第42話 三位決定戦
「こんな形で叶うとは、思わなかった」
舞台の中央へと歩を進めて向かい合い、灰色の瞳を見て一言。そうだ。サルビアとプリムラはかつて、存分に戦える舞台での勝負を約束した。そのことについて述べただけだ。ただの事実確認のようなもの。なのに、サルビアの声はひどく強張っていた。
「そうね。決勝で戦うつもりだったものね」
「……ああ。そうだった」
互いに己の勝ちを疑っていなかった。決勝に辿り着き、そこで剣と魔法を交えると思っていた。しかし、現実はままならず、二人は共に敗者となり、三位決定戦で見えることとなった。プリムラの返しもまた、かつての思いをなぞるだけのもの。だが、その声を聞いた瞬間にサルビアは悟り、深い悲しみに襲われた。
「こんな不甲斐ないお前では、なかった」
心からの落胆を告げる。いつもなら。いつもの彼女ならば、必ず食いつくだろう。もっと簡単な煽りですら釣れたことがあるのだから、今回だって。きっと「視力はいくつ?ちゃんと視えてるの?」だとか、そんな風に。
「そう。残念だったわね。まぁいいじゃない。負け犬同士の喧嘩だって見ものだわ」
違った。そんな風にはならなかった。彼女の声に力も張りもなかった。傲慢さも不敵さもなく、淡々と言葉を形作ることすら面倒なように、腐っていた。
「……ああ。本当に、残念だ」
プリムラから視線を逸らし、透き通るような青空の奥を見上げる。もう見ていられなかったのだ。見たくなかったのだ。こんな、子供の頃に打ち負かした大人の騎士と同じ表情のような彼女は。
「やっぱり、あまり良くない雰囲気ね。せっかく厄介な爺さんがいなくなってせいせいしたっていうのに」
「そ、そうですわね……」
始まらぬ試合と会話の不穏さに観衆のざわめきは伝播し、大きくなっていく。審判はいつ始めればよいのかと選手を交互に見て、左隣が空席となった学長を仰ぎ見る。すると、彼は顎髭を揺らして頷いた。
「そ、それでは、プリムラ・カッシニアヌム対サルビア・カランコエ。三位決定戦」
開始宣言に合わせ、両者共に臨戦態勢へ。プリムラは一応という二文字が見えるような、やる気のなさで。対してサルビアは、
「開始っ!」
剣を握っていなかった。
「え?」
プリムラの驚きに吐かれた息は、観衆全員の総意でもあった。サルビアが剣を握っていない。片手という話ではない。両手だ。彼は素手で、一直線だった。
「ぶっ!?」
だん、という音が響いた。身体が空気を裂く事で生み出された風で、薄い砂埃が舞い上がった。そして、拳がプリムラの顔にめり込んでいた。
「……え?」
移動は確かに強化されていたが、拳は無強化だった。しかしそれでも、無防備に殴られた側が吹っ飛び、地に転がるくらいの威力はあった。無様に床に床に尻を付け、手で殴られた頰を抑えて。痛みを認識するよりも先に戸惑い、見上げる少女。
会場も同じだった。何が起こったのか理解していない。戸惑いの声すらない、沈黙だった。
「いつものお前ならこんな攻撃、掠りもしなかった」
歩み寄り、少女を見下ろすサルビア。その口から吐かれるのは、今といつもの彼女の差と再度の落胆。その通りだ。いつものプリムラなら、例え素手のサルビアに驚いたとしても防御できた。いや、迎撃すらできたことだろう。
「いつものお前なら、戸惑うよりも先にキレていた」
そしてその後、「殴ったわね?私の顔を。それに、剣を使わないってどういうことよ!使うまでもないってこと!?」と、勝手な解釈をして、キレ散らかしていた。絶対に後悔させてやると息巻いて、苛烈な魔法を飛ばしてきたはずだった。
「なのに、なんだこれは」
だが、今日はその勝手な解釈は間違いではない。サルビアは片頬だけが赤くなってきた少女を見下ろしつつ、蔑む。彼の拳は爪が肉に食い込むほど、強く握られていた。
「……なんだこれは?そう言われても、私よ私。出来損ないの妹に負けかけて、あの緑眼鏡に負けたプリムラ・カッシニアヌムよ」
乾いた空虚な笑みを浮かべて、自分を指差して。情けない、自虐混じりの名乗りだった。その姿に、サルビアはまた天を見上げて拳に力を込める。だが、もう殴る気も戦う気も起きなかった。
「むしろ私からしたら、あなたの方がなにって話よ。ねぇ、あなた負けたのよね?なんでそんなに元気なの?」
顎の下から耳に声が入る。僅かな怒りと嫉妬を滲ませた問いかけだ。等しく負けたというのに、なぜ精神は等しくないのかと。
「見下してた相手に負けたなら、こんな風になったりしない?こうなるのが普通じゃない?」
負けたのなら、茫然自失になって当然。それも格下相手なら尚更で、そうならないサルビアの方が異常だと。
「俺は、ザクロ先輩を見下したりしていない」
「それほんと?心のどっかにあったりしないの?人間の癖に」
負けて落ち込むことは否定せず、ザクロを見下していたということだけは強く否定する。プリムラはそれでもと、人間は誰しも他者を心の中で見下しているものだと反論するが、
「ない」
重ねて、それでも。サルビアは言い切った。嘘はない。彼は本当に、あの舞台に立ったザクロを見下していなかった。
「へぇ。だからね。だから、そんなに悔しくなさそうなんだ。互いに認め合った良い勝負だとかいうやつだったから」
「ああ。良い勝負だった」
「はいはいおめでとうございます。反吐がでるわ」
鋭い断言から本当に見下していないことを悟ったプリムラは口元を歪めて、嘲った。いや、嘲るという言い方は少し間違いかもしれない。だが、あの勝負を貶められたことは間違いではなく、サルビアは怒りによって下を向く。
「残念だけど私の勝負はね、そんな良いものじゃなかったの。それに私にとって、戦いの質は重要じゃない。大事なのは勝つことよ」
頰から地面に手を移動させるも、それを支えにして立ち上がることはなく。石の舞台を掴むかのように力を込めて、彼女は言う。
「負けたら意味がない。いいえ。あなたと違って、最悪な意味があるの。宮廷筆頭魔導師の称号は剥奪されて、あの緑眼鏡のもの。私は没落貴族に逆戻り」
宮廷筆頭魔導師は国内最強の魔法使いに与えられる称号。故に魔法を競う戦いで負ければ、即座に剥奪される。敗北した最強は、最強ではないからだ。
「例えそれがなくても、耐えられるわけないじゃない。私は特別なのよ?多重発動の持ち主で、魔法の神に愛されてるの。なのに、負けたの」
称号剥奪も重いものだ。だが、そうじゃない。プリムラを苦しめるのはそれだけではない。彼女は恵まれていた。誰も彼もが自分の下に見えるほど、恵まれていた。いや、実際そうだった。
「この私が、負けたのよ!」
胸の前に手を当てて、鋭利な銀の視線を睨みつけて、プリムラは叫ぶ。人が泣く直前の、濡れた声だ。涙で潤み始めた瞳だ。悲しみに歪んだ顔だ。
「私よりも低次元の相手に、私が!私より適性が下のあの緑眼鏡に!あの、無能な妹に!」
初めて味わった敗北と屈辱。負けることなんてあり得ないと思っていた相手に負けて、そもそも戦いにすらならないだろうと思っていた肉親に危ういところまで追い込まれた。
「あなたには分からないわよ!互いに認め合うだとか、そんな甘っちょろい戦いをしてたあなたには!」
それが前述の二つを如何程までに大きなものにしたか、彼女以外の誰にも分かるまい。サルビアとザクロの剣舞が互いに肯定し合うものだったのなら、プリムラの今までの戦いは否定の連続だった。
「なんであなたはそんなに清々しい戦いができるの?ねぇ?私とあなたって一緒でしょ!?」
「俺とお前が?」
「っ……!そうよ!才能があって、自分さえ良ければいいような自己中で!なのに、なんでこんなに違うの!」
同類であるはずなのになぜ、真逆の戦いだったのかと、プリムラは喚く。彼女はずっと、サルビアに仲間意識を持っていたのだ。
神に愛されたかのような天才にして強者だ。街中で剣を抜き魔法を放つような自己中だ。自分の為なら他者を踏み台とすることも厭わないような、歪んだ精神の持ち主だ。
このように、並べれば似ている。しかし、これは彼女の認識でいささか古い情報のもの。最近のサルビアを知る者ならば、後ろ二つはあり得ないと否定することだろう。
哀れにも、プリムラはそれを知らない。サルビアを昔のままだと、自分と似た存在だと思っている。故にこの不平等な結末に納得がいかない。
「なんであなたは負けても構わないような戦い方ができて!私にはできなくて!」
プリムラの眼には、先の戦いが色濃く残っている。互いに死力を尽くし、剣を鳴らす二人の少年。中盤までの苦しそうなザクロの顔も、それ以降の両者の真剣混じりの笑みも、終わりも。
勝ち負けは出た。努力の報われた者、報われなかった者もはっきりした。なのに、負けて不貞腐れることも我を失うこともなく、二人で満足げに言葉を交わしていた。
「それなのに、あなたは私の戦いを良かったとか言って……!」
プリムラの二つの戦いの結末とは違う。彼女にとってその二つは、どちらも辛く苦しいものだったのに。それを良い戦いだったと、あろうことかサルビアが褒めた。ここで彼女は唇を噛み締めて、俯く。
「それだけじゃない!」
が、すぐに涙を溜めた瞳を上げて、続ける。
「なんであなたの周りには人がいて!私の周りには、誰も……」
天才は孤立する。いるだけで多くの者の心を折り、傷つけ、諦めさせ、遠ざけていく。たまに立ち向かってくる者もいるが、それらはプラタナスのように負けを認められず、憎しみを向けてくるような者ばかりだ。それ以外では、打算で付き合う仮面を被った者がせいぜいだろう。プリムラの人生ではそのはず、だったろう。
「……」
だが、似た者であるサルビアの人生は違う。途中まではそうであったかもしれないが、違うものになった。
ザクロがいた。ベロニカがいた。マリーにプラタナスにルピナスにアイリス、酒場者に看板娘に店主、マネッチアをはじめとするサシュルの村人達がいた。それ以外にももっと大勢、依頼で知り合うなどで増えた、顔見知りと呼べる者達がいた。憎しみで挑む者でも、打算で付き合う者でもない。本当に親しい者達が、彼の周りには溢れていた。
誰にも理解されない程の天才なのに、周りを考えない自己中の癖に、なぜそんなにと。プリムラは問うたのだ。
「……そんなあなたに、分かるわけないじゃない。私の気持ちなんて」
プリムラには誰もいなかった。同類と思っていたサルビアが戦いを褒めてくれただけで、戦いの後に会話を交わせるような相手も、昼食の差し入れに来てくれるような友達も、休日一緒に依頼を受ける仲間も、誰も。
「……確かに俺に、お前の気持ちは分からない」
言い残して地面を見る少女に、サルビアは穏やかに言葉をかける。戦意を向けれる姿ではなかった。あのプリムラが今や、夜の暗さに怯える幼子のようだった。
その内容は、彼女の言葉の肯定だった。そうだ。他人であるプリムラの気持ち全てを把握することなど、到底不可能だ。
「でも、負けることの悔しさは分かる」
できるのはせいぜい、己の経験と照らし合わせて推測し、時に共感することだけ。だから、サルビアはついさっき知ったそれを、彼女に述べた。
「……悔しい?あなたの、どこが?」
今までのサルビアの態度からは想像もできなかったのか。憤るよりも先に、顔を上げた彼女はどの部分がかと問う。
「目の腫れはもう引いてしまったのか。それとも、お前が気付いていないだけか?」
「……泣いてたの?」
何度も視線を合わせていたはずなのに、プリムラは気付いていなかった。多少時間が経っていたとはいえ、よく見れば分かったはずなのに。彼女はそれだけ悔しくて、自分のことでいっぱいだったのだろう。
「初めて、あそこまで苦しかった。辛かった。思わず涙が出るものだと知った」
「それなら、なんであなたは」
悔しさにも程度がある。だが、涙を堪えきれぬほどともなればそれなりのもので、それだけ思うならばなぜ今、戦えるのかと。
「マリーに教わった。人は勝手で自由だと」
この数分で何度も繰り返された「なんで」に、サルビアはようやく答える。
「悔しさが人を折れさせるに値するものだと、俺はつい先ほど実感した」
元からそういうものだとは、知っていた。何人も何人も、サルビアの剣でそうなったから。でも、自分で実際に味わってなるほどと。
胸の中にほどほど熱くなった鉄を埋め込まれるような、激し過ぎないじわじわとした毒。敗北の瞬間を思い起こさせ、あの時ああしていればと「たられば」を考えさせ、時に相手を不当に貶め、自らを自己嫌悪に追い込む感触。
腐っても無理がない。あれをもう味わいたくないと戦うことを、挑むことをやめてしまうのも仕方がない。
「お前もそうだろう」
「……」
面と向かい、誰かに指摘されたのなら、流石に違う想いが芽生えたのだろう。故に肯定せず、正直さ故に否定もせず、残った僅かな誇り故に言い返すこともできず、彼女は口をつぐむ。
「それはお前の勝手だ。お前の自由だ。俺もさっき知ったばかりで、新鮮な受け売りで悪いが」
サルビアはそれを責めはしない。ついさっき、マリーに教わったから。それもまた人の勝手。諦めるなという励ましはあるが、なんとも無責任なことだ。諦めたい人間は諦めればいい。諦めないことは、時に大いなる苦痛を伴う。
「なんで……」
「勘違いするな。蔑まないわけではない。お前達が勝手に諦めるように、俺もその姿を見て勝手に思う」
責めはしない。だが、何も思わないわけではない。正義感に駆られた糾弾をしないだけであり、思いを抱くこと自体は躊躇わない。
「俺は知っている。そこから立ち上がった人間を」
腐っても無理はない。立ち上がれなくなっても仕方がない。ああだが、逆に悔しさをバネに立ち上がる者がいる。もう二度と悔しさを味わいたくない。そしてそれ以上に、今のままでいたくないと。
「俺はそちらの人間の方が好ましい」
あくまでサルビアの意見としてだが、彼はザクロのような人間の方が好みだ。
「だから、俺もそうありたい」
このまま腐ったままでなどいたくない。彼が立ち上がったのならば、自分も立ち上がろうと脚に力を込める。剣をもう一度握る。
「お前はどうだ?そのままでいいのか?」
そうはしないのかと。プリムラに問う。諦めて膝を下り、地に転がって勝者を仰ぎ見るだけの存在となるかを。
「お前がそれでいいなら、それでいい。俺が嫌いになるだけだ」
強制はしない。先も述べた通り、人は勝手で自由だ。悔しさに直面した者がどのような行動をとるかなど、その人次第。責められることではなく、誰かによって決められるものではない。
「お前の誇りは、今のお前を許すのか?認めているのか?」
だが、サルビアの知るプリムラ・カッシニアヌムはどうだろうか。誰かを見上げるような女だったか。この世全てを下に見るほど、傲慢な女ではなかったか。そんな女が、見下ろされる自らを許せるのか。
「なぁプリムラ・カッシニアヌム。お前の踵はもう鳴らないのか?」
立ち上がらないのなら、ハイヒールは鳴らない。あの高慢にして大胆不敵な音はない。白い髪を揺らし、顎を上げ、優雅に歩く彼女は消える。
「……わ、私は」
即答できるわけがない。その意地と誇りすら挫かれたから、彼女は地に落ちている。ザクロだって、立ち上がるのに多少の時間を要した。だから、今は答えなくていい。
「審判。棄権する。戦意喪失だ」
サルビアは勝手に、彼女の未来に期待する。背を向け、惚けていた審判の側まで歩き、棄権を宣言する。
「……え?えーと、プリムラ様が棄権ということでしょうか?」
「相手の棄権を申請する者がいるか。俺の棄権だ。今のこいつに剣を振るう価値はない」
「っ……!ま、待ちなさいよ!わ、私は」
心が折れている相手に振るう剣はないと。それを聞いたプリムラは剣を握らぬその背中を引き止める。まるで、その価値があると証明しようとするかのように。
「勝負の質なんかどうでもよくて、勝つことが大事なんだろう?」
「あ……」
だがサルビアは、今その価値はないと。考えなしになけなしに集めた覚悟だけでは、勝負には値しないと。故に彼女自身の言葉を用いて、三位決定戦を終わらせる。
「ち……が…………」
彼女は傲慢だ。誇り高い。故に、つい先ほど自分が述べた言葉を取り消せない。
「もしも、もしもお前が今日の勝利を不服と思うのなら」
それくらい、サルビアは分かっている。だから今日、彼女に言葉を投げたのだ。
「お前が全力を出せるその時に、俺に戦いを挑め」
だから今、新たな約束を勝手に結ぶ。いつか必ず立ち上がると信じて。もう一度、踵がなる未来を夢見て。
「それと最後に、答えだ」
退場する前に、最後の土産を。答えなかった質問の答えだ。
「俺の周りに人がいるのは、人に恵まれたからだ。こんな俺を受け入れてくれる人がいたからだ」
自分がではない。周りが良かったから、集まっただけだと。
「でも、強いて俺に原因を探すなら、孤独にならない努力をしたからだろう」
だが、そうじゃない、運ではないアドバイスをするなら。
「自分を偽って仮面を被ることじゃない。相手を不用意に傷つけたくないと思い、真摯に接しろ」
孤独になりたくないと思うなら、孤独にならない努力をしなければならないと。そしてそれは必ずしも、自分を押し殺し、都合のいい人間を演じるわけではないと。
「素のお前を好む者もいる。そういう相手と仲良くなりたいと思ったなら、突き放すな」
どんな人間であれ誰かに嫌われるし、誰かに好かれる。なら、好いてくれた人間を大事にしろと。それだけでいい。自らを歪めない範囲で、努力をしろと。
「俺はお前の傲慢さを、あの不敵さを好ましく思っていた」
例えば、プリムラならサルビアが。そうだ。サルビアにとってプリムラは、自分に張り合ってくれる数少ない存在だった。好ましいと、勝手に思っていた。
だからこそ、今日ここまで勝手に失望したのだが。
「またいつかだ。プリムラ・カッシニアヌム」
今までとは違う困惑の沈黙の中、三位決定戦はたった一発の拳で幕を閉じる。それも、殴った側の棄権で、殴られた側の勝利という形で。




