第23話 遅刻と停滞
肩で息を吐き、壁の上で膝をつく。流れ出た血と浴びた返り血で装備がずぶ濡れで、自分の血なのか返り血なのか判別出来なかった。
「おいラガム、何匹やった?」
「アラン。生きてたか……数えてねえよ。おまえより多いことは確かだと思うぜ」
「嘘こけ。まぁ俺も分かんねえから、長く生きてた奴が勝ちにしよう。持って数分、と言ったところだがな」
問いかけに、ラガムは気怠げに顔だけを動かして血の息混じりに答える。その様子にアランは、勝利条件をより分かりやすいものへと変更して、力なく笑った。
「ちっくしょう……」
たった数分。それが、ラガムたちに残された時間。なんとも短いことだろうか。下でガリガリと壁を削る音が、砂時計が落ちる音のように聞こえてくる。そして、その砂はほとんど落ちきっているのだ。
「まさか五分も持たねえとは思わなかったよ」
「俺はまさか、ナーズルが生き残ってるとは思わなかったよ」
「ひどい言い草っすね。反論できないですけど」
ばたりと倒れたままのナーズルが、さほど嫌そうでもない様子で返してきた。これが最後のいじられとでも理解しているのだろう。
「ああくそ。上手くいってたのになぁ……」
走馬灯のように戦いを振り返って思う。途中までは順調だった。遠距離から弓矢で数を減らし、中距離では魔法で殲滅。間違いなく順調で、大健闘で、偉業だった。
「やっぱり無茶もいいところだったか。来世はもうちょっと、楽しく楽に生きたいなぁ」
だが、それでも届かない。三十人ほどの男たちで、千に近い魔物の足止めをしようとしたのがまず無謀だったのだ。
「はっはっは!こんだけ頑張ったんだ!神様とやらもそれくらいの願い事聞いてくれるだろうよ!」
「……他のみんなも一緒にって、お願いしないとですね」
近距離戦となって最初の三分。迫り来る魔物の圧倒的物量に押し潰され、部隊の半数が死んだ。一匹を斬る間に違う三匹に攻撃され、それを防げる技量を持つ人間はそういない。
「ほんと、その程度の願い事許されるくらいには、俺らやったよ」
一撃でもくらえば一気に危険域だ。痛みや傷で少しでも動きが遅れれば、その隙は致命的なものとなる。傷を癒そうにも、治癒魔法は身体強化と枠を奪い合って併用できない。強化を切る?治している間にミンチにされるだろう。
そうして動きが鈍った仲間が踏み潰され、喰われ、斬り裂かれるのを、ラガムは幾度となく見ていた。その度にどこかが痛むが、悲しんでいる暇はなかった。油断すれば一瞬で命が消え去る、そんな状況。
傷を負いつつの五分の戦い、正しくいうなら蹂躙で生き残ったのは、実力者で運の良かった者たちだけだ。
壁を守るという目的さえ、もう果たせていない。すでに一部は崩壊、空いた穴から魔物達が壁の向こうへと進んでいる。
「小さな希望もせっかく見つけたのにのう。親玉の顔を拝むことさえできねえとは悔しいわ」
「いや、親玉は近くにいるぜ。範囲を狭めた『狩人』に引っかかるくらいに」
「最後に一矢報いたいっすよ。ケツの穴に剣でもぶっ刺してやりたい」
生き残った五は、残った壁の上で傷を癒している。自分たちの今いる場所も、持って数十秒と言ったところだろう。
ラガムたちにできるのは精々、脚かどこかの皮膚に切り込みを入れたり、多少肉を貫くくらいだろう。すぐに再生して、無意味となる抵抗だが。
「遠くに行けたか?あいつらは?」
「今『狩人』の範囲を広げるから待て」
ラガムは戦闘中、系統外の範囲を狭め、精度を重視する配分で発動していた。精度の高められた『狩人』は敵の強さや場所だけではなく、細かい動きまで掌握する。
背後からの攻撃も、遠くから気づかれないように撃たれた矢も、全てがラガムの掌の上。彼が生き残ることができたのは、この系統外によるところが大きい。
「見つけた」
広げた範囲で家族の反応を見つけ、自分の死に意味があることを確かめようとして、
「あれ、思ったより逃げれて……なんでだ!?」
魔物達やその他の存在さえ忘れ、大声を上げた。それほどに、彼にとっては衝撃的な出来事だったのだ。
「どうした?魔物にもう追いつかれたのか!?だったら俺らは……!」
「いや、まだだが、なんで止まってんだ!?」
そう、彼らが命を賭して逃がそうとした大切な人達の動きが、そう遠く離れていないところで止まっていた。魔物達と馬車の距離は、もうほとんどない。
「一体なにが……?てめぇら!逃げろ!」
あまりの動揺に、自分達が今どこで何をしているか、周りにいるのがどんな生物かということを、ほんの僅かな間だけ忘れてしまった。
「岩!?どっから!」
「散れ!」
その愚かな間を突くかのように、空から岩塊が降り注いだ。それぞれがラガムの声に瞬時に反応し、ばらばらの方向に散ろうとしたのだが、
「間に!合わ!ねぇ!」
位置的にラガム、アランはギリギリ避けられるだろう。だが他の三人は初動も遅れた上、元より直撃コース。全身を押し潰されるわけではないが、身体のどこかは巻き込まれる。
「一秒!」
故に、ラガムは避けるのを諦め、逃げ遅れた三人と岩の間に声をあげて割り込もうとする。衝突するまで一秒もない。その短い単語の真意を、誰かが汲み取ってくれることに賭けた。
「どっせいいいいいいいいいいいいいい!」
腹に響くようなアランの咆哮に、ラガムは賭けの勝利を悟る。さすがは長年の友人、村で最強に近い男と言ったところだろうか。
アランが土魔法で巨大な杭を創成し、岩塊へと撃ち込んだのだ。半秒にも満たない時間での急な創成。威力も強度も速度も無く、ただ当てて砕けただけ。
だが、時間はできた。この魔法は発動までに時間がかかる。その間、約一秒。
「物理障壁、展開!」
アランが咄嗟に稼いだ時間と、岩との接触までの時間を合わせて、ラガムが発動させた最後の切り札。消費魔力は莫大だが、この世の物理攻撃全てを防ぐ絶対の盾だ。例え巨大な岩だろうと、それは例外ではない。
はずだった。
「んなっ!?」
物理攻撃を全てを防ぐ絶対の防壁を、岩塊は何もないかのようにすり抜けた。
「う……」
最後の隠し玉が無意味なものとなり、その驚きはラガムの動きを殺した。驚愕に、恐怖に、身体が動かなかった。
「そ?」
思ったよりも早かった死を確信し、目を瞑る。しかし背中に軽く、とんと衝撃を感じてもう一度目を見開いたその時。見えた景色は離れていく岩だった。
ぐしゃり。
誰かに押されたことが分かったのと、右脚がひしゃげて辺りへ弾け飛び、肉塊と骨と液体がびちゃりと濡れた音を鳴らしたのは、同時だった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
やたら大きなアランと、他の二人の悲鳴が木霊する。岩が当たった衝撃で、崩れかけていた壁はその形を無くし、砂の塊となって地面へと落ちていく。
「あぐぅ……ごばっ……」
足場のなくなったラガムも岩に押し潰されたまま、3mの高さから落下して背中を強打。直前に土魔法で地面を柔らかくしても、肺が潰れたかと錯覚するほどの痛みがあった。
「はっ……ふぅ……あああああああああああああああああああああ!?」
痛すぎる着地の衝撃で血が口から溢れ出し、呼吸が詰まる。脚と背中の痛みと呼吸の苦しみが混ぜられていて、世界は真っ赤に弾け飛んだ。
「はぁ……ああ……くっそ!おい他のやつは無事……ナーズル?」
それでも、痛みに囲まれながらも身体を起こして、仲間の心配をして。でも、そんな彼の心配に答えるはずの仲間の声はなくて。
「馬鹿野郎が」
かろうじて腕だけが岩の外へと放り出された、ぐちゃぐちゃに潰れたナーズルだった肉がそこにはあった。
「本当に、馬鹿野郎が!」
アランが咄嗟に動けたなら、当然ナーズルも動けたということだ。アランはその時間をラガムの掛け声に従い使い、ラガムは仲間を助けるために使い、ナーズルはラガムを助けるために使った。
戦力的に見ればナーズルより腕も立ち、系統外もあるラガムの生存を優先させるのは正しい判断と言えよう。
「……けど、悪いな。お前の命無駄にしそうだ」
その結果、ラガムは右脚を犠牲に生き残り、ナーズルは死んだ。ただそれだけのこと。他のみんなも死んだではないか。何も変わらない。脚を失ったラガムも、彼らの後を追いかけるのだから。
胸の中に諦めが、悲しんでいるはずのラガムの心を凍てつかせていく。これから死ぬのに、悲しむなど無意味だろうと。
「ナーズルとおまえ以外は無事だ!待ってろ今から引っ張り……ここでお出ましか」
壁が崩れ、ラガムたちはどうなったか?簡単だ。最後の安全地帯が無くなり、
「はは。抵抗する気も失せるのぅ」
ラガムが初めて聴いた、アランの掠れた諦めの笑い声。無理もない。剣に、槍に、棍棒に、弓矢に、農具に、毒針、鉤爪。ありとあらゆる武器を構えた魔物達が、止めを刺そうとにじり寄ってきているのだから。
「親分まで来やがって」
そして、さらなる絶望が。魔物達のさらに奥、巨大な鬼達が邪魔な木々を強引に歪めて近寄ってくる。おそらく岩を投げたであろうオーガが四頭。
「こら、もう引き分けでいいよな?」
勝負の決着の同意を求める声や、自分を労う声。果ては頭を抱えて、泣き叫ぶ男。そんな彼らと自身に突きつけられた武器、そして魔物達をラガムは静かに見つめ、
「いや、まだだ」
その更に奥で赤い血飛沫が上がったのを確認して、自らの系統外が間違っていなかったと確信する。
「なんだありゃ?」
血飛沫の中に魔法と思われる光が混ざり、魔物たちのざわめきも大きくなる。訳の分からないアラン達の前でオーガの一匹の身長が縮み、数秒としない内に黒い影が鬼の首を斬り落とした。
「おせえよ。本当に、もうおせえよ」
『狩人』の範囲に恐ろしい速さで侵入し、血の道を切り開いて自分たちの前に姿を見せたのは、潰れたトマトのように全身血に汚れた少女。壮絶とも言える風貌と彼女の強さに魔物たちが後ずさり、誰もが襲うのをためらった。
「ちゃんと食い止めてろよ。そしたら……!」
「ごめんなさい。あなたたちだけ?」
「……女子供だけを乗せた馬車が、あと数分で追いつかれる。頼む。助けてくれ」
恨めしさと心強さを兼ね備えた忌み子という名の最強の援軍に、ラガムは安堵で崩壊した涙と、溢れ出た行き場のない悔しさに顔を歪めて頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
シオンとて、急がなかったわけではない。ただ、別行動の群れに気付いた時が遅すぎたのだ。それに少女の戦も楽ではなかったのだから。少し時間を巻き戻り、先の戦いを振り返る。
「一旦、治さなきゃ……」
死臭漂う動かぬ骸の山の麓に、唯一動く者が肩で息を吐いていた。黒髪が赤に見えるほど全身に血を浴び、身体のあちこちには新鮮な傷を負っている。
「こんなの、久しぶり」
一体どれだけの魔物を斬り捨て、どれだけの魔物を魔法で殺したのだろうか。正確な数は数えていないが、ざっと数百。
大きな傷は無くとも、何度か危ない場面もあった。度重なる同系統の並行使用によって、どことなくだるく感じる。途中から障壁を多用したせいで、シオンの魔力は残り半分ほどしか残っていない。
それでも、ここに来た魔物はほぼ葬った。何十匹かは紅い少女に恐れをなし逃げて行ったが、それを抜きにしても恐るべき戦果だ。三十人の大の大人が連携して殺した数より、一人で殺した数の方が多いのだから。
英雄とまではいかずとも、偉業ともよべるもの。しかし、それだけのことを成し遂げた少女の顔に、明るい色や達成感と言ったものはなく。
「どうして?」
ただ、疑問と憔悴と血の色だけがあった。
あの沼をほとんど渡らせなかった。土を埋め立てて橋を作ろうとした魔物達も、すぐさま斬り捨てた。
「数が少なすぎる。それにオーガがまだ四頭は残っているはずなのに、いない」
数百を超えるゴブリンとコボルトの軍勢も、鋭い毒針を持つ大蜘蛛と呼ばれる魔物も、硬い筋肉と柔らかい肉の鎧を持つオークも、全身が真っ赤な鬼も、屍肉を食らうぎらついた歯を持つ灰狼も、後からやってきたあの巨鬼も、他の魔物も。全部、葬り去ったのに。
「別に動いている群れがいた?」
元から群れが分かれていたか、或いはシオンのことを知った後続の魔物達が別の道から大きく迂回したか。そのどちらかだったかを考えるなど、不毛だろう。
それより考えるべきは、残りの魔物がどこへ行ったかだ。しかし、もう答えは出ているようなもの。巣に帰ったなんてことがあるわけがない。あの村を襲いに行ったに決まっている。
「仁も村も危ない……私の、ばか……」
なんでこんな簡単なことに気づかなかったのか。自分の考えの至らなさに、シオンは唇を噛み切る。それでも足りないと更に頬の傷に剣を突き入れ、搔き回す。痛みが脳を刺激して、落ち着いた。
「はぁ……」
吐く息も、吸う息も、進む道も、全てが血生臭い。
「行かなきゃ」
隣の村への道行きくらいなら、シオンでも大体わかる。体に纏わり付いた血を拭う暇さえ惜しいと、彼女は元来た道を引き返し始める。
この時、すでに仁や村人たちは接敵しているとは予想できていた。それでも、間に合う可能性があるのならと、シオンは道筋を急いだ。
その結果がこれだ。シオンのミスとは言い切れないが、守ろうとした人の大半を失った。
だが、守れる人間はまだ残っている。今から馬車を追いかければ、被害を減らすことはできるはずだ。
「あなたたちも連れて行くわよ」
「俺らはここに置いていけ。邪魔になるくらいなら囮になる」
しかしここに残った勇敢な狩人は、自らの生を諦めていた。この状況を考えるならば、当たり前の選択肢だ。魔力は多少残っていても、この群れを突破できるのかというのが彼らの疑問。
「早く行け。俺は脚を挟まれて動けん。こいつらも、この群れを突破できるほどの力はない」
それに、ラガムの脚がもう動かなかった。例え岩の下から引きずり出しても、潰された脚では走ることも歩くこともできない。治癒している無防備な隙を魔物が見逃すわけがない。
「ここで終わりだ」
もう、ラガムの人生は詰んでいたのだ。シオンはラガムの置かれた現状を把握し、冷静に冷酷にある判断を下す。
「ごめんね。時間がないから」
少女そう言って、白銀の刀身を振り下ろす。その余りの自然体な攻撃に、誰もが反応できぬまま。上がった血飛沫が、ラガムの服を赤く濡らした。
一方、こちらも時間を少し遡り。
(全くありがたいよね。逃がしてもらえるなんてさ)
人を限界まで押し込んだ狭い馬車の中を、僕がふわふわと飛び回っていた。いや、一つ訂正するべきだろう。仁の周りだけは、半人ほどの溝ができているのだから。
(気になるのかい?あの男の人たちが?それともシオン?)
すすり泣く声や、泣かないように子供をあやす声に紛れても、僕の声だけははっきりと脳に響く。
(シオンが死んだとは思えないし、彼らも覚悟してる。それより追いつかれないかが心配なんだ)
(まぁそうだねぇ。困ったものだけど、足場の悪い森の中に、人がぎゅうぎゅう詰めの割には相当速度出てるから大丈夫じゃない?)
僕の言うとおり、馬車の速度は乗っている人数の割にはかなりの速さだ。ゴブリン程度の魔物に追いつかれることはないだろう。
(もしもの時のことは考えておこう。シオンが負けるか、出し抜かされた相手だ)
(単純に数が多かったんじゃないの?)
(備えあれば憂いなしだと思う。あっいた!?)
木でも轢いたのか、それとも岩にでも躓いたのか。馬車が勢いよく飛び跳ね、仁の頭と何かが大きな音を立てぶつかった。
「いった……」
「……いっ、忌み子?」
いててと頭をさすり、何とぶつかったかと目を上げて、同じように頭をさする女性と目があった。その目に宿るのは怯えと敵意の光のみ。
「す、すいません……」
周囲からも嫌悪の視線に晒され、仁は平謝りするほかない。元から乗り心地も居心地も悪い車内だったが、今となっては最悪になってしまった。
「別にいいわよ」
(ラガムって人の奥さんだね。あらら、嫌われちゃったかな?)
母親は関わらないでとばかりに手を振り、子供は彼女にしがみついて敵意の目を向けてくる。俺の人格は地味に傷ついているのに対し、僕の人格はやれやれといった表情だ。
「ん?」
仁は村人達の敵意の視線から逃れるよう、元いた場所へと腰を下ろす。しかし、先ほどとは違うことが一つあった。
「おい、なんか馬車止まってないか?」
そう、来るべき振動が全くと言っていいほどなく、馬車に動きがないのだ。
(何かあったのかな?)
「ちょっとどいてく……うおおおおおお!?」
先ほどとは比べ物にならない謎の衝撃と大音に、馬車の中の人間全員がかき混ぜられる。外の様子を見に行こうとした仁もその渦に呑まれ、踏み潰されそうになった。
「一体なんなんだ……おいおい、事故ってるじゃないか」
揺れが収まったことを確認し、馬車の床から顔を上げる。見開かれた目に映ったのは、大きくひしゃげて原型を無くした馬車後方部と、
「血?」
馬車と馬車の間に何かが挟まり、撒き散らされた血の跡。割れた木の板から真っ赤な血がどろどろと漏れ出しており、それを見た子供達が悲鳴をあげて車内は大パニックに陥った。
そんなことより、これはマズイ。
「なにがあった?馬車は動かせるのか?」
投げ出されて外に転がる御者の無事を確認するやいなや、最優先事項を訪ねる。
「わ、分からない……車輪が壊れたところまではわかるんだが……」
「それで止まったところを後ろの馬車とぶつかったのか」
きっと多くの人を乗せて過重であった上に、馬車を飛ばしすぎたのだろう。魔物に追いつかれないよう、人を少しでも救うようにと取った判断が、裏目に出てしまった。
「で、直せるのか?」
いや、壊れた過程はこの際どうでもいいのだ。仁や村人にとって問題なのは、すぐに修理ができるのかという話である。ここでもし立ち往生なんてことになれば、行き先が隣村から魔物の胃へと変わることになってしまう。
「魔法で予備の車輪を作るにしても、かなり精巧に作らないとすぐに壊れてしまうから……後、挟まれた馬の分、馬車が一台動かせない」
「あの血は馬の血かよ……くそっ!なんでこうも上手くいかない!」
車輪が壊れ、後ろの馬車は脚がなくなった。魔物に追いつかれれば一貫の終わり。他の馬車に乗り移ろうにも、もう人間を詰め込むスペースはない。最悪にも程がある。
(車輪が直るのを待つしかないね。一人で逃げた先で魔物に会えば僕ら死ぬよ?)
魔物の恐怖をその身に刻まれる前の仁ならば、逃げるという選択肢も取れたかもしれない。だが、今の仁が走って逃げたとしても、魔物と遭遇したら脚が震えて戦えないのがオチだ。
「追いつかれる前に直るのか?」
「わ、分からない……」
待つ道を選ぶしかない。逃げるのは本当の本当の最後に追い詰められた時の手段だ。しかし、これは仁個人が望む方針であり、全体のこれからの指針を決めるのは彼らだ。
ようやくと言うべきか、止まった各馬車から人が少しずつ出てきた。そのまま大人や年長者たちが固まり、話し合いの輪を作る。
「どうします?使える馬車だけ出しますか?」
「道を塞いでおるから身体強化の使える者で退かさねば……」
「いやいや乗る人間はどうする?子供を優先するか?」
「そもそも修理にどれくらいかかる?」
「馬が潰れてしまったのだぞ。代わりの馬はいない」
さすがの村長も一人で決められる問題ではないのだろう。漏れる会話の断片から、議論が全く纏まっていないことがよくわかった。
どちらにせよ、その話し合いに仁が混ざる権利も場所も筋合いもない。もし入ったとしても無視されるか、摘み出されるだろう。
「ちくしょう……」
少年は一人、輪の外の逃げやすい場所で震えを押し殺して、馬車の修理と議論の終わりを待つ。
長い議論の後、無事な馬車に出来る限り子供と母親を乗せて出発させ、壊れた馬車及び乗れなかった人間を一時的に置いていくことになった。
その判断の決め手は、少しずつ大きくなる地鳴りだ。魔物が近づいてくる足音で、これ以上議論する時間はないと打ち切られたのだ。
(仕方ないよねぇ。ここまで連れてきてもらっただけで恩の字、あそこで魔物の餌にされると思ってたし)
仁も乗せてくれとも頼んでみた。脅しの材料にされているとは言え、ただでさえ乗れない人間もいる中、得体の知れない忌み子に席を譲る人間はいない。いや、それ以前にほとんどの村人が、もうシオンは死んだと思っているのだ。だから突破されたと。
何の価値もなくなった仁が、乗せてもらえるわけがなかった。
我が身可愛さに叫びたくはなったが、叫んだところでどうにかなるわけではない。むしろ村人たちの心境も、仁の状況も悪化するだけだ。それぐらいの分別は失っていなかった。
こうして残ったのは、若い者に席を譲った老人、村長、乗れなかった母親と仁だけだ。その中には、先ほど仁が頭をぶつけたラガムの妻も。
ぐずる女の子を慰める様がさっきのラガムと全く同じなのが、不思議と印象的だった。
少しずつ遠くへと小さくなる馬車を羨望の目で見送る。反比例するかのように大きくなる足音には、耳を塞ぎたい気分だ。
「……早く直してくれよ……!」
一応、車輪の修理をしているが、間に合うかはわからない。
単独徒歩で魔物の軍勢から逃げるなど、仁にとっては遠回りな自殺だ。いざとなればわずかな可能性に賭け、その手段を取らざるを得ないとしても。
「と、言っても戦うのも論外だ。数匹のゴブリンでさえ脚が竦むって言うのに、戦えても何匹か道連れにするのが精々さ」
はっきり言っては詰んでいる。苛立ちか、恐怖か、分からない胸の感情のままに石を蹴り飛ばし、最後の希望を思い出す。
「シオンが来るのに賭けるしかないのかよ」
自分より歳下であろう生死不明の少女に望みを賭けるしかないという事実に、枯れた笑いが溢れでる。そしてそれは、彼女の為の純粋な心配ではなく、自分の命の為の汚い心配だった。
「シオンはどうやら、この世界でも強いのか?一体全体どうしたら、あんなに強くなれるんだよ……」
「あのヒゲの言う通りならやばいみたいだね。僕より歳下に見えるのに才能?経験?それともなんだろか」
「あれだけ強ければ、この世界でも一人で生きていけるんだよな」
仁は、一人でこの世界を生き抜くことなんてできない。だって仁は弱いから。だから強い者に寄りかかるしかない。そう、今回も同じ。
「頼む、また来てくれよ」
彼女が来さえすれば、きっと。
「シオン…!死にたく、ないんだよ…」
仁の願いむなしく、ついに魔物の軍勢が姿を現し始める。覚悟を決めた村人たちが、せめてもの時間稼ぎにと武器を取り始める。
「……」
戦う覚悟はなく、生き残る覚悟しかない仁は彼らを囮に逃げ出そうと背を向けた。しかし、彼も分かっている。生き残れる可能性なんて霞んで見える程で、僅かな延命に過ぎないのだと。
それでも、霞む可能性とその僅かな延命に仁は縋り付こうとして、
「仁!」
後方から聞こえた声に、逃げようとしていた仁の全身が驚愕と歓喜の叫びをあげる。
「ああ……!きて、くれた……」
「生きてたんだ!」
振り向いたその先には、傷だらけの少女がいた。彼女が剣で作った道を追従する筋肉達磨に担がれた男、そしてふらふらと危うい足取りの二人が、馬車へと近づいてきている。
彼女が来てくれたなら、彼女が魔物の足止めをしてくれたなら、逃げた先で魔物と遭遇する可能性は大幅に減る。
「どけどけどけどけどけどけどけええええ!」
近づいてくる魔物たちの軍勢の恐怖が一瞬吹き飛ぶほどに、嬉しい助けだった。
「シオン!車輪が壊れて」
「馬が死んで馬車が使えない!」
「……分かった!ここでできる限り引き止めるから逃げて!」
仁の簡単な説明に、シオンは状況を即座に把握。すぐさま土魔法を発動し、巨大な壁を生み出した。先の延長戦だ。
「逃げろ!ここは忌み子に任せんだよ!」
アランに担がれた脚のないラガムの声が、武器を構えていた村人の耳へと飛び込む。
「彼女だけでは無理だわ。漏れた魔物は私たちが討ち取ります」
「わしも久々に頑張らねばのう。若い者にさっきは譲ったが」
しかし、一度決めた覚悟はそう覆らず。ラガムの妻と村長を始めとした村人たちが、漏れ出た魔物を迎撃するために、壁の内側に陣取る。
「ざけんな!俺はお前を守るために戦ったってのに!」
自分の妻が戦うと知ったラガムは、アランの耳元で反対するも。
「子供の方が大事だわ。そんで片脚ないあんたも守る対象」
「俺はお前も守りたい!」
「どう守るのさ。その脚で」
妻は聞く耳持たず、むしろ押されるという始末。戦いの前とは思えない会話に、周囲の人間は当然呆れ顔だ。すぐそばに魔物がいるというのに、流れた空気は暖かった。
「けど!」
「人の耳元でアツアツの夫婦喧嘩すんなよ。ほら、怪我人は逃げてろ。おい!そこの男の忌み子!こいつを連れてけ!」
「お、俺……?」
「強化も魔法も使えん雑魚はいらん!戦いたいなら、戦えるようになってから来い!適材適所というやつだ!早よ行けっ!」
逃げにくい雰囲気でこっそりと抜け出すタイミングを伺っていた仁に、アランがラガムを強引に押し付けてきた。
「俺はまだ戦える」
「血を失いすぎだ!立てねえバカは早く後ろ行け!」
振り解こうとするが力が足りず、よろけただけのラガムに優しい怒鳴り声がぶつけられる。仁としては渡りに船ともいうべき提案だ。逃げる口実を与えられたのだから。これで誰にも責められず、逃げることができる。
「……シオン、その」
「私、強いから!そんな心配しないで。早く逃げて!」
なんて声をかければいいのかと戸惑った仁の内心を悟ったかのように、シオンは血に塗れた笑顔で答え、少年に背を向けた。
時間はもうない。仁は戦場に背を向ける。片脚を失い、意識が朦朧としている男に肩を貸してやりながら。
「来たわ!」
最後に、自分のよく知る少女の声が後ろから聴こえた。
『身体強化』
「身体魔法」の一種。その名の通り、身体能力を向上させる魔法である。全身に万遍なくでも、片腕や片脚だけと限定的にも発動できる。
多少の差はあれど、99.9%以上の人間に適性があるとされる。仮に適性が低くて上手く扱えなくとも、市販の魔法陣を購入する、もしくは自らで描くことで、一定の効果を得られる。「身体魔法」の陣は比較的単純な形をしているため覚えやすく、描きやすい。買うにしてもそこまで高くはない。
元の力に掛け算をするような魔法であり、鍛えている人間とそうでない人間で適性が同じ場合、前者の方が大きな効果を得られる。
・元の力(身体強化×適性)=魔法発動時の身体能力
と、分かりやすく式にするとこのようになる。
平均して数倍の速さと力で動けるようになるが、その状態に身体は耐えられるのか。答えは一定ラインまでなら耐えられるである。
そもそも『身体強化』とは文字通り、身体を強化するもの。力や速さが含まれるよう、耐久力も含まれる。つまり、普通に強化を使う分には、問題にならない。
しかし、『身体強化』として浸透したこの魔法は、力や速さの強化に重きを置いている形となっており、耐久の強化の値は他より小さい。故に、魔法の負担が強化された耐久値を上回れば、身体は自壊する。使う際には注意が必要だ。
もしかしたら、いつかは耐久に全振りした『身体強化』の仕方が見つかるかもしれない。
 




