第59話 悲しみの仮面
二ヶ月近くも空いてしまい、誠に申し訳ありませんでした。少しだけ落ち着いたので、ゆっくりとにはなりますが、更新を再開させていただきます。
プリムラ・カッシニアヌムは善人ではない。妬みを向けてくる他者を見下し、踏み台として扱い、心無い言葉を投げる。気遣いなど滅多にせず、流石に面倒を避ける為に一般人を巻き込むことはないが、街中でも平気で戦闘を開始する。嫌いな妹と緑眼鏡の不幸は蜜の味で、自分を否定する者には誰であろうと牙を剥く。
近頃は少し丸くなったものの、自己中心的であることは変わらない。世界を思い通りにしたい。善悪だとかよりも、自分の欲求を優先する。自分の感じたいように感じ、自分の考えを正しいと思い行動する。
暴走することもある、危うい価値観。間違いを正しいと信じ続けたばかりに、多くの犠牲を生み出してしまうかもしれない。
しかし今日、彼女は人を救った。不愉快だったからだ。我が身を捧げてまで赤の他人を救おうとする騎士に、多少の敬意が芽生えたからだ。友達の期待に応えたいと考えたからだ。悲しませたくないと思ったからだ。その為に仮面の子供を十三人、殺害した。
救いたいと思えば救う。殺したいと思えば殺す。彼女は自分に忠実だ。故にあれこれ考えない。揺らがない。自らが正しいと信じた道を突き進む、苛烈な正義。言葉だけではなく、行動で己を示す強者。
その迷いのない姿に三人の騎士は敬意を、警戒心を、祈りを抱いた。誰よりも早く、悩むことなく人助けを行なった彼女に。誰よりも早く、悩むことなく人殺しを行った彼女に。そしてどうか、これからも彼女が正しい道を進み、敵になることがありませんようにと。強さ云々ではない。彼らは尊敬したプリムラに、剣を向けたくはなかったのだ。
彼女の在り方は、良くも悪くも人の目を惹きつけた。ある者は心酔し、ある者は恐れた。彼女は血塗られた戦場においてこそ、最も輝いた。
「……」
年齢の割には異常な強さではあったが、一対一となれば騎士に軍配が上がる。プリムラが五人を殺害する間に、騎士もそれぞれ自分が担当した子供を片付けた。幼いからといって手加減はできず、生け捕りも難しく。故に命を奪うという方法でだ。最後まで子供たちは無言のままで、断末魔すらあげなかった。
「ああ……これで良い。これはこれで良いのです。彼らは解放されました……今、安らかに」
残るは本丸、白い仮面の下で歓喜に震える大人がただ一人。立ち振舞いはプリムラ以下、精鋭以上。しかし、死角の攻撃をかわすなど妙な鋭さあり、勝利の確信はまだ早い。
「あなた達は撤退するか、他と合流しなさい」
「なにを」
「疲れてるでしょう?それに、ここに救える人はいないわ」
隣に並び剣を構えた騎士へ、学生は傲慢にも撤退を命じる。従う必要のない命令だが、内容はまたもや的確だった。八人相手に三人で行った時間稼ぎの疲労は、確実に騎士を蝕んでいる。プリムラの全力にはついていけず、邪魔になるだけ。少しでもいいから休憩を挟み、違うところで役に立てと。
「いるのは殺すべき敵だけ。あとは私がやる」
「しかし、貴女はまだ子供で」
「子供だけど遥かに強いわ。助けが必要なのは誰?」
「……了解」
正論だった。彼女はまだ子供ではある。だが、その強さは騎士とは比べものにならないほどで、覚悟は騎士と同等。ならば助けるべきは彼女ではなく、人質の方だ。おそらくではあるが、この部屋で全てが終わりではない。もっと多くの人員がいるはずだ。そこに人手が必要なはずだ。
「どうか、最後の最後まで油断なさらぬよう」
「ええ。あなたたちこそご武運を」
大人としては従い難い。だが、騎士としては従わざるを得ない。最後に無事を祈る言葉を残し、騎士は背を向け走り出した。
「生き永らえるなど!生き永らえさせようなど愚かなことです。が、彼らがいます!」
「あら、お仲間?」
「いいえ!決して仲間ではない!彼らは嫌悪すべき悪です。あくまで利用しているに過ぎません」
撤退した三人を嗤う男。その言葉の中から拾い上げ、餌を垂らせば彼はすぐに食いついた。やはりだ。やはり、仲間がいた。男のように狂人ではないだろうが、それでも誘拐し、殺人を強要するような悪党どもが。
「素直に吐くつもりは?」
「彼らの存在は有用です!私が自らの理想を阻むことなどありえない!」
一応は尋ねた。が、答えは予想通りの拒絶。吐き気を催す意味だった。男は善人を殺害させる為に、悪を助けた。悪に力を貸していた。
「そう。なら遠慮なく」
「遠慮しなさい!貴女は救済を邪魔しているのですよ!」
元より生け捕りはプリムラの本意ではない。そういう意味では、口を割らないのは好都合だ。抑えかけた激情を解放。心のままに殺人を、憂さ晴らしを、この世界からの排除を開始する。
(切り札は何かしら?)
とはいっても、全力は出せない。正確に言うなら、プリムラは迂闊に動くことができなかった。はっきりと言うならば、男は彼女の敵ではない。二枠でも余裕で殺せる程の差がある。
(この私を相手に一歩も引かない。絶対に何かがある)
だが、彼に撤退の意思はない。剣を手に魔法を用意し、プリムラに挑もうとしている。彼我の力量を容易に逆転させるような系統外か。彼には何らかの切り札があるはずだ。
(見えない場所からの攻撃を防げて、かつ私に勝てるとするなら)
思考の海に潜る。死角からの攻撃を防いだことと関連する系統外。単なる千里眼ではないだろう。それだけで挑むのは大いなる愚か者だ。もっと強大な別の何か。
(因果干渉、思考誘導あたり?)
『記録者』の記録にはなく、朧気な伝承だけが残っている前者。そして『記録』に二人の名がある、実在した後者。流石にこの二つのどちらかなら、プリムラでも分が悪い。
(あるいは二つ持ち?)
別の可能性に至る。それは死角を防いだ千里眼に類するものと、単純な切り札のもう一つ以上を併せ持つというもの。二つ持ちは極めて稀ではあるが、存在しないわけではない。
(こっちの方が楽だけど、特定はまだできてない)
あくまで確率的にではあるが、可能性が高いのは複数保持の方だ。因果を捻じ曲げるような怪物を相手にするよりは気が楽とはいえ、予想が一切つかないというのも不気味である。
(一気に……いや、探る方がいいわね)
使用させずに殺すことも考えたが、リスクの高さから却下する。理解不能な相手に対し、攻めに傾くのは得策ではない。思わぬ一撃で全てがひっくり返るかもしれないのなら、
(陣と枠一つずつで、様子を見る)
使用させること自体にリスクはある。だが、何の備えもない中で使われるよりはまだ良い。故にプリムラが選択するのは、一枠を残しながらの戦闘。
(ただし、時間稼ぎの動きを見せない限り)
時間経過で完成するような系統外である可能性を踏まえ、例外を追加する。そのような素振りが少しでもあれば、三枠を解放して仕留める。方針は決まった。思考の海から浮上し、現実に戻る。
「邪魔するわよ。そんなゴミ以下の望まれない救済」
確実に殺す為に手を抜く。できるなら、あるいは時間稼ぎでも殺す。油断はしない。
「ゴ、ゴミ!?ああああああ……!貴女は!貴女は!」
氷と鉄の双頭刃四本を糸で操り、部屋をゆっくりと巡らせる。男は怒りのあまり剣先をプリムラに向けて喚くだけで、短剣を見ていない。一秒、二秒、三に差し掛かる瞬間、刃を加速させる。操風による後押し。方向は東西南北の四方向から。一本か二本は必ず死角に入る。だが、
(やっぱり見えてる)
男は背後に展開した土壁で死角からの二本の時間を稼ぎ、その間に正面の二本を対応。両手剣で順に魔法の糸を断ち切り、制御を殺した。
「この世は闇だと、辛く苦しいものだと思わないのですか!」
対応自体も悪くはない。短剣そのものを破壊するのではなく、操っている糸を断ち切った。短剣を真っ二つに折ったとしても、糸が繋がっている限り止まらない。傀儡魔法と戦った経験があるのか、あるいは初見で判断したか。
「思わないわよ。私、恵まれてるし」
しかし、関係なかった。糸を断ち切られた短剣を操風で引き寄せ、再度接続。そう、プリムラの魔力がある限り、何度でも繋ぎ直せる。短剣を壊しても予備がある。氷刃を壊しても生やすだけ。
「妬みを向けられたことは?」
「弱者の遠吠えって気持ちよくない?」
やはり弱い。サルビアあるいはザクロならば、短剣も氷刃も糸も全て一撃ないし、一連の動作で断ち切るはずだ。忌々しいプラタナスとルピナスは、一つの魔法で蒸発させるはずだ。そうなればプリムラは虚空庫から短剣を取り出し、氷刃を装着させ、糸で繋ぐという三つの作業を強いられた。しかし、糸を繋ぐだけなら一瞬だ。
「貴女はよくても、他の方はどうでしょうか?」
「どうでも」
「辛かったでしょう!悲しかったでしょう!どれだけ努力しても越えられない存在が息をしている!妬み、嫉み、羨み、苦しくなる!」
復活した四本を差し向ける。軌道を変えて加速と減速を繰り返し、より変則的にジグザグに男をズタズタに切り裂く為に。細く白い指先が踊り、繋がった糸が視界に光の線を描き、短剣が空中を切り裂き二色に煌めく。
「しかし、死は平等です!誰にでも等しき安寧。まさに理想!天国です!」
男も粘る。器用にも演説しながら後退し、四本の短剣の軌道を視認して、予測。右に走り出して引きつけたところで、左へと急な方向転換。短剣を繋ぐ糸を絡ませるのを狙ったのか。
「現に彼らは今、悲しみも苦しみもない。真の幸せの中に」
「うるさいわね」
「っ!?」
怒りに震えた。男ではなく、プリムラがだ。一つ目の理由としては、その程度の撹乱で糸が絡まると舐められたこと。確かに、傀儡魔法の技術は未だルピナスより劣る。だが、類稀なるセンスと短い半月の練習でその差は縮まった。雑魚相手に糸を絡ますようなヘマを、するわけがない。
「……残された人の悲しみはどうなるのか、ですか?」
少女の細い腕が跳ね上がり、掌を地面と垂直に、指を空中に走らせる。四つの軌道の高さを変え、縦一列に揃えることで糸が絡まることを防いだ。
「聞き慣れた反論です!ですから私も、言い慣れた反論を!」
しかし、同時に糸も縦一列に揃ってしまう。今なら一振りで全てを断ち切られる。男は活路を見出し、飛びついた。嬉々とした表情で十字剣を振り被り、短剣を迎え撃つ。
「死ねばいい!死ねばその悲しみから解放されます!」
狂気でありながら筋は通っている理論と共に、剣を振り回す。間違いではない。死ねば悲しみが消えるのなら、残された人も皆死ねばいい。繰り返せば、いつかは善人の悲しみが世界から消える時が来る。
「死にたい奴は勝手に死ぬわよ。それに私、論争をしに残ったわけじゃないの」
間違いではない。が、知ったことか。勝利するのは正論ではない。強者だ。強き者が掲げた論理を前にして、弱者の論理はあまりにも無力だ。
「貴方を殺す為にここにいるの」
十字剣が触れる寸前に、糸が消える。なんてことはない。傀儡魔法を解除しただけ。剣は虚しく空を斬り、短剣は操風にて宙を駆ける。向かう先は男の眉間、首、胸、腹の四箇所。全ての糸を断ち切れると信じていたが故に、男は土の壁は展開していなかった。
「……っ!」
今から築いても間に合わない。だから男は防ぐことを諦め、回避に徹した。風魔法を暴発させ、自ら後方へと吹き飛んだのだ。砂埃を巻き上げ、背後の壁に激突して息を吐き出し、手落としかけた剣を握り締め。
「貴女の殺人は独善的だ!嫌いだから、不愉快だから?何の大義もない殺人など、許されるわけがない!」
短剣とそれを操る魔女を見据え、叫ぶ。ただ怒りのままに戦うプリムラを否定する。大義で殺人が許されるかどうかは置いといて、他は全くもってその通りだ。彼女は今、大義ではなく感情で男を殺そうとしている。
「それは意に従わぬ者、理想に沿わぬ者の排斥です!」
「排斥するわよ。ロウニを巻き込んだんだから」
まだできたばかりで、距離感も上手く掴めない。気を遣わないというわけでも、何でも話せるわけでもない。距離が縮まったかと昨日思っても、今日はなぜか遠くに感じてしまうような、不慣れな新しい関係。でも、友達だ。絶対に友達だ。プリムラはそう思っている。ロウニはあの夜にそう言ってくれた。だから、大切だ。気を遣って今回頼ってくれなかったことは、悲しくも嬉しくもあるけれど。
「誰ですか?」
「私の大切な友達よ」
せっかくできたのだ。なってくれたのだ。そんな彼女に手を出しかけた。家族よりも守るべき身内と認識している、友にだ。あの夜、全てを壊したいと願うはずだったあの夜に、良いことを混ぜてくれたロウニにだ。
「……私には、それくらいしか思いつかないの」
何かを返したいと思う。だが、自分に何があるだろうか。頂点に立てない、中途半端な強さだけだ。ならば、その中途半端な強さで何ができるか。何をしてあげられるか。
「強さしかない私ができるのは、精々守ることだけ」
今まで全て見下す為に、己の為だけに用いてきた強さを、友が為に。何より、友を守りたいと思う己の為に。
「あなたはこれから先も、世界中の人を殺し続けるんでしょう?」
「ええ。解放こそが私の全てです」
「よく言ったわ。害虫」
互いに譲れないなら、曲げられないのなら、最早殺し合うしかない。世界はそういうものだ。そういう世界だ。だからプリムラはその強さで友を覆うことを決め、男はそんな世界から善人を解放しようとした。
「彼女は私に一度も、死にたいなんて言ったことがないの」
「死ねばわかります」
信念のぶつかり合いが再開する。思いの丈に大差はない。
だが、一方的だった。
「しぶといわね」
よく頑張った。僅か二分をよく耐えた。例え一度も触れることも叶わず、一方的な蹂躙であったとしても。あのプリムラを前によくぞ、凡才が鼓動を守りきった。
「本当、くだらないことの為に」
「くだらなくなどありません!」
そうだ。凡才だ。彼には特筆すべき才能がおそらくなかった。剣も魔法も頭脳も立ち回りもなにもかも、天才と呼ぶに値しなかった。唯一与えられた『十里眼』も、『多重発動』の系統外には及ばない。しかし、男は耐えた。
「私は、私は!なさねばならない!」
経験だ。ひたすらにひたむきに、ただ世界中の善人を解放したいという想いだけを支えに、男は自らを鍛え続けていた。磨き上げられた身体と経験の鎧で、彼はプリムラを相手に数分という結果を得た。
それくらい、プリムラにもわかる。本能ではない、双頭刃の軌道を見てからの判断の速さ。柄と手が結合されたかのような、染み付いた剣の軌跡。なにより理解させられたのは、魔法だ。研ぎ澄まされていたのだ。まるで妹のように。
男にもしも、プリムラやサルビアの程の才能があったのなら、勝敗は違ったはずだ。ただプリムラと男の間には余りにも大きな差が、始めから横たわっていた。
「その身体で?」
「ええ。そうですとも」
努力した凡人は、努力した天才には敵わない。血の雫が作った水面の上。右腕は肩から先がなく、腱の断たれた右脚はずるずると引きずる重りと成り果て、左脇腹には切込みが一筋。痛みに荒い息を吐き、ひび割れた仮面の奥から顔を覗かせ、耳を始めとして身体のあちこちを削がれてもなお、
「世界に解放を!救済を!」
その眼は輝いていた。男の心は微塵も削がれていなかった。絶対的な差を前にしても、絶望的な戦力差があったとしても、最初から負けると分かっていたとしても、男は諦めなかった。前に進み続けた。戦い続けた。
全ては理想の為に。
「私は負けられないのです!」
仮に違う理想であれば。もっと普通な一般的な、誰かを守る騎士の姿などを男が願い、その為に同じだけの努力を積んでいたのならば。
「負けるわよ」
しかし、その未来はなかった。目の前にいるのは善人を殺戮する狂人だ。どうしようもない、ただ普通に生きる人を殺そうとする世界の、いや、プリムラにとっての害虫だ。
「気持ちだとかそういったものでは、埋まらないの」
無論、害虫と足掻く。しかし心は変わらずとも、傷つけられた肉体では精彩を欠いた。ましてや隻腕で片脚ともなれば、いくら十里の全てが視える眼であったとて、身体が追いつくわけもない。
「あ……」
視えるだけ。男の眼には致死の軌道が視えるだけだ。その時の彼の気持ちは、如何なるものであったか。絶望や後悔であったはずだ。だがそれでも、男は足掻いた。
「私は、負けるわけには……!」
「そう」
全身を二重発動の土の壁で覆う。閉じこもったところでただの時間稼ぎにしかならず、その間にも彼の血は流れ続ける。無意味な抵抗だ。生き永らえるだけで何も状況は好転しない。
「でも、終わり」
そしてその悲しい抵抗すら、プリムラは許さなかった。温存していた一枠を解放し、陽炎揺らめく紅蓮の炎弾を。圧倒的な適性と魔力で、二枠を一枠で破る。
「いけない。私がここで死んでは、世界には悲しみが」
「良かったじゃない」
流石にその先へは進めず、炎は大きな穴を開けただけで霧散した。それが男の努力の証。だが、足りなかった。プリムラにはそれだけでよかった。あとは待機していた双頭刃が全てを終わらせる。穴から侵入し、十字剣を抑え、男の胸を穿ち、首を断つ。
「わ」
「死ねば後悔、消えるんでしょう?」
残る一つが、自由落下する眉間の中心を的確に貫いた。首が落ちた衝撃で仮面に亀裂が走り、割れる。しかし、その素顔は土と血に覆われて、光には照らされない。遅れて身体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちて、じわじわと血が広がり始めた。男は死んだ。
「本当、くだらない」
永遠の平穏に堕ちた者にプリムラはそう吐き捨て、背を向ける。
「思いの外、粘られたわ」
世界の癌を一つ切除した小さな満足感に、還らぬ犠牲の虚しさ。
「……大丈夫かしら」
そして人質と彼らの安否を気にかけて、彼女の脚は駆け出した。
時は巻き戻り、場所は僅かにずれて。サルビアの視界には、先のプリムラとほぼ同等の光景が映っていた。
「殺っちまえ」
すなわち、号令に従って人質の首に刃を振り下ろす仮面の子供たち。ここからがプリムラの視界と分岐する。
「っ……!」
動機は理解できないし、脳が状況を受け入れていない。だが、身体は動いた。限界を超えた、間に合わせる為の強化で右の鉄、左の土の剣を最小の動作で投擲。弾丸のごとき切っ先が、仮面の子供の腕を貫き、殺人を止めた。
「お?やるねぇ!」
たった二人だけ。腕が傷つくほどの無理をしても、サルビアが救えたのは、たった二人。
「そこのおじさんは間に合わなかったかぁ」
ベロニカの一振りは、遅かった。彼の中では最速で命を奪えたとしても、命を救うには足りなかった。全員が振り下ろした直後、一人の仮面の子供の首を剣が通過した。
「被害者と加害者、感動の抱擁だ。けひっ!涙が止まらねぇや」
奇しくも、子供が殺した人質と同じタイミングで身体が崩れて重なった。それを笑顔の仮面の男は手を叩いて嘲って、
「貴様」
「おっと。俺の後ろにご注目」
怒りに震えるサルビアが駆け出そうとして、仮面の男が自らの後ろを恭しく手でご案内。銀髪の少年も騎士も、止まらざるを得なかった。
「人質……」
ベロニカの呟いた通り、まだ。暗がりの奥、目隠しをされ耳と口を塞がれて、横たえられた数はざっと十人前後。一体、どれだけの人を攫っていたのだろうか。分からないが、当初の予想を遥かに上回る規模であることだけは、推測できた。
「いいや。違うね」
部屋の端に移動しながら、男は指を鳴らす。それが合図だったのか。仮面の子供たちは一斉に死体を投げ捨てて、新しい人質の身体を抑え、生き残った二人も交えて一列に並べて固定する。
「おかわりだ」
何を言ったのか、何が起きたのか。サルビアにも、数多の戦場を生き延びた騎士にも、理解できなかった。男は人質の列の端で剣を抜いて駆け出し、
「そぉら!ぎゅううううううううううん!ぴたっ!」
かざした刃で一人一人の首を、走りながら落としていった。端から端まで。最後の一人を残して。眼と耳と口を封じられていた人質は何も分からぬまま、殺された。
「あー……やべぇ。危なかった。そうだよ一人は残しとかなきゃ」
両手を頬に押し当てて仰け反り、歓喜に叫び。一方で一人を残さざるを得なかったことに悲しむ笑顔の仮面の男。常軌を逸した殺人を前に、剣士としてのサルビアが冷ややかに疼く。
良い剣だった。人質には子供も混じっている。つまり、首の位置には大きく個人差があった。人質と人質の間は強化した歩数で半歩未満。その僅かな距離と時間で、剣の高さを的確に首に合わせ続け、刃を肉に食い込ませ、骨を断ち切り、切断した。
「……正気ですか?」
「どっちでもいいだろ?気持ちいいんだから」
こぼれたベロニカの怯えに、男は剣に付着した血を払って収納してから答える。殺人に快楽を感じるこういった手合いは、一定数存在する。そう、騎士の記憶にも、サルビアの記憶にも。
「お前がラクルの」
「ラクル?殺した奴の名前なんざ知らねぇな」
「貴様が命を奪った騎士だ」
「あー。あの三人のうちのどれかね」
彼本人が体感した記憶ではない。伝え聞いた遺言だ。同時に引き起こされるのは、小鬼の国の女王と仮面という共通点。
「それだけじゃない。数年前、街道で若い男女を襲っただろう」
「見てわかんねぇかな。殺しまくってて覚えて……んん?あー!わかったぜ!」
一度は首を振った。が、すぐに理解できたと指を鳴らしてサルビアを指差して、
「そばかす女か!あいつの知り合いだなお貴族様!」
スミラの友人を殺した犯人だと、悔しそうに謳いあげた。理性がないだけで、頭は悪くないのだろう。死人に口なしであるはずなのにサルビアが疑ったという点から、彼はスミラの存在に辿り着いた。他の候補がいないのはおそらく、逃げ果せたのは彼女一人だったということだろう。
「聞いてくれよ!あいつの前に殺した女がな?『自分を殺した相手の肉体を一時的に重くする』的な系統外持ちだったんだ!」
「んっ!?」
蹴った。唯一残された人質の女性の腹を、男が苛立ちのままに。しかし、サルビアたちは動けない。例えひどく痛めつけられようと、人質が生きている限り迂闊には。拳を握り、震えて見守り、隙を探すことしかできない。
「散々使った後切り刻んで魔物の餌にしてやったんだが……ああ、そうだ。その女、今どこにいる?」
「教えると思うか?」
呼吸の度に、男の口からは悪行が吐き出される。なれば、見つけ出してどうするかなど火を見るよりも明らかだ。故にサルビアは口をつむごうとして、
「教えてくれよ。なぁ」
「っ……」
人質の細い首に短剣を向けた男に、言葉を失った。とはいえ、冷静に考えれば最後の人質だ。まさか手を出すわけもない。
「……」
考えを張り巡らせる、僅かな沈黙。人質の安全を何とか確保する方法を。その為に、嘘または本当のスミラの居場所を教えるべきか。サルビアと騎士は目配せで相談しようとして、
「無視かよ。あー、もういいや」
「…………」
振りかぶられて、刺さった。男の左手の短剣が、最後の人質の首に横から。手は出された。
「やべ。やっちまった」
倒れ、声なき声をあげ、痙攣し始める女性に、男は満面の笑みで頭を掻く。今日何度目だろうか。理解の及ばない光景は。たった数回のはずなのに、一つ一つが大きすぎて数えられない。ああ、そうだ。回数なんかはどうでもいい。
最後の人質の命が消えそうになっている。このまま何もしなければ、死ぬ。そして人を殺した男は愉悦に顔を歪めている。それだけの理解で、充分だ。
「殺す」
サルビアの剣士ではない部分が壊れた。殺意が、爆ぜた。
思考の全てが、一つを残してかき消える。暗く、赤く、狭まった視界の中、サルビアはその中心の仮面の男めがけて踏み込み、新たな剣を抜刀。
「サルビア様!」
「来ると思ったぜ」
「っ!?」
感情のままに飛び出した主人を制止する声と、けひっという笑い声が重なって。少年の視界を人質の身体が埋め尽くした。
投げたのだ。悶え苦しむ瀕死の彼女の脚を掴んで、首から流れる血に遠慮などなく、サルビアめがけて正確に。
そしてサルビアはそれを一瞬、邪魔だと思った。
「あ」
斬り捨てて進もうとして、それが人間であることを思い出して、剣も彼も中途半端な位置で止まった。どさりと身体がぶつかって、強化していた少年が勝って、女性は跳ね飛ばされた。
「俺は」
一瞬どころではない余所見だった。弾かれた女性は力なく地面とぶつかって、動かなくなった。受け身など取れるわけもなく、短剣は更に深く進み、血は一層溢れ出した。サルビアはそれを、ずっと見ていた。
「サルビア様!」
その隙を男が声もなく突いた。ベロニカのかけてくれた声が、隙を終わらせてくれた。投擲された短剣を、サルビアは剣で弾く。だが、短剣の裏に隠れていた小さな球には、何の対処もできていなかった。
「ベロニカ!」
だから庇われた。庇った。違う視点から見ていたベロニカには、小さな粒が見えていたから。停止していたサルビアを押し退けて、従者はその球の前に背中を晒し。
「う……!」
球に見合った、小さな物理の爆発だった。しかしそれでも、顔の間近で爆発していればタダでは済まなかっただろう。
「私は、大丈夫です!」
鎧に包まれた背中であったこと、押し退けて直撃を避けたことが幸いした。背中は焼けたが、命に別状はない。剣と膝で立ちあがる彼を見れば、それはわかる。だが、
「総員、撤退しろ」
日常において致命傷にならずとも、戦場では別だ。弱ったベロニカに一斉に迫る、あるいは遠くから魔法を撃ち込む仮面の兵隊。そこに割り込みながら、サルビアは指示を。
「しかし!」
「俺がこいつらを殲滅する」
魔法を障壁で弾き、迫る兵士は全て剣にて斬り捨てる。一切の攻撃を背後のベロニカに通さず防ぎきった少年は、震えた声で宣言を。
「全員、殺してやる」
どこまでも純粋な殺意を込めた剣を、その手に。




