第53話 無力な強者
十二人が倒れている。
教室内の空気はプリムラによってほぼ全て換気された。だが、吸い込んだ毒まで外に出すことはできない。重篤な被毒者は床に転がり、口や鼻から液体を溢れさせ、不規則に痙攣し、苦しみに喘ぐ。いや、喘ぐ内ならまだいい。動くということはまだ生きているのだから。
彼らを前に、どうすればいいのかわからなかった。だって毒の対処の講義は、三年生以上の一部の科にしかないものだから。サルビアもザクロもプリムラもまだ習っていない。
圧倒的強者とも呼べる三人が、救いを求める人を前に何もできずに立ち尽くす様は実に滑稽である。どれだけの強さを誇ろうとも、彼らは余りにも無力だった。目の前で命が溢れていく様を見ていることしかできなかった。
「被毒者を講堂へ。症状の重い者を最優先に。自力で歩ける者にも念の為、誰か付き添ってください。被毒場所で毒が違う可能性がありますので、見分けられるようにお願いします」
こういう時には経験と知識が物を言う。生徒を避難させていたパエデリアが戻ってきて、的確な指示を早口で飛ばし始めたのだ。それに従うのは、彼が引き連れてきた教師陣と、学園警備の名目で配置されていたカランコエ家の騎士たちである。
木魔法で棒を生み出し、虚空庫から取り出した布と組み合わせることで簡易の担架を作成。重篤な被毒者を乗せ、蔓で固定する。脈拍や呼吸、意識の確認や症状の観察を行い、輸送の順番および毒の特定を急ぐ。
その間、別の者が講堂までの最短ルートを考え、その確保に数人を走らせる。窓から浮遊魔法で降ろすらしい。訓練を受けてきた騎士たちの判断、行動は実に手際が良く、立ち尽くしていた三人なんかよりずっと人の命を助けていた。
「陣をこちらへ。毒の種類を判別できる可能性かもしれない」
「すいません。握り潰してしまいました」
「……これです」
「こちらの五人は呼吸器系を破壊する毒だ。すいません。校医にお伝え願います」
あっという間に整う搬送体制を横目に、パエデリアはサルビアとザクロから魔法陣を回収し、形を見る。症状を見るよりも陣の形で判別するという、魔法陣の研究者ならではの方法だ。
「サルビア側の陣は見たことがない。ランタナ先生、これを講堂にいるはずのプラタナス先生かルピナス君に届けてください」
「わ、わかりました!」
とはいっても、毒魔法の陣は表では禁止されたもの。研究者でも全てを判別できるものではない。彼は他の研究者の力を借りようと、くしゃくしゃの陣を綺麗に折りたたみ、輸送を頼む。
「先生、俺にも指示を」
僅かな会話の隙に、ザクロが縋るような声を差し込んだ。彼は慣れない事態で何をしたら良いかわからなかっただけで、能力自体は極めて優秀だ。指示さえ与えてもらえれば役に立てる。その思考は誰にだって読み取れた。
「私と一緒に避難だ。君を安全な場所へ連れて行く」
「なっ……けど!」
「考えたまえ。君がついて来るとどうなるか」
「……はい」
だが、望む答えは与えられなかった。標的である彼には助けることすら許されず、反論は揺らぎようのない正論にて潰された。そうだ。ザクロが近くにいれば、新たな毒が散布される可能性がある。彼に求められるのは、邪魔にならない場所で自らの身を守ることだけ。
「すまない」
俯く直前に垣間見えた少年の顔は、絶望だった。状況を正しく理解し、適切な指示に従うという最善を彼は選べている。しかし、その胸に渦巻く感情は言葉では言い表せないほど重く、苦しく、拳は壊れそうなほど握られている。だから、パエデリアは短く謝罪したのだ。
「サルビアは私と共にザクロの護衛を、プリムラには避難所となっている魔法修練場の防衛を。学生の二人に任せるのは申し訳ないが」
「適役ね。講堂はあの二人?」
「ああ」
彼の謝罪と指示は対象を変えながら続く。学生の二人に役割を与えた理由は強さの問題だ。今回の暗殺の規模は、既に予想を遥かに上回っている。故に想定の幅を広げ、ありとあらゆる事態を想定すべきだ。例えば、この混乱に乗じて本職の暗殺者が動き出す事態とか。
本来護衛につくべき教師も騎士も、決して弱くはない。しかし、護衛対象であるザクロより劣る。足手まとい、または人質にでもなれば護衛として本末転倒だ。そのような事態を極力避ける為に、ほぼ同等の強さを持ち、かつ他よりは手出しのしづらいカランコエ家の嫡男が警護に選ばれた。
また、暗殺者が避難所を襲撃し、人質をとる可能性も考慮しなければならない。となると、拠点防衛に適するプリムラを学生だからと遊ばせておくのは非合理的だ。
「じゃ、私は行くわ」
「……ああ。死ぬなよ」
「誰にもの言ってんの?そちらこそ、毒にやられないように気を付けなさい」
全て理解している彼女は窓から飛び降りようと、歩き出す。その背中にサルビアが声をかければ、彼女は振り向き、真剣な面持ちで言葉を返す。二人は同じ気持ちだった。互いの強さは十二分に知っている。だが、毒とは単純な強さを貫く手段だ。だから、気を付けろと。
こんなやりとりをせず、とっとと向かっていれば、避難していれば、直接見ることはなかったのかもしれない。
「……っ!心拍停止!」
「蘇生措置を行う!講堂に毒に詳しい医者を呼ぶように要請しろ!」
「し、しかしあっちも手一杯で……」
「いいから呼べ!」
多くの指示が飛び交う教室内で、それは一際はっきりと聞こえた。降ろされる直前の五人目の女子生徒の容態が急変。搬送を中止し、心臓マッサージ、魔法による人工呼吸などの蘇生措置を試みる。
「…………」
サルビアもプリムラも、ザクロも見ていた。たまに授業で一緒になる程度の面識しかない少女を。実行犯の隣にいただけの、巻き込まれた彼女を。
最初に振り切ったのは、プリムラだった。勢いよく窓を向き、その身を風に晒して、服を踊らせ宙を切る。浮遊魔法という避難所への最短を一直線に。
「……二人は私と研究棟へ」
「ザクロ先輩」
パエデリアが二人に避難を促す。我を取り戻したサルビアもザクロを呼ぶ。だが、彼は動かない。時が止まってしまったかのように、ずっと見ている。
「早く」
「先輩!」
教師の強い口調も後輩が揺さぶった肩も、まるで他人事。続く心臓マッサージのリズムと、そこに挟まれる人工呼吸、彼岸へと転がり落ちそうな命と、それに抗う人々こそ自分であるかのように。本人すら気づかぬ間に、頬には無数の涙がつたい。
「ザクロ・ガルバドル!」
サルビアはその表情に何も言えなかった。パエデリアは大きく息を吸って、怒鳴りつけるように名前を呼んだ。そこまでしてようやく、彼は反応した。びくりと震え、呆然と涙を流す顔をこちらに向けた。
「ついて来なさい」
「あ……」
「君にできることはない!」
パエデリアが腕を引く。でも、ザクロは床に繋がる脚に力を込めて、抵抗しようとした。そんな彼に、何もできないのに、なんとかして助けようとする助けたがりの善人の少年に、大人は現実を突きつけた。
サルビアは思わず、睨みつけそうになった。でも、そこまで言わなければ、ザクロはきっと動かなかった。わかっている。わかっているとも。でも、それでも感情は抑えきれるものではない。
代わりに抑えたのは、大人の顔だった。パエデリアの表情にも、サルビアは何も言えなくなった。
ザクロは大人に腕を引かれ、教室を後にした。覇気のない護衛の剣士を一人、付き従えて。
できることは全てやった。命を救おうと最善を尽くした。助けようとした医師、教師、騎士は悪くない。悪が誰かと問われたならば、暗殺組織に決まっている。実行した生徒だって、悪ではあれど情状酌量の余地はある。
五人、死んだ。
取り返しはもう、つかなくなった。
被毒者の数はおよそ八十人。一つの教室での人数ではない。事件は複数の場所で、同時に起こっていた。一つはザクロたちのいた『魔法陣基礎』の教室。そして他に『魔物学』と『世界史』の教室の二つ。
不完全ながら対応できた『魔法陣基礎』とは異なり、完全に不意を突かれた他の被害は甚大だった。一つの学校としては異例の大きさの医務室が、すぐに溢れてしまうくらいには。だから被毒者は医務室ではなく、講堂に移送されたのだ。
ザクロの周囲は警戒していた。しかし、まさか標的のいない場所で、ここまで大規模な無差別殺人が行われるとは予測できなかった。予測できなかったのかと、学校を責めるのは容易い。だが、それは酷な要求というものだ。
関係のない場所で毒を撒いた理由は目に見えている。対応を遅らせる為だ。たった一人をより確実に殺す為に、暗殺組織はより多くの命を奪おうとした。はっきり言って、常人の思考回路ではない。まさに狂人だ。
ザクロ一人ならばともかく、これだけの数の犠牲者、被害者を見過ごすことはできない。いくらカランコエ家の加護があろうとも、守りきれるものではない。立場の存続の為という目的を掲げているのならば、このような手段を取るわけもないのだ。
だからこそ、学長もザクロも予測できなかった。可能性から切り捨ててしまった。その結果が、五人の死者に八人の後遺症。死者の中にはサルビアが止めた術の発動者、ザクロたちの目の前で心肺停止となった少女の名前も含まれていた。
警戒を嘲笑うかのように、その後の襲撃はなかった。
事件から三時間後。職員室では緊急の会議が開かれていた。出席者は学長を始めとした教師陣、ヤグルマギクの私兵六名、街に駐屯する騎士団の団長以下五名、学校警備を担当したカランコエ家騎士団の部隊長以下二名、そして希望したサルビア、ベロニカ、プリムラ、ルピナス、ザクロだった。
「情報の場所全て捜索しましたが、何一つとして出てきませんでした」
「……すまないねぇ。これは私の落ち度だ」
まず初めに学長から述べられたのは、買った情報が全て空振りに終わった報告だった。なぜ情報屋があっさり売ってくれたのかを、プラタナスは今になってようやくは思い知った。
「も、もう突入させたのですか?」
「ええ。失敗に終わった以上、人質の命は急を要しました」
動揺した街の騎士団団長の質問に、ヤグルマギクは静かに返す。もう人質を生かしておく意味はなくなった。見せしめの意味を込めて殺される可能性が高いと判断し、彼は私兵を情報通りの場所に突入させたのだ。
「ですが、何もなかった。つまり人質は最初から死んでいたと?」
「……かもしれません。あるいは街の外に拠点があるか」
「なんですって?」
人質が生きているなんて嘘で、バラバラにされて虚空庫に放り込まれているのではないかという、ベロニカの推測は真っ当なもの。だが、ヤグルマギクはもう一つの可能性を提示する。
「ありえないでしょう。三十人近い人質ですよ?運び出す手段がない」
「ですが、同様の事件において人質は生かされていました」
「手口が似ているだけで別の組織かもしれません。仮に同じ組織だとしても、違う手段を用いただけかもしれません」
ヤグルマギクは過去の例を引き合いに出し、ベロニカは今の時間の状況を並べ、互いに否定を否定し合う。
「三十人を運び出すのが不可能ならば、目撃情報なしに三十人を虚空庫に入る大きさに切り分けるのも不可能では?」
「ですから、その目撃情報を今探しています」
その最中、ヤグルマギクが主張したのは、目撃情報も血痕も何もないという違和感。虚空庫に入る大きさに解体し、一つ一つしまう作業はそれなりの時間がかかる。数人ならばまだしも、これだけの人数ともなれば必ず何かの情報が残るはずだと。
「何か手がかりのようなものは?」
「なにも」
巡回を行っている街の騎士団に学長が問い尋ねるも、成果は得られず。殺したにしろ運び出したにしろ、彼らは一体どうやって、一切の痕跡を残さずに成し遂げたのだろうか。この場の誰にも考えつかず、なんらかの系統外だと信じたくもなる。
「馬車」
たった一人、幽霊のような青白い顔で呟いたザクロを除いては。彼はずっと信じて、考えて続けていた。「何もできることはない」と言われたあの時から、ずっと。
なにを信じていたかなんて決まっている。人質が生きていることをだ。根拠なんて何もない。ただ信じたかっただけだ。そうであると願っただけだ。そうでなければあまりにも報われないと、残酷すぎると逃げただけだ。
ならば、考え続けていたことも決まる。人質を運ぶ手段についてだ。街の内外は問わない。とにかく目撃情報なしに、どこかに人を運べないものか。そう考えて考え続けて、会議に出席して、街の中に人質がいないと思われることを知った。知ってから、三つのことを思い出した。
「ど、どうしたのかね?」
「二日前、昼に馬車を見た」
「その中に人質がいたと?」
一つ目は、二日前に見た光景。街で歩いている時に見かけた、虚空庫のあるこの世界ではあまり見ない存在。虚空庫に入らないようなものを運ぶ際に用いられるが、それは主に何か。ザクロが思い出した二つ目だ。
「仮にいたとしても、門で荷を改められるはすです。貴重な魔法生物の密輸を防ぐなどの理由で、これは義務付けられています」
そう、生物だ。この世界において馬車とは主に生物を生きたまま運びたい時、例えば「もふり屋」だとかに用いられる。そうわかっているのだから国も密輸を警戒し、ベロニカの言う通り、街に入る時と出る時にチェックを行っている。
「カランコエ家の力なら、なしで外に出られます」
「……なんですって?」
そしてそのチェックは、腐り切っている。彼が思い出した三つ目とは、アイリスを街の外へ逃がす時に自分たちが使った手段だ。サルビアがカランコエの一族であると説明し、謝礼を約束すれば、彼らは簡単に通してくれた。今にして思えば、あれは日常的に不正を行っていたからなのだろう。
「カランコエ家が関わっていると?」
「そうではなく、カランコエ家が特別な通行証を与えている組織の暴走ではないでしょうか」
威圧するというより、確認するようであったベロニカの言葉に、ザクロはヤグルマギクの推測を交えて 淡々と人形のように返す。先も述べた通り、この暗殺方法は庇いきれるものではない。権力に固執するハイドランジアが取るには大胆過ぎる。
「筋は通ります。ですが、こじつけが過ぎるような気も……いえ、失礼しました」
最大の根拠が人質が生きていると信じたいでしかない、いささか強引な理論だ。だが、今ここで新たな証拠が出た。街に駐屯する騎士団の面々が、気まずそうに顔を逸らしたのだ。
「ここ数日、あなた方の中で馬車を通した者は?」
ヤグルマギクが後を引き継ぎ、問い詰める。手を挙げるものはいない。だが、否定する者もいなかった。それが答えだった。彼らはそのような不正が日常的に行われていることを知っているのだ。可能性があることを否定しきれず、かといって自らがそうであると名乗り出たくはなかった。
「行き先の記録は正しいものですか?」
「……正しかったり、正しくなかったり、します」
老人らしからぬ強い語気に動揺が走り、彼らは目を合わせる。そして、白状した。行き先がどこであるかという確認なんて、ろくに行ってなどいないと。
「あ、でも、行き先をきちんとしている奴も、いるには」
「ここ一週間の記録を全て開示してください。その中で信用できるものがどれかも、教えていただけますね?」
「……わ、わかりました。今すぐに!」
ヤグルマギクの静かな要請によって二人の騎士は逃げ出すかのように、我先にと役目を奪い取って部屋から出て行った。残された三人は肩身が狭そうに縮こまっており、彼らに対しプリムラは射殺ろさんばかりの視線を向けている。
「どうですかなベロニカ殿。有力な情報だと思いますが」
「……そのようですね」
その一方で、話はまとまりつつあった。拠点は外にあり、目撃情報を残さないように馬車を利用していると仮定する方向でだ。
「完膚なきまでに潰します。カランコエ家の力をお借りしても?」
その上で拠点を割り出して襲撃をかけ、人質を救出し、組織を壊滅させようと。人質が生きているかはわからない。だがしかし、このような危険な組織を野放しにしていいわけがない。
そしてその為に、カランコエ家の力を借りる。以前ヤグルマギクがサルビアに家の力を借りないように言ったのは、気づいていることに気づかれたくなかったからだ。今となってはその制約などないに等しい。どうせこのまま何もしなければ、人質は処刑されるのだから。
「……ええ。当家にも責任があるようですので」
サルビアは頷き、許可を出す。それを見たベロニカは学長の差し出した手を取り、協力を約束した。
「すいません。もしも人質を救出するのなら、俺も加えていただけませんか?」
その握手に割り込むように、一人の少年が手を挙げる。言うまでもない。彼に決まっている。橙色の瞳を凍てつかせ、その奥で業火を燃やす彼だ。
「し、しかし君は標的なのだろう?」
「だからこそ、という意味合いもあります。奴らはまだ、俺を殺そうとするかもしれない。だったら俺は、ここにいるべきじゃない」
標的自ら暗殺組織の拠点に乗り込む。その提案に多くの者が困惑したが、彼の考えを聞けば納得した。
「……そして俺は、そこでなら役に立てます。何かができます」
類稀なる彼の強さは、人質の救出にも組織の殲滅にも役に立つ。学校から去ることで、更なる襲撃を予防できる。
「…………そもそも俺の行動が原因です。俺が守られているだけなんて、許されるわけがない」
押し殺した声だ。身を焦がすような憎しみと、壊れそうになる罪の意識を抑え込んでいるのが、丸わかりだった。何より彼自身が、行くことを望んでいた。
「だから俺を」
「ダメです。許可できません」
しかし、周囲が同意に流されそうになる中、ヤグルマギクだけは首を横に振った。




