第40話
Xに重ねられた魔法剣に鉄剣を破壊される。だが、ザクロの剣が停止点から動き始めた瞬間から、サルビアの脚は退却を命じられていた。故に追撃を受けるよりも早く、彼の身体は後退する。折れた剣は虚空庫に仕舞われ、新しい剣へと役割を引き継ぐ。
最速の追撃は回避できた。しかし、それは魔法剣のリーチの話。ザクロは魔法剣を習得したが、他を使わないとは言っていない。そして彼もまた、己の剣がサルビアの剣を折るよりも早く、脳から腕に命令を出していた。
振り切られた彼の右手が黒い空間に呑まれ、新たに横に振られる。じゃらじゃらと虚空庫から、長い刀身を引っ張り出しながらだ。
初日の森で見せた、百足のごとき観察を持つ剣。変幻自在にして長身のこれなら、逃げたサルビアにも届く。
とはいえ届くとはいっても、それはあくまで距離の話。現実の道のりは違う。現実にはサルビアの剣がある。そして彼には、何度かこの剣を見た経験がある。
音を立てて宙を裂く異形の剣に、なんの装飾も変哲もないただ実用性だけを求めた鉄剣がぶつかる。結果は予想の通り、サルビアの鉄剣の勝利。軌道を予測できるのだから、それは分かっていた。
「やるな」
「練習した」
だが、これは。前になかった動きだ。その剣は長さ故に、手元から剣先まで動きが伝わるのに時間がかかる。だからザクロは張り切った瞬間に優しく手放して、僅かな時間のアドバンテージを得ていた。異形の剣と土剣がぶつかる時には、彼は既に一歩目の着地を終えていた。魔法剣をもう一度、その両手に握りながら。
先の攻防の結果により、ザクロが先手で攻め手、サルビアが後手で守り手となる。魔法剣による斬撃が、空中に線を残す。
それは一筋ではなく、一点でもない。繋がっている。サルビアの剣に弾かれ、弾きながら続く。
「しぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
「ぐっ!」
魔法剣が描く線の中、サルビアは防御に集中する。今はまだ攻勢に出れない。それを分かっているからこそ、ザクロは全力で攻めてきている。サルビアの左手の治療が終わる前に、勝負を決めようとしている。
原因は敗北を意識したあの時の身体強化だ。間に合わせる為に、必要な分だけ強化した。それは仕方のないことである。だが、腕がもたなかった。筋肉を少し痛めてしまった。
ザクロだって気付いている。大多数の観衆には分からないだろうが、それ以来、サルビアの立ち回りは変化した。左手をあまり使わず、右手の鉄剣に戦いを委ねるようになった。
そして気付いたからといって、ザクロは試合を止めることも、手加減することも、ましてや躊躇うこともしなかった。当たり前だ。最初から負傷していたのならともかく、戦いの最中に負った怪我だ。正々堂々とした傷だ。サルビアにとっても、躊躇われる方が失礼というものである。
が、それ故に勝負はザクロに傾き、サルビアには苦しいものとなった。
(なるほど……)
剣を振るう度に痛む。ザクロの剣を受けようものなら、激痛が走る。痺れ、痛みに頬が引きつり、思考がかき乱される。
(勝負とは、勝ち負けとはこういうものか)
しかし、それでも振るわずにはいられない。痛むと分かっていながらも、動かさずにはいられない。最高の剣を探らずにはいられない。綺麗な線を描かずにはいられない。
(こうも、負けたくないと思うものか)
だって、剣を振るわねば負ける。動かさねば、少しでも粗雑な剣を振るえば、負ける。だから、痛みがあったとしても、剣を振るい続けている。負けない為に。負けたくないが為に。
(今までに一度も、いや、動龍骨以来だろうか)
今までにも、負けたくないという気持ちを抱くことはあった。ザクロと出会った日の巨大動骨早狩り競争や、今までの祖父との訓練など、思い起こせばキリがない。でもそれらは一つを除き、小さいものだった。今日の今の感覚に比べれば、そうだった。
真剣である以上、常に命の危険は伴う。しかしそれは余りにも、当時のサルビアにとって日常過ぎた。己と相手の命がかかって当たり前。剣で負けて死ぬのなら本望。そもそも、サルビアに剣で勝てる者など、ハイドランジアしかいなかった。そして彼との戦いは真剣勝負であっても所詮は訓練であり、いつかは追い越そうという気持ちになるだけだった。
例外は動龍骨戦だ。学園に入ったことで変わり始め、多くの者の命がかかっていたと理解していたが故に、全てを投げ捨てる覚悟で剣を振るったあの一戦。
その一戦で、ようやく釣り合うか否か。この戦いはサルビアに、そこまでの感情を抱かせた。なぜか。
下に見ているザクロに負けたくないから、などでは断じてない。そんな馬鹿げたことを思おうものなら、己で己を斬り捨てる。では、なぜだ。祖父にも誰にも抱くことはなく、大切な人たちの命が危険に晒されてようやく抱けるこの想いの根源は、なんだ。
「ふふっ」
「笑うたぁ余裕だなぁ!」
「そんなに余裕はない。でも、笑ってしまうだろう」
ああ、その答えは既に出ていた。動龍骨戦を終え、学園に戻ったあの日。五歩の距離からの宣言。一度心も剣も折られ、それでもなおもう一度サルビアに立ち向かってきた彼の。
「俺と本気で、互角の戦いをしてくれる剣士がいる」
「っ……」
みんなは諦めた。ハイドランジアは剣以外のことにかまけ始め、歳とともに衰えた。今のサルビアなら、彼も斬れるだろう。プリムラやプラタナスのように同格と思しき強者はいるが、それは剣以外の話。
「嬉しいし、楽しい。負けたくないし、勝ちたい。そう思ってしまって、剣が勝手にそう動いても、おかしくはないだろう?」
「…………ああ、おかしくは、ねぇな」
ザクロだけだ。ザクロだけが、圧倒的な差を感じてなお、ついてきた。追いつこうとしてきた。そして今、並んでいる。誰も彼も祖父も追い抜き、サルビアが一人でぽつんとしていた剣の領域の扉を、努力と熱意で斬った剣士がいる。
今、目の前にいる。剣を交えている。ああ、今日はなんと幸運な日であることか。身体の痛みに知らんぷりして、勝手に剣が動いても仕方がない。
見下すのではなく、互角と認めたが故に勝ちたいと。たったそれだけのこと。まぁ色々ごちゃごちゃ考えた結果、辿り着いた答えは至ってシンプル。ただ単純に、負けたくない。負けたくないから、負けたくない。
ザクロのように剣で越えようとしてくる者は、サルビアにとって命と等しいほどに大切なものだった。
服に仕込んだ治癒魔法が、左腕を治している。そうだ。こんなところで終わってたまるか。互いに積み重ねた全てをかけ、全てを吐き出すこの戦い、こんな短時間で終わらせてなるものか。防戦一方で幕引きなど、許せるものか。
もっとだ。もっともっと、もっとよこせと。今までの人生で一番敗北に近く、一番楽しいこの時間をもっとと心が叫ぶ。
でもその一方で、勝ちたいと。全てを出し尽くした上で勝ちたいという心も叫んでいる。
「……剣はなんと、奥深きことか」
今日初めてサルビアが至った、幸福と渇望の世界。ある程度のところまで来れたかと思ったいたが、おこがましかった。
この感情は、この時間は、この戦いは、この相手は、剣を磨く。更なる高みへの道標となる。その確信が、サルビアにはあった。
時が経つにつれ、戦いが変化する。左手の傷というサルビアの枷が取れ始め、防戦一方から徐々に攻撃が混じるようになり、傷を負う以前と変わらぬまでに。
観衆はその間も、ずっと静かに見守っていた。手に汗握り瞬きも忘れ、食い入るように。全ての視線が、舞台の上で剣を交える二人に集中していた。
だが、二人の世界にそれらはない。二人の世界には、二人と剣があるだけだ。どのように動き、どのような剣を振るうか。相手はどう動くか。障壁は変更されていないか。剣の強度はどれくらいもつか。
他、その他多くの戦闘の為の思考に、全てが埋め尽くされている。余計なものが入り込む隙などない。
ただより良い剣を振るう為だけに。ただ、勝つ為だけに。それ以外には何もいらない。ただそれだけでいい。なんと研ぎ澄まされ、満たされた世界であることか。そしてそれは、彼らにしか分からない世界だった。
剣がぶつかる。たった一振り同士。でも、一振りではない。そこに至るまでに、無数の一振りがある。両者共に、途方も無い努力がある。故に今の一振りはどこまでも精錬されていて、美しい。
努力無き者に、この世界は見えるものか。
雑な剣など、この戦いに一つたりともない。無論、技の優劣はある。でも、その劣る剣だって全力の丁寧だ。限られた時間、崩れた姿勢から、今できる最高を目指し、極限の集中で放たれた剣だ。
剣への想い無き者が、この世界に入れるものか。
ザクロ・ガルバドル、サルビア・カランコエ共に剣人一体。彼らがそうでないのなら、世界の誰がそうなのかというほどに、彼らは剣と一体化していた。
しかし文字は同じでも、二人の一体化はまるで違うものである。
ザクロは剣を己の手足、いや、それ以上に身体の一部とした。完全に支配し、手足よりも自由に操っていた。
サルビアは剣を手足と同じように扱うのではなく、剣そのものになろうとした。剣の為に、全身が動いていた。
このように違いはあれど、強さの形は一つではなく、そこに優劣はつけられない。着くとしたら、勝敗だけ。
「ああああああああああああああ!」
「……」
全力が衝突する。右手の魔法剣と二重氷刃が壊れ、土剣の刃部分が削ぎ落とされる。残る左手魔法剣と鉄剣も線となり、膝から生えた氷刃が加わって、相殺。両者共に距離を取る。
「はっ……ああっ!」
ザクロは予め用意しておいた予備の魔法剣を虚空庫から引っ張り出して、構える。その息は荒く、脳内は険しい。彼の記憶力は用意した魔法剣の数をしっかりと覚えているし、魔力眼は己の魔力と服に仕込んだ魔法陣の残量を視認している。
(やばいな……これ……)
サルビアと戦うのだから、いくらあっても足りないとは思っていた。だからそれに対抗できるくらいの数を、用意したはずだった。しかし、その想定は甘く、既に在庫は一割を切っている。
(剣も魔力も、あんまり残ってない……)
魔力ももう余裕がない。ザクロの魔力保有量は、プラタナスやプリムラほどではないにしろ、相当多い部類に入る。出し惜しみはできないと、浮遊や大規模な地形変動を多用した。しなければ負けると思ったからではあるが、これもまた想定が甘かった。
(ああ、ちきしょう。もっと剣を用意していれば……もっと魔力が多かったら……)
勝つにしろ負けるにしろ、ここまで長引くとは思わなかった。おかしな話かもしれないが、ここまでサルビアの剣が凄まじいとは思っていたなかったし、ここまで自分が食いつけるとも思っていなかった。
(もっと、戦えたのになぁ……!)
笑みが溢れる。あんなに苦しくて笑えなかったのに、今は時折、勝手に口元が緩んでしまう。
無理もないだろう。やっと、認めてもらえた。負けたくないと思ってもらえた。互角に立ち合えている。この戦いこそ今までの人生で最高の剣だと、胸を張って宣言できる。
それらがどれだけ、ザクロにとって嬉しいことか。未だ楽しみより負けたくないという重圧の方が上であったとしても、終わらないでと願ってしまうのは、仕方のないことなのだろう。
(でもま、サルビアも似たようなものか)
視線の先の少年も、肩で息をしていた。魔力眼に切り替えれば、元よりあまり多くない魔力が更に少なくなっており、その消耗の度合いがうかがえる。
そして改めて眼を元に戻せば、真剣な眼で笑っていた。きっと彼の眼に映る自分も、同じ顔をしている自信があった。
「行くぜ」
「ああ、来い」
返答共に右脚を踏み出し、左手を虚空庫へ。手の中の魔法剣が消え、百足のような剣が姿を現わす。先端部分は叩き折られたとはいえ、他の剣に比べれば遥かに長く。
「む……」
早い。サルビアはザクロの左手に握られた柄を見た瞬間に、対応した。おそらく、最初は一度横に動いてかわしてから、斬りかかろうとしていたのだろう。しかし、あの剣なら横に動いてもかわしきれない。故に動くのをやめ、どっしりと腰を落とし、剣で迎え撃つことに決めたのだろう。
「はああああああああああ!」
かかったと、ザクロは内心で笑う。再度左手を虚空庫に染め、魔法剣へと換装。二歩目を蹴って距離を詰め、三歩目で跳躍して飛びかかり、斬りかかる。百足の剣を待ち構えていたサルビアの虚を突く。
「……」
だが、その程度の虚では、彼の剣を乱すことはできない。確かにタイミングは狂った。目測も対応もがらりと変わった。で、それがどうしたと。そう言わんばかりに、下から迎え撃った鉄剣は落ち着いていた。
「だよなぁ!」
それくらい当然だ。分かっていたとザクロは笑い、言う。しかし落ち着いていたとしても、変化の影響は僅かにある。ないわけではない。一振りで拮抗できたのが、その証拠。これで二枠が空いた。
「ほぅ……!」
一枠で土剣へ氷刃を放って牽制しつつ、地に足を着けぬまま、浮遊でサルビアの背後へ回る。高適性と修練による滑らかな一連の動きに、彼の口からは感嘆のため息が漏れる。それでこそだと。
サルビアは脚を動かし、身体を後ろへと捻る。その遠心力を活かし、腕の動きは最小限でろくに振り被りもせず、技術と合わせてザクロの剣に張り合う剣技を生み出す。
「「ははっ!」」
互角。ザクロは予測と魔法でサルビアを上回り、サルビアは剣技でザクロを上回る。ぎちぎちと打ち合った剣が鳴って、一時離れて火花を散らし、また出会う。
お互いにとって人生で最高の剣。それらが絡まる、人類の歴史の中でも最高峰の剣舞。笑顔と真剣さが入り混じる、譲れない戦い。
素晴らしいものだ。観衆はずっと見ていたいし、二人の剣士はもっと続けたかった。
でも、物事には終わりがあるもの。そしてそれらは時に、平凡に終わる。劇的な終わりを迎えるとは、限らないものだ。
ルピナスのように魔法陣を見せたわけでも、プラタナスのように血の咳を仕込んだわけではなく。ただ二人は純粋に己の剣技をぶつけ合い、競い合った。そしてその果てに、ただの勝敗があった。
「……はぁ……!はぁ……!」
「……」
ザクロの右脇腹を、鉄剣が掠めていた。サルビアの首元に魔法剣が置かれていた。
なんてことはない。両者共に、己の剣の方が早いと思い斬りかかっただけだ。なんの不調も魔力切れも、剣が折れたわけでもなく。ただ単に剣を振っただけ。
「……ははっ!」
「……ああ」
審判の声はない。彼も観衆もまだ、剣舞の終わりを受け入れられていない。しかし、判定など必要なかった。二人は誰よりも、それを分かっていたから。
「へへっ……!空は青いぜ……」
地に倒れ込み、左手で血の滴る右脇腹を抑え、右手で天に剣を掲げる。ようやく帰還した元の世界の空を見上げ、その色に傷だらけの彼は笑う。
「ああ。きっと海も青い」
ほとんど無傷の少年は剣を握ったまま、もう一人の隣に腰掛けて、今は見えぬ海の色を口にして笑う。
「なぁ先輩」
そして、呼びかける。先程まで本気で斬り合っていたとは思えぬような、優しく、親しみを込めた声で。
「なんだ?悪いが、再戦はまた今度で頼む。今しばらくは勝ち逃げを」
「今日の俺の運は、悪くなかった」
「…………」
痛みと感情に顔をしかめつつ返されたいつもの軽口を、サルビアは遮る。その内容にザクロは押し黙り、
「なんだよ……お前、意味分かってたんじゃねえか」
「違う。あの時は分からなかった。後になって考えて、ようやく分かったんだ」
視界の青が滲んできたところで、右腕という黒で埋め尽くして、嗚咽混じりの声で返す。きっとこの会話は、誰にも分からない。剣の世界と同じで、二人にしか分からない。
「先輩」
「なんだサルビア」
だが、それでいい。二人にだけ分かればいい。今ザクロがどれだけ報われたかなんて、彼とサルビアにだけ分かればいい。
「ありがとう。また、やろう」
「……どちらにもこちらこそ、だ」
四つ目、ザクロ・ガルバトルは『剣聖』である。
第40話『今日の運勢』




