48話 屋根の上の鼠と木陰の友
最初の内は、持ち前の身体能力を生かして器用に人混みを掻き分けていた。だが徐々に人混みは勝手に割れ始める。当然だろう。四位にして波乱の三位決定戦、優勝者と剣での大立ち回りを演じた話題の渦中の彼なのだから、皆が道を開けるのは。
「おい待ってくれ」
なんだなんだと好奇の視線を向ける両脇の人を無視して進み、止まって呼びかけるは茶色の長髪を揺らす女性の背中。髪が左右に揺れているのは、まるで誰かを探しているようにきょろきょろと辺りを見渡しているからだ。つい先程、ザクロや酒場者の集まりにもそういう目線を向けていた。
「あー、そこの女性」
名前は分からない。しかし、暗殺者やその類でないことは分かる。サルビアが彼女を知っているからだ。かろうじて記憶の端っこに引っかける程度にだが、顔と髪の色に見覚えがあった。
「たしか、プリムラの取り巻きだった」
最後の特徴を口にすれば、彼女はぴたりと止まった。そして振り向いて、顔を警戒から驚愕に塗り替え、
「これはこれはサルビア様。ご機嫌麗しゅう。呼びかけに気付かなかったこと、謝罪いたします」
「い、いや。いい」
その上に笑顔を貼り付けて、うやうやしく綺麗な一礼を。まるで、いや、貴族そのものの仕草に今度はサルビアが面食らう番だった。貴族の一人娘が護衛も付けずに夜の祭りを駆けているという事態は、彼には少し想像し難いものだったからだ。
「貴族か?」
「はい。サンフラウ家のロウニでございます。ですが、サルビア様が知らずとも無理はありません。私の家はとうの昔に没落していますから」
そのことを問えば、ロウニと名乗った少女は作り笑いを自嘲に変えて説明してくれた。確かに、サルビアでも聞いたことがない家だ。紋章官に匹敵する知識を持つベロニカならば知っているのだろうが、彼は今この場にいない。
「それで、なにか御用でしょうか?」
そしてそもそも、彼女が貴族かどうかはさほど問題ではない。わざわざ用ができたと追ってきたのは、彼女の態度が気になったからである。
「誰かを探していたで、間違いないか?」
「え、ええ。まぁそうです」
図星だったようで、ロウニは詰まりながらも肯定する。第一条件はクリアだ。ならばその次、誰をなぜ探しているかだ。
「いくつか尋ねたい」
「構いませんが、その」
「俺と貴女の目的が一致しているのなら、おそらく助けになれる。違う場合は申し訳ない。時間の浪費になる」
それは直接、尋ねる他にない。しかしもしもサルビアの希望的観測が当たっているのなら、それは手助けに値する。いや、したいと彼は思う。
「それでも構わな……どうした?」
「い、いえ。失礼しました。大丈夫です」
銀色の頭が下げられた瞬間、ロウニの笑顔の仮面が一気に剥がれ落ちた。素顔はそう、困惑と驚愕。そして、少しばつが悪そうな弱った表情。そのことに疑問を抱いたサルビアが尋ねるが、彼女は首を振って答えることはなく。
「貴方様がもしも知っているのなら、私も教えていただきたいです」
だがしかし、首が元の位置に戻ってからの彼女の顔はまた変わっていた。祭りの夜を彩る空の花火の光に負けない輝きの意思を、ブラウンの瞳に宿していた。
話を終えて歩き出したサルビアは、校門の前の人だかりで立ち止まった。今日の彼の周りには、必ず人が集まる。ならばこの中心に彼はいると理解したからだ。
「よぉサルビア。遅かったな」
「待っていてくれたのか」
ザクロ・ガルバトルである。彼は老人の服に名前を羽根ペンで刻みながら、サルビアを出迎えた。
「アイリス様と少しお話ししててな。そっちは?」
「したいことをしてきた」
「なるほど。そりゃいい……おうおうちょっと待っててくれお嬢様。この一杯を飲んだら名前書くから」
「……俺もか?」
人は割れ、少年を中心へと迎え入れてくれた。だが、二人きりにしてくれるわけではなく、むしろサインや乾杯、コメントを次から次へとねだってくる。祭りにあてられてか、大貴族であるサルビアに遠慮しないものまで。それは全員ではないが、二人を閉じ込めるには充分に足る人数だった。
「……ザクロ先輩」
「仕方ないさ。優勝者の義務だ。でもまぁ、そろそろ果たした頃合いだとも思うんだが」
酒を渡され羽根ペンを渡され紙を渡されともみくちゃにされ、困り果てて助けを求める後輩。するとファンサービスしていた先輩は、もう店仕舞いだと羽根ペンを人の中に放り投げる。そうだとも。サルビアが来るまでに、彼は十分務めを果たしたとも。
「どうする?ちぎるか?」
「ああ。今度は全員を」
そして、悪戯小僧のような笑みを浮かべたザクロは、いつの日かの再現を。ならばと同じ表情のサルビアは、いつの日かを超える今日を。
「じゃあな!お祝い、ありがとうな!」
「すまない」
膝を曲げながら、最後に観衆へと別れを告げる。事態についていけない周囲が首を傾げたその瞬間、二人は一斉に跳躍した。
足場はザクロが魔法で用意する。宙に一瞬だけ出現する、氷の板がそれだ。生まれてすぐに踏まれて哀れにも割れて、きらきらと氷の光を皆の頭上に生み出しては消えていく。その輝きが増えれば増えるほど、二人は人から離れていった。
あの時とは違う。追ってくる人数はベロニカの部下よりもずっと多い。だがしかし、量で優っていても質では大きく劣る。今日だけはごめんなさいと人の家の屋根を土足で、姿勢を低くして駆け抜ける。全員、ちぎる。
時折、花火の光が二人の姿を影から引っ張り出す。だが、それは一瞬のこと。一度裏路地に降りたのか、或いは違う屋根の上に移ったか。夢幻の如くすぐに消えてしまう。
言葉はいらなかった。その背中を、ただひたすらに追いかけた。追いかけてくる彼を、引き離すつもりで駆け抜けた。それだけで、彼らは目的地まで辿り着いた。それだけで、彼らについてこれる者はいなくなった。
「まだ更地になっていなくてよかった」
「ああ。地べただと目立つ」
今日の街はどこも騒がしいか、立ち寄りにくい。騒がしくない場所は、恋人達に占領されているが故だ。そこに割って入るつもりはなく、ならば選ぶのは、
「屋根の上で足音がしましたねぇ?来たんじゃないですかぁ?」
「バーカ。ネズミだよネズミ」
「へ?ガジュマルさん。大金持ちになって、聴覚まで引退する気ですか?今のは絶対に」
「ネズミだって言ってんだろ!相変わらずお前の頭硬いな鎧種か!」
心地よい騒がしさの場所がいい。そしてここでいう心地よさとは、上品とは限らない。下品で粗忽でうるさくて、足元の屋根が時々どったんばったん揺れようとも、二人にとって心地よいならそれは、心地よい場所なのだ。
「試合以来じゃねえか?二人きりになったのは」
「静かとは言い難いがな。だが、これはこれでいい」
既に瓦が何枚かズレ始めている屋根の上に並んで腰掛ける。花火が二回瞬いて、屋根が一度揺れた後、ザクロはジョッキを二杯虚空庫から取り出し、片方をサルビアへと手渡した。
「そいじゃ」
「乾杯」
掛け声とともに木と木を打ち鳴らし、中の液体を大きく揺らし、口をつける。ぐいっと煽って舌に果実風味を乗せて、鼻腔内を貫くアルコール臭と喉を通る炭酸の感覚にふぅと息を吐く。
「色々ありすぎて、まるで現実感がねぇな。一年前の今日もちょうどここにいたはずなんだが」
「……ああ。そうだな」
そして、彼らは今ここで酒を飲み交わすまでにあったことを思い出して、遠い目を夜空に向ける。一年前と比べて、信じられないほどに変わったと。それは決して悪い意味ではなはく、むしろその逆。
「いいな」
「いい」
一年前より今の方がずっといいと、目を合わせることなく頷き合って、もう一度酒を煽る。
「……」
「……」
それからしばらくは無言に身を任せ、下の騒ぎに耳を傾け、少し冷めた夜風に火照った身体を預けていた。別に話題に困ったから無言になったのではない。ただ、今はお互いにそういう気分だっただけだ。話したくなれば、勝手に話し始めるとも。
「そういえば、ちゃんと突き放せたのか?」
「……お?」
たっぷり五分ほど経った頃か。唐突にサルビアが切り出したのは、人の群れの中では確認できなかったこと。それを聞いたザクロは酷く驚き、後輩の顔をロウニのようにまじまじと見つめる。
「いや、本当に変わったわ。よく分かったな」
「……まぁ、それくらいは。で、どうなんだ?」
「あー、頑張ったんだが、しくじったかも」
一年前のサルビアならば、絶対に気付くことなく、口に出すこともなかったはずの問い。彼の成長にある種の感動を覚えつつ、急かされたザクロは橙の髪を軽く掻きながら、口を開く。
「ザクロ先輩は優し過ぎる。それではきっと伝わらない」
「いや、伝わらないように自然に優しく突き放したいというか……むしろそれ以外のやり方が分からねえ」
「紳士的対応をやめればいい」
「悪いが俺は紳士なんだ」
「今回は紳士が悪いのだろう」
誰を指している会話かなんて、言わなくても分かる。そもそも少女の態度を見て、先輩の性格を考えれば、さすがのサルビアでも勘付く。
「……いや、本当に分からねえんだって」
「回りくどいな」
ザクロが今日、彼女の同行を断ったのはなにも安全の為だけではなかった。『暗視』がある以上、昼も夜も暗殺のリスクは変わることはない。もう一つの理由であった酒場の喧騒だって大嘘だ。いくら店を更地にしかねない酔っ払いどもだからといって、か弱い乙女に傷を付けないくらいの分別はある。ない者はとうの昔に、酒場からの追放がなされている。
だから別に彼女が来ても、危険はなかったのだ。それでも来ないように頼んだ目的は、サルビアの言う通り。距離を置く為である。
「やっぱ噂になってる?」
「色々とな。ザクロとかいう剣士が大貴族のご令嬢を誑かそうとしているとか。婚約の中止は嘘だとか」
「……多少は避けられないと思ってたけど、流石に厳しいところまできてるな」
彼女は貴族だ。それも国で二番目の大貴族の、麗しきご令嬢。いずれ王家に嫁ぐことになるやもしれぬ、高貴な御身分である。そんな彼女に根も葉もない噂がたてば、どれだけの悪影響となることか。
「傷付けないように気遣うのは、良いことばかりではないと思うぞ」
「まさかお前からそれ言われるとは思わなかった」
ましてや、根も葉もある噂ならば。彼女は間違いなくザクロに惚れている。それくらいは剣以外に無頓着だったサルビアでも分かる。そしてザクロも、多少は憎からず思っている。それ故、彼女の人生に傷が付かないよう、距離を置こうとしている。それ故に傷付けることを嫌って、優しくしか突き放せない。
「でも、大当たりだ。余計意固地にさせちまった」
「ザクロ先輩。別に貴族も悪くないぞ」
遠くを見つめて酒に逃げるザクロに、サルビアは容赦ない別視点からの追い打ちを叩き込む。それは、口に含んだアルコールを吹き出しかねない程の斬れ味を秘めていた。
「柄じゃないって。政治的駆け引きだとかできる気がしない」
「ロワン様は褒めていたが……別にそんなのは有能な部下に任せればいい。後は好き放題のいい御身分だ」
「なるほど。いや、ダメだろそれ」
唇についた果実酒を拭き取り、似合わないしやれるわけがないと怖気付くザクロ。そんな先輩に対し、彼は自らを経験を交えた凄まじい説得力を誇る知識を与える。
「逆に聞くが、俺が政治をできると思うか?」
「……無理だな」
「俺もそう思う。勉強してもアレは斬れん」
これもまた説得力のある言葉だ。単純と中途半端な気遣いを併せ持つサルビアに政治が行えるとは、とてもじゃないが思えない。むしろその時間で国境での警備をやらせた方が、政治的にもずっと役に立つ。
「なら、適性のある者にぶん投げた方がいい。部下の忠誠に足る人物であるという当主の在り方も、俺はあると思う」
そこから考えれば当然のことだった。全ての当主に政治の才能があるわけではない。必ず劣った者もいたはずだ。そこで没落するか否かを分けたのはきっと、彼らに『任せる』という才能があったかどうかだ。
「要は、できる範囲のことをすればいい。いや、するしかないか。俺が言うと言い訳にしかならんがな」
「…………お前本当にサルビアか?」
「俺は俺だが?試しに、今ここで斬り合ってみるか?」
「悪かった。認める。サルビアだ」
彼なりに辿り着いた一つの真理を聞いたザクロは、疑いで目を剥いた。心の底から別人のようだと口にすれば、サルビアは虚空庫から剣をぬらりとちらつかせる。
「で、そっちこそどうだったんだ?」
「待て。まだザクロ先輩の話は」
「俺ばっかりじゃ不公平だ。そっちも少しくらい腹の中ぶちまけてくれ」
やられっぱなしは許さないという彼を一番にまで押し上げた負けず嫌い精神と、純粋な好奇心。その二つを動機に、ザクロは話の矛先をサルビアへと向けた。これもまたまた説得力がある。なにせ、ザクロは試合で本当に腹の中をぶちまけかけている。
「間接的逢引、どうだった?」
押し黙った後輩を了承と捉えたのか、先輩は赤いにやけ顔で根掘り葉掘りと追及を開始。話すか、だんまりを決め込むか。屋根の下の騒ぎを聞きながら、サルビアは少しだけ悩んで、やがて口を開いた。
「……ザクロ先輩は逢引の意味を詳しく調べた方がいい。間接的な逢引などないし、そもそも恋人同士がするものだ」
「まぁ、そうだわな」
ザクロはもう気づいているのだ。なぜサルビアがいきなり、酒場者の輪から抜けたのか。ロウニがこちらを見ていたのは、誰を探す為だったのかも全部。ならばもう、隠す意味はほとんどない。それに、酒と今日の勢いに流されたというのもある。
「そうだわな」
「やめろ。ない。ありえない」
笑顔を酷くしてただ繰り返す先輩に、サルビアは何度も首を振る。場の雰囲気に流されたとはいえ、否定すべきところはしっかりと否定するとも。
「じゃあ聞くぜサルビア。お前の好みは?」
「……ない」
「嘘つくなそれはナシだ。酒に酔ってる。雰囲気に流されてる。俺が勝ってる。今日くらい、いいだろ?」
「……」
ああだが、今日のザクロはしつこかった。調子に乗っているというのもあるし、酒を飲んでいるというのもある。口を滑らすにはこれだけの条件が揃っているんだと両手を広げて、まだ足りないかとウィンクしている。
「…………強いて、強いて言うならだ」
「おう」
「…………強い女性がいい」
長い長い沈黙の末、抱えた膝に顔を半分ほど埋めてようやく、サルビアはぶちまけた。それはもう、下の喧騒に掻き消されそうな、蚊の鳴くような声で。
「それは物理的?精神的?」
「………………どっちも」
しかし、身体強化されたザクロの耳が聞き逃すことはない。ほうほうほうと三度頷き、更に深く掘り進める。勢いに負けたのか、これまた長い葛藤の果てにサルビアは根も葉も差し出した。
「となるとあれだな。まず物理的な時点で世の女性の九割九分九厘……もう一つか二つ桁が欲しいが言い方分からねえ……まぁほぼ全員消えるな」
「…………おい待て。絞り込みはやめろ」
ザクロ・ガルバドルは止まらない。というより、サルビアが素直に答え過ぎた。物理的という条件だけで、いとも容易く絞り込めてしまう。
「ルピナスか、マリーさんもギリか?他にはお隣さんで噂のコランバインとかいう『糸使い』か。後はもう『魔女』くらいしか思いつかねぇな!」
「………………もっといるだろう」
「悪いが、酔った頭じゃこれが限界だ」
指折り数えて候補を列挙する先輩に、彼のプライドは耐えられなかった。それでも限界まで自分を律して、抽象的な指摘にとどめてみせたのだ。しかしまぁ、それに対する悪人の反応は目を細めては肩をすくめるという心の込もっていないものだった。
「別に好みに一致するからと言って、その人を愛するとも夫婦になれるとも限らん」
「……まぁ、そうだわな」
厄介な先輩に溜息を吐いたサルビアは、二つの月の中間を眺めて事実を述べる。そうだ。そういうものだ。好みだから恋をするとは限らず、恋は必ずしも叶うものではない。それをまだ、蒼い髪の少女は理解できていない。
「ってことはあれだ。好みが一致しているから愛する可能性自体は否定しないわけだ」
「常識的に考えてだ」
「お前から常識的という言葉を聞くとは……顔赤くないか?」
揚げ足を取られても、毅然とした対応を貫く。だが、態度や声は繕えても、顔色という現象だけはどうにもすることができなかった。
「酒を飲むと赤くなるものだろう」
「ああ。ちなみに、恥ずかしい時も赤くなる」
「……別に恋愛云々ではない。ただ強敵として好ましいだけだ」
もう何を言っても突っ込まれる。観念したサルビアは首を横に振り、ついに白状してしまった。自棄のように、杯に残った三割ほどの酒を一気に喉の奥へと流し込む。
「本当に本当に?」
「……くどいぞ先輩」
しかしそれでも、嬉しそうな笑顔のまま掘り返すザクロに、サルビアは語気を荒げる。だが、本当に怒っているわけではない。信頼しているが故の強い声だ。
「……」
あれこれ聞かれることにサルビアは一定の拒絶を示しつつも、初めてのこのような会話が楽しくないわけではない。不思議な高揚があったし、何故だか認められた気がしたのだ。
「くくっ」
なんともまぁ面倒な人間ではあるが、ザクロにはそれを受け入れるだけの度量があった。喉で笑った彼も残りの酒を飲み干し、
「ま、そういうことにしとく」
「ああ。しといてくれ」
この辺にしといてやるよと、空の杯を虚空庫へとしまった。
「そういや、ご存知かサルビア?例のスライム店が売り上げ一位取りそうらしいぞ」
「なに?……いや、確かに客は集まってくるだろうが」
「なんか店長が三日目の夕方に新しい料理を思い付いたらしくてな−−」
代わりに新しい酒と杯を取り出し、新たな話題を肴に、二人は明るい夜を眺める。
これらの会話に意味はない。ただのそこらの男子学生がつるんでする、他愛のない話だ。剣を振るよりも魔法の議論を交わすよりもずっとずっと、無意味な行いだ。
でも、そういう無意味も、人生に必要だろう。
つい数時間前までは、勝利の美酒と敗北の苦汁だった。だが今では、友と友が飲み交わす酒だった。
木が揺れて、木の葉が舞い落ちる。しかし、風魔法に弾かれて彼女に積もることはなく、それらは皆地面に落ちていく。
「くそ……がっ!」
貴族らしからぬ言葉を吐きながら、彼女は再度木を殴る。魔法を使うつもりはない。居場所がバレるから。だから、素の腕力で思いっきり思いのままに、拳をぶつけていた。
「っ……!」
強化の施されていない魔導師の拳が、木に勝てるわけがない。揺れて木の葉を落とすことはできても、それが限界。被害が大きいのはむしろ、少女の手の方だ。痛みに耐えるように、歯を噛み締める。
「はっ……!はっ……!くっ!」
拳は痛い。だがそれよりも、心の方がずっと痛かった。ぐちゃぐちゃで、泣いていて、叫んでいて、痛くて、辛くて悲しくて悔しくて、許せない。ありとあらゆる否定的な感情が渦を巻いていた。
「なんで!なんで!」
それの向かう先は妹か、プラタナスか。またはサルビアか。あるいは、
「なんで私が、負けたの……!」
自分か。痛みに拳が握れなくなり、弱々しいものとなっても、彼女はやめなかった。何の意味もない八つ当たりだとしても、やめることはできなかった。
「なんで……」
花火の光に反射した、草むらの中の銅色を見るまでは。ここに着いてまず始めに、彼女はそれに当たった。視界の外に追いやるように、地面に叩きつけた。でも今、見てしまった。
「……なんで……!」
本当に欲しかったのは金色だ。だが、負けた。本来この銅色は、彼のものだ。なのに、勝ちにされた。ああ、だからぐちゃぐちゃなのだ。
もっと上を獲れたと思う自分がいる。でもその一方で、本来の順位はもっと下だったんだと認める自分がいる。どちらも、そのプライドの高さに起因するものだ。だから片方だけを選ぶことはできず、彼女の心は引き裂かれている。
「……ううっ……!」
こんな現実、認められなかった。今までで初めての敗北と苦悩だったから、どうしたらいいか分からなかった。ただ分からず、怒りを撒き散らすことしかできなかった。最後のプライドが人前で自制を失うことを、人への八つ当たりを許さなかった。
「……え?」
許さなかったのだ。だからわざわざ、校舎から死角となるこの中庭の木陰に逃げ込んで、人知れず泣いていたのだ。このように自分から距離をとっても、詰められてしまっては意味がない。
「誰?」
確かに聞こえた足音に、さっと目元の涙を拭い去る。鼻声も限りなく隠すように意識し、鋭い問いで先制する。ばればれの、精一杯の強がりだった。
「……申し訳ないけど、今はお取り込み中よ」
足音は一度止まった。だが、引き返すことはなく、躊躇うように足踏みをしてから、また一歩踏み出してきた。だからプリムラはできる限り声を張って、威嚇した。涙の跡を見せない為に、背を向けたまま。
「出直してくれないと私、何をしてしまうか−−」
「あ、あの、申し訳、ありません。私、です」
しかしその途中で、謝罪を被せられた。覚えのあるその声に思わず振り向き、思い出して顔を朱に染める。相手の髪の色も瞳の色も見えたのだ。すなわち、自分の顔も見られたということである。
「謝るなら、ここから離れなさいよ」
プリムラは慌てて背を向けて顔を逸らし、ここから出て行くように呼びかける。見覚えのある顔で驚きこそしたが、大方逢引か何かの為にたまたまこの場所を使おうとしていたのだろう。見てはならないものを見たことへの謝罪を根拠に、彼女はそう思っていた。
「少しだけお話したら、そうします」
「……は?」
だが、違った。確かにプリムラの涙を見た謝罪の意味もあったのだろう。しかしそれだけではない。涙を知った上でここに留まることの、謝罪でもあったのだ。
「じゃあ、なに?貴女、私に用があるの?わざわざ学園中を探し回ってたの?」
そしてプリムラは辿り着く。偶然ではないのなら、何の為に取り巻きの一人だった彼女は、ここまで来たのかという答えに。それは彼女に、涙を隠すことを忘れさせた。
「私を嗤う為に?」
候補は二つあった。向き直って語る一つ目はそう、過去の恨みを晴らす為だ。プリムラはかつて、取り巻きをうざいと切り捨てた。そのプリムラが宿敵に敗北し、勝利を押し付けられた。舞台の上で涙を流し、醜い心情すらぶちまけた。彼女の心を傷付けるのに、これ以上の機会はない。
「それともなに?また取り巻きになりたいの?私に取り入りたいの?」
詰め寄りながら、二つ目。弱り切ったプリムラに慰めの言葉をかけ、心の中に入り込む為。敗北したとはいえ、強さ自体は健在だ。復権できる可能性は大いにある。その未来を見越して、今は負け犬のプリムラに投資でもしにきたか。これもまた、今しかないと言って良いほどの機会である。
「いいわ。素敵。どちらもとても合理的。今を逃す他、ないものね」
今にも触れ合うような距離で、もはや殺気にも似た怒りを撒き散らしながら、プリムラは讃える。タイミングといい、探し当てたことといい、実にいい嗅覚と感性をしていると。
「……どちらも、違います。言いたいことがあるだけです」
「へぇ。そうなの?いいわよ。これ以上悪くなることなんてないでしょうから、ほら。存分に言いなさい」
また違った。その二つのどちらでもないと、茶色の髪を夜風に揺らす少女は言った。一切怯えることなく、引くこともなく。強い意志を茶色の眼の中で燃やして。ならば一体何の為だと、どうせどん底だから言ってみろと、プリムラは煽った。
「三位決定戦の時にプリムラさんは、私の周りには誰もいないって言ってましたよね」
「……ええ。言ったわ」
最初は確認だった。忌々しい記憶だが、彼女の傲慢さがなかったことにはさせず、肯定する。そうだ。確かにそう言った。サルビアと自分を比べた時の言葉だ。
「で、だからな」
「他の人はどうか分かりません!で、でも私は!プリムラさんを尊敬してました!」
「……に?」
そして次は、尊敬の告白だった。何を言われたか、プリムラは分からなかった。
「え?」
「私の家も没落貴族で!なのにプリムラさんは堂々としてて!大貴族を相手にも媚びることなく、自分を貫いて!」
どこまでも純粋な困惑。しかし、少女は止まることなく、まくし立てる。どこを魅力に感じ、尊敬したかを事細かに。
「すごく強くて……!背筋を伸ばして踵を鳴らして歩く姿は、かっこよくて!すごく芯がある人だなって思ってて!」
「……」
熱く語る少女を前に、プリムラは呆然とする他になかった。だが、無理もない。色々な負の感情が混ざったところに、これでもかと褒め言葉をぶち込まれたのだから。それも何の脈絡もなく唐突に。
「だから、その、他の人がどうかは分かりませんが、少なくとも私は!取り入るとかじゃなくて、好きで貴女の周りにいるつもり、でした!」
三位決定戦でのプリムラの言葉を、少女は全力で否定した。決して、一人ではなかったと。たった一人だけかもしれないが、憧れて共にいた者がいると。
「はっ……ははっ!」
かつて取り巻きであった少女は、そう言ったのだ。
「騙されないわ」
そしてプリムラ・カッシニアヌムは、受け取らなかったのだ。
今までの環境と、彼女の性格、そしてずたずたにされた自尊心のせいだろう。彼女は素直に言葉を受け止められなかった。今の彼女には、この世全てが敵だった。誰も、どの言葉も信じられなかった。
「そうやって甘い言葉で、私に取り入るつもりなんでしょう?」
だから、彼女は言ったのだ。言ってしまったのだ。裏があるかも分からないのに、勝手に裏があると思い込んで。本当の好意かもしれないのに、まるで計算であるかのように。
勝手に、人の心を決めつけた。
「ふざけないで。絶対にお断りよ。私は私一人で……」
『相手を不用意に傷つけたくないと思い、真摯に接しろ』
プリムラは手を振り乱して牙を剥き、少女を突き放す。まるで弱り果てた、手負いの獣のように。その最中だ。三位決定戦の終わり、対戦相手の剣士にかけられた言葉を思い出したのは。
『素のお前を好む者もいる。そういう相手と仲良くなりたいと思ったなら、突き放すな』
脳の中の声。それが契機だった。光量は変わらないのに、視界がいきなり冴え渡ったのだ。プリムラは初めて、少女の顔を見たのだ。
「私からは、これだけ、です。申し訳ありません。失礼しました」
寂しそうだった。辛そうだった。悲しんでいるように見えた。涙が、滲んでいた。鏡ではない。人形でもない。生きている人間だ。一人の少女だ。彼女は深く頭を下げて、背中を向けて歩き出す。当初のお望み通り、プリムラから離れていく。
しかし、少し丸まった華奢な背中にプリムラは思った。今しかない。今が最後だと、確信した。
「……待ちな、さ……いえ。待って!」
手を伸ばし、どうか待ってほしいと声をかける。高圧的な物言いを改めて、懇願するかのように。
「……あ、あの、何でしょうか?」
「ごめんなさい。失礼だけど確認させて……さっきのこと、本当、なの?」
泣きそうでありながらも困惑している少女に、プリムラは問う。今までの言葉が取り入る為のものではないか。心からのものだったかどうかを、確認する。
「はい」
「……」
何の迷いもなく頷かれ、プリムラは止まった。数秒の逡巡。目線をあちこちに逸らし、唇を食み。頭では分かっている言葉を、必死に喉から押し出そうとして、
「ごめん、なさい……」
それが、叶った。頭を下げるという動作も、しっかり伴わせて。プリムラ・カッシニアヌムは恐らく、生まれて初めて心からの謝罪をした。
「え?」
「その、酷いこと、たくさん言ったわ」
今度は逆だった。少女が驚きに固まり、プリムラがカタコトながらも止まらない。
「まさか私がそんな風に思われているなんて、思ったことがなくて。どうせ嘘だろうって、決めつけて、しまったの」
生まれながらの比類なき天才。故に人の心が分からず、人にも天才の心が分からず、遠ざけられた。だから、遠ざけた。打算のない付き合いなんてありえないと否定していた。
「だから、ごめんなさい」
謝る。そうだ。プリムラは今とかつてで、少女を傷付けた。自分が悪いと思うなら、今後も良い関係を築きたいなら、謝る他にない。
「あ、いえ。私はいいのですけど」
頭を下げる憧れに面食らった少女が回復したのは、四秒後のことだった。ようやく目の前の光景を理解し、大丈夫だと宣言する。
「……そ、そう。なら、ありがたいわ」
しかしプリムラは、これで本当に許してもらえたのかが分からない。なにせ、頭を下げることが初めてなのだ。顔を上げ、その視線を地面と少女の顔を何度も行ったり来たりさせてしまう。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫。確認したいことがあるだけよ」
「べ、別に構いませんが」
それだけが理由ではない。これから言おうとすることが、問題だった。これもまた、彼女にとって人生初の試みなのだ。誰だって最初の一回は緊張するものである。
「負けた上に醜態を晒してしまったけれど、私はまだ憧れ?」
まずはその手前、未だ憧れであるかという確認だ。プリムラは負けた。憧れた理由からは遠く離れた姿を見せた。それでもまだ、自分に憧れてくれるのかと。
「はい。そうでなければ、わざわざ来たりしません」
少女はその問いに即答した。こくりと頷き、微笑んでみせたのだ。そこに嘘や打算を見出すことは、プリムラにはできなかった。
「だ、だったら、お願いがあるのだけれど」
「なんでしょうか?」
さぁここからが本題だ。鼻声以上に声を震わせて、前置きをワンクッション。
「私の取り巻きにもう一度……いえ。違うわ。違うの」
怯えて逃げて、虚勢と意地を張って尊大になってしまった。そうではないと首を振り、最後の勇気を振り絞って、
「もしよければ、私の、友達になってくれない?」
言い切った。友達とは承諾を経てなるものではないが、プリムラにそのような常識は備わっておらず。故に普通は聞かないようなど直球で、友達になろうとした。
「か、構いませんが、いいのですか?」
「いいに決まってるわよ!むしろロウニの方が嫌じゃないの?私、これから絶対に迷惑をかけると思うのだけれど」
憧れからのお誘いに、少女は目をパチクリとさせ。しかし、その台詞は自分のものだとプリムラは恐る恐る尋ねる。
「な、名前……知ってたんですか?」
その問いの中に含まれていた自らの名前に、ロウニは大いに驚いていた。付き合いもあるだろうが、サルビアが知らなかった名前を、プリムラは覚えていてくれたのだ。
「さ、さすがに自分の取り巻きの名前くらいは覚えているわ」
「も、申し訳ありません!そういう意味ではなくて、その!まさか私如きを覚えてもらっているとは、思ってもみなくて!」
「そう?何はともあれ、喜んでもらえたのなら良かったわ」
決して馬鹿にしたわけではないと謝罪するロウニに、よく分からないが嬉しそうだから良いのだろうと判断するプリムラ。
「……これからよろしくお願いします。プリムラさん」
「没落貴族同士だし、その、友達……だから、プリムラでいいわ」
「あっ、はい。では私も、どうぞ呼び捨てにしてください」
「ええ。分かったわ。これからよろしくね。ロウニ・サンフラウ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は互いの呼び方を決めて、友達として手と手を握り合った。
プリムラ・カッシニアヌムにできた、初めての友だった。
「……それにしてもロウニ。よくここが分かったわね。死角になってて校舎からは見えないはずなのに……大変じゃなかった?」
「え、あー……えーと。それは。その」
手を結んですぐのこと。周囲を軽く見渡したプリムラが、ロウニの努力を労う。だが、少女はなぜか言葉に詰まり、目を泳がせ始めて。
「実は人に教えてもらいまして……」
「……嘘でしょ?」
「本当、です」
答えを聞けば、その態度は理解できた。プリムラが問題視したのはそこではなく次だ。ロウニに居場所を教えたその誰かとやらは、間違いなく涙を見ている。知っている。
「ちょっと待って。それ、私の妹かあの緑眼鏡じゃないでしょうね?」
絶対に泣いているところを見られたくない二人に、見られていたかもしれない。その可能性に対する羞恥と不安は凄まじく、白の短髪がぶわりと逆立つ。もしも肯定されたのなら、今にも死ぬか、殺すかを選ばねばならない。
「大丈夫です。お二人ではありません」
「じゃあ一体誰が……!」
「ごめんなさい。それは口止めされていまして……」
幸運にも、命に関わる事態を避けることはできた。しかし、依然として誰が犯人かは、プリムラには分からずじまいであった。
「ただ、最初は怖いと感じたけれど、話してみれば優しかった……みたいな人です」
誰がロウニにプリムラの場所を教えたかなど、言うまでもないことである。




