第35話 開かれた扉と覚悟
その陣ができたのは、学校が武芸祭の準備で騒がしくなり始めた、およそ一ヶ月半前の頃。
「これはまぁ、とんでもないものができてしまったねぇ」
もはやルピナスがいることと、ある程度整理されているのが当たり前となったいつもの研究室。いつもと違うのは、かつてない形の複雑な魔法陣が、机の上に鎮座していたことだった。
一応、ベースは極めて簡単な身体強化の陣の形である。だが、改造に改造を重ねた結果、もはや原型をとどめておらず、全く別のものになってしまった。当然、宿った魔法の効果もまた、似てはいてもまるで違うものである。
「……はい……紛う事なき、失敗作です……医療の現場などでは、使えるかもしれませんが……」
数千回数万回と試した果ての一枚。問題なのは、その効果。一度プラタナスで試してみたが、その結果に危うくルピナスは気を失いかけた。
「いいや。確かに副作用……いや、正しく言うなら本作用は強いが、使えないわけではない」
「ええっ!?」
ため息と共に畳もうとしたルピナスを、陣の上に手を置くことで遮るプラタナス。狙ったものとは違う形ではあったが、目的自体は達成できている。重い作用も、彼であれば乗り越えられないわけではない。
「無論、開発は続ける。しかし並行して、これの使用訓練を行いたい」
とはいえ、これより作用の軽い陣が開発できる可能性はまだ残されている。この陣を使うのは、その可能性が叶わなかった場合。そしてその時に備えて、危険ではあっても訓練は今の内から行うべきである。
「……分かりました。先生がそう言うのなら」
ルピナスは心象的に反対ではあった。だが、論理的に考えれば、プラタナスの言葉は正しい。それに、重い作用を伴う程度で彼は止まらない。この数ヶ月間見てきた彼女だからこそ分かる。故に反論を飲み込んで、頷いたのだ。
それから一ヶ月半。ルピナスが失意に折れかけた二日目の夜。全てを聞き終え、真心からの言葉を返し、彼女がもう一度戦えると言った後。
「……ごめんなさい先生。本来なら今日、最後の追い込みをするはずだったのに」
過去の語りで時間を潰してしまったことを、彼女は謝った。そうだ。狙いの陣どころか、代償の軽い陣すらできていない。現状目的を果たせるのは、ルピナスが失敗作と考える一枚のみ。
「いいとも。正直、今日できても遅すぎると思っていたくらいだ。今できても、練習できないからねぇ」
だが構わないと、プラタナスは手を振って返す。この一ヶ月半、ずっと代償の重い陣で練習してきたのだ。今更改良できたとしても慣れていない分、元の陣の方が使いやすい。確かにそれは彼の心であった。
「それより、本当にいいのかい?」
「ええ。大丈夫です」
話題を変え、彼が尋ねるのは陣の使用について。二人で共同開発したのだから、ルピナスにも使う権利はある。だが、彼女は首を横に振った。
「とてもじゃないですが、私ではこの陣を使いこなせませんから」
「……確かに、そうだがねぇ」
使う権利があるなら、使わない権利もある。彼女の理由は嘘ではない。ルピナスの戦い方を考えれば、この陣はむしろ足を引っ張りかねない。故に断る。そこは、嘘ではない。
だがそれが全てかと問われたのなら、きっと違う。洞察力に優れる彼には分かる。どちらが先にプリムラと当たるかはまだ発表されていないが、仮にルピナスが先に対戦することとなった場合。プラタナスが使うより先に、陣の存在と効果が露見してしまう。
初見殺しという言葉があるように、意表を突くこと自体が大きな武器だ。一度見られた時点で、対策を考えられてしまう。それを避けたいという想いがきっと、ルピナスの中にある。
「それに、私には龍骨と頼れる友達、強さを教えてくれた先生や師匠がいますから!」
「……そうかい。分かった。では、この陣は私が使おう」
両拳を胸の名前で握り、鼻息荒く。大丈夫を振る舞う彼女の心中に男は緑の目を閉じ、気付かないふりをする。暴くよりも黙って受け取る方が、気遣いへの報いになる時もある。今のように。
「ありがとうルピナス。君のおかげだ」
「い、いえ!私の力なんてなくてもきっと、先生はこの陣に辿り着いていたと思います!」
「未観測の世界の仮定に、意味などないだろう?こういう時は素直に受け取りたまえ」
今だってそうなのに、そういう性格の彼女は気付かずに礼を受け取ろうとはせず。もちろん、礼を受け取る受け取らないは個人の自由ではあるが、分かった上でプラタナスは押し付ける。
「謙虚は必ずしも美徳ではない。礼というのはね。受け取ってもらった方が、した方も嬉しいものなのだよ。つまり、君に受け取ってもらった方が私も嬉しい」
「わ、分かりました!そしてごめんなさい!ありがたく頂戴いたします!」
「ありがたがっているのは私の方だというのに……」
まぁ、君らしいかと。プラタナスは嬉しそうに肩を竦めて、窓の外の星と二つの月を見る。
(使う以上は、必ず勝つとも)
全ては明日だ。明日で決まる。この一年間の想いと、数ヶ月間の新しい想いが報われるかどうか、全て。
(この勝利は私の為に。そして、君の為に)
数ヶ月前の自分ならありえなかった二文目に、私も変えられてしまったかと微笑んで。
そして、ルピナスが負けた。プラタナスも序盤は優位に立ち回っていたが、徐々に枠の数の差が響き始め、不利に傾き始めた。だから使用に踏み切った。
「ぎわくさんじゅうしき……?後天的に得る?まさか、ありえない」
痛む両肩に鞭を打って走り、飛来した瓦礫の山を潜り抜ける。目の前に出現した炎の渦には爆裂火球を中に放り込み、内側から爆散して崩壊させる。障壁の種類を明かさぬように彼は立ち回り、目指すは舞台の端。
「一体何を……」
「安心したまえ。これはただの玉座だ」
進行方向に突如突き出した土の槍を、木の創造魔法で橋をかけることで回避。その後、創造魔法を継続させ、橋を大きな椅子へと変える。彼の言う通り、無駄に装飾の彫られた高貴なる玉座へ。
「させないわよ!」
プリムラは自らの予想に怯えながら、土の槍を延長させる。一拍遅れたが、二枠の瓦礫の飛び道具も宙を裂き進む。狙いは今まさに玉座へ腰掛けようとしている、プラタナス。
「遅い」
だが、遅かった。彼の方が僅かに早かった。玉座に深く腰掛け、手の中の魔法陣を発動させる。
特段、視界に変化は見られなかった。一秒を何回にも切り分けた時間の中を、ゆっくりとプリムラの攻撃が進む。プラタナスは玉座に腰かけたまま、いや、彼は項垂だれた。まるで糸の切れた傀儡魔法のように、がくりと。
「っ……!」
少女は息を呑んだ。垂れ下がった緑の髪の奥、片眼鏡の向こうの深緑の眼を見たからだ。顔全体は見えない。だが分かる。彼は笑っている。彼は歓喜に震えている。
今度は息を呑むことすらできなかった。プリムラが操作していた三枠の魔法全ての反応が、かき消えたのだ。視覚よりも先に感覚で把握してしまった。遅れて見えたその世界に、我を忘れるほどの驚きを感じるしかなかった。
地面すれすれに吹いた風の刃に、土の槍が一本も残らず刈り取られていた。空を駆る土の鞭と氷の鎖に、全ての瓦礫が薙ぎ払われた。
時が止まったようだった。風、土、氷、つまり三つ。三枠だ。事態を理解できない観衆も、プリムラをはじめとした理解できた強者も皆、凍り付いていた。唯一の例外は共同開発者である、ルピナスのみ。
「代用肢を義肢という。手ならば義手。足ならば義足」
彼は動き始める。震えた両腕を虚空庫に突っ込み、指間腔ごとに二枚、計十六枚の魔法陣を抱いて帰還させる。そして、その腕を魔法陣ごと玉座の肘掛けに木魔法で沈ませ、一体化させて固定。
「ならば枠は?私は義枠と定義しよう」
脛を、太ももを、腹部を、肩を、肘を、手首を、首を木のベルトが覆い隠す。彼は玉座と呼んでいたが、それはまるで拘束椅子のような。
「故に、『義枠・三重式』」
首のベルトに絞めあげられ、連動して顔が上がる。プリムラの予測通り、背筋の寒くなるような笑みだった。なぜかは分からない自縛も、恐怖を増幅させる。
「さぁ、始めよう」
最初に使用した剣を浮かばせる。土の剣を展開する。爆発火球を薄く引き伸ばした針を用意する。彼は腰かけたまま動くことなく、それら全てを射出した。
「……どういうことなの……!?」
プリムラには訳が分からない。だが、理解できないこの攻撃は防がねばならない。瓦礫を飛ばし、土の盾を展開し、風の刃を撃ち出す。
「見れば分かるだろう?」
しかし、元より技術ならプラタナスの方が上。枠の差で上回っていただけに過ぎず、それがなくなった今となってはもう。
「嘘……」
操られた鉄の剣は瓦礫の隙間を器用に縫い、土の剣は土の盾を貫通し、爆針は風の刃を穿つ。プラタナスの攻撃全てが、プリムラの防御を超えた。
「そんなの!」
だが、影響がなかったわけではない。変則的な軌道となったことで、鉄の剣の到着が僅かに遅れた。その遅れの間に、プリムラは破壊された土の盾を放棄。新たに巨大な長方形の盾を作り、剣の前にかざす。
「現実を否定しない方がいい。それは何も生まない行為だ」
それすら、躱された。盾の直前で鉄剣は跳ね上がり、上から鋒を覗かせる。身体に突き刺さる寸前、今度は風の刃を解除した枠で氷の盾を創造し、凌ぐ。速度重視で作った盾だ。当然貫かれるが、その間に少女は後ろに逃げている。
「でも、あり得るわけないでしょ!」
その先で土の剣と爆針が、プリムラと衝突。魔法障壁にて守られた彼女はほぼ無傷。精々、爆発の際に飛んだ砂利が肌をかすめた程度である。
「それは、今までの歴史の話だろう?」
回復した二枠で爆風を発動させ、追尾してきた剣を押し返すプリムラ。流石に耐え切れなかったのか、プラタナスと操風の接続が切れるが、大したことではない。決着には至らなかったとはいえこの攻防、有利だったのは間違いなく彼なのだから。
「だからよ!今までずっと人類が求めてきたような魔法が!なんで今そこにあるのよ!」
逃げた先、いくつかの赤い線を刻まれた少女は、短い髪を振り乱して叫ぶ。彼女は知っている。今のプラタナスの魔法を、どれだけ人が求めているかを。その系統外を持つ自分にどれだけの人がどんなに嫉妬を抱いたことか、知っている。だからこそ、彼女はここまで取り乱す。認めることができない。
「開発した、以外に答えはいるかねぇ?」
「っ……!」
その魔法が何かは、本来の作用以外説明せずとも良いだろう。ただ一つだけ言うならば、前に述べたプラタナス級の技術を持ったプリムラが実現したということ。擬似的にして一時的、プリムラではなくプラタナスという違いはあれどだ。
「驚いても無理はない。この魔法は世界を変えるものだ。できることなら、私も使いたくはなかった」
影響に関しても、言うまでもない。彼の言うことに誇張はない。これは世界を変える魔法だ。常識を打ち砕き、戦争を、技術を、人類の今後を歪めかねない魔法だ。今、扉は開かれた。
「故に、この魔法は秘匿する。私は誰にも詳細を明かさないし、教えるつもりはない。使うのはただ一度、この試合のみとする」
存在を知れば国も人も、誰もが追い求めるだろう。だからこそ、プラタナスはこの試合限りでこれを封印する。
「しかしまぁ、使いたくなかった最大の理由は、二枠で三枠に勝つ方が劇的だったから、だが」
とはいえ、そんな危険性や世界への影響なんかよりも、プリムラの心の凹み具合が軽くなる方が彼は嫌だったのだが。プラタナス・コルチカムという男は、そういう男だった。
「だが、これではっきりするだろう?三枠と三枠。良かったじゃないか公平だ」
使いたくはなかった。だが、使わずに負けるくらいなら、使って勝ちたかった。彼は自らが負けることを絶対に許さなかったのだ。それに、使ったところで公平になるだけ。技術の差が浮き彫りになるだけだ。
「……だからね。だから、あの出来損ないに近付いた」
撃ち出された氷の槍、土の槍、瓦礫の雨を前にプリムラは無様に走る。迎撃の魔法も防御の土の盾も使っている。だが、それだけでは防ぎ切れないと知っているから、ルピナスのように脚を使って生き延びようとする。
「貴方はあの出来損ないの持つ魔法陣の知識が欲しかった。王子様ですらなかった」
慣れておらず、壊れて荒れた舞台の上。何度も足がもつれそうになりながらも、彼女は叫ぶ。それはただ、プラタナスの調子を乱す為の攻撃だったのか。或いは単なる怒りだったのか。
「……本当に哀れね。結局利用されて、捨てられた。救いなんてどこにも……!」
灰色の眼に炎が灯る。逆境の中に生まれたそれは、彼女の魔法の制御を甘くし、引き上げる。いつもより荒く。けれども、いつもよりも強く。
「黙りたまえ」
だが、炎が灯ったのは灰色の中にだけではなかった。元より復讐に燃えていた緑の眼にも、未だかつてない激しさの炎が新たに産声をあげていた。
「人って図星を突かれるとすぐ怒るわよね!」
プリムラは魔法障壁で固定し、物理攻撃のみを三枠で撃ち落とすことに専念する。ただ単純に空を舞う剣や瓦礫だけではなく、足元の地面など物理攻撃になり得る箇所全てに注意を払ってだ。
「ああ。それ以外に、勝手に決め付けられた時や逆鱗に触られた時もねぇ」
格上や同格に対する防御戦法をとるプリムラに対し、プラタナスは真逆。障壁以外の防御をしない、攻撃に全てを割り振ったスタイル。だって彼は分かっている。こちらが攻撃すればプリムラが防戦一方となることを、理解している。故に、防御は必要ないと合理的に判断したのだ。
「決め付けるってなに?おかしいでしょ!共同開発なら、私の戦いの時にあいつが使うでしょ!?」
魔法だけが戦いではなかった。口頭での戦いも並行して続いていた。プリムラが責めるのは、ルピナスが義枠を用いなかったこと。枠を持たない彼女のことだ。このような魔法、使いたくてしょうがなかっただろうにと。なのになぜ、使わなかったのかと。
「なんだかんだ適当な理由をつけて、使わせなかったんじゃないの!?」
決め付けではある。が、一般的な物の見方としては間違いではない。ルピナスが義枠を使いたいという推測は自然なことであるし、使わなかったことに違和感を覚えるのは無理もないことである。
「そうじゃなかったら何!?あいつ、私に手加減してたの?」
そして何より。ルピナスはプリムラに対し、全力でこいと言った。全力の姉に勝たなければ意味はないと言ったのだ。だからプリムラは全力で戦い、勝った。
「私には全力を出せとか宣っておきながら、自分は全力じゃなかったの!?」
なのに今、義枠の存在と共同開発であることを知ってしまった。共同開発であるのなら当然、ルピナスだってこの陣を知っているはずだ。だが、彼女は使わなかった。
「だったらあの勝ちはなんなの?あの出来損ないがもしも三枠使えたのなら……!」
悔しげに、怒りに震え。制御を誤ったのか、プリムラの右脚が踏んだ地面に大きな亀裂が走る。彼女の脚も痛かったろうに、そんなこと気にもとめず。ただ叫ぶ。最後までは声にならずとも、誰にだって続きは聞こえた。『あの勝負は分からなかった。いや、負けていたのは私だったかもしれない』と。
簡単に認められるものではない。認めたくはない。だが事実として、彼女のプライドが認めてしまう。陣の二枠であそこまで追い詰められたのだから、三枠目があったのならと。
「ふざけないでよ!ふざけないでよ!そんなこと、許されるわけが!」
激情を表現するかのように炎の壁がうねり、プラタナスの操る瓦礫と氷の槍を溶かす。魔力と適性、怒りに任せた大技。しかしそれだけではなく、複数の瓦礫と氷槍の軌道に的確に炎を重ねた、技術を併せ持つ一撃だった。
「ああ。違うとも。確かに彼女はこの魔法陣を知っていたし、自ら使用を辞退した。だが、理由は違う」
プリムラが一枠で二枠分の攻撃を無力化した。偶然に近いものとはいえ、成長速度を示す結果。だが、プラタナスは顔色を変えない。動揺などしない。もっと大きな感情に、心を占拠されている。
「見たまえ。そして少しは考えたまえ」
「何をよ!」
「彼女はこの魔法を、自分では扱えないと言った。むしろ足を引っ張ることになると」
この魔法陣の詳細を明かすつもりはない。だが、見て分かる範囲に関して、隠すつもりはない。軽くヒントを与え、彼女に理解を促す。
「……扱えない?引っ張る?」
プラタナスの攻撃の手は緩まない。手加減はない。防御に思考の大部分を奪われる中、ほんの僅かな残りでプリムラは必死に考える。
見て思うのは、あの拘束椅子のような玉座の違和感。前々からあったものだ。そして今、戦闘中だからと後回しにはせず、向き合ってみる。
魔法陣により多く触れる為、などではない。あの椅子は木魔法で作成されたものなのだから、陣は仕込まれていないはずだ。両手の十六枚も、普通に手で持てばいい。
両肩の痛みに耐えられなくなって、座りたくなった。これも違う。痛みに耐えられない人間が座ったところで、ここまで戦えるわけがない。
注目すべきはやはり、拘束という点。そしてもう一つ。発動時のプラタナスの挙動だ。まるで糸が切れたかのように、彼は項垂れた。いや、全身の力が抜けていた。
「まさか!」
「正解だ」
理解を得たプリムラの顔に、答えを聞くまでもなく正解とプラタナスは告げる。そうだ。それくらい、辿り着けるだろう。彼の鋭い洞察力は分かっていたのだ。
「なんて代償……」
義枠の全てを解き明かしたわけではない。プリムラが分かったのは、手脚の自由と引き換えに枠を得ているということ。その証拠にプラタナスの手脚は玉座と一体化し、拘束されてから一度も動いていない。
虚空庫に両腕を入れた時は、一度陣を切っていたのだろう。このように永続効果ではない。だがしかし、これなら納得できる。
「……」
故に黙る。手脚が動かないのならば、傀儡魔法は扱えない。自らの拳で戦うこともできない。何より、魔法陣の入れ替えができない。魔法陣の入れ替えなし、最初から服と手に持っていた分だけの短期決戦で挑んだとしても、防御に集中したプリムラなら、陣が切れるまで耐えられる可能性がある。
「理解したかねぇ?彼女は手を抜いていたわけではないと」
つまりルピナスは、手加減でこの陣を使わなかったのはではない。使わない方が良いと判断したのだ。手加減ではなかった。あの時の戦いは、彼女なりの全力だったのだ。
「ええ。まぁ。でも、貴方があの子を利用したんじゃないかって疑いは晴れていないわ」
使わなかった理由は分かった。でも、疑惑を拭うには至らないと、プリムラは土の盾の陰から告げる。助けを求めていた悲劇の少女に、手を差し伸べた憧れの存在。それがただの打算であったのなら、なんとも救いのない話だ。
「……いいかね。プリムラ・カッシニアヌム。貴様はどこまで、私を怒らせることに長けているのかねぇ?いっそ楽しくなってきたくらいだとも」
「そう?それは光栄ね。で、なに?」
隠し切れない怒りを含む男の声に、少女は切った頰から流れる血を拭いながら煽る。より怒らせて、集中を欠かせる為に。
「人の心とは、完全に理解できるものではない。推し量れたとしても、それはほんの一部分。所詮は己の主観によるものでしかない」
「まぁ、そうね。いきなりなに?心理学の講義かなにか?」
分かった風な口をきくな、とでも言いたいのだろうかとプリムラは推し量る。そこで敢えて分からないフリをして、彼の怒りに油を注ごうとした。
「例外なのは自身の心だ。全てではない。分からないことも多い。だが時に、完全に理解できることがある唯一の心だ」
「さっきから当たり前のことをつらつらと。なにが言いたいのかしら?」
熱のこもった講義は続く。それに比例するかのようにプラタナスの魔法の制御が甘くなっていく。良い傾向だと少女は口元を歪め、いまいち要領の得ない彼を急かす。結論を急いで聞こうとすることは、相手の気を悪くさせる可能性の高い行為だと知っての行動だった。
「一目惚れというべきなのだろうかねぇ。最初は腹立たしいことに貴様と勘違いしていたものだから、怒りしか湧かなかったのだよ」
「は?」
だが、その目論見は崩れ去った。別に結論を急いだところで、特にプラタナスの調子は変わらなかった。むしろ魔法の制御が甘くなり、崩れかけたのはプリムラの方だった。
「だが、私が彼女を好きになった原因の瞬間は間違いなくあの時だ。初対面のあの時だ。別に一目惚れだろうがそうではなかろうが、この想いに特に変わりはないのだが……姉の貴様はどう思うかねぇ?
「待って。お願い。待って」
若干早口になりながら、どこか嬉しそうに。数秒前まで怒りで朱に染まっていた顔は、今はもう笑みに移り変わっていて。更に口から吐かれた想像を絶する内容に、プリムラの脳は限界を迎えた。ついでに観客席のルピナスも限界を迎えかけていた。
「いや、別に貴様に答えてもらわなくてもいいと今気付いた。故に待たない」
「もう本当!頭がおかしいんじゃないの!?」
「好きに言いたまえ。私も好きに言う」
揺さぶりをかけようとしたのに、逆にプリムラが揺さぶられていた。それも凄まじく強力に。だが、今は戦闘中。今までの関係を考えれば当然とはいえ、冷酷にも彼は待ってくれなかった。
プリムラは崩れ過ぎていた。本当に危うく、このまま勝負が決まるかもしれないほどに、崩れていたのだ。一度劣勢に追い込まれれば、そのままころころと負けへと転がることなどよくあること。
「続きだ。ここまでくれば、流石の貴様も分かるだ……ごほっ!」
「分からないわよ!何が言いたいのか、なんで今貴方が血を吐いているのかも!」
だが、今回は違った。プラタナスの身体が震え、口から血を吐き出したのだ。意識が一瞬飛びかけたのか、さっきまでプリムラを追い詰めていた三つの魔法が消滅している。
「そうかい?なら、教えるまでだとも」
彼女はルピナス戦の反省を活かし、この隙に残り少なくなった魔法陣を取り替える。反撃に出ようとするが、そこまでだった。プラタナスは再度魔法を展開。戦況は元に戻る。
「貴様は私が唯一確信を持てる、私の心を踏みにじったのだよ」
彼女を射殺さんばかりの緑の眼に赤が混じる。心象の炎ではない。確かに彼の心はそれほどまでに荒れ狂い、燃えているが違う。現実の話だ。血だ。充血し始めているのだ。
「この想いを、貴様は勝手な思い込みで違うものと決めつけた。元より憎いことこの上なかったが、私はそれが我慢ならない」
ただ魔法と強さばかりを追い求めた男が、初めて抱いた想い。自分とは全く縁がないと思っていたのに、いざ持ってみればそれはそれは大切なもので。故に彼の今までがあった。故に今日、彼は怒りを抱いた。
「なによ。利用する為じゃなかった。本当に好きなんですとでも言ってるの?」
「当たり前だとも。さっきからそう言っている!」
「っ……!?」
プラタナスが声を荒げた。利用する為だなどとんでもない。確かにプリムラを倒す為に、力を借りはした。でも、それ以上に違う想いの方が強かった。
「私以上に魔法の扱いが上手だった!私以上に魔法を愛していた!あの衝撃が君には分かるか?」
その想いが生まれたのは、彼女が魔法を使う瞬間を思い出した時。雷に打たれたようだった。今までの新種の魔法陣、魔法理論の発表にも勝る衝撃。プリムラに負けた時以来の、世界がひっくり返った感覚。
最初は嫉妬した。私の方が魔法を愛していると、張り合おうともした。だが、それが続いたのは一秒程度だ。理解の追いついた感情に塗り替えられた。
「はぁ?なにそれ。そんなので惚れるの?魔法さえ良ければ誰だって」
「いい訳がないだろう!この恋も知らぬお子様が!」
「なっ!」
彼をよく知る人物ほど、呆気にとられたことだろう。彼は今怒っている。いつもの静かに理論で追い詰めるような怒り方ではない。声を荒げて子供のように、慣れない直接的な罵倒でだ。
「それはきっかけだ!私は魔法の扱いが上手い女が好きなのではない!私は彼女が好きなのだよ!ルピナス・カッシニアヌムという女性を、愛しているのだよ!」
その上こうも、衆目環境の中で告白をするなど。理知冷静な彼に考えられることではない。いや、一年前の彼ですら想像できなかったに違いない。それ程までに、彼は変わった。変えられた。彼女によってだ。
「それを貴様はよくもまぁ、利用する為だのなんだの、散々に言ってくれたねぇ」
「じゃ、じゃあ貴方は……」
「当然だとも。私は彼女の勝利を、いや、幸せを願っていた。愛している者の幸せを願うことなど、当然じゃあないのかねぇ?」
声は未だ大きく震えたままで、怒りは衰えてはいないが、口調だけはいつもに戻して。彼は語る。どこが彼の逆鱗だったか。プリムラに理解できるよう、直線的に。
「自信を持ち、胸を張って生きたいと願うのなら。そしてその為に姉を倒す必要があるのなら、出来る限りのことをしようと、私は思っていたとも」
口ではプリムラをより貶める為と言った。それは決して嘘ではない。その思いはあった。だが、その裏には幸せになってほしい、自信を得てほしいという想いがあった。
魔法陣の研究だけでも手伝ってほしいと誘ったのにも、裏がある。もしも共同開発した魔法陣で自分がプリムラに勝てたのなら、それが間接的に彼女の自信に繋がるのではないかと思っていた。
あの時から、あの日からずっとプラタナスは。
「……」
姉のプリムラは言葉も出なかった。何を言ってよいのか分からなかったこともあるし、彼の迫力に圧倒されたからでもある。そしてもう一つ。
「くっ!」
プラタナスが調子を取り戻し始めたことも、大きく関係している。先程のように煽る余裕すらないほど、彼の制御は安定し始めたのだ。
プラタナスの言動に度肝を抜かれた観衆は多かった。だが、今の静けさはそれではない。今彼らが観ている光景によるものだ。
先のルピナス対プリムラ戦も素晴らしかった。凄まじかった。魔法戦の頂点の一つに数えられると思っていた。今でもそれに違いはない。
だが、考えられるだろうか。今まであり得たのだろうか。歴史上類を見ないであろう、二枠保持者同士の対決。両者共に適性は最高。彼女の才能は神域に至らんとするほどのもので、彼とは大いに差を開けるもの。だが、彼は努力と工夫でそれを埋め、超えた。
見よ。今までに誰もが目撃したことがなかったであろう、陣を含めて三枠の魔法が飛び交う戦いを。その一枠、一つ一つがどれも常人の全力を遥かに上回る威力と技術のそれらを。
土の剣と氷の槍がぶつかったかと思えば、風刃と風爪が形なき互いを断ち切りあっている。盾は幾度となく壊れて捨てられ、新たに生み出されては壊れてを繰り返し。緊急防御も兼ねた範囲殲滅が何度も瞬き、防壁を揺らし、白き石の舞台は既に原型などなく。そして元舞台であった瓦礫は彼らに操られ、縦横無尽に空中を飛び回っている。
役割を終えた魔法に彼は礼を言ってお別れを告げ、彼女は綺麗さっぱり切り捨てて次へ。常人ならもう少し枠を埋めてしまうだろうが、彼らは違う。そのコンマ数秒で全てが決まるのだ。目まぐるしく魔法は入れ替わる。
プラタナスは卓越した予測と技術による先手の攻めを。プリムラは相手の魔法を見た瞬間の反応と才能を振り回した後手の守りを。
どちらが有利かと問われたのなら、それは攻める側であろう。プリムラの反撃など数えるほどしかなく、そのどれもがプラタナスどころか玉座に触れることもない。
対して彼の攻撃は、的確にプリムラを削り取っているのだ。魔法障壁だということは分かりきっている。だから常に一枠、物理攻撃を用意し、残り二枠の魔法にてそれを押し通す。その度に彼女の身体には傷が刻まれていく。
「いっ……たいわねっ!」
瓦礫が額の右を割った。首筋にも掌にも服の下にも、青痣や赤い腫れがある。剣は幾度となく彼女の柔肌を通り過ぎ、斬られた箇所からは血がぽたぽたと流れている。
痛かった。今までに経験がないほど痛かった。ここまで苦戦したことなんてなかった。意識が痛覚にかき乱される。でも、魔法まで乱れたら負けだと、強迫観念にも似た意識で集中を繋ぐ。
だって、まだ致命傷には至っていないのだ。防御に徹することでそれだけは避けている。耐えて耐えて、耐え続けて待っている。数少ない反撃を挟む瞬間、プラタナスに度々訪れる、三重発動の代償を。
「がほっ!ごほっ!」
通算五度目となる血の咳が聞こえた。魔法の隙間でプリムラは盗み見た。プラタナスの身体に被弾はない。だが、その身体は既に血塗れだった。
「はぁ……!はぁ……!」
緑の眼は充血によって真っ赤に染まり。涙は透明ではなく鉄分を含んだ真紅。その涙は、溢れ出る鼻血と合流して唇に染み込み染め上げて。更に口から吐かれた血を伴い、何度も何度も彼の服を汚している。
だが、彼は気にしてなどいない。そんな意識の暇もない。首から下の感覚及び全身の痛覚が機能していないのだから、気づいてすらいないのかもしれない。
明らかに異常。明らかに普通ではない。顔色は時が経つにつれ悪くなり、外に出る赤は増えていく。いつ倒れてもおかしくようにすら見える、痛々しい血に溺れた姿。
これが、三重発動の代償。陣の作用とはまた別だ。気を失う激痛の壁の向こう側にある世界に至る為の対価だ。
「げはっ!げほ!ははっ……!」
「……どうして、そこまで……!貴方達は!」
七度目の血が、彼の口から漏れ出た。魔法が消えたその一瞬に反撃を叩き込みながら、プリムラは叫ぶ。
なぜそこまでボロボロになっても、まだ戦うのかと。
プラタナスの容態はもう、壊れかけていると言っていい。だがそれでも、魔法は発動し続けている。血の咳をし、意識が白熱する一瞬以外、維持し続けている。
驚異的だ。いくら訓練したとはいえ、未だ慣れきったわけではない三重発動を、朦朧した意識の中二枠時と衰えぬ精度で使いこなしている。身体も意識も全て魔法の為に、勝利の為に使っている。
ルピナスだってそうだ。服を剥がされても陣を失っても友を奪われても骨が折れても、立ち上がって挑んできた。最後まで魔法の精度が衰えることはなかった。
「なんでっ!」
なぜだ。なぜ、そこまでできる。プリムラはそれを問うた。勝つ為なのは分かる。でも、分からないと。
「私が……貴様に勝ちたいからだ……」
問われたのなら、口から血を吐きながらでもプラタナスは答えよう。まずは、一年前の屈辱を晴らす為だと。その為にこの一年があったと。
「そして彼女が、私の勝利を願っているからだ……!」
血を撒き散らしながら二つ目。それは、彼女が勝利を願うが故と。自らが彼女の幸せを願うが故と。
そうだ。プラタナスはルピナスを幸せにしたいのだ。自分の勝利が彼女の幸せとなるならば。
「あと、少しだけ……彼らに助けられたからねぇ……」
これは小さいが三つ目。ザクロにサルビアに、時折訪れるマリーに、助けてもらったからだ。彼らなくしてここまでの戦いはない。ならば、意地ができるというもの。
「こんなにもだ。こんなにも、理由がある」
別に勝ったからといって、世界が救われるわけでも滅ぶわけでもない。死ぬわけでも誰かが助かるわけでもない。ただ誰かが幸せになって、誰かが不幸になるだけの戦いだ。名誉と尊厳がかかっただけの戦いだ。
「負けられるわけが、ないだろう?」
でも、負けられない。プラタナスは負けられないのだ。勝たねばならない。故に、倒れない。全力で最高の魔法を維持し続ける。
「分かるかね。君には分かるかね。プリムラ・カッシニアヌム」
逆に問おう。再度問おう。全てを賭けた今に至って、もう一度問おう。
「私はこれだけのものに支えられ、全てを賭けている。私の未来も世界への影響も彼女の幸せも、彼らの努力も賭けている」
これは意地の戦いだ。それだけの戦いだ。それだけの戦いに、プラタナスは命を賭けた。『義枠・三重式』を開発し、発表し、ともすれば命よりも重い世界への影響を賭けた。
これがきっかけで、世界は破滅への足を早めてしまったかもしれない。それだけのものと知りながら、彼はこの戦いで使用したのだ。ただの意地の戦いに、使ったのだ。
「さぁ、君はどこまで賭ける?」
先程、彼女は全てと答えたが、それは具体的に何か。血では足りない。痛みでも傷でも努力でも足りない。命だともう少し足りない。じゃあどこまでか。
「私の覚悟に、ついてこれるかねぇ?」
世界を破滅させるか、敵に回すくらいの覚悟がいい。それだけの覚悟を、彼は自分と彼女の為にしているのだから。
別に覚悟が重いものが勝つわけでも、背負う者が勝つわけでもない。だが、それでも。
血と魔法溢れる戦場に、男の問いが響いた。
両者共に限界も近く、ならば決着も近い。




