ足りない。他に何かと、今まで戦った魔物達が逃げ出したり、怯えたりした場面を思い返して、見つけた。
「あった……あった!ははっ!これなら!」
心が熱くなっていく。なのに頭はずっと冷静だった。
「刻み終わった。行けそうか?女の忌み子はなんとか耐えてるが、戦線自体がボロボロだ」
「やる価値のある作戦、思いついた。どちらにしろもう時間はない」
長引けば長引くほど、回収できる駒は減る。シオンもいつまで持つかはわからない。大まかな作戦はできた。とは言っても、大雑把すぎて我ながらに笑えてしまうような、お粗末な作戦。例によって細部まで詰めれていない。
「とりあえず、行きながら詰めよう」
僕から漏れ出たヒリヒリと焼け付くような背中の痛みと、煮え滾るマグマのような熱さが全身へ広がっていく。力が、溢れ出てくる。
「多分、発動してる」
「僕のおかげだよ!後でたくさん褒め称えてね!」
「ああ、生きてたらいくらでも……どうぞ」
「どうも」
紋様が刻まれた血塗れの背中を服で隠し、ラガムを担ぐ。担いでいる感触はあっても、体重はずっと軽く感じる。これが、魔法なのか。
「余裕だ。ずっと走ってられそうだ」
「頼んだ。忌み子……仁」
背中から聞こえた願う声と、呼ばれた名前に驚いて、今一度決意を固めよう。
敵は魔物の大軍、立ち向かうは手負いと、臆病者の賢き弱者。救うは恩人ついでに囮となる他人。
この世界で、必ず生き残る。これはそのための手段だ。
自分もシオンも、村人達も、
「救うぞ」
(がんばろー!)
あくまで自分中心な、人助けが始まる。
「ラガム。作戦は走りながら。力を使わせてくれ」
「家族を救うために仕方なく貸してやる。急げよ」
「もちのろんさ!」
歩いてきた道を何倍もの速度で引き返す。徐々に大きくなる戦闘音と、風邪を切る音が混ざり合って鼓膜を揺らしている。
既に作戦の擦り合わせは済ませた。結論から言えば、充分に可能。後は実行に移すだけである。
「こんなに早く走れるのかよ」
「徒競走なら一等賞。オリンピックなら金メダルだね。本当にこの世界の魔法、頭おかしいよ」
シオンの背中におぶられた時と同じような速度で、自分が走っている。まるで小説や漫画に出てくる英雄みたいな超人的な身体能力で、森の中を疾走している。
仁だって男の子だ。魔法が使えている、超人的な力を得た。その事実に高揚を覚えないわけがない。
「おい、限界には気をつけろ。痛みを感じたら強化を弱めるんだ。じゃなきゃ筋肉が千切れるぞ」
「分かってるって。さっきから何度も聞いたぞ」
「でも……こら、前前前!」
(あわわわわ!俺君、右か左に!)
とは言え、強化された能力に制御がまだ追いつかない。危うく木にぶつかりそうになるも、ラガムと僕の注意に間一髪で避ける事に成功。事なきを得た。
「暴走した馬よりあぶねぇなこいつ。もうすぐ着くんだ。気引き締めろ」
「そっちこそ手筈通りに」
今の内にこの速度や感覚に慣れておかないと、いざという時に困る。シオンを助けに行ったのに、強化に慣れてなくて滑って転んで魔物に食われましたでは話にならないし、死んでも死に切れない。
「ここで大丈夫か?」
「ああ、この距離なら大丈夫だ。戦線の崩壊は大分前からだが、壁自体が破られたのはついさっき。後1分くらいで俺らも魔物とぶつかる」
「その時は警告と方向を教えてくれ」
「いや、本当に助かるよ!」
ラガムの系統外の索敵に頼り、仁は脚を止める。未だ魔物の姿も人の姿も見えず。戦場だって音だけで全く見えやしない。
だが、ここだ。作戦の始まりはこの距離だ。
「すぅ……はぁ……」
落ち着く為と、準備の為の深呼吸。深く息を吐き、深く息を吸う。ラガムは背中から降りて、少し離れた場所で耳を塞いだ。
胸が高鳴る。鼓動がうるさい。これをやったら、もう逃げられない。この道の先にあるのは生か死か。希望か絶望か。
「死にたくない」
だが引き返した未来も、緩やかな死の結末がほとんどだろう。
「生きたい」
だから、ここで戦うしかない。生きる為に命を張るしかない。
さぁ、叫ぼう。声の限り。魔法はすでにかけられた。
『シオォォォォォォン!森を!全力で燃やせえぇぇぇぇ!』
大音量。最大音量。鼓膜破りの爆音。仁の声に木々はびりびりと震え、鳥は飛び立ち、木の葉が舞い落ちる。
「仁?そんなことしたら、この森が焼けて……」
音魔法によって拡声されたその声は、距離を超え、木々を渡り、空気を伝い、村人にも戦場の少女にも、彼女を押し潰そうとしているオーガにも、ゴブリンにも等しく届き、戦場の時がまた止まる。
「おい、忌み子、炎が上がらねえぞ」
しかし、指示にあった火の手は上がらない。タブーとも言える森の中での火の魔法、それも森を燃やすために使えと言われても、シオンには意味がわかるわけもなく、そう簡単に実行に移すわけもない。
『頼む!こうすれば助けられるんだよ!俺を、信じてみてくれ!』
そんなシオンの心情は見えなくとも、返事は無くとも、仁にはお見通しだった。仁だって、逆の立場なら混乱するだろうから。
シオンが自分に抱いているであろう好意まで利用して、彼女ににわからないまま、仁の言うままに行動してくれと頼む。
「……きっと大丈夫だ」
お人好しで甘々なあの少女なら、こんな仁のことさえ信用すると、仁はシオンのそんな性格を信じた。
「「しゃあ!」」
結果は、視線の先で天高く火柱が舞い上がり、弾け飛んだ火の玉が辺りへと降り注ぎ、森が燃えだした。
「よし、第一関門突破だね!」
『いいぞ!そのまま森に火を撒き続けてくれ!消火はしなくていい!』
「忌み子、今だ!魔物達の動きが鈍った!」
音魔法で注意を惹き、さらにド派手な炎魔法で魔物の視線を釘付けに。できた隙を縫うように、仁はラガムを再び背負って戦場へと向かう。
筋肉が崩壊しない最大速度で、壁を越えてきた少数の魔物の横を通り過ぎていく。こいつらに構っていてはキリがないし、相手をする必要もない。
「作戦通りだ」
数分もかからない短い道中。その間に仁へと目を向ける魔物は皆無に等しく、ほとんどが必死に逃げようとしている。理由は目の前の燃えている木々だ。
普通、森の中で火を使う時は最大の注意を払うだろう。木々に燃え移った炎をそのまま放置しておけば、森そのものが焼失しかねない。それを止められるのは、雨か消防隊のどちらか程度。
消防隊など存在しないこの世界において、森の中での炎は非常に危険である。初期の段階ならば、水魔法で止めることもできるだろう。しかし、初期に消火できなかった場合、被害は止まることを知らない。
その止まることの知らない被害を魔物の殲滅、及び逃走の誘発へ利用する。それが仁の考えた作戦だ。
「動物ってのは基本的に火を怖がる。それはきっと、魔物も例外じゃない」
この作戦を思いついた時に、脳裏を過ぎった光景。あの日、火だるまとなったオーガから、火から逃げようとしたゴブリン達。あれがヒントだった。
「これで魔物の大軍は八割ぐらいは逃げてくれる……と嬉しいな」
「確証はない。だが、やる価値はある」
倒せる可能性のある強敵に、武器を持った大軍で挑むのならまだ理解はできる。
しかし、倒すことなんてできやしない、全てを灰に返す大火に武器を持って挑む輩は、いくら魔物にもいない。それくらいの知恵、いや火を恐れる本能があるはずだ。
(ひゃー。よく考えたね)
「考えたと言っても、ただ燃やすだけだ」
と、まぁここまで偉そうに効果などを語ったが、要は火事を起こしただけ。燃やすだけという何の捻りも無い作戦。
だが、それでもいい。結果が出るならそれでいいのだ。この世界では結果が全てなのだから。
「まじかよ。魔物が逃げ出してやがる……おまえ、天才なのか……?」
「だ、だからそういうのじゃない!」
ラガムの掛け値無しの賞賛に、俺は照れて焦って慌てて否定する。だが、それは事実だ。こんなこと天才でもなんでもない。ただ、ラガムにとっては大事な森が、仁にとってはただの地形に過ぎなかっただけだ。
「ウチの子が恥ずかしがって使いモンにならなくなるから、その辺にしておいてあげて」
全て作戦通り。地形を生かし、心理を読み、無駄な戦闘は極力避けた。後は、この炎の壁の向こうに残っているであろう残党から、シオンと村人を救い出すだけ。
「でも、こっちの作戦の方が確率は高い」
自身の考えた作戦が上手く進み、得意気な様子の仁だが、
「見捨てようとしてた癖にな」
「……」
「まぁ俺は大事なものを助けてもらえれば、それでいいのさ。この炎の向こうだ」
背中から飛んできた、相変わらず痛いところを突いてくる声に押し黙る。無視に近い態度にラガムは鼻を鳴らすが、本気で怒ってはいないようだ。
「……熱いな」
熱目を焼くような赤の色合いと熱気に顔を顰めながら、炎の壁に近づいていく。舞い上がる煤で肌に黒い点が付き、全身が熱かった。
だがこの壁を越えなければ、シオン達には辿り着けない。
「あちちちちち!?アッツ!?俺君!ねぇこの炎の壁熱くて超えられないんだけど!」
「……」
痛覚担当が内心で転げ回るのを見た俺は一歩炎から遠ざかり、壁を見つめ続ける。
「おい、忌み子。さっきからだんまり決めてやがるが……おまえ、もしかしてこの炎の壁を超える方法考えてねぇな」
「どうしようか。まさかここまで火の回りが早いとは思っていなかった」
壁を越えるのに躊躇しているのではなく、完全に想定外の事態だった。
「帰りはどうするかというのは考えてたんだが」
仁のプランとしては、炎が回る前にシオンの元へと着く予定だったのだ。シオンを助け、彼女に逃げ道を作ってもらおう。そう思っていた。
「まさか行きの時点でこんなに燃えてるなんて早すぎる……いや、普通がこの速さなのか?」
「おまえ、もしかして魔法の炎と普通の炎一緒にしてねえか?魔法の方が燃え広がるの早いぞ」
「っ……先に言ってくれ」
ラガムから告げられた新事実に、仁は頭を抱える。不自然なまでに早いと思ったが、そんな理由があったとは。例え最善で行けると思っても、想定外のことはいくらでも起こると改めて思い知らされる。
「人が通れるくらいの場所だけ消せるか?」
「はぁ……もう魔力あんま残ってねえんだぞ。せーので飛び込め。そう長くは消せん」
「ラガムさんって頼りになるね。それに引き換え俺君と来たら……かっこつけたらこれだっアチチチチチチ!やめて!火に近づかないで!」
アクシデントの対応を即座に考え、ラガムという駒を使って実行させる。彼がいてくれて本当に助かった。
いつでも炎に飛び込めるようにと、俺は一歩距離を詰める。決して、余計なことを口走ったやつを火炙りにするつもりではない。
「準備できた」
心と身体の準備の二つの意味合いで、片方は自分に、もう片方はラガムに向けて伝える。
「ん」
「どんと来い!」
それに頷いたラガムと、これからの痛みに耐えるように目を瞑った僕。彼らの準備も、できた。
「行くぞ……せーのっ!」
ラガムが水魔法を前方に照射したのと同時に、僅かに空いた炎の隙間へと飛び込む。
「〜〜〜〜ッ!?」
炎はある程度消えても、熱いことに変わりはない。踏みしめた地面から伝わる熱が、数秒の間で靴の中の足が燃えてるかのように錯覚させた。
「はぁ……はぁ……熱い……!」
消し損ねた炎が仁の髪や服を焦がし、熱風が身体を撫で付ける。さっきよりも勢いの激しい煤の嵐が、全身に小さい火傷を量産していく。息がしにくいのも辛い。酸素を求めて肺が喘いでいる。
俺の人格に痛みはない。だがここに長居すれば、死ぬことだけわかる。なぜ、楽しい時間は早く過ぎ去るのに、苦痛の時間はこうも長いのだろうか。僅かな距離が終わらず、数秒が数分にも感じて、
「ぷはっ!」
ようやく、冷たい新鮮な空気を全身に浴びれた。後方が熱く、前方は涼しい不思議な感覚。進むごとにその比率は前へと傾いていく。仁は炎を抜けたのだ。
「急遽できた第二関門突破!でも、ここで終わりじゃないよね」
「当たり前だ。こっからが、本番だ」
あちらこちらの皮膚が焼け爛れているが、とりあえず動けるから後回しだ。仁の身体は既に傷だらけで、火傷の跡など今更である。
「ラガム。生きてるか?」
「はっ、こんくらいで死ねるかよ。けどまぁ、俺の役目はここまでだな。ほら、お前の剣だ。魔力量には気をつけろ」
「俺には魔力量が見えねえんだ。あとどれくらい?」
「ざっと半分だ」
「なら大丈夫。そんな長い勝負じゃない」
まだ火の手の及んでいない地面にラガムを降ろし、虚空庫から剣を受け取った。最後の忠告を正面から受け止めて、目を閉じ、戦場へ体を傾ける。
シオンと一緒にいた間、ずっと振り続けた剣だ。指にしっくりと馴染み、長年の相棒のようにさえ感じて。
目を見開き、前を見る。少し開けた、というより戦いで木が折られ、見晴らしの良くなった平地。
「旦那さん。頑張りましたよ」
魔物の数は大きく減ったが、まだ何十匹か残っている。それらと戦うのは、女や老人ばかりの村人達、動けないラガムの姿を見て、一人の女性が駆け寄ってきた。彼女にラガムは任せ、仁は他に目を移す。
大きく損壊して死んだ魔物達が、そこらかしこに積み重ねられている。時折混じっている肌色は、壊れた人の骸。飛び散った血と内臓が、地面を紅色に染め上げていた。
そして、骸の更に向こう。燃え盛る炎を背景に戦う、どす黒い血に塗られた少女と、拳を振り下ろすオーガの姿。
「なんで座って……」
岩をも砕く威力の拳を障壁魔法で封殺。オーガの空いた手から投げられた岩の雨全てを、座ったままのシオンは白銀の剣で斬り砕き、防ぐ。
「脚が」
仁から見えるシオンの脚は、本来向いてはいけない方向へと折れ曲がっていた。彼女の顔は苦痛に歪み、眼からは涙が溢れ出ている。
怪我は脚だけではない。シオンが動く度に腹部から新鮮な血が溢れ出て、古い黒い血を赤く塗り替えていた。
ここからだと傷の度合いが見えないが、もしシオンがこのまま戦い続けたなら魔力切れか、体力切れのどちらかで死に至ることだろう。
「治癒できてないんだ」
剣速からして、身体強化を使っていることは明白ま。つまりシオンはその間、治癒魔法が発動できない。
「それに、見覚えのあるやつだなぁ……」
対するオーガに仁が覚えたのは、既視感。忘れない。忘れられるわけもない。恐怖で色濃く、そして、鮮明に刻まれた記憶が教えてくれる。自分のトラウマの権化、象徴とも言える、あの時滝で仁を襲ったオーガだ。
全身の震えが止まらない。冷凍庫に閉じ込められたみたいに寒気がして、頭から考えが全て、白紙のノートみたいに消えそうになって。
「目っ……覚ませっ!」
自分の頬を殴りつけようとして、強化を切り忘れていたことに気づくがもう遅く。
「あっいだ!?ちょっと俺君!?君自分の身体なんだよ!もうちょい大事にしてくれよ!けどまぁ、落ち着いた?」
完全にはオフにできず、いつもよりずっと強い威力の拳が口を切り、僕がまた不満を訴えてきた。最も、彼のおちゃらけた態度の真の目的はきっと、俺の緊張をほぐすためなのだろう。
「ああ、大丈夫だ。大丈夫」
ミスらなければ、死なない。全てが作戦通り進んだなら大丈夫だと、自身に言い聞かせる。唇の端から垂れた血を舌で舐め、観察を再開する。
あのオーガは、他の村人にも後ろから迫る炎にも目もくれず、執拗にシオンだけを狙い続けている。本能的に、彼女以外を脅威ではないと判断しての行動か。
「動ける村人は……ざっと十名ほどか」
どの村人達も、魔物との相手か負傷者の手当てで必死だ。シオンを助ける余裕もないのだろう。彼らを今、戦力として数えるべきではない。
ならばやはり、仁がやるしかない。
「まだバレてないな」
シオンもオーガも、仁がこの戦場に来たことに気づいてはいない。今だ。今だけがチャンスだ。仁が活躍できるのは、今だけだ。
自ら選んだ傷跡が、仁に魔法の力をくれる。勝負は一瞬。ここに全てを、今まで培ったわずかな経験を込めろ。
さっきまでとは違う、本気の一歩。ラガムという重りを降ろし、複雑な森ではない、気を使わなくていい地形。目標に向かってのコースは、ただひたすらに一直線。
巨体故に的は大きく、動きの少ない部位。
「せああああああああああああああああああああああああああ!」
狙うはその脚。いくら身体強化を手に入れたとはいえ、仁は仁。丸太を三本も束ねたような足を切断する技術は到底ない。シオンの技術は努力と蓄積された経験の結晶なのだ。たかが剣術歴一ヶ月程度で追いつけるわけもない。
「けどねっ!」
切断は無理でも、力の増した今ならきっと、刀身の半分を肉に沈めることくらいは、できるだろう。
「もらっ」
突進した勢いのままに、不意を突く形で剣をオーガの脚へと突き立てた。石か何かを突いていると錯覚するほどの硬さだが、今の仁なら、貫ける。あの時とはもう違うのだ。
「たああああああああああああああああああ!」
「仁!?あなたじゃ倒せ」
「倒す気はさらさらないっ!」
シオンとオーガが突然の乱入者に気づき、戦いに一瞬の空白ができる。互いにどうしようか思案しているのが見て取れる、僅かな隙間。
ここしかなかった。化物同士の争いに仁が介入できるのは、今だけだった。
オーガの巨体と再生力の前では、無意味とも言える程度の傷だ。実際、もう既に再生してきた肉で剣が押し出されるのを感じる。
前はここで勝ったと思って、負けた。だからその次の、確実に勝利へと繋げる一手を打たねばならない。
思い出すのはシオンとの魔法の講義。
「形は想像力、大きさは魔力……それが魔法。なら!」
思い浮かべた形は、牙。肉を食い千切り、血をすするための牙。豊かすぎると指摘された想像力で、仁は世界に氷の牙を思い描く。
「骨の髄まで、食い荒らせッッッッ!!!」
背中に刻まれた傷と、刀身に刻まれた刻印をフルで解放する。具現化した氷の牙が想像通り、オーガの脚の肉を食い破り、侵略し、蹂躙していく。
オーガは表皮だけではなく、体内の筋肉も硬い。しかし、身体の内側まで表面と同じくらい堅いなんてことがありえるだろうか。
仁はその賭けに勝った。勢いは中だけに止まらず、溢れ出た氷が皮膚を突き破ったのだ。肉のスペース全てを、氷が埋めた証拠だ。
「……よしっ!」
片脚から氷を生やし、膝をついたオーガを確実に見届ける。目的を果たした剣を手放して、仁はシオンの元へと駆け寄っていく。
「ほらっ!」
「えっ!?」
そして手を差し伸べて、
「とっととずらかるぞシオン!乗れ!」
「あ、ありがとう……」
繋いで繋がれた手で引っ張り上げた少女を、血で服が張り付いた背中に乗せ、仁は脱兎のごとく逃げ出した。
『魔法刻印 / 刻印魔法 / 刻印』
物体に直接陣と魔力を刻むことによって、物体に魔法を発動させる方法。
発動時に魔力が一切必要ないというのが、最大の利点である。魔力を持たない日本人でも発動が可能。とはいっても、刻む際に魔力はしっかり必要になるので、魔力を持った異世界人がいなければならない。
陣に刻める魔力の量は、魔法の種類や刻印の大きさによって決まる。同じ大きさの場合、魔法陣よりも多く魔力を注ぎ込める。しかし、陣は発動の際に術者の魔力をある程度使う為、使用回数的にはさほどの変わりはない。
筆と魔力さえあればほぼ全てのものに描ける陣とは違い、刻むとなると難易度は跳ね上がる。
陣と形は共通で、系統外のものが非常に少ないのも同じ。しかし性質には多少の違いがあり、注意が必要。まず、魔法陣は魔法を発動するのに対し、刻印は魔法を刻まれた物質そのものに反映する。
例、身体強化
・鎧に身体強化の陣を描いて発動した場合、発動者の意思によって自分、もしくは鎧などの他の物質を身体強化することができる。
・鎧に身体強化の刻印を刻んで発動した場合、鎧が身体強化される。つまり意味はなし。
例、氷の刃
・左手に陣の紙を握って発動した場合、直接右手に氷の刃を創成することができる。
・左手に刻印を刻んで発動した場合、刻印の上に氷の刃ができる。直接右手や頭上には創成できず、必ず刻印を起点にしなければならない。
このように自由度の低さ、刻む手間、持ち運びにくさ、陣より僅かながらに魔法の効果が弱まるなど、欠点も多い。結果、多くの者が魔法陣の方が楽だと、そちらへと流れてしまった。その上、なぜか刻印は禁術に指定されて世の中から抹消されており、復元されたのはつい最近。知っている者はごく少数である。




