第32話 白と黒
プラタナス・コルチカムは、神を信じていない。
『記録者』以前の数多の記録や多くの事象から、人間に知性と知恵と魔法を与えた神、あるいは高位存在が実在したことが予想されている。この件に関しては、プラタナスも実在したはずだと結論付けている。
(私は神を信じない)
ならば、彼が信じない神とはなにか。それは、人々の祈りや願いを聞き届け、奇跡を起こすような神のことである。そんな都合のいい存在がいてたまるかと。いるならば、この世から不幸など消えていることだろうと。
(でも、虫が良くて申し訳ないが、今日だけは祈らせてもらおうか)
だが、彼は今日祈る。常日頃から神を鼻で笑ってきたような男の彼が、生まれて初めて神に願う。
(ずっと、努力をしてきた)
観客席。一秒たりとも見逃すまいと、目は決して閉じず。隣のサルビアとザクロも気にならないほど、意識を集中させ。指を組み、彼女が魔法を発動する度に力を込めて。
(ずっと、魔法を愛してきた)
生まれた瞬間から、魔法にそっぽを向かれた少女だった。でも、諦めずに好きだからと追い続け、工夫を重ね、今あの場に立っている女性だ。
(愛されていないのに、ずっと彼女は愛していたんだ)
神を恨みたくなるほどの、圧倒的な才能の差。真正面から戦っては相手にならず、用意した切り札は奪われかけ、失敗に終わった。降参してもおかしくはない状況だ。
(今だって、こんなに頑張って愛している)
でも、彼女は立ち上がった。プラタナスもザクロもサルビアも手伝わなかった、彼女一人の策をその手にもう一度。そして今、戦っている。
(この姿を見ても、何も思わないのかねぇ)
その姿は血まみれで傷だらけで、今にも倒れそうで。強靭な精神力で意識を繋ぎ、必死に吠えている。全身で叫んでいる。積み重ねてきたもの全てをこの一戦に、一勝に賭けている。
(一度くらい、振り向いてやってもいいじゃないか)
いるかは分からないが、神様とやら。特にプリムラばかりを愛し、ルピナスを愛さなかった魔法の神とやらに。愛しているから愛せと言うのはひどく傲慢なことで、分かっているルピナスはそれをしない。だから、代わりにプラタナスが神に要求する。
どうか、彼女の努力と愛が報われますようにと。
(それにしても……)
真摯に祈りを捧げる横で、冷静に試合を見ている彼は思う。実に意外なことだが、どうやら間違いない。
(腐っても姉は姉、ということかねぇ)
戦況は膠着。いくら強力な魔法を撃っても、技術にてやり過ごされる。逆もまた然り。日常の中で鍛え上げた技の冴えでも、覆せる力量には限度があった。物理攻撃を当てようと、ありとあらゆる方法を試す両者だが、どれもが後一歩のところで断たれる。
それほどまでに拮抗している。このように膠着している。だが、どちらが有利でどちらが不利かは、素人に近い観客の目にも明らかだった。
このままの状況が続けば、不利なのはルピナスだ。両手の骨折、足裏の裂傷、全身の打撲に擦り傷。軽傷重傷合わせればキリがない。よくもまぁ、これだけ動けているものだ。
一方のプリムラの被弾は一度、右脇腹と左肩、右前腕部に右脚に石片を食らったのみ。ルピナスにとっては悲しいかな。陣の適性上限により、骨折にまで至ってはいない。しかし、これらの痛みはプリムラにとって初めての痛みなのだ。これだけ痛いことなんて、知らなかったのだ。故に、彼女の顔は妹よりも苦痛に歪んでいる。
そしてこの有利と不利は、このままの状況が続いたならの話。覆る時は一瞬で覆る。相手の意識を奪えるだけの攻撃を叩き込めば、その瞬間に勝ちは決まるのだ。
だから、ルピナスはその時を待っていた。ある一点を計算して、待っていたのだ。
「自信?変わる為?私を倒したところで、何が変わるの?残念だけど、魔法の枠は奪えないわよ?」
プリムラは今まで通りに大技と操風を繰り返し、時折傀儡魔法を混ぜながら、侮蔑と極めて常識的な事実を述べる。
「……違う。そんなことで枠は手に入らないなんて、分かってる」
ルピナスは状況ごとに触れる陣を決め、魔法の使い方を細かく変えながら、そんなつもりではないと否定する。
自身にはなく、姉に二つある魔法の枠の場所はどこか。いや、そもそもなにであるかはまだ解明されていない。それでも、二枠のプリムラを倒したからとて、彼女の肉を食らったからとて手に入るものではないということくらいは、ルピナスだって知っているのだ。
「じゃあ心?それこそもっと分かってないわ」
そうでないなら、なぜかと。自信を手に入れると言っていたのだから、精神的な問題か。ああ、そうか。ならもっと笑えるお話だと、ルピナスの隠れた土の盾を炎の槍で溶かし抜き、貶める。
「自信っていうのはね。持ってる人間は当たり前に持っているものなの。持ってることにすら、気付かないものなの」
自信家とは他人から呼ばれるものであって、自ら名乗るものではない。持つ者は持っていると気付かず、持たない者のみが持っていないと気付くものなのだと。
「分かる?私を倒したところで手に入るものじゃない。いいえ。それどころか持っていないと自覚した時点で、あなたはもう自信を得ることはできないの」
自信の所有を語りながら、プリムラは空いた穴に弾丸のような石片を集中させる。日本の弾丸とは違うのは、その速度のまま、彼女の意思によって自由に軌道を変えることだろう。逃さぬように一直線ではなく、ランダムに。プリムラは見えない盾越しに、石片の軌道を爆発させる。
「そんなことの為にこんなに頑張っちゃって、ほんっと哀れな––なにこれ」
そして気付いた。これは盾じゃない。読まれていた。ルピナスは読んでいた。盾のように見せかけた、土のドームだ。侵入した穴の先は自由な空間ではなく、壁の中。石片がぶつかったのは、ルピナスではなく強固な土。
「分からないっ!」
引き戻す暇もなかった。ルピナスが起動した世にも珍しく、なおかつ極めて複雑な正規の爆発魔法の陣が、土のドームごと石片全てを塵に変えてしまった。爆風と煙をかき分け、魔法障壁に守られたルピナスが姿を見せる。強く強く、否定への否定を叫びながら。
「なにが、よ!」
一度防がれたのなら、また攻撃するだけのこと。再度属性魔法と操風を携え、プリムラも声を張り上げる。
「勝っても何も変わらない!あなたは無枠で自信なんてないまま!そりゃ多少はチヤホヤされるでしょうけど、そんなのいらないでしょう!?」
勝ったところで、ルピナスはルピナスのままだ。変わるとしたら周囲の目線。しかしそれは昨日まで無関心だった、もしくは見下していた者達による虚しい称賛だ。だから私の言うことは間違っていないと、プリムラは我を押し通す。
「だからそれが、分からないって言ってるの!」
ああだが、ルピナスの意見は違う。彼女は異なる考えを持つ自分を、押し通そうと叫ぶ。熱を込めて、魔法陣を踏みつける。
「昔は誰にでも認められたかった!」
足裏の傷が陣に血を塗る時、魔法が世界を変革する。それは木製のベッドを作る魔法陣だ。無論、その用途の為、プリムラの攻撃を受けきれるほどの強度はない。
「でも今は、違う!今は先生やサルビア様、ザクロ先輩にマリーさんからは認められたい!」
しかし、頭と物は使いよう。サイズと形をベッドの定義内でいじる。求めるのは高さ。強度はいらない。足場になればそれでいい。発生座標を設定し、次の一歩へ。
「それに、そうじゃない!私は私自身に認められたいの!」
着弾寸前にして着地寸前、ルピナスは地面から押し上げられて空中へ。直後、回転する鉄棒が脆い土の寝台を粉砕。足場をなくしたルピナスは、身体を包む浮遊感と次弾に襲われる。
「姉さんに勝ったからって、認められるとは限らない!」
だが、その手首には。既に次の一手が巻き付いている。いつから用意していたか。それは、座標の設定まで遡る。ただ次の一歩の場所に用意したのではない。ある魔法陣があったから、そこは次の一歩になった。次の一歩になったから、土の寝台の座標に設定されたのだ。
「でも、絶対に認められないとも限らないから!」
木魔法だ。先端の鋭く尖った木魔法の蔓が、手首に巻き付いている。浮遊魔法の代わりの、空中移動の手段だ。射出し、10mほど先の大地に突き刺して固定。あとは巻き取るだけで移動できる。
「だから私は、姉さんに……!」
ここでまた、プリムラを見る。そういう戦い方が染みついているのか、あるいは意地か。彼女は一歩も動かない。虚空庫から物理判定の武器を補充し、指揮者のように手を振るうだけだ。
「いいえ!あなたは絶対に自分を認められない!変われない!」
そして今もまた、七本の短剣を宙に浮かべている。間違いない。ワイヤーからルピナスが通るであろう軌道を逆算し、狙っている。もしくはワイヤーそのものを切断するつもりか。
「なぜなら、あなたは私に勝てないからよ!」
ならば計画に修正を。工程を挟み、着地点も変更する。左手の陣を握り、操風を発動。プリムラが使い捨てた鉄棒を二本を浮かせ、己のものとする。
「いや、勝つ!勝って、みせるの!」
「なっ……!?」
姉の顔が僅かに歪む。そうだろう。想定外だったのだろう。木魔法で一枠使ってしまっている現状、もう一枠は短剣の対処に割くのが普通だろう。まさかここで物理攻撃をねじ込んでくるとは、思ってもみなかっただろう。想定外は時として、それ自体が攻撃となる。
「奇策気取り?でも、残念ね」
しかし、短剣を飛ばすことはやめなかった。残り二枠を防御に回すことで、プリムラは攻撃を続行しようとしたのだ。浮遊魔法の陣が近くになく、ルピナスは空中での動きが大きく制限されている。新しい魔法陣に触れるまでを、彼女は好機とみなした。
ルピナスは内心でほくそ笑み、苛立つ。やはりだ。姉は苦戦した記憶が少ない。戦いが浅い。一つの行動に一つ、多くても二つの意味しか持たせられない。だから、ルピナスの真意を読みきれない。
笑みの理由は上述の通り。なら、この悶々と湧き上がる苛立ちはどこからか。姉が今苦戦している理由の一つだ。
「なんですって!?」
鉄棒の内一本はしっかり姉へと向かわせて、土の盾防がせた。だが、もう一本は別。自らが操る蔓の中央付近にぶつけ、大きくしならせる。このまま移動を開始すれば、プリムラの予測した軌道から大きく逸れることになる。
「でも、根元は変わらないわ!」
彼女は今なお自由に軌道を操作できるルピナスではなく、鉄棒から地面に突き刺さっているまでの、変化しない蔓を断ち切ることを目的に変更する。予期せぬ位置で空中に放り出したところを、軽く終わらせようと考えたのだ。しかし、残念ながらその考えは、ルピナスの予想の範囲内だった。
「ぐっ!小賢しい!」
蔓の強度を脆くした上で、更に強く鉄棒を押し付ける。耐え切れなかった蔓は千切れ、ルピナスは程よい高さから地面への落下を開始する。その頃になってようやくプリムラの短剣が蔓をズタズタに斬り裂くが、もう遅い。ルピナスは自分の意思で狙った場所へと落下してしまった。
「別に途中で降りないとは言っ……!」
落ちる寸前、千切れるまで伸びた蔓にて手首が締め付けれ、折れた骨に激痛が走る。思考にノイズが走った時間はごく僅か。だが、その僅かが受け身を狂わせた。
「がはっ!?」
狙った地面、狙った陣のすぐそば。それは変わりない。ただし、着地の仕方は想定外だった。うつ伏せで叩きつけられ、衝撃で肺が空気を吐き出し、今度は折れていたた全ての骨に激痛が駆け巡る。
「はっ!無理するからよ!いい加減、限界でしょ?」
視界が明滅し、耳鳴りがする中、ルピナスは姉の声を聞く。確かに無理はしていた。今も痛くて痛くて仕方がない。
「何度も、言わせないで!」
諦めれば、楽になれる。だから、諦めない。それでは今までと一緒だからだ。あの可哀想という快楽に浸っていた時と一緒だからだ。変わろうと思ったのに一緒のままなんて、許されてたまるものか。
「身体の、痛みなんかで」
今までだって、ずっと痛かった。身体の痛みじゃない。心だ。心が痛かった。ずっと何かに押し潰されているような、刺されているような痛みがあったのだ。
「折れるわけない!」
今の痛いは、すごく痛い。無視できる痛みではなくなってきている。でも、心とは違っていつかは治る痛みだ。勝手に治ってくれる傷だ。心とは違う。まだ壊れ切っていない左手でぎゅっと、すぐそばに転がる陣を握り締める。
「私は、変わるん、だから……!」
震えながら、傷つきながら、立ち上がる。床に寝転がることを良しとせず、何度でも。ボロボロの身体をここまで突き動かすは、彼女の言う通りの動機。ドロドロとした陰鬱さと、これからを願う希望を併せ持った想い。
「なのにっ!姉さんは手を抜いて!」
故に、額から垂れてきた血に右眼をつむり、抱えた苛立ちに歯を噛み、左眼でプリムラを睨みつける。
「最初は気のせいかもって思ったけど、やっぱり間違いない!姉さんはずっと手加減してる!」
これが先に述べた苛立ち。プリムラが苦戦している理由の一つ。全力で全てを賭けるルピナスへの、最大の侮辱。
「はぁ?私が手加減?」
それはきっと、彼女が自覚していない手加減。いや、気付かないようにしているのか。ここまで拮抗しているのだ。
「どこ見て物を言ってんのよ。根拠は……ちょっと!」
ルピナスは右手を虚空庫に突き入れ、二枚の魔法陣を取り出す。他とは違い、大きな紙に真紅の塗料で描かれた、凄まじく精巧な芸術のような魔法陣。困惑したプリムラの制止も聞かず、彼女は起動する。
「こんなものまで……!?」
燃え盛る炎が巨大な人型をなし、その手には紅蓮の弓と矢を。召喚魔法でも上位に属する、焔の精霊。プラタナスが所有する禁書級の魔道書に記されていた、ルピナスも彼に出会うまで知らなかった魔法陣である。
「お願い」
込められた魔力量は膨大。文字と紋様が幾重にも絡み合った複雑な陣。ルピナスが三日間かけて一枚作成したそれを、この一勝の為、一瞬で二枚消費する。
「何する気よ……?あなたの魔法陣が燃えるだけじゃないの……!」
同時発動により大魔法を超え、極大魔法とでもいうべき顕現。一体何が目的なのか。プリムラには分からなかった。だって、この魔法はどう見ても物理攻撃ではない。鉄をも溶かす灼熱だろうが、障壁は超えられない。むしろ、周囲の魔法陣を燃やしてしまう自滅行為だ。
「そこ」
「え?」
「そこが、手加減」
ルピナスは、今のプリムラの言動を指摘する。そこが許せないと、熱気に歪み火の粉舞う世界で灰色の眼を輝かせる。
「なんで、私の魔法陣の心配なんかするんですか。姉さん」
言葉の形だけを今までに戻しつつ、今までにない形の怒りを込めて、問う。そうだ。魔法陣の心配。これこそか、プリムラ自身が気付かなった、いや、気付かないフリをしていた手加減。
「なんでですか。姉さん」
分かっている。問いながら問われながら、どちらも分かっている。だからこそ、ルピナスは許せないのだ。
「これが私の努力の証だと、思っているからですか?」
「……」
答えはない。俯いたまま、頷くことも眼が合うこともなく。しかし、それが答えだった。静かなる肯定だった。
だって、そうだ。プリムラは大技こそ連発したが、そのどれもがただの大技止まりだった。彼女なら舞台全域を炎で包むことだってできたはずなのに。ルピナスの陣全てを、燃やし尽くせたはずなのに。
「ふざけないで……!」
なのにそれをしない姉に。壊れた両拳にまた、ルピナスは力を込める。やるせなかったから。虚しかったから。
「散々なこと言って、酷い目にあっている私を遠くから笑っていたくせに、今更良い子ぶって!」
あれだけのことをしておいて、あれだけのことを言っておいての、気遣い。
「良い子ぶるなら、もっと前からしてよ!本当に、なんで今になってなの!」
どうせなら、もっと前に。いじめられていたあの時に、良い子ぶって欲しかった。味方になってほしかった。いじめを終わらせる力を持っていたのだから、良い子なら終わらせてほしかった。
「私が私を認める為には、全力の姉さんに勝たなきゃ意味がないの!なのに、なんで……!」
なんで、今になって。今になって気遣うのか。全てを賭けて挑む、プラタナスやサルビア、ザクロの為の戦い。自分で自分を認める為の戦い。故にこの戦いだけは、一切の容赦なく戦ってほしかった。今まで通りでいい。今まで通りで良かったのに、この戦いに限って姉は優しさを見せてきた。
もしも分かってやっているのなら、余りにも性格が悪すぎる。最悪にも程がある。
「躊躇わないでよ!私を殺すつもりできてよ!私の努力の証全てを焼き尽くして、踏みにじるつもりで、戦ってよ!」
涙を流して懇願する。本気で戦ってと。手加減なんて、しないでと。
「そんな姉さんに勝たないと、この勝利に意味なんてないの……!」
あれだけ大事と言った魔法陣を燃やせという、無茶苦茶なお願い。だが、ルピナスの中でそれは矛盾していない。大事だからこそ、姉が燃やそうとするに値する。そう思っているのだから。
「……分かった、わよ!あなたが言ったんだからね」
了承したプリムラは、証明のように足元の魔法陣を一枚、踏みにじる。その後二枠を重ね、巨大な業火の剣を創造。ただの炎の剣ではない。最高適性の彼女が、ありったけの魔力を込めた剣だ。紅蓮を振り被って鋒を天に向け、矢が放たれるのを待つ。
「後悔しても、知らないわ」
「……はい。それは私の、問題ですから」
空気は揺れ、防壁が震え、阻まれ届かぬはずの熱を観客が感じて。
そして、紅蓮と紅蓮が衝突。射られた矢が音を置き去りにして距離を失い、振り下ろされた剣とぶつかって、弾けた。
その衝撃たるや凄まじく。まず、交わった舞台中央付近の地面が蒸発。荒れ狂った灼熱により半分近くの魔法陣が焼け焦げ、もう半数が爆風にて宙を舞う。
なにより、腕利きの教師十六人がかりの超硬度の防壁が耐えきれなかった。バリンと崩壊した音が、観客の耳に恐怖と一緒に届く。だが、爆風は届かなかった。即座に反応したプラタナス、ヤグルマギク、パエデリアの三人が新たな防壁を築いたからだ。
しかし、そんなことはどうでもいい。試合はまだ終わっていない。今この瞬間だって、動いている。
「なにがしたかったのかしら。ただ本当に焚きつける為に……っ!?」
もくもくと湧き立つ黒煙を風魔法で裂いたプリムラは、必死の形相で走り来るルピナスを見た。彼女にとって大切な紙が舞い、焼け焦げる最中、両手に陣を携えて進む彼女を。
「なるほど。これが狙いだったのね」
だが、驚かない。対応できないほどの至近距離まで近づくことが目的だったのかと、むしろ落ち着いて納得し、撃退する為の魔法を編む。操風で瓦礫を持ち上げて、強風を腕に纏って。もしもの時の為の土盾の陣は、服に縫いこんである、はずだった。
「がはっ!」
煙を吸い込んだからか。ルピナスは咳き込みながら、右腕の陣で風の槍を生み出し迫る。左腕の陣はまだ見せない。どちらにしろ対応できると、プリムラはまず瓦礫を彼女に打ち込んで、
「はぁ!?」
驚愕した。まさか、そんなはずはと思った。だがしかし、そうでないなら辻褄が合わなかった。瓦礫が弾かれたのだから、今ルピナスが纏っているのは物理障壁に違いないのだ。
「まさか……!」
ここでようやく、プリムラの理解が追いつく。さっきの咳は煙を吸い込んだからではない。喉が焼けているが故に出た咳だ。
障壁の切り替えには一秒を要する。つまり、一秒以上前から彼女は、魔法の熱に晒され続けていたのだ。無論、土盾なりなんなりで直撃は避けたのだろう。しかし、全てが防げるわけではない。現に彼女の髪や身体の一部が焦げている。
「そこまでして!」
これ程までに身を削るのか。恐れ慄きながら展開した姉の風の壁と、撃ち出された妹の風の槍が衝突。いつもと一緒だ。才能と技術は互いに打ち消し合った。
残る手札は互いに一枚。ルピナスの左手の陣と、プリムラの服の土盾の陣。どんな攻撃がくるにしろ、使うには違いないとプリムラは土の盾を創造して、
「えっ?なん」
半ばほどで創造の止まった土の盾に、戸惑った。そして、思い至る。魔力切れだ。使い過ぎていた。ここまで追い込まれることも、元から二枠あるが故に陣を使うことも少なかったから、確認を怠った。その習慣がなかった。
そしてルピナスは、この時を待っていた。姉は追い込まれた際、服に仕込んだ土盾を使う癖があることを、龍骨傀儡で殴った時から気付いていた。以来ずっとその陣を観察し、計算し、魔力が尽きるのを待っていたのだ。
とはいえ、ルピナスが蒔いたせいで魔法陣はそこら中に舞っている。時間の猶予はないが、強化した速度なら十分に魔法陣に触れる。そして、なんたる幸運か。なんと目の前に、同じ形の土の盾の陣があった。
血が付着しているそれを、プリムラは掴もうとした。だからルピナスは、左手の陣を発動させた。
「トチ!」
魔法陣が集まっていく。魔法の糸で集められ、組まれていく。傀儡魔法だった。プリムラに奪われることが分かり、それから封印していた彼女の友達だった。石でも龍骨でも組めるように、素材はなんだっていいのだ。別に魔法陣の紙で組んだって構わないのだ。
「待っ」
「待たない」
プリムラが触れる直前に、宙の土盾の魔法陣は攫われる。彼女が遅かったのではない。ルピナスの予測が的確過ぎて、早過ぎた。だが、それは当たり前のこと。
だってルピナスは読んでいた。魔法陣がいかに不便であるかを理解していた。ちゃんと魔力残量に気を使わないと、命の危機に陥ると知っていた。パニックに陥り、目と鼻の先に同じ魔法陣を提示されれば、思わず手を伸ばしてしまうと分かっていた。だから糸をつけて、わざと見せびらかした。
プリムラは見事に、餌に食いついてしまったのだ。同じく服に仕込まれているであろう操風も、石片を浮かすまでの時間が足りない。そもそも浮かしたところで、物理障壁を貫けない。
「これで、終わり」
傀儡の拳が振り被られる。紙と瓦礫にて編まれた、物理判定の拳。魔法障壁のプリムラには、防ぐことの叶わない一撃。
「いや」
いくら嫌がろうと否定しようと、その拳は止まらない。スローモーションのようになった世界で、刻一刻と敗北が迫り来る。
「負けたくない!」
それは偶然だった。ルピナスは確かに、姉の周囲で自由な魔法陣は全て傀儡の材料にした。自由とは床に落ちていたり、宙に浮いていたりする魔法陣のことだ。
だが、不自由な魔法陣が一枚だけあったのだ。不自由とは何か。プリムラが踏みにじった魔法陣だ。今もなお彼女の足の裏にあるそれだけは、魔法の糸で回収できなかった。
「え?」
彼女は何も考えていなかった。負けたくないと思っただけだ。ただの本能にして反応だった。その想いが、足の裏の魔法陣、氷槍を起動した。トチの拳がプリムラを殴るよりも早く、ルピナスの腹部目掛けて突き出された。
トチの動きが鈍った。術師であるルピナスが、腹部の衝撃で操作を手放してしまったからだ。とはいえ止まることはなく、慣性でプリムラの顎に拳が入った。
「……」
「え……」
プリムラは後ろへと吹っ飛び、ルピナスは事態を飲み込めないまま膝をついて、血をこぼして倒れた。元より限界だったのだ。今まで戦えていたのが奇跡といっていいような、状態だったのだ。そこに腹部への刺突が加わり、終止符となった。
「……どう、なったの?:
そして、入れ替わるようにプリムラが立ち上がった。最後まで拳を操作しきれなかったから、威力が弱過ぎた。多少朦朧とはしているが、顎を殴られてなお、意識が残っていた。
ルピナスは動けない。プリムラは動けている。なら、勝敗は決まった。
まるで魔法陣を踏み台にしたことへの当てつけのような、偶然によって。
勝敗とは、残酷に決まるものである。




